あしたはきっといい日

楽しかったこと、気になったことをつれづれに書いていきます。

夜明けのすべて

2020-11-30 19:40:19 | 本を読む
しばらくブログの記事を更新していなかった。
書きたいことがなかった…なんてことはなくて、書きたいことはいくつもあったものの、ついつい億劫になっていた。
そんなことは今までもあったけど、このままフェードアウトしようとは思っていなかった。
そして「書きたい」と思った理由は今回の読書にある。

瀬尾まいこさんの「夜明けのすべて」を読んだ。
昨年の本屋大賞を受賞された「そして、バトンは渡された」を受賞前に読んでから少し間が開いたけど、瀬尾さんのペースで書き続けてもらえたらいいし、その間が素敵な作品を生み出しているのだとも思う。

来年のダイアリーを購入しに書店に行ったとき、店頭にこの本を見つけて迷わず買い物かごに入れた。自分では彼女の作品のファンだと思っているものの、事前に作品の情報を取りに行くこともなく、彼女の本と出会うのはいつもこのパターンだ。でも、それはむしろ嬉しい。

帯に「パニック障害にPMS(月経前症候群)。人生は思っていたより厳しいけれど、救いだってそこら中にある。暗闇に光が差し込む、温かな物語。」とあって、すぐにでも読み進めたいところだったけど、次の旅行に持っていこうと思いひと月も経ってしまった。
流行り病が再び猛威を振るいだし、旅行は諦めたけど、日帰りの小旅行に持っていくことにして、新幹線ではなく各駅停車に乗り読み始めた。

社員6人の小さな金物卸の会社。社長の栗田さんはじめ他の仲間はみな壮年という職場で、二人の若者、藤沢さんと山添くんが働いている。
二人とも、この職場ののんびりした空気に支えられ、自分のペースで働いているけれど、何かの拍子に体調を崩してしまうことがある。互いに相手と合わないと思いながらも、ふとしたきっかけで互いを理解しようとしていく。そして、そんな若者を職場の仲間が温かく支えている。

二人が互いを思い行動を始めてからの、なんとなく唐突な行動。そのフットワークの軽さというか、何かを超えていこうとする瞬間を、瀬尾さんは軽やかな中に愛情を込めて描かれている。その描写に笑いながら、そのあと時間差で涙が溢れてくる。そう、この感覚が彼女の作品の魅力なんだと、毎度思う。特に行きの電車内で肩を震わせ笑いを堪えつつ、ハンカチを握るおじさんを見た人には、僕はどう映っただろうか。いや、そんなことも毎度考えながらすぐに忘れてしまうんだったな。

二人に、そしてともに働くみんなも、少しずつ変化していく。そして、読んでいる僕も、帯に書かれた「暗闇に光が差し込む」その光を感じながら。

「誰もが心の病を抱えている」と一般論のように僕も語ることがある。けれども、自分自身の中にも名前は付けられないものの確かに病は存在していて、何かから逃げながら何とか日々を過ごしている。そして、そんな僕でも誰かに光を当てたり水を差したりすることができる存在でありたいし、それは自分が欲していることであるともわかっている。行き帰りで読み終えた後、そのことを強く感じた。そう、作品に描かれたある謎の出来事と後日談に、瀬尾さんが書きたいと思ったことが結実していたのかなと、キーボードを打ちながら思った。声を掛けずとも、疎遠になってしまっても、その人のことを想う人がいるというのは、心の支えになる。

素直になれないままこんな歳になってしまったけど、瀬尾さんの本を読みその登場人物を愛おしく思えることが嬉しい。
そして、今を生きていくことに辛さを感じている人に、手に取って読んでほしいし、その人の明日がきっといい日になってほしい。

国宝

2018-10-06 08:28:12 | 本を読む
吉田修一さんの『国宝』を読み終えた。

長崎の任侠一家で生まれ育った立花喜久雄が縁あって大阪の歌舞伎役者 花井半二郎の部屋子となり、半二郎の一人息子 俊介とともに芸の道を究めていくその生涯を描いた朝日新聞に連載された作品で、上下二巻の大作だ。

