鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

北陸新幹線で富山駅から  終点の敦賀駅へ

2024-07-20 14:17:01 | 鉄道
ホテルの大浴場や食堂から眺める残雪の立山連峰は
富山市内を観光する際には一番の楽しみとなりますんや。

(冬景色の 立山連峰)
(残雪の 立山連峰)
(あいの風とやま鉄道の ポスターから)

(名勝の雨晴海岸から 遠くに立山連峰を望む)

この日は残念ながら黄砂の為に観ることが出来ませんでした。

確か十数回は訪れていますが見れたのは2~3回のはず。

(富山市とも お別れ)
(富山市の 路面電車)

(富山の名物 ますのすし)

(JR富山駅 新幹線改札口)



(北陸新幹線 かがやき505号 指定席特急券)

富山駅から敦賀駅までは約1時間、特急料金は高いがやはり早い!

でも、大阪人には今年のダイヤ改正で大阪駅から北陸3県へは
敦賀駅で必ず乗り換えを必要とし北陸新幹線に乗るはめに。

従来の乗り継ぎ割引も廃止され魅力が半減しそうですわ。

関東の方は金沢や福井へは3時間を切るので近くなったのかも。

(北陸新幹線 富山駅にて)
(JR東日本所属のようです)



(北陸新幹線 敦賀駅ホームにて自撮り)

これで北陸新幹線は終点の敦賀駅まで完全走破となりました。

新大阪駅までの延伸はおそらく鉄ちゃん爺やが死んでからの話。

蛇足ながら敦賀駅の新幹線ホームは日本一高い地上から約31m
従来は埼京線の北戸田駅(30.4m)を上回ったとの事。

(JR敦賀駅 中央連絡通路)







果たしてこんな大きい中央連絡通路が必要なのかしら?

関西人には北陸3県への乗換駅にして不人気の極まりなし。

福井や金沢など路線バスの方へ人気が出てくるかも?

関東の方は金沢や福井までしか使わないし、ここから乗り換えて
大阪や京都方面なら、最初から東海道新幹線を使うはずだよね。

(敦賀駅の中央連絡通路から 在来線ホームを望む)

写真の電車は1時間に1本だけ敦賀駅初発で播州赤穂駅行き。

17:49に出る快速電車は播州赤穂駅まで約275kmを
4時間7分で走る日本で一番長い距離を走る普通列車になりますよ。

昼食を兼ねて途中下車をしてみました。

(JR敦賀駅 新幹線の新駅舎)



乗換駅なのに立派すぎる駅舎ですわ、3階建て高さが37mだとか。

駅前も随分と再開発されて昔のイメージが思い出せませんがな。

(銀河鉄道999 モニュメント)




道路の反対側には「宇宙戦艦ヤマト」のモニュメントです。

「科学と駅と港」の街なので十数年前に設置されたようです。

(敦賀市の マンホールの蓋)

(越前の国 一之宮  気比神宮)
この大鳥居は奈良の春日大社及び広島の厳島神社の鳥居と並び
日本三大大鳥居と呼ぶんだそうですわ。

反対側の西へ向かうと「氣比の松原」でこれも静岡の三保の松原
佐賀県の虹の松原とで日本三大松原と称するだそうですよ。

(交流電化 発祥の地)





1960年台に初めて国鉄が北陸本線で交流の電化を完成。

特急雷鳥や寝台特急日本海にトワイライトエクスプレスなど
日本海側を通過し青森や北海道まで交流電化が活躍した時代でした。

(サンダーバード24号 指定席特急券) 



(中央連絡通路から 在来線ホームを望む)

右の奥に見える山をトンネルとループで抜けると滋賀県で
大阪駅までは特急で1時間22分のラストランになります。

昔からの古いホームと新幹線が妙な取り合わせに見えますよね。

(特急サンダーバード号)



(特急サンダーバード 車内にて)


(特急サンダーバードから 琵琶湖を望む)

東海道本線では琵琶湖を眺めることはできませんが湖西線なら
琵琶湖の側を高架で走りますので見晴らしは素晴らしいですね。

ただ比良颪(ひらおろし)の強風で運休になり東海道本線へ
振り替えられることが年間で十数回起こるのが欠点ですかな。

長々と 関東から信州および富山への旅行も今回でお仕舞です。

これで古新聞のような旅行記にお付き合い頂き感謝いたします。

ほんなら、これでさいなら~♪






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おさらば東京~♪  次は信州の松本へ

2024-06-16 19:04:45 | 鉄道
7日間の東京・千葉・埼玉・神奈川の旅を終えて
JR赤羽駅からJR新宿駅へ向かうことにしました。

(都内から北陸回りで大阪市内行き 普通乗車券)

