地政学とは、地球上の全ての地形や気候といった所与の自然条件を考慮しつつ、パワー、あるいは、勢力圏相互の角逐について理論的な根拠を与える研究といっても過言ではありません。このため、同理論を現実の政策として採用した大国の覇権主義的な行動も理論において正当化されてしまうため、大国にとりましては好都合です。○○国は、地政学的な理由によって××地域の諸国を勢力範囲に収めている、△△地域は、大国間の狭間なので緩衝地帯の役割を果たしている、あるいは、世界大戦は○○パワーと◇◇パワーとの激突である…などなど。不思議なことに、たとえその政策や行動が国際法に反するものであっても、人々は、それを当然、あるいは、極めて合理的な行動のように認識してしまうのです。
もっとも、ハウスホーファー流の地政学とナチス・ドイツの拡張主義との繋がりから、戦後は、日本国のみならず米欧にあってもゲオポリティークというドイツ語の表現は避けられてきた嫌いがあります。しかしながら、地政学という言葉が一般的に使用されている今日、改めてその功罪を問うてみる必要があるのかもしれません。そして、本ブログで述べてきましたように、地政学とは、過去並びに現在の大国の行動を理解し、理論の延長線上にある未来を予測するには役立つものの、現実の、もしくは、人類にとっての理想的な未来を方向づける理論として相応しいのか、と申しますと、これは違うように思えるのです。
その最大の理由は、地政学的思考と国民国家体系との間の不整合性なのですが、このことは同時に、国際法秩序との間の深刻な背反性をも意味しています。法と申しますと、どこか自由に対する制約というイメージが強いのですが、ジョン・ロックの言葉を借りれば、’法は自由の証’となります。おそらく、その意味するところは、法秩序とは、全ての個々人の法人格(ここでは法律行為を自らの自由意思で行うことができる独立的な人格という意味…)の保障を前提として成立するものであり、法秩序にあって人々の基本的な権利が擁護されると共にその自由の範囲も相互に保障されるということなのでしょう。
国際法秩序も法秩序一般と同様であり、国際法上における各国の法人格が保障されないことには、’法秩序’とは言えなくなります。国際法上の法人格とは、対外的な条約や協定等を自らの統治権に基づいて締結できると共に、内政に関しても自由(自治)を享受し得る独立国家として地位を意味します。この観点からしますと、今日の国民国家体系こそ、まさしく国際法秩序が成立し得る唯一の国際体系と言えましょう。民族自決(国民自治・国民主権・民主主義…)、主権平等、並びに、内政不干渉の原則は、独立国家が対等の立場で並立する国民国家体系あってこそ名実ともに原則として成立し得るのです。
このように考えますと、人類にあって最も多くの人々が合意し得る未来ヴィジョンとは、世界政府や世界連邦政府の建設や、共産主義者の主張するような国家の廃絶による国民国家体系の消滅ではなく、規模の大小や地理的条件の相違に拘わらず、対等な立場にある独立国家群の並列体制としての国民国家体系の維持なのではないでしょうか。今日の大国に見られる地政学的な思考が、この未来を妨げているとしますと、変わるべきは大国が追求している自国の勢力範囲の確保という’幻想’であり、その背後に隠れている何者かの人類、あるいは、世界支配の野望なのではないかと思うのです。