万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

コロナワクチンと全体主義の陰

2023年10月05日 15時25分40秒 | 社会
 今年の生理学・医学ノーベル賞の受賞者は、新型コロナウイルス感染症に対するワクチンの開発に貢献したとして、二人のペンシルバニア大学の研究者が選ばれました。カタリン・カリコ特任教授とドリュー・ワイスマン教授のお二方なのですが、政府並びに主要メディアが人類を救った偉大なる功績として絶賛する一方で、ネットをはじめとした一般国民の反応は極めて微妙です。否、訝しがる人の方が多いくらいです。その理由は、言わずもがな、超過死亡者数によって示唆されるように、ワクチンが原因として強く疑われる健康被害が広がっているからに他なりません。

 世界初のmRNA型ワクチンは、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックを根拠として政府から緩急許可が下り、急遽実用化されることとなりました。安全性に関する十分な治験を経ずに人類に対して試されたとする批判は、同経緯によるものです。‘人体実験’と言った物騒な言葉も聞かれるのですが、仮に、ワクチンによる健康被害が事実、あるいは、その可能性が極めて高いならば、政府や主要メディアの持て囃す姿勢も疑問符が付きます(同タイプのワクチンについては科学的にも根拠がある・・・)。‘人体実験’の結果は‘有害’であり、一定のパーセンテージで死亡ケースも報告されている以上、実用化は難しいという結論になるはずなのですから。ワクチンと健康被害との因果関係が濃厚である現状にありながら、なおも政府が、mRNAワクチンの技術はあらゆる分野に応用できるとし、同テクノロジーの開発を積極的に後押しするとなりますと、多くの国民は、政府に対する不信感を募らせることとなりましょう。

 もっとも、コロナワクチンによる国民の健康被害については、同ワクチンによって多くの国民の命が感染症から救われたのであるから、致し方ない犠牲として甘受すべきとする意見もないわけではありません。全体を救うためには一部の犠牲は仕方がない、とする論理です。確かに、「トロッコ問題」のような、多数の命か少数の命かの二者択一の究極の選択を迫られる場合には、多数を選択することは倫理的に許容されましょうし、防衛戦争の場合にも、国民の誰もが少なくない自国将兵の犠牲を覚悟しなければならなくなります。極限状態にあっては、少数者の犠牲を受け入れざるを得ない場面もあるのですが、他に選択肢があったり、極限まで至っていない状況下等では、少数者の犠牲に関する倫理・道徳的許容レベルは格段に上がってきます。

 5人の命と1人の命の二者択一を迫られる「トロッコ問題」にしても、最善策はトロッコを止めることです。トロッコが暴走している線路に石、木材、ブロックなどの障害物を置いてトロッコを停止、または、脱線させれば、6人全員の命が失われずに済むのです。選択肢を二つに限定しなければ、犠牲は回避できるのです。

 このように、少数者の犠牲は、他に選択肢なき極限状態という極めて稀な状況にのみ許容されるのですが、今般のコロナ禍が、同状態に当て嵌まるのかと申しますと、この点は、大いに疑問なところです。とりわけ日本国では、‘ファクターX’として謎解きが流行るほど、他の諸国と比較して感染率が著しく低い状況にありました。パンデミックの初期段階にあり、かつ、ワクチンの有害性が不明な段階では‘緊急事態’の言い訳も通用するものの、少なくともワクチン被害が疑われるケースが報告された時点にあって、接種推進から慎重または中止に転換すべきであったと言えましょう。ところが、政府は、因果関係が不明である点を逆手にとって、接種推進策を変更しようとはしなかったのです(疑わしいから止めるではなく、疑いの段階であるうちに進める・・・)。

 コロナワクチンに見られた全体のための少数者の犠牲、あるいは、個人の犠牲の許容という言い分は、全体主義の価値観とも共通しています。状況や条件に関する厳密かつ慎重な検討もなく、際限なく全体優先の論理が浸透してゆきますと、自由主義諸国にあっても容易に全体主義体制の方向に誘導されることとなりましょう。少数者や個人の命の犠牲が当然のことのように主張される時、そこには全体主義の陰が既に忍び寄っているかもしれないと思うのです。

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