万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

スクールカーストは猿山か

2024年08月14日 11時28分59秒 | 社会
 今日の学校は、虐め問題に限らず、子供達にとりまして生き辛い場所のようです。何故ならば、教室では、しばしば‘スクールカースト’と呼ばれる階層化が見られるというのです。同カースト制度はおよそ3階層に分かれており、上位から1軍、2軍、3軍と序列が下がってゆきます。カーストと言いますと、インドの過酷な身分制度が思い出され、この言葉が使われているだけでも引いてしまうのですが、今日の学校での序列化を説明する日常語として使われていること自体が驚きでもあります。

 それでは、スクールカーストの序列がどのようにして決まるのかと申しますと、その基準となるのは、コミュニケーション能力、容姿、運動神経、学業成績、所属する部活動などなそうです。上位者は、これらの何れにあっても優れており、このため、教室全体においてリーダーシップを発揮し得るのです。リーダーシップといえば聞こえは良いのですが、その実態は、横暴な支配階級のようなもののようです。他の2軍や3軍に自らの意見を押しつけ、あらゆる物事を自分たちで勝手に決めてしまうのですから。

 その一方で、2軍とされる生徒達は1軍の取り巻き、あるいは、フォロワーとなり、1軍の意に添うように行動します。同調圧力を醸し出すのもこの階層であり、同階層の協力なくして教室全体の同調圧力も生じないこととなります。そして、最下層に位置づけられる3軍に至っては、1軍による虐めの対象となりやすく、精神を病んだり、不登校となる生徒も少なくないそうです。スクールカーストは、虐めの原因でもあるのです。

 実のところ、このスクールカーストの世界、前近代における階級社会が、現代においてそのミニ版として再現されているといっても過言ではありません。階級社会では、国や社会全体の決定権は一部の特権階級が独占しており、他の人々は、一方的に支配される立場にありました。しかも、その決定も、社会全体のルールや法に照らしたものでもなく、大方、権力を握る少数の人々の恣意や私的な好悪によって決められます。言い換えますと、今日、普遍的な価値とされる自由、民主主義、法の支配、平等・公正といった諸価値とはほど遠い、真逆の世界なのです。

 こうした世界が、子供達の間で自然に形成されているとしますと、この現象をどのように理解すべきなのでしょうか。前近代における階級社会は、過去から引き継がれてきた伝統でもあり、かつ、半ば公権力によって強制されてもいました。しかしながら、今日の教室で出現したスクールカーストは、クラス替えの度に起きるというのですから、自然発生的なものとも言えましょう。否、スクールカーストという名称が存在しないだけで、過去の時代の教室にあっても位階的なグルーピングは存在しており、今日の一般社会にあっても散見されるのかもしれません。

 序列化の現象をもってこれを人間集団の本質的な傾向とする説明は簡単なのですが、人類史的な視点からしますと、人類の精神的な発展を無視しているようにも思えます。自然界を観察しますと、生物学的に人類に最も近い霊長類では、ボス猿を頂点として‘猿山’とも称されるピラミッド型の位階秩序を形成する種属がいます。このことは、類人猿より高い知能を有する人類にあっても、十分に知性や理性が十分に備わっていない段階では、社会が‘猿山モデル’となり得ることを示唆しているとも考えられます。学童期にあってスクールカーストが自然に形成されてしまうのも、あるいは、人の精神的な発展段階と無縁ではなく、理性や理性が未成熟な故の過渡的な現象かも知れないのです。

 古代ギリシャ哲学の流れを引き継いだ西欧においては、近代にあって理性と社会や国家との関係について深い思考を加えています。これらの哲学は、現実の世界にあっても近代国家の制度的発展に理論的な基盤をも提供しており、上述した自由、民主主義、法の支配、平等・公正と言った諸価値が統治機構にあって制度化されたのも、客観的且つ公平な視点の源としての理性という概念に負うところが大きいのです。そして、現代国家の大半が、普遍的諸価値と共に近代的な制度を取り入れたことは、人類における理性の普遍性の証とも言えるのです。

 このように考えますと、生徒や学生の知性や理性を育て、‘猿山モデル’であるスクールカーストの世界を卒業させることこそ、教育の果たす役割とも言えましょう。恣意的で固定的な物差で個々人を評価し、位階秩序に振り分けてしまうのは、理性に照らして見ればまことに馬鹿馬鹿しいことなのです(ボス猿には、外敵からメンバーを護る役割があるので、猿山以上に馬鹿馬鹿しいかも知れない・・・)。この馬鹿馬鹿しさは、2軍の人も3軍の人こそ気がつくべきかもしれません。自己呪縛という愚かな行為なのですから。そして、このことは、子供達の理性や知性を育むことに失敗しますと、社会も‘猿山モデル’に退行してしまうリスクをも示しています。今日、世界各国にあって独裁化の兆候が見られますが、横暴な独裁者の出現を防ぐためにも、人々の精神的な成長を促す教育の役割は重要なのではないかと思うのです。

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