万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

平昌五輪南北共同開催案問題―古代と現代のオリンピックは違う

2017年06月23日 17時04分09秒 | 国際政治
北朝鮮と一部共催の議論歓迎=平昌五輪でIOC
 来年2月に開催が予定されている平昌冬季オリンピックは、北朝鮮との一部共同開催が検討されているそうです。IOCのバッハ会長も、歓迎の意向を示していると報じられております。

 近代オリンピックは、全てのポリスが4年に一度開かれるオリンピアの祭典の期間においては戦争を停止し、平和を維持した古代ギリシャの慣行に倣って始まったものです。平和の祭典と称されるのも、この時だけは武器を置き、束の間であれギリシャ全土で平和が実現したからです。古代オリンピックの精神を継承した近代オリンピックもまた、伝統的な平和の精神に沿うならば、南北による共同開催は、歓迎すべきことなのでしょう。

 しかしながら、古代と現代のオリンピックとの間には、著しい違いも見られます。最大の相違点は、現在のオリンピックは、サマランチ会長以来、“参加することに意義がある”に象徴されるような高貴なアマチュア精神はすっかり影を潜め、すっかり商業主義に堕しています。全世界に放映されるため、民間企業にとりましては格好の宣伝舞台ですし、開催地では、競技施設等の建設、選手等の宿泊や観衆向けの観光ビジネス、関連グッズの販売…など、一定の経済効果が期待できます。そして、IOCもまた、メディアへの放映権販売、企業からのスポンサー料、公認ロゴやマスコットのライセンス料など、莫大な利権を懐に入れています。オリンピック憲章の理想から遠く離れ、今日のオリンピックは、欲望が渦巻く巨大なる興行ビジネスと化しているのです。

 こうした時代の変化を考慮しますと、IOCのバッハ会長の歓迎発言は、現実を無視した建前に固執する偽善のように聞こえます。何故ならば、現在、北朝鮮は、核・ミサイル開発に関連して国際社会から厳しい経済制裁を受けている国であるからです。古代であれば、敵対関係にあるポリスが、一旦、対立を棚上げしてオリンピアの祭典に共に参加しても、それが、敵対する双方の何れかを利することはありませんでした。しかしながら、今日の商業化されたオリンピックでは、一次的であれ、北朝鮮に対する経済制裁の解除を意味しかねないのです。つまり、オリンピックの開催は、北朝鮮にとりましては、貴重な外貨獲得のチャンスとなり、その資金は、十中八九、核・ミサイル開発に投じられることでしょう。

 加えて、北京オリンピックの開催日である2008年8月8日に、ロシアがグルジアに侵攻したしたことも記憶に新しく、古代オリンピックの精神は、全世界の諸国で共有されてもいません。しかも、先日、北朝鮮から解放され、帰国したアメリカ男子学生が同国による何らかの虐待行為により死亡するという痛ましい事件も発生しています。アメリカは、自国選手に対する拘禁や殺害のリスクを負ってまで南北共同開催オリンピックに選手団を派遣するのでしょうか。このリスクは、アメリカに限らず、日本国を含む他の参加国も同様です。

古代と現代のオリンピックの相違を考慮しますと、各国とも、平昌オリンピックのボイコットは選択肢となるのではないでしょうか。そして、IOCもまた、古今のオリンピックの違いを直視し、現代にあっては、偽りの平和よりも真の平和、即ち、国際的な対北制裁網の維持こそ優先させるべきと思うのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。


にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする