鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や かみのやま温泉から 湯殿山へ  

2016-08-24 17:18:06 | 神社
(かみのやま温泉 月岡ホテルにて)


47都道府県の全県走破を達成でしたねと
添乗員さんが写して、くれはりましたんや。

周り4~5人の方からは、拍手も頂けましたで。

(かみのやま PRポスター)


(月岡ホテル 正面)


(かみのやま 温泉マップ)


上山市(かみのやまし)が正式な名称なんだけど
山形新幹線の駅名が「かみのやま駅」となり
観光用などは、平仮名を使うようになったんだって。

上山市(かみのやまし)とは蔵王の麓で昔はこの辺りを
「上の山方」と呼んでいたそうですわ。

そんな訳で、市制の名称に取り入れたようでんな。

因みに、「下の山方」を現在は「山形市」と呼ぶんだとか。

この日は早朝にホテルの周りを散策してみましたんや。

温泉町を歩くんなら、やはり下駄がお似合いでっしゃろ。

(ホテルの下駄)


(上山城址=かみのやまじょうし)


この画像の向こう側には3層の天守閣が有るんだけど
昭和58年に造られた、内部は郷土博物館だとのこと。

歴史的な価値は無いお城なので、鉄ちゃん爺やはスルー。

(かみのやま温泉の 三号源泉)


(上山市 マンホールの蓋)


(上山藩・武家屋敷 案内図)


江戸時代に紫衣事件で、沢庵和尚が上山藩に配流され
しばらく住まれたと言う、お寺が有るそうですが
朝が早くて拝観は出来ないとのよし、諦めましたんや。

画像で左上の矢印の処が、そのお寺だそうですわ。

(上山藩 武家屋敷)












武家屋敷とPRされてるけど、改修されて現在は
個人が住んで居られるので、内部は見れまへんのや。

上山藩(かみのやまはん)で100石~200石
奉行職や側用人を務めた中級藩士のお宅のようですわ。

江戸時代後半は松平(藤井)3万石の城下町だったはず。

(かみのやま温泉 観光用標識)


(朝食 バイキング会場)


朝食を済まし、いよいよ出羽三山に向かいまんねん~🎵

女性軍の方へ、本日はストッキングは着用しないでください!

湯殿山神社では素足になって、お詣りしなければなりませんので~

添乗員の方から、こんな注意を聞きながらの朝食でした。

昨日も同じ話をされたけど、念のための注意でっしゃろな。

今回のツアーで皆さんが楽しみにしていた出羽三山へ
向かうことになり、午前9時30分にホテル前をスタート。

(観光バスから 上山市を遠くに眺めて)


国道13号線に出て暫くは北上するようでんな。

山形市内の辺りから、バスは山形自動車道に入り
スピードを上げて、快調に走って行くようでっせ。

ここから、約1時間弱ぐらい乗車とのこと。

(山形自動車道から 撮影)






(月山湖=がっさんこ だったかな)


バスは山間部に入り、月山ICで現在は高速道路がお仕舞い。

ここからは国道112号線で湯殿山(ゆどのさん)へ
近づくしか道はないようですわ。

現在も先の湯殿山ICと 月山ICの区間は険しい山で
高速道路が完成してないんだって。



(湯殿山らしき山が 見えてきました)




ここからは湯殿山有料道路を使って、標高・約1000mの
仙人沢(せんにんさわ)の駐車場まで登りつめまんねん。

(湯殿山神社の 大鳥居)








一般車両は、この大鳥居前までしか入れないんだって。

ここで参宮用の専用バスに乗り換えですわ。

横に見える建物は、山伏修行などで宿泊に使用する
湯殿山参篭所と呼ばれる施設のようでんな。

(本宮 参拝バス) (庄内交通)






専用バスで約5分、 歩いて登れば約30分ぐらいかな?

ツアー旅行なので全員がバスに乗せられましたけど。

(湯殿山神社の 案内絵図)


到着したのは湯殿山(ゆどのさん)神社・本宮前事務所でした。

湯殿山(ゆどのさん)神社について、少しだけ書き込んで置きまひょ

出羽三山の奥宮と呼ばれ、正式には羽黒(いでは)神社から
月山(がっさん)神社を経て、最後にお詣りする神社なんだって。

庄内地域からスタートする場合は、その通りに廻りますが
私たちは、かみのやま温泉からスタートしたので、一番が
湯殿山(ゆどのさん)神社から廻ることになりましたんや。

「語るなかれ 聞くなかれ」と呼ばれ、湯殿山で見たことや
聞いたことは、他人に知らせてはならないと言われてますんや。

「奥の細道」で松尾芭蕉も訪れているようですが、ごく簡単に

「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」とだけ詠まれたのみ。

もっとも神秘的な神社として、公式サイトにも詳しいことは
書かれてまへんので、謎の多い神社として有名なんでっせ。

それでは~ 湯殿山神社の本宮へお詣りに行きまひょ。

(本宮の参道にて 女性の白装束姿)




私たちは観光での参拝でっけど、本式の白装束で
出羽三山を詣でる方も、最近は増えているんだとか。

(湯殿山神社の 御神牛)


(撮影禁止の ご神域になります)