東海道新幹線なら8910円ですが2090円だけ割高でおます
有効期間は5日間です、信州から富山を回って帰ることにしまっせ。

入場と途中下車を繰り返しているが、新幹線の改札4回は想定外なのか
自動改札でブザーがなって、北陸新幹線の敦賀駅で駅員さんが確認し
OKですと途中下車した際の画像。

(JR赤羽駅 北改札口)





単身赴任中を含めて常にJR赤羽駅は乗り替えの拠点でした
都内ではローカルな地域ですが思い出は数えきれないほど。

もう来ることも無いと思えばすこし感傷的な気分でおます。

見納めのJR赤羽駅から湘南新宿ラインでJR新宿駅へスタート。

(JR新宿駅南口)

(JR新宿駅 東南口駅前広場)



(コヒガンザクラの木)

平成の3年だったか4年だったか今は記憶が薄れてしまったが
悪友4人で訪れた高遠城址のコヒガンザクラに、ご対面でした。

ソメイヨシノとは色が少し異なって美しい桜の品種ですよね。

(特急あずさ9号 松本駅行き)

(あずさ9号 指定席特急券)






AM9時定刻にあずさ9号はJR新宿駅を出発進行!

鉄ちゃん爺やは鈍行列車の旅が専門みたいなもんでしたので
「特急あずさ号」は今回が初めての乗車となりますんや。

何時もは日野春駅で追い抜かれたり見送ったりの立場でした。

今回は最初で最後になるJR新宿駅からJR松本駅までの乗車でおます。

JR八王子駅まではのんびりと快速電車と変わらん走り方を
JR高尾駅を過ぎるとスピードを上げてやっと特急らしくなりました。

(あずさ9号から 富士山を望む)
確かJR甲府駅の手前で撮影した富士山だと思いまんねん。

まだ中腹まで残雪に覆われた素敵な3月下旬のお姿でした。

(あずさ9号 車中にて)

(甲斐駒ヶ岳の雄姿だと思いまぁ)



JR長坂駅かJR小淵沢駅の手前で撮影したように記憶しますんや。

まもなく山梨県を通過して長野県に差し掛かりますかな。

標高990mと中央東線では一番高い地点を通過しますよ。

(信州に入りました)

諏訪湖が見えてますが画像では残念ながらハッキリしまへん。

やはり写真は鈍行列車の方が焦点を絞って写しやすいでんな。

(終点松本駅に まもなく到着です)

(JR松本駅の 中央通路にて)(北アルプスの説明図)
(鉄ちゃん爺やの デジカメでは)

ガラス越しの撮影なので常念岳も迫力には少し欠けますかな。

3月下旬ですが北アルプスの山々はまだ冬景色のままですからね。

(JR松本駅 お城口にて自撮り)

今日のチェクインはPM3時なのでキャリーバックだけを
ホテルに預けて、身軽になって散策することにしましたんや。

(本日の宿泊するホテル)

お昼の12時を回りましたので蕎麦屋を探しながら松本城の
方向へ歩いてみました、信州に来たらやはり蕎麦ですわな。

(天婦羅蕎麦)

腹ごしらえを終えたら国宝の松本城へ向かいまっせ。

約10年ぶりになるはず、新しい太鼓門も再建されたとの事。

(松本城の石碑の前で撮影)

観光協会らしい女性が自撮りをしていたらお助けに。

写しますよ~ と声を掛けられての1枚でした。

この石碑は10年前と少しも変わりはないようです。

(国宝 松本城天守閣)

五層六階の天守閣としては日本最古と言われている国宝ですね。

姫路城と並んで日本で最も人気の有る天守閣だと考えます。





三角形の雪を被った山が、北アルプスの常念岳ですよ。

この日はお天気が良くて松本城と北アルプスが奇麗に写せました。

(松本城の天守閣への入場口) (通称=黒門)

入場制限をしているようで約60分待ちだとのことで諦めました。

ここもインバウンドの影響で外人さんが多いようですね
2度ばかり天守閣には登ったし、階段だけのはずで厳しいことも有り。

再建された太鼓門でも見学することにしますかな。

(松本城 太鼓門)
(高麗門=二の門)