物語は長崎の老舗料亭での場面で幕が上がる。ページを捲るとともに頭の中には全盛期の任侠映画のような映像に変換されていく。その、おどろおどろしさの中に儚い美しさを湛えた場面に早速心を掴まれ、次のページへと気が急く。

俊介と共に半二郎の下で修行を重ねていく喜久雄が芸道を究めていく姿を、彼の息遣いまで感じながら読み進めた。だからだろうか、その後喜久雄に降りかかる不遇には苛立ちを感じることもあった。そして、時に家族に見せる素の姿に安堵した。読み終えた今、それは素ではなかったのかもしれないとも思うけれど。

どの場面も頭の中で鮮やかな映像に変換されていく吉田さんの作品の中で、ふと手を止めて考え込んでしまう箇所があった。「真面目なイメージの堅気のほうが、実は要所要所できちんと手を抜くことができるのでございます。一方、堅気ではない人間は、なぜか総じてそれができませんので、結果、何をやっても自滅するのでございます。」というその言葉に、自分も心当たりがあった。そして、吉田さんもご自身のことを思いながらこの一文を書かれていたのではないかと思える。今は「暴力団」という言葉の方がイメージしやすいけれど、「極道」というのは「道を究める(極める)」ということにも繋がるのかも…

最後の場面の幕の引かれ方は、悲しい中にもどこか、大向こうからたくさんの掛け声が聴こえてくるような感覚を、涙を溢れさせながら感じた。



読み終えてから1週間。再び本を開くと描かれた絢爛たる世界がまた浮かび眼が潤んでくる。そして、この吉田修一さんの渾身作を多くの人に読んでもらいたいと思う。



さて、その吉田修一さんがサイン会で人々にさかんに進められていた「歌舞伎」を、この作品を読んだのをきっかけに、今日初めて観に行く。

そして、バトンは渡された

2018-09-17 22:23:00 | 本を読む


ブログの記事を書こうと思ったのはいつ以来だろうか。忙しさを理由に記事を書かなくなって久しい。そんな中、久しぶりに瀬尾まいこさんの作品を読み、その感想を書いておきたくなった。

『そして、バトンは渡された』を手に取ったのは6月の半ば過ぎ。たまたま入った書店で「そういえば…」と彼女の新刊を探してみて手に取った。『春、戻る』を読んで以来だから4年以上も開いていた。まあ、その間僕もいろいろあったからと思いながら、会計を済ませ逸る気持ちとともに家に帰ったのを覚えている。けれども、その後慌ただしい日々が続き本を開くこともできずにいた。そんなこんなで3カ月が過ぎようとしていた先週末、ようやく読み始めた。

「バトン」という言葉に、彼女の『あと少し、もう少し』を思い出し、今回もそういう部活を描く作品なのかなと思ったけど、帯には「血の繋がらない親の間をリレーされ、四回も名字が変わった森宮優子、十七歳。だが、彼女はいつも愛されていた。」とあり、その思いはすぐに消えた。そして、すぐにこの作品の世界に惹きこまれた。

彼女の作品には、ちょっと常識から外れた、とても魅力的な人物が登場する。この作品では、二番目の母親である梨花と、三番目の父親の森宮がそんな人物にあたるだろうか。二人だけでなく、登場人物はみな魅力的なのは、食事のシーンの描写と共に瀬尾まいこ作品の特徴だと思う。

さて、優子の視点で語られる物語の中で、僕はその森宮という男に思い入れを感じながらページを辿っていた。それは、僕も結婚には向かないけど、どこかで子育てに関わりたいと思っているからだ。50を迎えた僕にはもうそれも叶わぬ夢となりつつある。そんな中で、優子を育む森宮の気持ちが、全てではないけど僕の心に流れてくるような感じがした。

梨花と森宮の思いが語られるシーンには涙が止まらなかった。彼女の作品には毎回泣かされるのをわかっていながら、そのシーンも含め今回も電車の中で読み終えた。まあ、それは僕にとって一つのお約束になっている。

