万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

”象徴天皇”は国民の内面に踏み込む

2017年06月12日 15時22分09秒 | 日本政治
 マスメディア等の主たる論調は、戦後、日本国憲法の制定と共に誕生した”象徴天皇”は現代という時代に相応しく、国民からも歓迎されているというものです。しかしながら、”象徴天皇”には国民の内面に踏み込むという、深刻な問題が潜んでいることに気が付いている人はそう多くはないかもしれません。

 明治憲法の第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、その実態は別としても、憲法上の天皇は統治者と位置付けられていました。しかも、単なる世俗の統治者ではなく、”万世一系”と敢えて記すことで皇祖神に連なる神性が強調され、この超越的な神性こそが、全ての国民に対して統合の作用を及ぼしていたのです。言い換えますと、明治憲法における天皇は、統治者であり、かつ、統合の要という二重の役割を担っていたのです。

 一方、現行の日本国憲法は、天皇の統治への関与は国事行為において形ばかりを残し、統合については、求心力の源泉であった神性が否定される一方で、”統合の象徴天皇”という曖昧な立場へと転じることとなりました。天皇については、統治機構上の地位の変化にばかり関心が集まりがちですが、統合の分野における変化も見逃してはならない点です。そして、この転換に際して、憲法は”象徴天皇”の統合作用を何ら記さず、具体性を伴わない言葉のみの”統合の象徴”とされたことは、今日の皇室問題を、国民にとりましてより危険なものとしているように思えます。

 おそらく、昭和の時代には、たとえ天皇の人間宣言があったとしても、昭和天皇の個人的なカリスマ性や国民の側の皇室に対する根強い神性意識によって、天皇は統合の要であり続けることがきました。しかしながら、平成の今日、皇室の著しい世俗化と劇場化、即ち、神性さの欠如によって、歴史に基づく暗黙の了解としての天皇と国民との相互関係は成立し得なくなっています。

 こうした現状を鑑みれば、被災地訪問や各種行事等への臨席、さらには、慰霊や交際を含む海外活動を以って”象徴天皇の活動”とすることは、国民に対する表裏二面性の強要という、古くて新しい問題を提起することとなります。表面的な敬意と内面的な反感という…。俗人と化した皇族に対して心から”有難い”、”光栄である”、あるいは、”励まされる”と感じる人は、人間の理性や常識に照らせば殆ど存在しないことでしょう。一般の国民もまた、皇室劇場において”演技”を強いられ、さらには、天皇を以って日本国と同一視する人々からは、天皇個人に対する絶対的な忠誠をも迫られるかもしれません。

 果たして、統合作用を欠いた”象徴天皇”とは、新たな時代に相応しい天皇像なのでしょうか。国民に対して心理的な圧迫を与え、国民の自由な精神や良心、そして、理性や知性を歪めるならば、それは、国民の内面に踏み込んだ従来の悪しき抑圧的な国家体制と何ら変わりはありません。現行の日本国憲法において天皇の統合作用が”白紙”とされた問題は、今日、日本国民の内面の危機として表出しているように思えるのです。

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コメント (8)
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