普通選挙の実施は、民主主義国家である証とされています。投票所にあって自らが選んだ候補者に一票を投じる国民の姿は、民主主義国家の誇るべき光景でもあります。このため、投票所に足を運ばずに棄権したり、投票用紙を白紙で提出したりしますと、民主主義国家の国民にあるまじき行為としてしばしば批判されます。しかしながら、今日に政治状況を見てみますと、白票・棄権批判は酷なのではないかと思うのです。
民主主義国家では、主権者である国民は、年齢等の要件が定められているとはいえ、選挙に立候補する被選挙権も、複数の候補者や政党から自らの自由意志で選択する選挙権も有しています。参政権という権利なのですから、棄権も白紙投票も確かに自らの権利を放棄しているように見なされがちです。共産党一党独裁体制を敷くような非民主的な国家では、国民には選挙をもって政治家を選ぶ権利はありませんので、批判者の目には、棄権や白票を投じる人は、民主主義国家の国民としての貴重な権利を自ら捨てているように映ることでしょう。何と愚かなことか、ということになりましょう。
加えて、棄権や白紙投票に批判的な人々は、これらの行為は選挙結果によって成立した政権に対する‘白紙委任’を意味するとも主張しています。権利を自ら放棄した以上、如何に自らの意に反した政策であってもそれに従うしかない、という見解です。この文脈にあって、国民に対して投票を法的に義務付ける投票義務化論も提起されており、権利から義務への転換も試みられているのです。
これらの批判は、民主主義の価値に照らしましても一理あるようにも見えます。しかしながら、今日、日本国民が置かれている政治状況も考え合わせますと、以下のような反論が可能なように思えます。
まずもって白紙や棄権も、投票とは異なる参政権行使の別の形、即ち、消極的な表現形態である、という点です。これは権利一般にも言えることですが、権利とは、必ずしもその行使のみを意味するわけではありません。‘行使しない’ことも、権利者が自らの自由意志によって決定し得る事項の一つと言えましょう。しかも、今日の政治状況は、国民の政治家並びに政党の選択を極めて難しくしています。民主主義国家の政治モデルとも言える複数政党制でありながら、何れの政党の公約にも看過できないような難があるからです。
この選択の困難性は、グローバル化に伴って浸透度を増した世界権力による日本国の政界全体に対するコントロールに起因しているのでしょう。既にグローバルレベルにおいて基本的な政策方針が決定されていれば、各国の国民とも、積極的に政治家や政党を選択する意味も意義も失われます。喩えれば、‘地獄行き’が共通の決定事項となっている場合、徒歩でゆくのか、バスで行くのか、あるいは、電車で行くのか、という、手段やルートの選択を迫られているようなものです。豪華客船という破格の提案を受けても、行く先が地獄であることがわかっていれば、これを選択する人は極僅かなことでしょう。無意味、かつ、何れを選んでも自己に不利益にしかならない選択を迫られた場合、目的地とされる地獄に行きたくない人は、選択そのものを拒否するしかないのです。
ましてや投票が法によって義務付けられるともなれば、国民は、棄権や白紙と票によって‘地獄行き’を拒否する最期の手段さえも失うこととなります。映画『マトリックス』は、主人公が赤と青との二者択一を迫られるシーンで知られますが、投票の義務化とは、‘自由な選択’という名目の下で選択者を追い込むことにもなりかねないのです(二頭作戦や多頭作戦・・・)。もはや逃げ道はなく、全ての国民が、手段やルートは違っていても地獄に行くしかなくなります。
棄権や白票が権利に含まれることは、これらに積極的に意味を持たせている投票制を見れば分かります。日本国憲法では、これらの扱いについての記述はありませんが、仮に、政府が国民の命を犠牲にするような政策を実行しようとした場合、棄権率や無効票数が国民が同政策に意義を唱えたり、反対する根拠となり得るかも知れません。棄権や白票を‘白紙委任’と見なす見解は解釈の一つに過ぎず、必ずしも国民の共通認識でもないのです。もちろん、政治に対する無関心から棄権する人もおりましょうが、棄権や白票には、選択し得ない政治の現状や現行の制度等に対する国民の不満や批判が込められているものです。白紙委任と決めつけている人々は、むしろ、棄権者や白紙投票者の意思を無視しているとも言えましょう。
今般の衆議院選挙の投票率は53.85%であったそうです。戦後三番目の低さなのですが、与野党を問わずに何れの政党も、この数字を、政界全体に対する国民からの不信や拒否反応として重く受け止めるべきなのではないかと思うのです。