ここからは、しめ縄が張られて湯殿山神社の、ご神域ですわ。

少しだけ登ってから、登山道を沢の方へ下っていきますんや。

江戸時代までは神仏習合の修行場で、羽黒山が(現在)の世界
月山が(死後)の、そして湯殿山が(再生)の世界なんだって。

湯殿山で修行すれば来世の願いで、この世に生まれ変われる
そのように、昔の人は考えたようでんな。

この辺りは冬には4~5mの雪に埋もれるんだって。

だから5月~11月までしか参拝は出来ない厳しい世界でんな。



鉄ちゃん爺やの画像がおまへんので・・・

ここからは、裏ネットで紹介されている、画像でどうぞ~

(湯殿山神社 本殿前) (裏ネットから 拝借)


ここで参拝者は全てが、素足になつてから、お祓いを受けます。

紙の人形(ひとがた)で痛い箇所や、病気の部分を撫でまっせ。

人形(ひとがた)は横の小川に流してから、門をくぐりますんや。

素足で坂を下って「ご神体」に向かうようになってまんねん。

(湯殿山神社の ご神体) (裏ネットから 拝借)


望遠レンズで、「ご神体」を撮影した人が居るようでんな。

茶褐色の「ご神体」からは、温泉が湧きだしてますんや。

参拝者は「ご神体」の前で拝礼してから、素足で~

向かって左から登って、「ご神体」の裏側に入ります。

ネットによれば「ご神体」は女性の出産を表しているとか?

これ以上は、語るなかれ 聞くなかれ ですから省略としまひょ。



(湯殿山神社 本宮 ご朱印)




出羽三山のご朱印は大きくて、二面を使用しますんですわ。

(湯殿山神社 お祓いのお札)


参拝には1名500円が徴収されますんで、バスの中で
添乗員さんから全員に、このお守りが渡されました。

旅行費用に含まれてますんで、現金で納めた訳じゃおまへんけど。

(湯殿山 本宮の参道にて撮影)


(湯殿山・仙人澤 即身成仏・修行之地)


湯殿山と言えば江戸時代に、「即身成仏」をされた修行の場。

現在の処、日本には18体の「即身成仏」された方が残っているが
その内の8体が湯殿山で修行された、即身仏だと言われてますんや。

これは映画の撮影用に作成したレプリカなんだって。

(レプリカの 即身仏)




この先は、本物の即身仏を画像で紹介しますが
観るに堪えない方は、画像をスルーしてくださいね。


「ミイラ」と「即身仏」との違いを紹介して置きまひょ。

「ミイラ」とは死後に内臓などを取り除き、人工的に
骨と皮だけを残して、長期に保存するようにした遺体。

それに対して「即身仏」とは五穀を絶ち 十穀を絶ち
千日間の修行を、湯殿山で行い、脂肪を減らし切り
木の実や植物だけで生命を維持した後。

最後は穴倉に入り、少しづつ漆を飲んで食物を絶ち
生命を絶つまで念仏を唱え、鈴を鳴らされたとの事。

鈴が鳴りやんで、3月と3日の後に穴倉から掘り起こし
お寺に即身仏として、お祀りされているんだって。

湯殿山の北側には現在も「即身仏」がお祀りされてますんや。

(注連寺の 鉄門海上人の 即身仏)


(大日坊の 真如海上人の 即身仏)




大日坊では6年ごとに、真如海上人さまの衣服を新しく交換し
古い装束は細かく刻んで、お守りとして配布されるんだとか。

(真如海上人さまの 衣服交換の行事)




江戸時代の後半に、東北地方では大きな飢饉が続き、餓死者が続出
湯殿山で民衆の救済を願って、僧侶が即身成仏を図られたんだって。

何百人もの僧侶が実行されたが、殆んどの方は成功しなかったとか。

数年前にテレビで紹介されて、一躍話題になった記憶がおますけど。

(湯殿山神社・本宮 バス停留所にて)


遠くに見えているのは朝日連峰で、あの山並みの向こう側は
新潟県の村上市に成るんだそうですわ。

この辺りは湯殿山の中腹で約1100mだったかな?

湯殿山神社のお話はこれでお仕舞になりまっせ。

次回は羽黒山を紹介することにしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵




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鉄ちゃん爺や  立石寺を訪ねる  

2016-08-17 20:14:58 | 旅行
確か立石寺を知ったのは中学校時代だったかな?

「奥の細道」を教材にした国語の学習だったはず。、

松尾芭蕉の有名な俳句を覚えてから、何時かはその
立石寺を訪れてみようと、思いついてから約60年。

(立石寺 案内絵図)


(立石寺 山門)


ここで添乗員さんに入山券を貰ってスタートでっせ。

山門の手前でツアーの人々に入山券を渡してはりまぁ。

「奥の細道」の文章を想い出してみました。


「山形領に立石寺といふ山寺あり。 

 慈覚大師の開祖にして、こと清閑の地なり。

 一見すべきよし、人々の勧むるに依て、尾花沢より取って返し、

 その間七里ばかりなり、日いまだ暮れず。

 ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。」

松尾芭蕉は、本来なら立石寺に立ち寄る予定は無かったとか。

でも、鈴木清風などが勧めるので行ってみようかと
こんな感じの文章で、「奥の細道」は書かれてるようでんな。。

(芭蕉翁の ブロンズ像)


(同行した 曾良のブロンズ像)


ここは観光用に設けられた芭蕉翁の撮影スポット。

松尾芭蕉の座っている、ブロンズ像は珍しいはず?

