鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

大阪ことばを解説しまひょ  パート1

2024-10-21 16:51:49 | 大阪
(道頓堀グリコサインの看板)(2014年以降 6代目)


現在の大阪弁は昔ながらの船場言葉に第二次世界大戦後
摂津言葉や河内言葉に泉州言葉が加わってますんや。

ごっちゃになって微妙に表現が変わってしまった感じでおます。

だから大阪市内で育った鉄ちゃん爺やとしての印象は
最近の大阪弁が下品になってしまったように感じますんや。

大阪弁と一括りに表現されていますが鉄ちゃん爺やは
「大阪ことば」として話を進めていきたいと思いまぁ。

                   大阪ことば
標準語=御寮人(ごりょうにんさま)   「ごりょんさん」

ごりょうにんさま → にが抜けて → さまがさんに変化したとの説
当主の妻を船場の商家では「ごりょんさん」と呼んでいました。
大阪では「さま」は手紙やはがきの宛先以外には使用しまへん。

「ごりょんさん」って戦後は死語になった感じ、今の若い方には
通じない大阪ことばの一つかもしれまへん
鉄ちゃん爺やが小学生の頃に町内会の人が家にやってきて
「ごりょんさん いはる~」と声を掛けられたことがおます
明治や大正生まれの方なら関西では頻繁に使われていた感じ。

                   大阪ことば
標準語=私(わたくし)         「わて」

わたくし → わたし → わたい → わて と変化したとの説
昔は女ことばであったが、男性も使うようになったとのこと
戦後に笠置シズコさんの「わてほんまに よいわんわ~」の歌で有名に。

戦後は「うち」の方が女性の使用としては主流になっている
男ことばでは「わし」「わい」が少し下品だけど今も使われている。

                   大阪ことば
標準語=○○さま ○○くん       「さん OR  はん」

鉄ちゃん爺やの苗字は黒田なんです。

同僚や上司なら、黒田はん とか 黒ちゃん 又は黒でしょうな
後輩や部外者なら 黒さん とか 黒田さんですかな。

「さん」は大阪ことばでは丁寧語として使用することが多いかも?
あなたさま → あんたさん → あんた → 丁寧語 あんさん 

だから「あんさん」は敬語に近い大阪ことばでもあります
他府県の方には丁寧語とは感じない言葉かも。

(大阪落語 故・桂米朝師匠)

昔ながらの大阪ことばを喋れるのもこの方でお仕舞かも
鉄ちゃん爺やも大阪ことばを知っているだけの世代に。                  
                    
標準語                大阪ことば 
     長男           「あにぼんさん」
     次男           「なかぼんさん」
     三男           「こぼんさん」
     一般に          「ぼんぼん」との呼び方も
     
     長女           「あねいとさん」「いとさん」
     次女           「なかいとさん」
     末娘           「こいさん」「こいいとさん」   
     一般に          「おなごはん」

     旦那様          「だんさん」
     若旦那様         「わかだんさん」
     大旦那様         「おおだんさん」

これらは船場言葉でしたが現在でも年配者には通用することばのはず
団塊の世代以降のお生まれならば、おそらく聞いたことがないかも?
「いとさん」は いとしい・いとけない から変化したことば。

次に標準語と大阪ことばの比較で羅列してみました。

標準語                 大阪ことば
  刺身                 お造り
  鮨                  鮓   文字が異なります
  五目寿司               ちらしずし・ばらずし
  かけそば               素うどん
  肉=豚                肉=牛
  有難う                おおきに
  好きです               すっきやねん・すきやねん
  ばか・ばかやろ            あほ・あほんだら
  うるさい               やかましい・じゃかましい
  どうして?              なんで?
  いらっしゃいませ           おいでやす
  ごめんください            ごめんやす
  お金持ち               ええし
  忙しい                せわしない
  本当                 ほんま・ほんまやで
  たくさん               ぎょうさん 
  ごめんなさい             かんにん
  すみません              すんまへん
  違います               ちやう・ちゃうちゃう
  上手に                あんじょう
  いじわる               いけず
  行ってきます             いて参じます
  行ってらっしゃい           お早うお帰り
  お帰り                お帰りやす
  お前さん               おまはん
  座る                 おっちんする
  ほんなら               ほな~
  どうして?              なんで?
  ぼつぼつ               ぼちぼち
  ですよ                でっせ~・だっせ~
  父親                 おとん  少し下品
  母親                 おかん  少し下品

(大阪で 戦前からの一番古い橋)



標準語                  大阪ことば
  本町(ほんちょう)           本町(ほんまち)
  日本橋(にほんばし)          日本橋(にっぽんばし)
  京橋(きょうばし⤵)          京橋(きょうばし⤴)

