今日、誰にとっても学校の教室が楽しい場であるわけではありません。とりわけ、虐めが起きている学校では、休み時間や課外活動、学校行事でさえ精神的な苦痛を伴うことも少なくないのです。しかも、スマホやタブレットが普及した今日、子供達は、新たな虐めの手段を手にするようにもなりました。SNSの使用は、虐めの場を教室から子供達の私的空間へとさらに広げているのです。言葉の暴力は古今東西を問わずに昔からあるのですが、SNSは、現代にあって言葉による虐めリスクを一層高めているのです。
今般のフワちゃん氏による暴言も、言葉による虐めの問題と直結しています。何故ならば、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」という発言には、言葉による虐めの核心的な要素が凝縮されているからです。「おまえは偉くない」では、自らの優越感に基づく主観のみで他者の人格に対して低評価を与えています。この言葉を受けた側は、自らの価値を一方的に貶められるわけですから、自ずと自己評価も下がってしまい、落ち込んでしまうのです。続く「死んでくださーい」は、これは言うまでもない、刑法に抵触するような暴言です。最初の節の‘偉くない’は理由付けですので、‘おまえには価値がないから死ぬべき’という意味となり、この言葉を投げかけられた側が繊細な傷つきやすい心の持つ主であれば、死という選択が頭を過るかも知れません。そして、最期の「予選敗退でーす」には、それが架空の競争であるからこそ、‘敗退’という表現には、相手に惨めな思いをさせたいという意地の悪い願望が滲み出ています(事実ではないだけ、悪意が明白・・・)この言葉を聞いた側は、実際に敗北したわけでもないにも拘わらず、自らに向けられた悪意に打ちのめされてしまうのです。
以上に述べましたように、同発言には、虐める側の心理的な特徴がよく現れています。(1)他者を下げることによる自己優越感、(2)排除願望、(3)嗜虐性、(4)悪意などです。これらの悪意のある言葉を他者に向けて発することが、言論の自由によって保障されるべきか、と申しますと、そうではないように思えます。あらゆる自由には、‘他者を害しない範囲’という限界があるからです。つまり、利己的他害性は悪ですので、直接に他者の身体を傷つけるものではなくとも、言葉による暴力には他害性が認められるのです。今般の「フワちゃん大炎上事件」にあっても、フワちゃん氏による一方的な暴言は加害行為であって、やす子氏は虐めの被害者とも言えましょう。
そして、虐めの場が、生徒達が偶然に‘同級生’になってしまう教室と、芸能界という同業者集団という、比較的狭い世界である点も共通しています。全く接点のない他人同士であるよりも、何らかの共通性をもつ人々の間での方が、自他の境界線が曖昧となり、度を超した侵害行為が起きやすいのです。外側から見れば‘仲良しグループ’であっても、同グループ内部で深刻な虐め問題が発生しているケースも少なくありません。
学校での虐め問題がなかなか解決を見ない現状からしますと、今般の「フワちゃん大炎上事件」では、加害者となるフワちゃん氏が批判を浴び、番組やCM等が降板となると共に、芸能活動を休止するに至っています。言い換えますと加害者側に制裁、あるいは、ペナルティーが科せられたのです。この成り行きは、学校での虐め問題に少なくない影響を与えるかもしれません。何故ならば、今日における虐め問題に対する学校側の対応は、被害者のサポートに務めても、加害者側には極めて甘いからです。何らのお咎めを受けることもなく、どこ吹く風で卒業してゆく加害者側の生徒や学生も珍しくはありません。
こうした中、今般の一件は、他者に対して死を勧めるような言葉の暴力が、社会的な制裁の対象となる事例を子供達の目の前に示すこととなりました。虐めの現場では、‘死ね’とか、‘死んでくれ’といった酷い言葉が日常的に飛び交うのですが、こうした言葉を口にしている加害側の生徒や学生は、他者に対して心理的にダメージを与える発言が罰の対象であることに気がつくことでしょう。罪の自覚は重要です。そして、同調圧力に屈して‘苛めっ子’の言いなりになってきた他の生徒や学生達も、虐めへの加担を悪として理解し、今後は自制するかもしれません。加害者から周囲の人々が離れてゆくのです。このように考えますと、虐めをなくすという意味において、今般の「フワちゃん大炎上事件」には一定の教育効果があったのではないかと思うのです。