ここまでは、石段も険しくなく誰でも来れる地点でんな。

もう少し石段を登った地点が、芭蕉の句の短冊を埋めた
本来の場所だとされてまんねんで。


 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 松尾芭蕉

(芭蕉翁 せみ塚)




文字が風雪に耐えたのか、かすかにしか読めまへんな。

芭蕉翁が立石寺を訪れたのは1689年(元禄2年)
旧暦の5月27日で、新暦では7月13日になりまんねんで。

山形では7月13日には油蝉やニイニイ蝉はまだ鳴かないとか。

確かに、今年の我が家でクマ蝉が初めて鳴いたのも7月20日頃。

芭蕉翁が詠んだ有名な俳句の蝉は、春蝉だったのかしら?

鉄ちゃん爺やとしては、疑問を感じながらも石段に挑戦!

そんな訳か、この日、蝉の声は一つも聞こえまへんでした。

(立石寺境内の 石段)




そろそろ石段が急になってきましたで。

なにせ奥之院までは、急な石段が1015段だとか。

飲み友達のN君がリタイヤしたと、聞き及ぶ仁王門ですわ。

(立石寺 仁王門)




ネットではこの仁王門で約650段とかの書き込み。

この仁王門に到達しても、前を眺めたら険しい石段が。

胸突き八丁で奥之院もまだ見えず、苦しい処ですわ。

この辺りで、早くも息切れを起こす年配者が続出。

鉄ちゃん爺やは無事に通過して、奥之院を目指しまっせ。

(立石寺 仁王門を通過)


登りは出来るだけ写真を撮るのは控え、石段に専念。

足を痛める前なら、そんなに苦はならない石段の感じ。

でも現在の鉄ちゃん爺やには、限界に近い急な登りですわ。

(立石寺 開山堂 & 納経堂)


(立石寺 納経堂)



立石寺に残る一番古い建物がこの納経堂なんだって。

開山堂の横から、巻くように右手の岩を登ると、五大堂だっせ。

(立石寺 五大堂)




立石寺のパンフレットにも、必ず出てくる観光スポット。

舞台造りが山腹から、はみ出したような建築物でんな。

五大明王をお祀りしたお堂だから、五大堂と呼ぶんだとか。

「松島」にもこれと似た、五大堂とか呼ぶ建物が在ったはず?

ここから下界を見下ろすと、登ってきた疲れなどは
一気に収まり、立石寺に辿り着いたという雰囲気でっかな。

ここで休憩を兼ねて、見晴らしを堪能させてもらいまひょ。

(立石寺 五大堂にて撮影)




自撮りしてたら、大学生とも思える方が代わって
写しましょうか! と親切に呼びかけてくれました。

お言葉に甘えて、写して貰った画像がこれでおます。

(立石寺 五大堂から JR山寺駅を眺める)


画像を右手に山越えして進むと仙台市の方角になりますんや。

JR仙山線と呼ばれる仙台と山形を結ぶ鉄道でっせ。

手前の石谷川を挟んで立石寺の門前町も見えてまぁ。

(立石寺 五大堂から山形市内方向を撮影)


石谷川を下っていくと、最上川の本流にに注ぐようですわ。

山形市内は山を挟んで10kmぐらい離れてまっしゃろか。

前方の山並みの左手に、山形市の中心街がおますんや。

(立石寺 開山堂から 奥の院方向を撮影)


画像に写っているお堂は中性院と呼ぶ立石寺の塔頭のはず。

ここから奥之院までは、もう少し石段を登りますんや。

(最上義光公の御霊屋=おたまや)


現在まで残る立石寺のお堂の大半は、この最上義光公が
慶長年間に再建された物と伝わってますんや。

関ヶ原の戦いの後は現在の山形県を一括して
統治をした大名だったようですわ。

ここまで辿り着いたら、奥之院は目の前でっせ。

(立石寺 奥之院の標識)




何とか~ 奥之院まで頑張れたようですわ。

此処から15段登れば、立石寺の奥之院でおます。

(奥之院の 妙法堂 & 大佛殿)
 



向かって左側が大佛殿で、右側が立石寺・奥之院で妙法堂と云いまぁ。

五大堂のイメージが強烈なので、奥之院はやや影が薄い感じも。

ここまで登ってこないと、ご利益は得られないのかしら?

