映画『すばらしき世界』を再び観た。
2月に観てから、買い求めたパンフレットに収載されたシナリオを読み、また西川美和監督が原案とした佐木隆三さんの『身分帳』を読み、近いうちにまた観たいと思いつつなかなか時間が取れなかった。そうこうしているうちに上映館も上映時間も限られてきた中、下高井戸シネマで上映されることを知り、この日を選んだ。そう、4年前の1月にここで『永い言い訳』の上映と西川さんのティーチインが行われ、足を運んだ場所だ。
さて、ゴールデンウィークからここでの上映が始まり、多くの方が来られていると知り、早めに行って整理券を受け取った。今日はまだそれほどではないらしく、肩透かしにあった気もしないでもなかったけど、安氏んではある。そして、開場までの2時間余りを羽根木公園までの散歩に充てた。
映画館に戻ると、広くはないロビーに多くの人が集まっていた。コロナ禍で苦境に立つ映画館を少しでも応援できればと、トートバッグを購入した。そして、暑い中散歩してきたので「コーヒー牛乳もなか」も。館内は食事禁止とのことで、テラスに出て急いで口に入れた。かき氷ではないので頭痛には襲われなかったものの、急いで食べるものではない。
空席はあったもののそれなりに席が埋まり、この作品に対する関心の高さが窺われた。そして僕は、初見となる誰かの機会を奪わなくて済んだことに安堵した。近くの方が持っていたコロッケのにおいが途中まで気になったけど。
映画を観始めると、場面展開が速く感じられた。初見では次に何が起きるかとハラハラしながら観ていたけど、2回目なので流れは記憶に残っているからだろうか。だからと言って面白くなかった訳ではなく、初見の時には感じなかった、気付かなかったことがあって、西川さんの作品づくりの丁寧さを改めて感じた。
そのうちの2つだけ挙げさせてもらう。
風呂場で津乃田が三上の背中を洗うシーン。カメラはその背中に自分の思いを伝える津乃田の顔を捉えるものの、三上の表情は映されないし、彼の台詞もない。それを入れてしまうことで観る側の感じ方を固定しまうのを避けたかったのだろうか。背中を流す津乃田もまた三上の表情をその背中から感じるだけだ。初見の時もこのシーンで涙したけど、改めて観てこのシーンのすばらしさを感じた。
そして、職を得た三上を周囲の人たちが祝福するシーン。彼らは三上に対し、怒りを感じても我慢することを促す。我慢できなかった過去が三上を獄中に括り付けてきたことを知っていての「思いやり」の言葉だけど、続く職場でのシーンで、同僚に虐められれまた笑いものにされる仲間を思い怒りを感じる彼が取った行動は、自分の心を殺すものだったと感じた。そして、映画のラストはそれを象徴するように感じた。
確かに、周りに起こるすべての事象に首を突っ込んでいたら生き辛くて仕方ないだろう。けれどもそれが、誰かの命に係わる切迫した問題だったり、また世の中の理不尽さから来るものだったら、見過ごしてよいのだろうか。手を打つべき時に手を打つべき人が見過ごしていたからそれが起きているのではないか。
話は逸れるけど、今も続くコロナ禍についても、手を打つべき時に手を打つべき人が対応していたら、今とは違った…もちろんいい方向に…様相になっていただろう。誰かの気づきを抑え込んだりごまかしたりするのではなく、またその誰かの行動を傍観し失敗したら冷笑するのでもなく、より良い形で手を打っていくことこそ、上に立つ者の責任ではないかと。
こんな状況だからいつになるかはわからないけど、またこの作品を映画館で観たい。そしてその時は、西川美和さんのティーチインも合わせてと期待している。次の作品までにはとは思うけど、寡作な西川さんのことだからそこは大丈夫だろう。