僕にバトンが回ってくることはもうないだろうとは思いつつ、その日が来ても大丈夫なように、少しずつ体を鍛えておこうか。

その前に、読んでいなかった『きみが夏を走らせる』『ファミリーデイズ』の2作を読みたい。

そうそう、「常識」なんかに囚われず、何が大切かを常に考えて進んでいきたい。

アンマーとぼくら

2016-09-20 22:10:46 | 本を読む
沖縄を訪れたのは3年前。初めて訪れたその地は、イメージしていたよりも断然素敵な場所だった。ただ、12月だというのにTシャツ1枚で過ごせるような暑さには慣れなかったけど。3日間、駆け足で廻った旅だったので、いつかまた、今度は1週間以上を過ごしてみたい。

夏休みの読書にと買っておいた、有川浩さんの『アンマーとぼくら』を読んだ。有川さんの作品を読むのは『キャロリング』以来になるかな。『旅猫リポート』で号泣したのも懐かしい。


主人公は、おかあさんの休暇に付き合うために、育った地、沖縄を訪れる。おかあさんが運転する車で、思い出の地を辿る。その思い出の中には、優しい気持ちになるものもあれば、苦いものもある。そんな、おかあさんとの3日間が綴られる。

読んでいて、とても不思議な作品だった。現実と現実でないことが時々交叉する。そしてそこで、感情の波が水しぶきを立てて押し寄せる。今思うのは、今なのか、それとも…

そんな感覚を楽しみながら、そして、所々で気持ちをぐっと掴まれながら、最後の章を今日読み終えた。那覇の街を歩くおかあさんとリョウちゃんが訪れる場所が、3年前に訪れた那覇の街に重なる。そして、なぜこの物語を不思議に感じたのかが、最後にわかる。

読み終えて、今更ながら「恋をしたい」と思った。創作の世界にそういう思いを感じることは初めてではないけど、そして、そう思いながらいつも何もできないんだけど…

人は、いくつもの思い出を持って歩いていき、そして、誰かに思い出を託していく。僕は、託された思い出をどのように繋いでいけるだろうかと思うと、寂しさがこみ上げてくる。でも、こんな僕にもまだ時間は残っていると思うから。


有川さんがこの本を書く際に着想を得たという、かりゆし58の『アンマー』を聴いてみた。

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苦労をかけた母を思った。父は籍に入ってしまって久しいけど、母にならまだ孝行の一つや二つできるだろうか。


「過去は変わらない。変えられるのは、今だけだ」という帯に記された言葉を噛みしめてみよう。

口から出る言葉は

2015-12-08 23:31:25 | 本を読む
先日、劇作家 前田司郎さんのエッセイ集『口から入って尻から出るならば、口から出る言葉は』を読んだ。

今年1月から読み始めた東京新聞に、3月まで前田さんのコラムが連載されていて、興味深く読ませていただいていた。中でも、「暴力以外の解決を」、「お母さんを責める前に」、そして最終回の「せめて隣人を許容する」は、声高にではなくとも、読む者の心の奥に伝わるものだった。

この本は、東京新聞に連載されたコラムのほか、さまざまな媒体に掲載された前田さんのエッセイが集められている。その言葉は、作家によるものというよりも、僕らに近いものに感じられた。だからだろうか、時間はかかったものの、すんなりと読み進められたように思う。そして、彼が脚本を担当した『徒歩7分』などのドラマ作品の場面が頭の中でうっすらと重なった。

そして、「僕がカメラを集める理由」と題された「小説」を読んでいて、僕自身がカメラを購入した時のことを思い出した。この中に、僕も持っている「コンタックス」のことが書かれていたからだ。高校に入った頃、母に無理を言って買ってもらったのが「CONTAX 139 QUARTZ」というカメラと「Planar 50mm f1.7」という組み合わせだった。今も変わらずだけど、当時もカメラといえばニコンかキヤノンという中で、周りの人が持っていないということに対する優越感や「ツァイス T*レンズ」の描写力(というコピー)に憧れを感じた。そして、その前に使っていた、祖父からもらったカメラが、当時コンタックスブランドでカメラを製造していたヤシカ製だったということもあったと思う。

