万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

理解力の欠如が招く悲劇―チャイナ・リスクの根源

2021年01月06日 12時49分23秒 | 国際政治

 昨年、日本国の外務省は、秘密指定の解除により天安門事件に際しての日本国政府の一連の対応を記した公文書―‘天安門事件外交文書ファイル’―を公開しました。同文書は、中国、並びに、非人道的行為に対する当時の日本国政府の認識の甘さを改めて浮き彫りにしたのですが、今日、チャイナ・リスクが全世界を脅かしている原因は、自由主義国側の中国理解の浅さのみではないように思えます。より根本的な原因は、中国側の理解力の致命的な欠如に求めることができるのではないかと思うのです。

 

 報道によれば、同文書には、天安門事件時における自由主義国諸国の動きも記録していたようです。中でも注目されたのが、当時のマーガレット・サッシャ―首相の発言です。同年9月14日、駐英日本大使館での夕食会の席で「鄧小平は英政府も法律の下にあることをどうしても理解せず、国家が欲すれば法律を変えればよいと主張した」と述べ、時の最高権力者であった鄧小平氏が、法の支配を全く理解していなかった事実を述べているからです。そして、同首相は、「今日の中国の問題はまさにこの考え方に根源がある」と総括しているのです。

 

 中国が未だにWTOに加盟していない時期に当たる1989年当時、日中間の経済関係や両国間の交流は未だに限られており、サッチャー首相の言葉を聞いても、日本国側の出席者の大半は、どこか実感が湧かなかったかもしれませんし、さして気にも留めなかったかもしれません。しかしながら、同首相の鄧小平評は、香港返還問題をめぐる鄧小平氏との間の交渉経験から得たものであり、根拠のない‘悪口’ではありません。1982年9月から英中共同声明が発表された1984年12月19日までの凡そ2年半にわたって、中国の鄧小平と渡り合っていたのが当のサッチャー首相なのですから。香港返還をめぐる英中交渉にあって、おそらく、サッチャー首相は、鄧小平氏に対して熱心に法の支配を説明し、イギリス側の説明への理解を求めたのでしょうが、鄧小平氏は、この価値を、決して理解しなかったのでしょう。

 

 サッチャー首相は、法の支配が有する立憲主義的な側面から鄧小平氏の無理解を嘆いていますが、法の支配は、自治、即ち、自由、並びに、民主主義を根底から支える価値でもあります。何故ならば、皆が納得するようなルールが制定され、それを全員が等しく誠実に順守することによって、はじめて人々は、特定の個人の意思への従属、即ち、人の支配から解放され、自由な秩序の下で生きることができるからです(なお、ルールで解決できない政治問題については代表もしくは広範な合意、あるいは、民主的な手続きで選ばれた公職就任者に委託する…)。鄧小平氏が法の支配を理解できないとすれば、それは、法の支配のみならず、自由も民主主義の価値も理解していないことになるのです。

 

 法の支配への無理解は、鄧小平氏のみならず、その後の歴代の中国の指導者にも共通して見られます。そして、この無理解こそが、サッチャー氏が1980年代末にあって指摘したように、今日なおも中国問題の根源にあります。‘軍事力を以って他国を支配して、何が悪い’、‘従わない者や邪魔者を殺して、何が悪い’、‘お金で人の心を買って、何が悪い’、‘弱い者から奪って、何が悪い’、‘愚か者(素直な人)を騙して、何が悪い’、そして、‘法を破って、何が悪い’‘共産党一党独裁で、何が悪い’というふうに思っているのでしょう。そこには、一方的に支配される側や被害を受ける側、即ち、利己的な理由から自らが害を与えた側に対する理解など微塵もありません(共感力も欠如している…)。

 

丸顔の鄧小平氏の顔立ちは温厚であり、フランス留学の経歴からしても中国共産党員にあっては紳士的な近代人の印象さえ受けます。表面的には極悪人には見えないのですが、理解力の欠如した人ほど恐ろしい人もありません。何故ならば、国際法や国際合意を平然と破り、顔色一つ変えずに自国民さえ残酷な手段を以って虐殺するのですから。罪悪感がないのですから、顔の表情には現れないのです。そして、‘何が悪い’のか、いくら論理的に説明しても分からず、自らが分かっていないことさえも分かっていないのです。

 

 今日、天安門事件の当時とは比較にならないほどに日中間のビジネスや交流は拡大しており、今ならば、当時のサッチャー首相の指摘は、日本人の多くも実感を以って受け止めたかもしれません。そして、今度こそ、自由主義諸国は、日本国を含めて‘中国は法の支配を解していない’ということをしっかりと理解すべきであり、この基本的な理解があれば、中国は、経済関係を含めて早急に離れるべき相手国ということになりましょう。理解力の欠如こそ、チャイナ・リスクの根源であり、国際社会を腐敗させると共に、全世界の諸国の安全と独立性を脅かしているのですから。‘相互理解’の結末が、相互離反という事態もあり得るのではないかと思うのです。


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