(太鼓門を内側から撮影)

前回に来た時は石垣だけが残っていて、明治4年に破却されたとの
掲示板だけだったと記憶しますんや。

太鼓門の内側右手に二の丸御殿跡が整備されているようでした。




(松本城 二の丸御殿跡)



(もう一度 松本城天守閣を眺めて)

(外堀の駐車場より 松本城天守閣)

(遠くに美ヶ原の山頂が)

息子がまだ3歳ぐらいの夏に一度だけバスで頂上まで登ったはず
確か標高2000mを超える見晴らしの良い高原だった記憶。

(松本城 歴代3藩主の家紋)


初代の石川家は  笹竜胆で石川源氏のルーツを示す

2代目小笠原家は 三階菱で戦国時代にも信濃の守護職を

3代目戸田家は  六星紋で江戸時代を長く藩主として幕末へ

(松本市立物館)

江戸時代の戸田家に仕えた重臣クラスに伝わる名刀が
無料で拝観できるとの事で入場してみました。

(江戸時代 戸田家の重臣 青沼家に伝わる名刀)








(江戸時代 戸田家の重臣 松崎家に伝わる名刀)



(大身槍  青沼家所蔵)



(次回は 戸田家臣団 所蔵品 4月20日公開)









(松本市の 民芸品 てまり)

松本市ではマンホールの蓋のデザインとして採用されてますよ。

和歌山市も同じく、てまりがマンホールの蓋に、こちらは
てんてん~ てまりの~ てがとれて この歌で有名かも。

(松本市のマンホールの蓋)


(左折 野麦峠を超えて飛騨の高山へ)

(J3 松本山雅の マンホールの蓋)





松本山雅=やまが と呼ぶようで今年は現在の処はJ3の順位で5位
もう少し頑張ればJ2へ昇格も期待が出来そうな位置なのかも。



本日はこれまでにしまひょ。

次回は松本市内を経て、北陸新幹線の富山駅までを紹介します。

ほんなら、 これで、さいなら~♪
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3月24日から関東へ  最後の一人旅かもしれまへん

2024-03-20 15:04:05 | 鉄道

82歳を超えての一人旅はそろそろ限界かもしれまへんな。

人世の約1割を過ごした関東で行く機会がなかった未踏の

名所旧跡やスポットを訪れてみようかと考えた次第。

今ならなんとか1万歩ぐらいは歩けると思いますんや。

次の85歳と成れば、流石に一人旅は危険なレベルかも?

(鉄ちゃん爺やの お供)

当時はまだ建設中だった「お台場」に「有明」や「豊洲」

寺社なら千葉県成田の「新勝寺」を忘れてましたんや。

庭園なら「小石川庭園」や「六義園」に「浜離宮」

埼玉は川越の「小江戸」と所沢の「航空公園」など。

見納めかと、欲張って色んな所を訪れてみるつもり。

 

(3月24日の のぞみ408号 指定席券)

(大阪市内から JR成田駅までの 乗車券)

最後は新しく延伸した北陸新幹線で遠回りになりますが

未踏区間の長野駅から新しく出来た敦賀駅まで乗ってみようと。

そんな訳で、多くの画像を写して来ようと思ってますんや。

4月1日まで9日間の旅に出かけることにしました。

無事に帰阪出来たらブログで書き込ませて頂きますので宜しく!

 

 

 

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うめきた地下駅がオープン!  

2023-09-17 15:37:20 | 鉄道

3年ぶりに飲み会の為に大阪駅前まで出かけましたんや。

コロナ前に散歩して以来のことになりますかな。

2025年万博「みゃくみゃく」のデザインマンホールを発見。

(EXPO2025年 PRマンホールの蓋)

うめきた再開発の場所にJR大阪駅・うめきた地下ホームが完成

関空特急「はるか」や南紀特急「くろしお」が今年3月16日から

大阪駅・うめきた地下ホームに停車することに成りましたんや。

(JR大阪駅・うめきた地下ホーム)

別にJRおおさか東線が新大阪駅からここまで延伸されました。

令和13年完成予定の「なにわ筋線」も、この地下ホームに接続するんだとか。

約8年も先では鉄ちゃん爺やは生きてないかも? 計画だけはそうなってまぁ。

(うめきた地下ホーム)(JRおおさか東線の電車)