このカメラのことを更に書こうと思ったけど、それは別の機会に改めるとして、この話のほか、カメラに関する前田さんのエッセイを読んで、やはり彼が脚本を書いた『お買い物』を思い出し、こんなことを思う人だからこその作品なんだなと、改めて思った。

前田さんが創る芝居をまた観に行きたいと思いつつ、なかなかその機会を作れていない。でも、その時が来たら、僕の意識の底に定着したこの本のことが、何らかの化学反応を起こすんじゃないかと楽しみにしている。でも、実際に芝居を観るときには、そのことを意識しないでいたい。




れるられる

2015-05-27 21:50:00 | 本を読む
最相葉月さんの『れるられる』を先日読み終えた。

岩波書店から刊行されているシリーズ「ここで生きる」の一冊として今年の1月に刊行されたこの本について、「まず『れるられる』というタイトルが思い浮かんだ」といったお話を先日のトークイベントで著者の最相葉月さんご本人から伺った。

さて、ノンフィクションライターの最相さんが書かれたこの本は

第1章 生む・生まれる
第2章 支える・支えられる
第3章 狂う・狂わされる
第4章 断つ・断たれる
第5章 聞く・聞かれる
第6章 愛する・愛される

と、、「れる」(能動)と「られる」(受動)の境目についての6章からなるエッセイだ。

最相さんは、ご自身の身近にいる方々や取材を通じて知り合った方々との間で感じられたことや経験されたことを契機に、受動と能動の境目を超えて考察を深めることで、その境目を丹念に浮き彫りにされていく。途中に挿入される取材内容が、主題を鮮やかにしていく。

軽やかな語呂のタイトルとは異なり、それぞれの内容が心の奥深くに刺さるような感覚を覚えた。そして、それぞれで提示された問題に対する方向性が提示されているという訳ではないのに、読み終えると少し心が軽やかになった気がした。それは、僕の心が折れやすいからかもしれない。

誰もが「れる」の立場に居続けるわけでもないし、また、「られる」の立場に居続ける訳でもない。普段はそんなことを考えることはないけど、この本を読んで、改めてそんなことに意識が向かったことも、心を軽やかにしてくれたのだろう。

沖縄の70年

2015-05-05 20:13:34 | 本を読む
報道写真家 石川文洋さん『フォト・ストーリー 沖縄の70年』を読んだ。

石川さんのお名前は知っていたものの、人となりについては「沖縄の方」というくらいしか知らなかった。でも、今読んでおきたい本だと思ったので、迷わず買い求めた。

さて、僕が沖縄に関心を寄せるようになったのはそれほど昔ではない。そう、1995年に起きた米兵による少女への暴行事件がきっかけだった。
事件の痛ましさに驚いた。それと共に、こうした事件がそれまで幾度も起きていて、その度に犯人である米兵は「日米地位協定」という現代の不平等条約とも言えるものに守られ、その多くが訴追される母国アメリカへと帰国している。
そんな国辱的な状況に対し、日頃から日本の尊厳を声高に叫ぶ人たちは、アメリカ軍に対し率先して抗議するどころか、「被害者も悪い」という声も聞こえた。
果たして、第二次対戦終結後に最も多くの日本人を殺傷したのは、日本人を除いたらどこの国の人が最も多いだろうか。先に触れた人たちは、その多くが事件ではなく「事故」だと言って犯人を庇うのだろうか。

話が少し逸れてしまったけど、辺野古への新基地建設問題について、ここ20年と言わず、沖縄、いや、琉球の人たちが薩摩による強いられてきた苦しみに心を寄せ、そこから考える必要があると思っている。

そんな中で、この本は対象を戦後70年にほぼ絞り、石川さんご自身が経験され、または取材などを通じて知り合われた戦争を体験された方々から伺ったお話が綴られ、沖縄にとっての戦後が本土とは全く異なる様相を呈し、そしてそれは今も沖縄に暗い影を落としている。

