前回、中途な記事であったので、もう少し書き加えておく。
菅原在良が唐橋氏の祖であり、菅原家は遡ると大江氏と同祖(野見宿禰)である。
菅原道真(854-903)は橘広相(ひろみ)(837-890)の窮地を助けていた。
橘広相は、道真の父是善に教えを受けていた弟子であった。
是善の兄が「善主」であり、その裔に真利がいて久利民部を称している。
其の事例より先に、道真の側近に秦久利がいて、菅原の家より婿養子を迎えている。
其の婿養子の人物が久利長門守となっていたようである。大宰府に道真に会いに行き、飛梅の種をもらっているという説がある。
広相の娘は宇多天皇妃となり斉世親王を産み、その室に道真の娘を迎えた。(菅原寧子)
母違いの弟が敦実親王(あつみしんのう)で、源雅信の父である。
源雅信が藤原元方の娘をもらい、生まれたのが源 扶義(みなもと の すけのり)で、近江国の佐々木氏の祖となる。
藤原実方の母は、源雅信の娘なので扶義の姉妹である。
話が佐々木氏よりにずれてきたので戻す。
橘俊通(1002-1054)の妻は菅原孝標(たかすえ)の娘であり、孝標は道真の高孫であり、上総介・常陸介の経験もある。
この孝標の息に【定義】がいて、定義の息に【在良】がいる。(唐橋氏の祖)
叔母の夫に橘俊通がいた事になる。定義の妻には藤原実方の娘がいる。
孝標のもう一人の妻は高階氏であった。
そして、大江氏と橘氏は何度も婚姻関係・養子縁組が行われている。
菅原氏とも同祖であり、同じように系図には見えていないが、婚姻関係等はあったのではないだろうか?
もしかすると菅原から入ってという事で「唐橋」を称していたのかもしれない。(ここは仮想)
京都の神護寺の国宝の鐘の銘文を、橘広相之詞、菅原是善銘、藤原敏行書在銘とありますよね。
つい思い出したので。
一とせの思ひ出でのあるさくらかな
事件は、知りませんでした。
調べてみます!
何度も前を通っていたのに、全く関心が無かったのか、見落としていた神社。
この先のガーデンパレスに長く泊まったことがあり、毎日行き来していました。
道真様、ごめんなさい🙏ですね。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/菅原院天満宮神社
行き帰り 桜舞い散る 京の道