(奥之院 妙法堂 & 大佛殿 ご朱印)




(奥之院 大佛殿)


(奥之院 妙法堂の前で 記念撮影)


(奥之院 大佛殿)


これで立石寺の参拝が無事に終了となりましたんや。

下山する前に奥之院を背景に、自分撮りで写して置きまひょ。

(立石寺 奥之院と自分撮り)


(下山途中で 開山堂と納経堂を望む)


やはり、下りは早くなりますな、登る人の苦労を
励ましながら、こちらは自然と足が進みまんねん。

(立石寺 下山中の石段)


これから登る皆さん方、まだ半分も来てまへんで。

気を付けて、参拝してくださいよ~🎵

登るときにはパスした弥陀洞を写してみましたんや。

(弥陀洞=みだほら)








凝灰岩の岩肌を削って造られてる感じでんな。

修行者などの遺骨が洞窟に埋葬されているんだって。

(立石寺 下山道の標識)


登りにパスした根本中堂と日枝神社でご朱印をもらいまひょ。

日枝神社は神仏習合時代には立石寺の、護り神さまでしたんや。

(山王日枝神社の 拝殿)


(山王日枝神社の ご朱印)


(立石寺の本堂  根本中堂)




(立石寺 根本中堂の ご朱印)


このお堂は1356年(延文元年)に再建されたそうで
その際に、比叡山・延暦寺から法灯が送られて、現在まで
輝きを守り続けているんだそうですわ。

織田信長により、比叡山・延暦寺が焼き討ちで全焼した際には
再建された本堂に、ここから法灯を延暦寺に送り届けたとか。

ご本尊は薬師如来さんで、立石寺の本堂とされてますんや。

登山口の近くに在るので、奥之院にお詣りせず、ここ本堂で
立石寺に参詣したと考える方も、居られるでしょうな。

(立石寺 登山口)


ご朱印を、四か所も頂いたので集合時間の5分前でした。

観光バスの駐車場の前で、マンホールの蓋を発見!

記念にと発車を1分だけ待って貰って急いでの撮影。

(山形市の マンホールの蓋)


あまりセンスが良いようには思わないし、地味な感じ。

この日の宿「かみのやま温泉」に向かいましたんや。

(バスの車中より 立石寺の山頂を撮影)


今日は、これでお仕舞にしまっさ。

次回は、かみのやま温泉から出羽三山を紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵







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鉄ちゃん爺や  上杉神社から立石寺へ  

2016-08-11 19:43:55 | 旅行
昼食を終えて集合時間まで約30分ぐらいかな。

近くの米沢城址にある上杉神社を訪ねてみまひょ。

(米沢城址の外濠)




元は上杉15万石のお城でしたが、明治の初めに
取り壊されて、現在は本丸跡に上杉神社が在るだけ。

(上杉神社の鳥居)


昔は上杉謙信公や上杉景勝、そして上杉鷹山公など
上杉家の藩主や重役がお祀りされていたようでっけど。

明治時代に上杉謙信公が別格官幣社に列する事になり
現在は上杉謙信公のみを、お祀りしているんだって。

他のお方は、城外の松岬神社に移されたとのこと。

これからは、上杉家を巡る歴史のお話になりまんねん。

興味のない方は画像だけ見て、文章はスルーして頂戴ね。

(上杉神社の ご朱印)


(上杉謙信公の銅像)


(上杉謙信公の詠んだ 漢詩)


上杉家と言えば、やはりこの方が語られるのも当然かな。

「義」を重んじて戦国を駆け抜けた偉大な武将でっから。

正式には上杉家の初代藩主は上杉景勝さんになりまぁ。

時は太閤秀吉さんの晩年で徳川家康を牽制するお役目。

越後の国から会津への、お国替えがおましたんや。

これは後に、米沢に移されてからのお話のようでっけど。

上杉謙信公の亡骸に甲冑をかぶせ、大がめに入れて
春日山城から、ここ米沢城の本丸へ移し替えたとの記録。

(上杉謙信公の 廟跡)


江戸時代には、ここに安置されていたそうですが、明治維新後
近くの上杉家歴代藩主をお祀りする廟所に移し替えたそうですわ。

立派な廟所だと聞いてまっけど、時間が足りまへんのでスルー。

(上杉神社 拝殿)




ご存じの通り上杉謙信公には、お子さんが居ませんので
お姉さんの子供である、景勝さんを養子にされますんや。

家督争いの「御館の乱=みたてのらん」で同じく養子の
上杉景虎と正室であった景勝の姉とその子供までを、殺し
上杉家の当主になったのが上杉景勝と称されるお方でっせ。

本当は北条家から養子に入った上杉景虎に謙信公が家督を
継がせたかったと書かれた書物も見られますが
今と成っては、どちらなのかは定かではおまへん。

豊臣秀吉の晩年には会津120万石を誇り、五大老の一人
徳川家康や前田利家や毛利輝元に並ぶ、大大名でしたんや。

(天地人 景勝&兼続の銅像)


NHKの大河ドラマでは、やや綺麗ごとに描かれてますが
戦国の時代を、力強く生き延びた上杉家のお話でしたかな。

反徳川家康の先鋒として旗を揚げたのが上杉景勝さんですわ。

ここ米沢は直江兼続が城代として、関ヶ原の戦いの際には
山形県内で最上氏や伊逹氏と激しく戦った古戦場がおます。

本戦の関ヶ原で西軍が破れ、直江兼続も兵を引くことになりまぁ。

反徳川家康の戦いを起こしたにもかかわらず、戦後は30万石に
減らされたが、米沢城主として存続したのが不可解なお話。

謙信公以来の武勇の家として、武士の情けを考慮したのかも?

