万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

真の理性の尊重とは?-銃規制と核規制の問題

2022年06月01日 19時47分37秒 | 国際政治
 銃規制も核規制も、突き詰めて考えてみますと、人であれ国であれ、生存に係わる問題です。危険に対する認識や対応を誤りますと、命を奪われたり、国が滅亡する運命が待ち受けていますので、本来であれば真剣に考え抜かねばならない問題なはずです。人の生命や国家の独立性は、それらが一度奪われますと、不可逆的に消滅しかねないからです。ところが、これらの問題については、現実や経験知を重んじる保守主義の人々よりも、より理性を尊重しているはずのリベラルな人々の方が、真剣みが足りないように思えます。’殺人や戦争をこの世からなくすには、その手段をなくせばよい’と単純に考えているのですから。

 リベラル派の人々からしますと、’保守派’は、人類の進歩に逆行している時代遅れの人々ということになりましょう。しかしながら、’保守派’として一括りにはされていますが、これらの人々は、凡そ二つのグループに分ける必要があるように思えます。

第1のグループは、現代という時代にあっても、如何なる目的であれ、力の行使をその実現手段として認める人々です。このため、自らの利益や欲望のためであっても、他者の権利や自由を侵害しても構わず、そこには、利己的他害行為に対する道徳・倫理的な心の痛みはありません。過去の時代と同様に、領域の拡大や他民族の支配はむしろ称賛されるべき偉業と見なされるのです。ここで言う保守には、過去の野蛮な時代の全面的な承認という意味合いがあります。

もう一つの第2のグループは、利己的他害行為の実行手段としての暴力を否定しつつも、暴力を制御する正当な手段としての力の行使を認める立場の人々です。後者は、いわば正当防衛肯定論者であり、力の行使については防衛面のみを認めると同時に、力の保持についても、その抑止力としての効果をも認めています。暴力自体は否定する一方で、その暴力を抑え込む手段としての物理的な力についてはこれを否定しないのです。もっとも、力の行使の容認という意味においては、第1のグループと同様に’保守派’に分類されることとなります。

リベラル派の人々は、’保守派’の第1グループとは相いれませんが、第2グループの人々とでは、利己的他害行為としての暴力は、人類の一般的な知性や良心に照らして否定されるべきものとする認識においては共通しています。ところが、リベラル派の人々は、第2のグループの思考も’忌々しき保守的考え方’と見なしがちです。暴力には暴力で対抗せざるを得ないという主張は、自らも同じ穴の狢に落ちているかのように見えるからです。世間一般でも、しばしば、大人げない行動をとる相手に対しては、大人の対応で応じるように勧める意見が散見されますが、リベラル派の人々もまた、上からの目線で’保守派の第2グループ’の人々を侮蔑を込めて眺めていることでしょう。あるいは、良心的なリベラルな人であれば、他の人々が相手のレベルに落ちないよう、必死になって止めているのかもしれません。人類が堕落しないようにと。かくして、リベラル派の人々は、ひたすらに暴力手段の全面的な放棄、即ち、’暴力の撲滅’を唱えるようになるのです。

それでは、銃や核兵器の全面的な廃絶によって、人々も国家も安全は保障されるのでしょうか。ここで真の理性や合理性とは何か、という問題も提起されます。たとえ暴力が否定されるべきものであったとしても、現実に暴力が存在する場合、それに対抗する手段の放棄が理性的な判断であるのかどうか、疑問があるからです。例えば、ライオンやトラといった野獣がうろうろ歩いている危険な状況下にあって、リベラルな人々が銃を捨てるようにいくら熱心に訴えたとしても、誰も耳を貸そうとはしないことでしょう。銃の放棄が、如何に人として’理性的な行為’であるのかを力説したとしても、人々がそれを理性的な行為として認めるとは思えないのです。現実世界は多様性に満ちており、それ故に犯罪が後を絶たないように、暴力を是認している人も国も存在しているのです。

仮に、リベラルな人々が、将来の目標として’暴力の撲滅’を訴えるならば、その具体的な道筋を示さなければ、決して理性を尊重しているとは言えないように思えます。目標の設定自体には、何の効果もないからです。そして、真剣に’暴力の撲滅’を実現する方法を考えならば、先ずもって、力を以って犯罪者や犯罪組織と真剣に闘わなければならないという現実に直面することでしょう。そのためには、’刀狩’を徹底し得る力を独占的に行使する巨大な警察機構を構築する必要があるかもしれませんし、それが不可能であるならば、善良な人々の自衛を認める必要もありましょう。

しかも、これで終わりではありません。出現した強大な警察機構には、権力の濫用、腐敗、私物化といったリスクもあり、これらを防止する安全装置としての仕組みも考案しなければならなくなります。また、そもそも、強大な警察機構の存在の是非についても根本的に議論する必要もありましょう。’暴力の撲滅’という口実の下で、人々の権利が必要以上に制限され、自由も抑圧されてしまうかもしれないのですから。政治的なスタンスの違いに拘わらず、真の理性の尊重とは、現実を直視すると共に、具体的、かつ、効果的な方法を考え抜くことにあるのではないかと思うのです。

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