大阪市内では南北の道を「筋」と東西の道を「通り」と呼びます
御堂筋・四つ橋筋・堺筋・我孫子筋・なにわ筋・天神橋筋など
土佐堀通・長堀通・本町通・千日前通・南港通など
昔は通り=4.3間 筋=3.3間と定められていたそうですわ
現在は南北の筋の方がメインとなって道幅が広くなってますんや。

それから大阪市内では大阪城に近い方から1丁目・2丁目と
番地を付けてますので、住所を聞けば場所が判断できますんや。
  
まだまだ、大阪ことばを書き込みたいが今日はこれまでに。

ほな~ これでさいなら~♪j
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由緒ある式内社  高屋神社  我が街の郷土史より

2024-10-06 18:53:18 | 神社
(我が町内を 南北に通る 東高野街道)

平安時代に作られた金剛生駒山脈の麓を通り現在の河内長野市で
西高野街道と合流して高野街道となり、紀見峠を越えて高野山に至る
真言宗の総本山・金剛峯寺へお参りするために出来た古道なんですよ。

現在は乗用車がすれ違うのがやっという細い道ですけどね。

この辺りは高屋集落なので南行きの一方通行になってますんや。

(式内社 高屋神社)





現在は小さい祠だけの村社としてお祀りされていますが
平安時代の延喜式神名帳にも式内社として記録される神社です。

この辺りは今も昔も高屋という地名で呼ばれていますや。

物部高屋連(もののべのたかやむらじ)という豪族が住んでいた。

饒速日命の十世の孫にあたる方の後裔と言われてますんや。

そんな訳でご祭神は「饒速日命=にぎはやひのみこと」と
同じ高屋丘陵に有る第27代安閑天皇の合わせて二祭神。

物部高屋連の本家は現在の八尾市にあった豪族でご存じの
聖徳太子の時代に廃仏騒動で蘇我氏に滅ぼされたようです。

分家の物部高屋連は細々と奈良時代から平安時代初期まで
存続しましたが現在は絶てしまったように思われます。

(高屋神社の拝殿)


(高屋神社の 由緒書き説明板)

続日本紀(しょくにほんぎ)に高屋連の女子が三つ児を出産したと
当時は三つ児の誕生なんて国史に乗るぐらい珍しい事だったようですね。

高屋連牧人(正六位上)が常陸の国の大目として赴任中に現地で死亡
隣町の太子町で墓誌が出土して、奈良時代には中級の官人だったとか。

もう一つだけ位が上がり従五位下になれば貴族になれるぐらいの位置。

西淋寺の僧名にも河内国の古市郡の人、高屋連○○と記される人々も。

(東高野街道)
東高野街道を150mぐらい戻ってみまひょ。

ここ高屋集落は戦前から存在する街で高屋と呼ぶ町内会。

我が街はお隣で戦後に出来た街で城山会と呼んでいます。

戦国時代の高屋城址から城山と呼ぶようになったとか。

(高屋城址 説明板)

我家の位置は二の丸跡の西側になるんですが三の丸跡へ向かいます。

書斎から見える竹林が高屋城の土塁跡だとYOOの地図に載りましたよ。

最近までゴミを捨てていたんだけどこれからはダメですよね。

(安閑天皇の皇后 春日山田皇女陵)



日本書紀には安閑天皇の御陵に合葬されたと記されていますが
平安時代の延喜式には安閑天皇陵の南側に埋葬されたとの記録。

現在の宮内庁では別に埋葬された高屋八幡古墳の方を指定している。

春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)は第24代仁賢天皇の娘で
第25代武烈天皇の姉とされ、安閑天皇が皇太子の際に妃として結婚
傍系から入った第26代継体天皇も同じく仁賢天皇の皇女を娶り
婿入りの形で皇位を継承した、その同様の一環だった考えられます。

皇位は26代継体天皇~27代安閑~第28代宣化~29代欣明と
継承されますが第29代欣明天皇はまだ歳が若く未熟なので
春日山田皇太后に皇位を継ぐように依頼したが、春日山田皇太后は
お断りしたと日本書紀に記されているようなお方ですね。

もし実現していたら推古天皇より早く女性天皇が出現した可能性も?

当時は仁賢天皇の皇女が3人も継体天皇・安閑天皇・宣化天皇に
嫁いでおられますが、春日山田皇女が生存する長老だったのかも。

仁徳天皇の血を引く女性が傍系から入る天皇には皇后の条件として
当時は先代の内親王でなければ皇后に成れなかったようですから。

(安閑天皇の皇后 春日山田皇女陵)

現在は長さ82mの方墳に見えますが、戦国時代に高屋城を
築城する際に、削られたか元は100mを超える前方後円墳の
立派な御陵で、安閑天皇陵とは直線で100m前後しか離れていない
生前は仲のいい天皇皇后両陛下で有ったんでしょうね。

我が町内会の敷き地に安閑天皇と安閑皇后の二つの御陵が
存在するのは珍しいと言えるかもしれません。

本日はこれまでにしまひょ、 ほな~ さいなら~♪










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