通勤快速とやらで朝・夕にJR奈良駅からJRおおさか東線を経由して

終着駅がここJR大阪駅・うめきた地下ホーム行きの電車も発足したはず。

別にこの駅から観光シーズンにJR奈良駅へ特急「まほろば」を走らせて

法隆寺や奈良公園などへ観光客を呼び込む臨時運転も計画中だとか。

(JR大阪駅・うめきたホーム 駅名標示板)

(JRおおさか東線 放出駅=はなてんえき 駅名標示板)

大阪市内で一番読めない駅名といわれてきた処を通過してますんや。

おおさか東線は関東でならJR武蔵野線のような感じでっかな。

話の種には乘って見ましたが鉄ちゃん爺やが利用するには時間がムダ。

ただ料金を節約すると言う点ならば新大阪駅なら若干は安くなりまぁ。

(JR大阪駅 のりば案内)

従来は1番線~11番線のJR大阪駅でしたが、うめきた地下ホームは

21番線~24番線と分かりやすく区別しての表示がされてまぁ。

従来のJR大阪駅西口からは約5分 JR大阪駅東口からは約10分。

 

(あと半年 お名残り惜しい 特急「サンダーバード」の表示)

 

来年3月16日に北陸新幹線がJR敦賀駅まで完成したら、特急「サンダーバード」は

敦賀駅までの予定? それから先は第三セクターに変わり、お急ぎの方は敦賀駅で

北陸新幹線にお乗り換えくださいと、これまでたびたび見てきたパターンですよね。

昔は特急「雷鳥」で富山駅まで、寝台特急「日本海」は青森駅まで走ってましたな。

一杯飲んで滋賀県へ帰るサラリーマンが寝込んで目が覚めたら、なんと!

そこは金沢駅や富山駅だったとの笑い話の長距離普通列車もおましたでっせ。

JR北陸本線という名前も米原駅から敦賀駅まで短い区間になりまんねんなぁ。

(昔の梅田貨物駅) (2014年3月に撮影)

(梅田貨物駅の外側を走る JR特急はるか)

ドーム型の貨物駅の建屋が解体されてこの地下ぐらいが

JR大阪駅・うめきた地下ホームに当たるんだと思いますんや。

貨物駅の外側を走る東海道線の貨物線が廃止されて地下へ潜った

それが新しく完成した、うめきた地下ホームで地上部分は開発中の

公園を含む商業ビルや高層ビルが数年先に完成の予定なんですわ。

(大阪中央郵便局 旧社屋)(2014年3月撮影)

(建設中の 大阪駅西口高層ビル)

JP日本郵便とJR西日本にJTBの三社が提携して建設中とか。

ここが昔の大阪中央郵便局の大きな社屋跡でしたんや。

大阪駅でも西口辺りは陰気な感じで東口や北口の方が先に開発され

最近になって此方が再開発の中心になってきたそうですわ。

(大阪マルビル 解体開始)

次回に訪れることがあればこのビルも無くなっているはず。

屋上部分に電光掲示板が走る、そして円柱のユニークなビルでした。

昭和の時代には大阪駅付近でも有名なビルでしたがお仕舞いです。

(大阪駅前・サウスビル)

このビルの地下にFRP製の受水槽で確か100トンぐらいの容量だったはず。

昭和50年代の後半に日立より委託を受けて1か月ぐらいで私の勤めていた

会社の工事部隊が完成させたのが今も使用されているんだろうと考えます。

ビルの向かって左手のドームはJR大阪駅の天井部分なんですよ。

反対に向かって右側の奥には阪急百貨店のビルも見えてますわ。

(JR大阪駅・東口 路線バス乗り場)

(阪神ビル 新築完成)

かな

(元の阪神ビル工事中の風景) (2020年2月撮影)

左半分が出来ていたのが新型コロナが始った頃で、あれから3年完成のようです。

もう少し南へ足を延ばしてみまひょ。

(大阪駅前 第四ビル)

実はこのビルの東側にジャンボ宝くじの特設売り場がおますんや。

このビル自体は古くて私が現役時代の昭和40年代に完成したはず。

(ジャンボ宝くじ 特設売り場)

年末ジャンボ宝くじなどの際は大行列ができる有名な売り場だとか。

売り上げる枚数が桁違いに多いので4年連続で大当たりが!