米兵による少女暴行事件から20年、そしてその後、辺野古新基地建設の話が「負担軽減策」として出てきてから19年が経つ。この間、僕を含めて本土は沖縄に誠意をもって向き合ってきただろうか。米軍施設の一部は返還されたものの、それでも全国にある米軍基地の7割以上が沖縄に集中している。米兵による事件も後を絶たず、また11年前(2004年)には沖縄国際大学のキャンパスに米軍のヘリコプターが墜落している。この事故では、事故後すぐに米軍が現場を封鎖し、日本の警察や大学関係者すら立ち入れず、沖縄がいまだに米軍占領下にあるということを実感させられた。しかし、そうした声に僕らは呼応してこなかった。

その後に発足した鳩山民主党政権では、辺野古新基地建設に対し「最低でも県外」と主張したものの、不可解な形で主張を曲げることとなった。鳩山氏自身が「最低でも県外」を進めるための具体的な動きを見せられなかったことが上手くいかなかった最も大きな原因だと思うものの、あの時、主要マスコミのほとんどが鳩山氏の主張を「現実的でない」と主張していたことも気になった。そういう僕自身、一昨年の暮れにようやく沖縄を訪れ、南部や辺野古などを駆け足で回ったものの、それくらいでは埋められない。

戦後70年を迎える今年、多くの人たちがアジア各国との関係を考えられるとともに、こうした本を読むなどにより沖縄が歩んできた70年に目を向けられることを期待したい。

ナグネ 中国朝鮮族の友と日本

2015-04-22 21:43:06 | 本を読む
最相葉月さんの『ナグネ 中国朝鮮族の友と日本』を読んだ。

書店に行くと毎回ではないけど、たまに思い出したように岩波新書の新刊をチェックする。そして先日、その中に最相葉月さんの本を見つけ、迷うことなくカゴに入れた。

最相さんを知ったのは、真中瞳さん(現在は東風万智子さん)が主演された映画『ココニイルコト』を観たのがきっかけだった。お目当ては真中さんだったけど、この映画は、最相さんのエッセイ集『なんといふ空』に掲載された「わが心の町 大阪君のこと」を原案として作られた。そのことを知り、映画を観た後に本を読んだ。

その後、最相さんの作品は『星新一 一〇〇一話を作った人』『東京大学応援部物語』を読んだ。いずれの作品も、ノンフィクション作家の最相さんによる緻密かつ膨大な資料集めが、綴られた文章の奥に厚みとして感じられるものだった。

さて、この本は、最相さんが16年前(1999年)のある日、西武新宿線の駅で出会った日本語学校に通う中国人就学生との16年間の交流から、昨年初め、彼女とともに彼女の故郷を訪れたこと、そして、朝鮮族である彼女の家族を通して、彼らが背負ってきたものを丹念に拾い集め、綴られたものである。

「ナグネ」とは、朝鮮語で「旅人」を意味するそうだ。「人はみな旅人」と言われることがあるけど、最相さんが綴ったこの本の最後に、主人公の恩恵が発する言葉に現れる。この本のタイトルとしてこの言葉を用いた意味を改めて感じる。

中国東北部に朝鮮をルーツに持つ人たちが住んでいることは、北朝鮮との国境を取材したテレビの報道番組でも触れている。ただ、そこでは「脱北者」という言葉が強調され、彼らがどのような経緯でそこに住んでいるかという事についてはあまり触れられていなかったと思う。

朝鮮半島から中国への移住は16世紀末から始まったが、20世紀に入り日本が韓国を併合し、また中国東北部に「満州国」を作ったことを契機に急激に増えたという。先日読んだ 『在日朝鮮人』では、労働力として日本に連れてこられた朝鮮の人々の受難の歴史を知ったけど、この本では、同じく日本による都合で中国東北部を開拓するという目的で朝鮮半島から移住を強いられた彼らの歴史を始めて知った。朝鮮総督府と満州国(ともに日本による統治を担った組織)により鴨緑川にダムが建設された際に、そこに住む人たちが土地を追われ、土地代や補償費として僅かなお金を得て、総督府が勧めた満州国、つまり現在の中国東北部に移住していったという。