(上杉家と伊達家 よく似た家紋)


上杉謙信公が関東管領の上杉憲政から名称を譲られたから
これは、鉄ちゃん爺やも知ってたが、伊達家がその昔
越後の上杉家と縁を結ぶ予定で、家紋を引き継いだとは。

この越後の上杉家は謙信公の先祖が主君筋にあたる名門
元は公家さんである、観修寺家の紋と書かれてまんな。

「竹に飛び雀」と呼ぶ、よく似た家紋に成ってますんや。

(上杉神社境内の 灯篭)


上杉家は景勝ー定勝ー綱勝と 三代が続いた処で災難が。

3代藩主・上杉綱勝が子供もなくて急死してしまうんですわ。

これが3代将軍家光の時代迄なら、お家断絶が当然なんでっせ。

時代が4代将軍家綱の時代で、しかも上杉綱勝の正室が
会津の名君である保科正之の娘さんときますんや。

保科正之さん娘婿の家を守るべく、驚くべき策略でっせ。

公家筆頭の吉良上野介に上杉綱勝の妹が正室として嫁入り。

そのお二方との間に、生まれたばかりの息子を養子にして、
上杉家を継がす事に、しはりますんや。

この方が4代藩主・上杉綱憲(つなのり)さんでおます。

赤穂浪士の吉良邸のお話で少しだけ登場するお殿様でんな。

保科正之は兄の将軍家光から4代将軍・家綱の後見を依頼され
米沢藩の隣で、会津若松城を治めていた徳川将軍家のご親戚。

だから上杉家には会津藩は命の恩人とも言える存在ですわ。

現在も米沢市では吉良上野介も悪くは言わないんだって。

だから謙信公や景勝さんの直系はここで絶えてしまった感じ。

(上杉家の 家紋) (竹に飛び雀)


上杉家はこの時に30万石から15万石に減らされますんや。

減らされたのが信夫郡と伊達郡だそうで、現在の福島市辺り。

だけど、家臣は昔の120万石の時代から、殆ど減らさずに
米沢藩になっても約6000人の家臣を引き連れていたんだって。

これは人を重んじる上杉景勝さんの考え方だとか、もしくは
まだ戦いが有るかもしれないとの心構えからだとも。

どこの藩も、江戸時代の半ばからは財政が苦しくなるんだけど
米沢藩は家臣の多さも影響して、大変に苦しんだとのこと。

8代藩主・上杉重定の時代には財政が破たんして15万石を
幕府に返上を考えたあげく、思い留まったと書かれてまんな。

この危機を救ったのが、上杉家・中興の祖とも称される
9代藩主・上杉治憲(はるのり)さん上杉鷹山公と呼ばれます。

(上杉鷹山公の 銅像)




この方は九州は高鍋藩の江戸藩邸でお生まれになった若君。

実母が早く亡くなられ、祖母に育てられたそうで、この方は
4代藩主・上杉綱憲さんの娘さんになられる、お方でおます。

伯母から英明な子供だと聞き及んだ、8代藩主・上杉重定は
この若君を婿養子に迎え、自分の娘と結婚させたんだって。

そして後に生まれた自分の息子を外し、婿養子に家督を譲り
9代藩主・上杉治憲(はるのり)とされたようでっせ。

上杉重定から上杉治憲に藩主が変わった頃の米沢藩では
約20万両もの負債(現在では約200億円?)があり
これを立て直すには、至難の業だと言われたんだって。

(上杉鷹山の 名言)


これは、後に10代藩主となる上杉治広に与えた家訓で
この方は、上杉鷹山公が養子に入ってから生まれた義弟で
上杉鷹山公は隠居した後も、藩主上杉治広を助けて藩政を
死ぬまでリードされたと言われてますんや。

なお「鷹山」とは剃髪後の名前で米沢近くの山の名前だとか。

アメリカ元大統領であったケネディさんが、日本で一番尊敬する
人物が上杉鷹山公だとおっしゃり、日本でも知られるように
オイルショックやバブル破たんの時代には、質素倹約の精神から
上杉鷹山公の政策や精神が、大いにもてはやされましたかな。

(上杉鷹山 伝説の植物)




この日の昼食に「お浸し」で食べたように記憶しまんねん。

今まで味わったことのない、不思議なお味でしたよ。

米沢では上杉鷹山公の奨励した植物の一つなんだって。

(うこぎの生垣)


米沢市の街では所々でこのような生垣が見られまっせ。

他には鉄ちゃん爺やがお土産で買った「鯉の甘露煮」など。

(鯉の甘煮  甘露煮?)