この日はサマージャンボが売られてましたんや。

私も連番で10枚だけ買いましたが、カスリもしないハズレでした!

(曽根崎にて 3年ぶりの飲み会)

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3回目のワクチン接種 予約はできたけど?

2022-01-30 14:35:49 | 鉄道
オミクロン株が日本全国で猛威をふるってますな。

大阪府でも新規感染者が1万人を超える状態でおます。

(大阪モデル 通天閣が赤色に点灯中)




画像の左手「ずぼらや」さんの大きな河豚(ふぐ)の提灯が
外されてお店も閉店となり新世界の風物詩が無くなりましたんや。

通天閣の赤い色はどちらかと言えば二つ目のほうが実物に近いかも?

フラッシュの光が入りお粗末な画像となり、お恥ずかしい写真に。

(3回目のワクチン接種 予約券在中)


政府は従来の2回目接種後8か月の方針を前倒ししてとか言ってたけど。

実際は6月18日が2回目だったから2月18日以降予約OKという事は
8か月のままにコンピューターシステムがなってまんがな。

(2月20日 3日目ワクチン接種 予約完了!)




今回は市役所の別館で日曜日だけは接種会場になるんだって。

市役所なら内の奥さんと歩いてでも行けますんで助かりましたわ。

まだ~ 20日も先でっしゃろ、オミクロンに感染しないか心配でおます。

ファイザーを検索したけどダメ  モデルナで取り合えず予約でした。

孫が大学でモデルナを受けて高熱を出したんで内心は怖いんでっけどな。

(大阪府の コロナ記事の新聞)


人口が約11万人の我が街も新型コロナ患者年末で900人前後

30人 → 50人 → 90人 → 130人 → 138人

とうとう1月29日で累計が  3203名に達したようでっせ。

市民の35人に一人ぐらいの患者になりまっけど、近所や知り合いで
新型コロナに感染したとの話を聞かないのは不思議な事でおます。



ただ娘が勤めるお店では12人いるパートさんの内8人が出勤停止中。

家族や子供が感染し濃厚接触者になり自宅やホテルで隔離なんだって。

政府は濃厚接触者の隔離を14日から10日へさらに7日間へ?

だけど~ お店の本社からのFAXでは14日間のままだとか!

後2人が出勤停止になったら、お店を休業しなければ回らないかも。

カメラから新しい画像は取り込めるですが古い画像はロックされて
取り込めない現象が続いてますので、ブログの更新が遅れてますんや。

ほな~ 今日はこれで、さいなら~♪






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黄昏が近づく キハ40系 国鉄製造の気動車

2021-10-06 20:07:21 | 鉄道
2021年3月にJR東日本さんがキハ40系気動車の
定期運行を廃止することになったんだって。

キハ40系の気動車は国鉄時代の1977年(昭和52年)から
1982年(昭和57年)まで888両が製造されましたんや。

非電化地区のローカル線で普通列車として運行されたんでっせ。

珍しい列車でもないので鉄ちゃん爺やが保存している画像も
あまり数が多くもないし、ごく普通の気動車なんですわ。

最近になってキハ40系を再利用して観光用に復活させる
そんな話が、あちこちで持ち上がっているんだとか。

(JR北海道 夕張駅にて キハ40系気動車) (2010年9月撮影)








JR石勝線の支線として2019年(平成31年)3月31日まで
運行されてましたが、路線が廃止となり今では見れない風景でおます。

幸いにもJR北海道ではキハ40系は現在も各地で見られるとのこと。

JR東日本のキハ40系の画像を探してみましたが見当たりまへんでした。

現在は「リゾートしらかみ」や「びゅうコースター風っこ」の名前で
観光列車に改造されて青森県の五能線で見られるのみだそうですわ。

「JR東海 岐阜駅にて キハ40系(47形)」 (2014年10月撮影)




キハ40系の標準規格では先頭と後方の両側に運転台が有るんですが
片側だけの運転台に改造し、扉を両開きにしたのがキハ47形と言いますんや。

キハ40系を都市部にも乗り入れ通勤客用に考慮したということでっかな。

「JR東海 美濃太田駅にて キハ40系(48形)」 (2014年10月撮影)




こちらは片側だけの運転台に扉も片開きにしたローカル線使用でっしゃろな。

各地で見られるキハ40系もこの48形が多く残っているようにも思いまぁ。

「JR東海 高山駅にて キハ40系(48形)」 (2014年10月撮影)






