万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘人類の進化’と‘AIの進化’のパラドクス

2021年01月05日 12時37分42秒 | その他

今日、ディープラーニングの出現により、自己判断能力を備えるようになったAI。人間の情報処理能力を遥かに凌駕するAIの登場により、将来、知力を要する仕事をしてきた多くの人々が職を奪われるとさえ予測されています。今日の人類は、シンギュラリティの時代の入り口に立っている観がありますが、AIは、人類の知的進化の証として歓迎される向きもあります。高度で先端的な科学技術を発展させ、遂にAIを生み出した人類の優れた知性こそ称賛されるべきとして…。

 

 しかしながら、‘人類の進化’、とりわけ、知性の進化という側面からしますと、AIの誕生とその汎用化は、逆の方向へと作用する可能性もないわけではありません。何故ならば、知力を要する作業を全てAIに任せてしまうとしますと、人類は、自らの知性を進化させる環境を失ってしまうからです。‘適者生存’を原則とする古典的なダーウィン進化論によれば、AI時代における‘適者’とは、知力を有する者ではなく、むしろ、AIの判断に疑問を抱くことなく従順に従う者であるのかもしれません。‘考える人’が存在すれば、AIが決めた‘社会秩序’を攪乱し、崩壊させかねませんので、‘考えない人’の方がAI社会では‘生存’には適しているのです。

 

 個人レベルにあっても、脳を含むあらゆる臓器は廃用、つまり、使わないことにより委縮するそうです。実際に、今日、スマートフォンの使用が学力低下をもたらすとする研究結果も報じられており、スマホ第一世代においてさえ知力の低下が起きているとしますと、数世代も経れば、人類の知力は急速に低下してゆくことでしょう。遺伝子上の変化を伴うか否かに拘わらず、近い将来における人類の知力の著しい劣化は十分に予測されるのです。人類は、今日、最先端のテクノロジーとしてAIを手に入れたことで、自らの進化を放棄するというパラドックに直面しているとも言えましょう。

 

 しかも、決定者であるAIが、あらゆる知性の働きにおいて人間に優っていると言い切ることもできません。例えば、人と動物との違いの一つとして挙げられるのが、他者の感情を読み取る能力や共感性です(もっとも、低いレベルではあれ、動物においても観察されることはある…)。他者の痛みや苦しみを理解し、共感を覚えるからこそ、人類は、時には挫折しながらも善き社会を目指して歩んできたのでしょう。さらには、超越的な視点から全体をみわたす能力も、それがしばしば‘神の視座’とも称されるように、動物が持ち得ない人の能力です(これは、神と人との違いでもあるが、人が神の存在を認識するのもこの能力によるのでは…)。

 

 それでは、AIは、動物なのでしょうか、それとも、神なのでしょうか。多くの人々は、AIをその並外れた情報処理能力をもって‘神’と呼び、嬉々としてそれに全権を託そうとしています。人が一生をかけても計算できない問題を一瞬で解いたり、AI碁やAI将棋が証明しているように、数万手先迄読んでしまうのですから、その存在の超越性は、もはや神の領域にあるように見えます。

 

その一方で、他者の立場を慮ったり、感情を読み取る、あるいは、共感するといった感情面にあっては、AIは、動物のレベルにも達していないかもしれません。そしてそれは、道徳や倫理の欠如を意味していると共に、AI社会では、自由、民主主義、法の支配、基本的な権利の尊重といった人類普遍とされる諸価値も(これらの諸価値が実現するには超越的な視座を要する…)蔑ろにされることでしょう。例えば、民主主義一つをとりましても、決定者であるAIにあっては、自分以下の他の人々に政治的決定に参加する権利を与えるという発想はあり得ないからです。

 

このように考えますと、AIには、神でも動物でもない、テクノロジーに溺れた傲慢な人類が創り出した‘フランケンシュタイン’ともなりかねないリスクがあります。そして、この‘頭脳型フランケンシュタイン’は、小説のように一体ではなく、社会の隅々までに配置され、人類の知的活動や進化を抑制するのみならず、感情能力においても動物のレベルにまで退化させてしまうかもしれないのです。何事もAIが決定する社会では、人は他者のこと、あるいは、社会全体のことを考える必要もなくなるのですから。

 

そして、最も恐れるべき事態とは、真の決定者は、AIの設計者、あるいは、AIを装った影の操作者であったという顛末かもしれません。アメリカ大統領選挙の不正問題が明らかにしたように、電子機器の方がよほど人為的操作が容易なのですから。

 

ITやAIを全否定する必要はありませんが、AIの本格的な普及を前にして、人類は、その活用の目的や範囲についてはより慎重になるべきかもしれません。人類の知的進化の環境を整えるという意味においては、人々が知力を用いる仕事はできる限り維持されるべきですし、否、AIの導入が進むほど、知力を用いる機会を意図的に増やしてゆく必要さえあるかもしれません。そして、AIにはない他者の人格(自立的決定者としての主体)を認め、お互いをおもいやる心、並びに、全体に配慮する能力こそ、人類は高めてゆくべきなのではないでしょうか。AIには、倫理面を含めた人類の成長を援ける補佐的役割を期待したいと思うのです。


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