上杉鷹山公は自ら質素倹約に務め、あらゆる草木や魚類に
動物まで食べられるものを探し出し、飢饉に備えたとの事。

下級武士の次男・三男には田畑の開墾命じ、村ごと一人当たり
年一升の籾米を飢饉に備えて蔵に貯蔵することも命じたそうです。

天明の大飢饉に、米沢藩では1人の餓死者も出さなかったとも。

同時に40名も居た奥女中は、9名に絞り込み、自らも
一汁一菜の食事を常とする生活をしたと言われてまんな。

今に伝わる米沢の特産品は殆どが上杉鷹山公に繋がるとか。

自足時給を図り、米沢藩を甦らした名君と呼ばれてまぁ。

上杉鷹山公が亡くなった時には約20万両も残っていた負債が
逆に5千両ばかり、金子がプラスに転換してたそうでっせ。

(松岬神社)




元は米沢城内にお祀りされていた、上杉鷹山公や藩祖である
上杉景勝それに直江兼続や上杉鷹山公を支えた方などが
明治に成ってから、城外のこの神社に移されたとのこと。

米沢市では現在でも上杉鷹山公を尊敬して必ず「公」を
付けてお呼びするとの事で、私もそれに従いましたので。

(松岬神社 拝殿)


これで約30分の時間が過ぎましたので観光バスの
駐車場へ急ぐことにしまひょ。

ここから約1時間30分ぐらい走って東北の名刹で
天台宗の立石寺へ向かいますんや。

松尾芭蕉が奥の細道で有名な句を残したお寺

「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」

立石寺と言うよりは「山寺」と呼ぶ方が有名かしら?

(山形県 南陽市を走行中)




気が付いたら米沢・南陽道路を走ってるようでんな。

この辺りは、シーズンが終わったけどサクランボの畑や
桃やブドウ畑の風景が随分と、多く見かけまっせ。

(蔵王スカイラインの入口を通過)


(蔵王の山並み?)




雲が垂れこめているので本体なのか前山なのか不明でんな。

蔵王連山の主峰ならもっと高く見えるような気もするけど。

残念ながら、今回は蔵王には行かないツアーでしたんや。

(山形市を通過中)




此処からはもう少しで山寺に到着という感じですわ。

今回のツアーでは一番の難所だとされる山寺でっせ。

約1000段を超える急な石段が待ち受けてますんや。

(山寺の 入口)


(山寺の拝観券)


今日はこれぐらいでお仕舞にさせてもらいまっさ。

次回は、名刹の立石寺(山寺)の参拝を紹介しまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵














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鉄ちゃん爺や  五色沼から米沢へ  

2016-08-06 19:18:00 | 旅行
(ホテル リステル猪苗代 玄関前にて)


添乗員さんにお願いして写して貰ったんです。

ホテルに焦点が合って鉄ちゃん爺やはピンボケでっけど。

(バスの車中より  安達太良山方向を撮影)
 

この日は雨は降らないが雲の多いお天気でおました。

国道115号線を走行中から写した画像でっけど
山の中腹まで雲に覆われているようでんな。

(五色沼の 案内板)


ここは鉄ちゃん爺やが、埼玉に単身赴任中の平成13年秋
内の奥さんを大阪から呼んで、旅行をした想い出の地。

ローヒールで歩かせたので、大いに顰蹙を買いましたんや。

こんな山道だとは、予備知識が無かったのが原因でっけど。

今回は皆さん方、スニーカー姿で準備OKのようでっせ。

(五色沼の 毘沙門沼にて)






五色沼は1888年(明治21年)磐梯山が水蒸気爆発し
山体を崩壊した岩屑なだれが、北側を流れる川をせき止め
数多くの沼地や湿地帯を作ったんだって。

3.6kmの遊歩道が完備されてますんで、約1時間ぐらいの
子供連れでもハイキングができる、コースになってまんねん。

画像の毘沙門沼が入口になり、駐車場や売店も完備され
五色沼観光のスタート地点と言うことになりまっかな。

なんとなく、見覚えがある15年前と変わってないかも?

(毘沙門沼の 錦鯉)


お天気が悪いと、鯉は水面に集まってくるんだって。

ここには、ハートのマークが付いた鯉が居るんだそうな。

発見したら幸せになるとか、恋愛運に恵まれるんだって。

鉄ちゃん爺やには、関係がおまへんので先へ進みまひょ。

見物に行った、ご婦人方の話で一匹だけ見つけたそうです。

(遊歩道に 噴火した際の岩)




(磐梯山の噴火口が 毘沙門沼に写っています)


小磐梯と呼ばれる北側の山体が無残に崩れてますんや。

一瞬だけ雲が切れて、磐梯山が見れたのはこの時だけですわ。

(毘沙門沼は これでお仕舞い)




それでは~ 次の赤沼へ向かって歩きまっせ。

この辺りが、一番足場が悪いような感じでんな。

(五色沼の 遊歩道)




(熊に注意! こんな看板)


くわばら~ くわばら~ 急ぎ足で皆さんと通過。

ハイキングの人は確かに、熊除けの鈴を持ってはりまぁ。

(川か? 沼か? 不明)





五色沼の周辺は、現在も幾つの沼が有るのか不明だとか。

大小を合わせて、数百個は確認されているんだって。

(五色沼巡り 案内図)


(赤沼の 標識)


(赤沼 岸辺が赤い?)




前回訪れた際は、もっと赤い色が岸辺に見えたはず。

鉄分が少なくなって赤い色が落ちてきたようですわ。

戦前は、沼一面に赤い色が広がっていたとの記録。

(深泥沼=みどろぬま)


名前の通り、泥のように濁った色の沼に見えるんだね。

標識を探したけど、この沼だけは発見できず。

(山ユリを発見)




北陸地方では見れないけど、近畿地方より北で咲く
日本固有のユリとしては、一番大きいんだとか。

(弁天沼の 標識)




(展望台から 弁天沼を望む)




五色沼巡りでは、毘沙門沼に次いで2番目の大きさ。

周囲を見渡せる、小さな展望台が置かれてるんですわ。

(五色沼の 遊歩道)


(倒木も 絵になる遊歩道)




(るり沼の 標識)


(るり沼の 全景)


水草が生い茂っているので全景が写りまへん。

弁天沼が後だったかな、順番が逆だったかも?