(高山本線 キハ48-6810 復帰車両の銘板)


このキハ48ー6810号は 平成16年に台風23号で高山本線が寸断し
富山県に近い打保駅構内で立ち往生し2年以上も留め置かれたんだそうですわ。

富山県側にも岐阜の高山駅方向へも動かすことが出来なかったようでんな。

平成19年に高山本線の不通区間が復旧して48-681号は岐阜県側に搬出。

修理を終えて高山本線に復帰したという有名な気動車だったんですよ。

(高山本線 打保駅 構内)


この雪除けの施設に留め置かれたので修理して復活が出来たんでしょうな。

何せこの辺りから富山県の猪谷駅にかけては豪雪地帯で厳しい環境なんですよ。

(高山本線 猪谷駅)






(高山本線 猪谷駅 ここで乗り換えに)


画像の左側がJR東海のキハ48形で右側がJR西日本のキハ120形。

ここがJR東海さんとJR西日本さんの境界の駅に成ってますんや。

特急列車も普通列車も乗務員は全てこの駅で交代になりまんねん。

(JR西日本 キハ120形 新型気動車)(2014年10月撮影)




JR東海さんのキハ40系(48形)も鉄ちゃん爺やが撮影した2年後には
全て廃車となり、武豊線で走っていたキハ25形とキハ75形が電化により
こちら高山本線に移動してきたと聞いてまんねん。

JR西日本は一足先にキハ120形の新型気動車が導入されたようでんな。

JR東日本さんが2021年3月に引退しJR東海さんは一足先の
2016年3月に引退ですから、首都圏や東海地区では見れません。

ただ千葉の小湊鉄道さんがキハ40系を1台だけJR東日本さんから
購入して観光用として今年から走らせているとの情報ですけど。

「JR西日本 岡山駅にて キハ40系(47形)」 (2013年10月撮影)


キハ40系は京阪神地区では全て引退しましたが姫路地区や岡山地区
広島地区や下関地区などの非電化地区でまだ現役で頑張ってまんねんで。

JR西日本は昔から国鉄時代の車両を修理改良して長く使うことが得意で
キハ40系も新しいキハ120形の製造が遅れている現状では暫く安泰かも?

次の画像は8年も前に成りますんでキハ120形に変わっていたらご勘弁を。

「JR西日本 備前一宮駅にて キハ40系(47形)」 (2013年10月撮影)






この時は時間が無くて備前の国の一宮だけを参拝し、次の駅にある
備中の国の一宮である吉備津神社にお参りが出来ませんでしたんや。

新型コロナが収束したら次の目標は「吉備津神社」と考えてまんねん。

(備前の国 一宮 吉備津彦神社) (2013年10月撮影)











JR九州さんもキハ40系を改良してキハ147形が走ってますね。

確かこの画像は北九州市のJR小倉駅で撮影したような記憶ですが
何処行きだったのか記憶が定かでおまへんのでご容赦のほど。

「JR九州 キハ40系(147形) 気動車)(2019年4月撮影)




関西でもキハ40系を復活させようと兵庫県の第三セクター北条鉄道が
クラウドファンディングで募集したら現在で900万円を超えたとの話。

目標1000万円で2022年にJR東日本さんから1両購入し
修理を終えて、定期便として運行を考えているそうでっせ。

キハ40系が別に珍しくはないんだけど、まもなく製造して50年
引退が近いとなると、何とか残して走らせたい願望が湧くようでんな。

ほな~ 今日はこれで、さいなら~♪
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想い出の 鉄道写真から  国鉄時代パート2

2021-08-23 18:32:39 | 鉄道
現在では鉄道博物館や各地の広場で静態保存をされている
東海道新幹線の初代の車両である0系のお話からさせて貰いまひょ。

