万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族の東大推薦入学の是非

2024年08月28日 09時41分42秒 | 社会
 学習院の開設は、江戸末期の弘化4年(1847年)に遡り、以後、皇族の学び舎とされてきました。明治17年には宮内省所轄の官立学校となりますが、戦後は、皇族や華族の子弟に限らず、一般国民にも開放されると共に、私立大学として再出発することとなります。創立の経緯からしても学習院は皇族のために設けられた特別の学校であり、当然に皇族が入学試験を受けることはなかったことでしょう。

 学習院=皇族の学校という構図は戦後も暫くの間は維持されてきたのですが、秋篠宮家の長女眞子さんから学習院離れが始まり、今般、新たな問題が持ち上がっています。それは、長男である悠仁氏の進学問題です。皇嗣の嫡男となりますので、現行の皇室典範によれば、将来、天皇の位に就くものとされています。悠仁氏も、幼稚園から中学校までの期間はお茶の水大学の付属学校で学び、高等学校は、筑波大付属高校に進学し既に学習院から離れています。しかしながら、これらの学校の選択に際して特徴となるのは、何れも、国立の学校を選んでいるという点です。

 それでは、何故、悠仁氏の進学問題が国民の関心、否、批判を浴びているのかと申しますと、入学希望の大学が、国立の東京大学であるとされているからです。しかも、高校入学時と同様に、他の志願者と一緒に一般入試を受けるスタイルではありません。学校推薦での入学を目指しており、そのための‘実績’を積んでいるというのです。悠仁氏は、第一線の研究者と共同でトンボに関する論文を執筆し、8月25日に京都市で開催された「国際昆虫学会議」にあってはポスター発表を行なっています。これらの研究活動は、東大の推薦入学を勝ち取るための‘戦略’と見なされているのです。

 同戦略が、不公平であることは言うまでもありません。他の一般の高校生達が、推薦入学の条件を満たすために、その道の専門家と共同研究できる可能性はほぼゼロであるからです。入学試験とは競争試験である以上、推薦入学も含めて全ての参加者に対して競争条件を同一にしませんと、結果の信頼性をも失われてしまいます。とりわけ、国立大学の入試にあっては、平等原則は徹底されるべきです。推薦入学であっても、他者の手を借りた‘実績’は、自らの実力とは言いがたく、決して平等も公平でもないのです。

 秋篠宮家が皇族という特別の地位を自らのために利用したことは明白です。否、かつての学習院のように無試験で入学できるのではなく、競争試験を経なければならない現代であるからこそ、その裏口的な手法の姑息さが目立ってしまうとも言えましょう。皇族が、率先してアンフェアな行為を行なうのでは、‘国民に対して示しが付かない’と考えるのが、一般国民の常識的な反応なのではないでしょうか。

ところが、この件に関して脳科学者の茂木健一郎氏は、全く逆の意見を述べています。国民からの批判を人権侵害とした上で、「そんなご不便をかけてるんで、それを特権とかいうのは本当に心が貧しいな。全体を見れない方たちだなと思う」として。同氏の見解では、<皇族は特別な存在である>⇒<自由が束縛されている>⇒<束縛がある分、国民は、皇族の些細な私的要求は受け入れるべき>ということになります。つまり、‘特別な存在である皇族の要求を批判する国民の方が悪い’という論理なのです。しかしながら、この論理は、茂木氏の個人的な皇族観に基づく主張ですし、必ずしも正しいわけでもありません。社会の公平性を損ねる私的要求の抑制こそ、皇族に課された最も重要なる‘束縛’であるとも言えるからです。

 古今東西を問わず、君徳や帝王学が存在してきましたので、後者の方が国民一般が権力者や権威者に求めてきた倫理的な規範なのでしょう。むしろ、公的権威の私的利用が許されると考え(伝統的な倫理観に反する・・・)、上から目線で国民の批判を封じようとする茂木氏の論理は、どこか倫理観が倒錯しているようにも思えます。同氏は、批判する人々に対して「全体を見れない方たち」と表現して軽蔑していますか、同氏が全体を見ることができるのであれば、‘特別な存在とは何か’、‘権威の源泉とは何か’、そして、‘統合の役割とは何か’といった、天皇や皇族の根本的な存在意義や今後の在り方まで掘り下げた議論を提起すべきではないかと思うのです(つづく)。

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