(遊歩道に咲く 山アジサイ)


(遊歩道で 小休止)


(青沼の 標識)


(青沼)




この沼は名前の通りに感じまっしゃろ。

ここを通過したら五色沼巡りも後半戦でっせ。

(特別保護地区の看板)


草花や昆虫も採取はできませんよ、勿論ながら
樹木や岩石を移動させると、罰せられますから。

(柳沼の 標識)


(柳沼)




(柳沼にて 自分撮り)


これで五色沼の3.6kmを走破しましたよ。

終着地点はこんな売店と、路線バスの停留所でんな。

車で訪れた方は、こちらか毘沙門沼の駐車場に停め置き
路線バスを片道を利用するのがベターですかな。

(裏磐梯 物産館)


15年前にはこんな物産館などは無くて、反対側の
道路から17時30分発の最終バスで猪苗代駅へ。

お隣には星野リゾートのホテル迄出来ていて
この辺りは随分と様変わりしたように思いますんや。

(裏磐梯の写真を 拝借)


晴れてたらこんな素晴らしい景色が見れまんねんで。

ここの駐車場に観光バスは先回りして待機中ですわ。

皆さん、ソフトクリームを食べて再びバスに乗車。

「岩塩=いわしお」というこの辺りで採れる岩塩を加えた
バニラソフトクリームが口当たりも良くて人気だとか?

集合時間が迫っていて2分で食べて走り込みましたがな。

だから~ 塩っぱい感じの記憶しか残ってまへんわ。

(桧原湖の 標識)


ここから桧原湖の西岸を眺めながら、ラーメンで有名な
喜多方の街を抜けて、バスは走って行きますんや。

ここからは、鉄ちゃん爺やも知らないコースになりまぁ。

(バスの車中より 桧原湖を眺める)




この湖も同じように磐梯山の噴火で明治時代に出来た
湖で、湖底には昔の集落が沈んでいるんだって。

水量が減ると昔の神社の鳥居が見えるとガイドさんが
説明されてまっけど、疲れたのか寝てる方が半数ですわ。

(磐梯山とも この辺でお別れ)


磐梯山の裏側を国道459号線は下って行きますんや。

のどかな会津地方の集落を見ながらの旅でしたよ。

喜多方の街から国道121号線を北上するようでっせ。

数年前に大峠トンネルなど、バイパスが完成し冬場でも
通行が出来る快適な国道になったんだって。

それまでは九十九折と呼ぶヘヤピンカーブが連続し
事故も多発する危険な、米沢街道とも呼んでいたとか。

昔は冬場には通行が出来ない雪深い難所だったんだね。

(国道121号線 大峠へ向かう車窓)




この大峠トンネル(3940m)は東北でも2番目に
長い道路トンネルだとのガイドさんのお話。

このトンネルが福島県の会津地方と、山形県の県境になり
峠を抜けると、山形県の米沢市に成るようですわ。

山形県では、この辺りを置賜地区(おきたまちく)と
呼ぶそうで、山形県の一番南の地区になるようでんな。

(国道121号線 山形県に入りました)


(米沢市の 観光用標識)


(米沢市の マンホールの蓋)


ここで、本日の昼食になる予定ですわ。

上杉15万石の城下町として有名な町でっせ。

鉄ちゃん爺やは、この瞬間に47都道府県の全てを
走破したことになりましたんでっせ。

祝! 47都道府県 完全走破完了。

(元上杉伯爵邸 入口)


(元上杉伯爵邸の 車寄せ)




最後の藩主・上杉茂憲さんが造った本邸なんだって。

庭園は浜離宮を参考にして造られた館で、皇族方も
お泊りになる宿舎に利用された由緒ある建物だとか。

戦後に上杉家から米沢市に譲渡されたようでんな。

(米沢の郷土料理)


上杉鷹山公が質素倹約に徹し、好まれた料理だとか
現在は米沢の郷土料理としてPRされているんだって。

(山形名物の芋煮)


山形県の各地で「芋煮」は味わえますが、ここ米沢は
牛肉を使った「芋煮」が一般的なんだって。

庄内地方などは豚肉を使った「芋煮」だそうですわ。

念のために、里芋が使われるのは各地共通でっけど。

米沢牛で有名な町だから、さもあらん~ と納得でおます。

(米沢牛の幟)


本日は、ここまでとしまひょ。

次回は上杉神社や上杉鷹山公などのお話をしまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵







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鉄ちゃん爺や 会津&出羽三山の旅へ  

2016-08-03 11:19:18 | 旅行
7月27日は我が家を朝の6時30分にスタート。

JR大阪駅にて AM8時の集合なんですわ。

1時間は掛かりまへんけど、ツアー旅行でっから
皆さんに迷惑が掛からないように、早めのスタート。

(JR大阪駅 中央コンコース)