ここで作られた「水豊ダム」は巨大な発電施設として、朝鮮半島における日本企業を支えた。改めてこのダムについてネットで調べてみたら、「朝鮮窒素肥料」という会社が負担したという。そう、この会社は熊本県水俣市で多くの被害を出した「水俣病」の原因企業であるチッソが朝鮮半島の興南に作ったものだ。そうした繋がりを感じるけど、本書はそこまで広げることなく、朝鮮族が歩んできた道を辿っている。

この本の魅力は、そうした中国朝鮮族の歴史に触れることができるということもあるけれど、それよりも、恩恵という女性の逞しさに尽きる。でも、それこそが彼ら中国朝鮮族が生きてきた受難の歴史がもたらしたものなのかもしれない。

戦後70年を迎え、日本の国内では首相が発表するという「戦後70年談話」に謝罪の言葉を盛り込むか盛り込まないかという議論が一部で高まっている。しかし、そうした言葉の有無を議論することも必要なのだろうけど、まずは、日本人が過去に何をしてきたのかという事実を正視することこそが重要だと思う。そして、正視した結果発せられる言葉にこそ、戦後70年を経た我々の思いが現れるのだろうとも思う。

節目の年に出版されたこの2冊の本を、多くの人に読んでもらい、また感じてほしいと思う。

永い言い訳

2015-04-21 20:55:16 | 本を読む
西川美和さんの『永い言い訳』を読んだ。

西川さんの映画は、デビュー作の『蛇イチゴ』から全4作品を観させていただき、その都度、思いもよらぬ展開に驚かされ、楽しませてもらっている。
いや、オムニバス作品の『female』などは観ていなかった…

彼女の作品は全て彼女自身によるオリジナル脚本作品で、また小説『きのうの神様』で直木賞にもノミネートされるなど、彼女が物語を紡ぐ力は評価が高い。

さて、この本はタイトル通り、登場人物たちが語る「永い言い訳」が綴られている。どういうことかと思いつつ読み進めていくと、突然バッサリとした展開が訪れる。そして、その後の「言い訳」はバッサリと訪れた展開に絡みつき、人々の人生を変えていく。

僕は、なるべく誰かの人生を左右するようなことに関わらないようにして生きているつもりだ。「僕の行動が誰かを不幸にしてしまったら…」という恐れが気持ちの根底にあるからだ。だけど、それって自分自身が他者からの関わりを拒んでいることの裏返しであって、それは自分でもわかっている。

本を読み進めていくうち、本の中で展開する出来事に、そんな僕の気持ちがざわつき毛羽立ち、そこを逆撫でされるような感覚を持った。それでも、西川さんの紡ぐ物語には力があって、寝付けなかったこともあり、途中から一気に読み終えた。

ついさっき、この作品に関連した西川さんのインタビューを見つけた。あらすじやらが書かれているので、そうした事前情報を知りたくないという方はリンクを開かない方がいいかと思うけど、読み終えてこのインタビューを読むと、心の中で読後感が膨らんでいく感じがする。特に、タイトルを「長い…」ではなく、「永い…」とした理由は、そういうことだったのか。

人と人は、一度出会ってしまったら、その時点でもう後戻りはできない。「関わり合いたくない」と思えば、そう思う表情や態度が相手の気持ちに波を立てる。だったら、積極的に関わっていってもいいんじゃないか。

47歳となった今日、改めてそんなことを考えてみた。

新書続き

2015-02-10 23:55:30 | 本を読む
先日、プレゼント用の本とともに2冊の新書を購入した。

1冊は昨日読み終えた『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』で、もう1冊も現在進行形の問題を考える上で参考となる書籍だ。

ずいぶん前だけど、新書を好んで読んでいた。読み進めるうちに世の中がよりはっきりと見えてくるような感覚が好きだった。そして、実際に世の中を見る視点が変わった。それは良かったと思う。

読み始めた本についてはまた改めて書こうと思う。今、反対の声を上げないといけないと思う問題に対して、何も知らずにイメージだけで語るのはよくない。

他のことも並行して取り組みながら、遅くとも週末までには読み終えたい。