「フワちゃん大炎上事件」は、なかなか鎮火には至らないようです。様々な分野の人々が新たな視点で賛否両論の議論を起こしており、予想を超えた延焼が続いているようにも見えます。その一つに、フワちゃん氏の発言に見られる論理性を評価する哲学者からの擁護論もあります。矛盾に満ちたやす子氏の発言よりもフワちゃん氏のリポストの方が余程論理性が高いというのです。
論理性をもって新たなるフワちゃん氏擁護論を展開しているのは、フランス哲学者の福田肇氏です。それでは、同氏は、哲学的な考察からどのような論拠をもってフワちゃん氏の発言を評価しているのでしょうか。
先ずもって、同氏は、自身のフワちゃん氏擁護論の出発点は、「やす子の無神経で情緒的でお気楽な発想」にあるとしています。現実には、高齢者や障害者の介護に疲弊する人々、安楽死を望む人々、LGBTQ問題を抱えている人々などが存在しながら、「生きてるだけで偉いので皆 優勝でーす」という言葉は‘好きになれない’というのです。つまり、同氏の不快感という感情から始まっているのですが、その後は、やす子氏の発言の論理的な矛盾点を指摘しています。‘生きているだけで皆偉い’と言う以上、優勝という順位付けは矛盾するというのです。
やす子氏が、‘優勝’という言葉を順位付けの意味合いで使ったとは思えないものの、この論理で矛盾を批判するならば、フワちゃん氏の発言にも同様の指摘をすることはできます。‘死んでくださーい’と言う以上、その後の‘予選敗退’もあり得ないからです(本人は「生きておらず」、既にこの世にはいない・・・)。
そして、次なる指摘こそが、福田氏が最も強調したかった論理性なのでしょう。同論理性は、両氏の発言の文章構成を個別に検討するものではありません。フワちゃん氏は、やす子氏の発言を逆手に取る形で自らの発言を組み立てており、そこに高い論理性を認めて評価してるのです
確かに、やす子氏の発言を分析しますと、1.生きる(S)は、偉い(P)、2.偉い(P)は優勝(X)、3.生きる(S)は優勝(X)というきれいな三段論法を構成しています(S⇒P、P⇒X、S⇒X)。その一方で、この論法に対して、一切の条件なしで単純に否定で構成すると、(1)S(ー)⇒P(ー)、(2)P(-)⇒X(-)、(3)S(-)⇒X(-)となります。‘死者は偉くなく、偉くない人は優勝しない、死者は優勝しない’となります(ここでは大文字右の(-)は補集合を意味し、少なくとも数学的には正しい)。
ところが、福田氏のフワちゃん発言論理優位説の根拠は、こうした単純な否定の論理ではありません。福田氏は、やす子氏の三段論法の最初の一段目において、フワちゃん氏の発言は、SとPを否定形となるS(-)とP(-)に変えたことに加えて、両者の位置を逆転させている、即ち、‘逆手’にとっているから「面白い」と言っているのです。つまり、S(ー)⇒P(ー)ではなくP(-)⇒S(-)あるいはS(ー)⇐P(ー)に・・・。ところが、この否定逆転の意味を文章表現しますと、’偉くない人は死ぬべき‘という恐ろしい言葉に転換されてしまいます。すなわち、第一段以下を三段論法で記述しますと、(1)P(-)⇒S(-)、(2)S(-)⇒X(-)、(3)P(-)⇒X(-)となり、’偉くない人は死ぬべきであり、優勝もしない(予選敗退)‘となり、まさにフワちゃん氏の問題発言となるのです。
‘逆は必ずしも真ならず’と申しますように、S(ー)⇒P(ー)からP(-)⇒S(-)へと逆順とした論理式が正しいわけではありません。むしろ詭弁的な論法でもあり、この‘逆手’が倫理や道徳に著しく反したが故に、気の利いた‘ウイット’として笑えず、大炎上する結果を招いたとも言えましょう。おそらく、福田氏もこの逆手が含意する‘偉くない人に対する死の肯定’には気がついていたのかもしれません。福田氏は、「フワちゃんは、そこから「偉くない」のであれば、その人は「生きていない」はずだ、よって「予選敗退だ」という結論を導き出した」と述べており、‘「生きていない」はずだ’と表現することにより、積極的な死の肯定に対して和らげた表現を用いているからです。
結局、フワちゃん氏の発言に論理性をもって擁護する試みは、その意図とは反対に、同発言に潜む反倫理性を暴き出してしまったようにも思えます。「偉い」、「偉くない」のフワちゃん氏の基準が何であるのかが曖昧であるだけに(P(-)は主観的に設定可能・・・)、多くの読者が、自らをやす子氏の立場と重ねることとになり、フワちゃん氏への批判が強まったとも言えるかもしれません(フワちゃん氏の基準によって「偉くない」とされた人は、すべて「死んでください」ということになるのでは?)。
介護を要するほどの高齢になっても、障害を持っていても、LGBTQ等であっても、生きていて欲しい、生きていてくれるだけで幸せと思う人々も少なくありません(とりわけ家族は・・・)。同擁護論も感情から始まっていますように、生死の関わる問題は、論理では割り切れない部分があります。ましてや道徳や倫理を真っ向から否定するような詭弁であるならば、多くの人々からの反発や批判を受けるのは当然のことなのではないかと思うのです。