(特急サンダーバード9号 発車案内)


大阪駅から北陸方面へ向かう特急列車は
全て11番ホームからになりますんや。

(11番ホームで乗車待ち)




(サンダーバード9号 大阪駅に到着)


JR大阪駅をサンダーバード9号はAM8時40分発車。

新大阪駅・京都駅・福井駅の三つしか停車しない最速の
サンダーバード9号で終着駅の金沢駅まで乗車。

新大阪駅と京都駅から乗車する方を含めて総勢が36名。

鉄ちゃん爺やを含め、単独で参加した方が4名だけ
残りは、夫婦連れの16組32名のご一行さまでしたんや。

旅の企画から40歳以下の方は、ご夫婦1組だけでした。

金沢駅にはAM11時13分 遅れもなく無事到着。

(JR金沢駅 北陸新幹線乗り換え口)




(昼食は 利家御膳)


金沢を代表する駅弁の一つで、約1時間だけ乗車する
北陸新幹線の車内で頂くことにしまひょ。

「はくたか562号」東京行きでっけど、下車は上越妙高駅
各駅停車で金沢駅から5つ目、ここまでがJR西日本管内。

上越妙高駅から先はJR東日本の管轄になりまんねんで。

蛇足ながら、乗務員さんの交代は2駅先の長野駅なんだって。

(北陸新幹線 上越妙高駅) (新潟県上越市)




上越妙高駅到着は定刻通り 12時58分着でした。

添乗員さんが発車案内の下で合図をされてまっせ。

右側が乗ってきた「はくたか562号」でんな。

関西では北陸新幹線の上越妙高駅で観光バスに乗り換え
東北や関東へ向かうツアーが最近は増えてますんや。

旅行社とJR西日本が団体向けに超割安料金を設定し
特急サンダーバード号と北陸新幹線を利用させる。

JR西日本管内の乗客を増やす企みでっしゃろか?

確かに飛行機を使うより割安でっけど、バスを含めて
ツアー旅行として時間的にはハードな感じがしまっけど。

(北陸新幹線 上越妙高駅 西口)


ここからは、観光バスで4日間お世話になりましたんや。

駅前は開業1年なんで、まだ田圃の真ん中ちゅう感じ。

接続する在来線は局地的豪雨で夕方まで運休だとか。

前途、多難なお天気を横目に観光バスに乗り込みまひょ。

(越後交通の 観光バス)


長岡市の本社からここまで回送してきたんだって。

越後交通と言えば、元首相の田中角栄さんが社長だったはず。

新潟では田中角栄さんを支えた中核的な存在の企業でしたかな。

現在でも田中家は、越後交通の大株主だとも聞いてまんねん。

ガイドさんによれば年配の方から、良くその話を聞かれるとか。

ガイドさんは小千谷(おじや)の出身だそうで、昔は
田中角栄さんの強力な地盤だった町だとか言われてましたな。

(北陸自動車道を 走行中の車内から)


高くはないけど、三角錐の遠くから目立つ山でっせ。

おそらく、米山という約992mの山だと思いまぁ。

この山を境に、向こう側が中越でこちら側を上越と呼ぶんだって。

昔の越後の国は、京都に近い地域から上越・中越・下越と分かれ
現在の新潟市は下越で、長岡市は中越になりまんねん。

当然ながら、上越市はこの名前にあやかって付けられたんでっせ。

(北陸自動車道 新潟・黒崎SAにて)




トイレ休憩は1時間ほど走って新潟市を遠くに臨む黒崎SAで。

この日は、ひたすら北陸自動車道から磐越自動車道を経由して
会津の猪苗代ICまで、ひたすら走り続ける旅行でおます。

山間部に入ると雨が降り、美しい風景は写せまへんでした。

(常磐自動車道を 走行中の車内から)




この辺りが新潟県と福島県の県境を走っている感じ。

さほど高い山は見えないけれど、山深い趣には感じられるかも。

(会津若松市を遠くに臨む)



会津若松の鶴ヶ城は遠くに見えてますが、デジカメでは無理。

磐越自動車道は、会津若松市の少し離れた処を通過してますんや。

(会津の名峰 磐梯山=ばんだいさん)


有名な磐梯山(ばんだいさん)は、この日も次の日もこんな感じ。

絵になる、お山なんだけど雨模様では仕方がおまへな。

雲に隠れて、美しい姿を見せてくれまへんでしたわ。

(ホテル リステル猪苗代)




今宵はこのホテルの10階が、我らの泊る宿でおます。

このホテルの裏側はスキー場になってるようでんな。

(ホテル10階の 廊下より山側のスキー場を)


(ホテル10階の 部屋より猪苗代湖方向を)




肉眼では猪苗代湖(いなわしろこ)が微かに見えてまっけど
鉄ちゃん爺やのポケデジでは、ダメのようでんな。

1枚目の画像の右側に微かに湖が見えてるんだけど~🎵

この日も、翌日の朝も同じような感じで、期待していた
猪苗代湖や会津・磐梯山の素敵な風景はお預けとなりましたな。

今回はこれぐらいで、お仕舞にしまっさ。

次回は裏磐梯の五色沼から米沢市への巻を紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵























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