「だんご鼻」のニックネームも今では懐かしい姿でっしゃろ。

1964年(昭和39年)~1986年(昭和61年)まで
当時の国鉄で3216台も製造された新幹線でおます。

思えばJRに移管直前で0系の製造は終了しているんでわ。

(0系新幹線を正面から) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


「だんご鼻」の内部には非常用の連結器が納められてますんや。

最初はアクリル樹脂でカバーが作られたそうですが
鳥などとの衝突で破損が続出しFRPに変更されたんだって。

鉄ちゃん爺やが大阪の摂津市に勤務中に得意先である日立の工場から
神戸市の川崎重工まで緊急便で納入したことが何度かありましたんや。

平成に成ってましたので0系新幹線の製造は終わっていたはず。

修理用なのか、展示用に部品として調達したのかは不明でしたけど。

それまでは金属製で出来ていると鉄ちゃん爺やも思っていたのが
FRP(ガラス繊維強化プラスチック)だったとは驚きでおましたな。

(新幹線開業日の 新大阪駅ホーム) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


東海道新幹線の開業した1964年(昭和39年)10月1日
新大阪駅・上り東京行ホームでの画像だと説明されています。

当時も新幹線を撮影する「撮り鉄」はおられたようですね。

今なら多数のマニアが押しかけて動けない状態でしょうな。

鉄ちゃん爺やはこの頃「乗り鉄」で乗車することはやりましたが
写真で車両を撮影するというような、趣味はなかったんですわ。

(0系新幹線 現役時代の雄姿) (鉄ちゃん爺やの蔵書より)


東海道・山陽新幹線を開業時からサポートした0系も引退の時期が。

最後は新大阪駅から「こだま」として博多駅や広島駅までの運行で
2008年(平成20年)12月に惜しまれながら引退しましたんや。

東海道新幹線が開業したのが1964年(昭和39年)10月1日で
在来線は逆に急行や特急が増発され国鉄時代のピークを迎えたんでっせ。

「いい日旅立ち」や「ひかりは西へ」など国鉄さんのPRも成功し
鉄ちゃん爺やも、鉄道の旅を満喫することになりましたかな。

(特急つばめ 新大阪駅から九州の博多駅へ) (鉄ちゃん爺やの蔵書より)


戦後永く東京駅から大阪駅まで花形の特急列車として運行された
「特急つばめ」は東海道新幹線の開通日からは新大阪駅から
博多駅行きに変更され、さらに岡山駅から西へと都落ちの状態?

(特急こだま 151系) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


東海道本線の電化は戦後の1956年(昭和31年)11月でした。

1958年(昭和33年)に電化された東海道本線に投入され
東京~大阪間を6時間台で走ることから、日帰りも可能になったとも?

そのために「こだま」という名前が付けられたそうでっせ。

SL時代の「特急つばめ」は約8時間をかけて東京~大阪間を走ったとか。

直流の区間しか走れないので東海道本線や山陽本線を中心に使用され
後の交流・直流両方に使える481系や485系の基本となった電車でっせ。

(481系 交流・直流両用 特急 雷鳥)(羽曳野市立図書館の蔵書より)


1964年(昭和39年)北陸線本線の交流電化の完成で関西地区の
直流電化地区の両方で走れる特急電車としてスタートでした。

交流電化は北陸本線が初めてで以降は東北本線の黒磯駅以北や
常磐線の取手駅以北など関東でも順次完成していくことに。

後には九州地区の交流電化完成で、大阪から九州への電車特急として
481系は主に西日本で使用されることになりましたんや。

481系は関東の50Hでは走れないという欠点がおましたけど。

483系という関東以北で走れる50HZ用の特急電車も有りましたで。

(485系 交流・直流両用 特急 雷鳥) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


最初はボンネット型の特急電車が主でしたが後半からは
このような貫通式の電車特急が多くなったように記憶します。

(485系 交流・直流両用 特急 ひたち) (引退記念のオレンジカード)


485系の特急電車は関東の50HZ 西日本の60HZ それに直流区間
全てに対応が可能な電車として1968年(昭和43年)から導入され
当時の国鉄では在来線の花形として登場し平成の時代まで活躍しましたんや。

このオレンジカードは鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中は自動改札でも
利用が出来て持ち帰ったんですが、現在の自動改札では使用不可のはず。

JR東日本のきっぷ売り場では今でも使用可能なのかしら?

(国鉄時代の M型端末による指定席券)


国鉄の座席指定システムを「マルス」と呼んできましたんや。

この特別急行券は「マルス105」の時代に端末から印刷されたはず。

端末機がまだ「マルス102」の時代の昔の機種だったようでんな。

1971年(昭和46年)から平成の初期まで使用されましたかな。

昭和54年8月18日 山陽新幹線「ひかり82号」 広島駅行き

小郡駅(現在の新山口駅)から乗車したようでんな。

前途無効のスタンプを駅員さんに押してもらい持ち帰ったはず。

「パタパタ」と呼ぶバインダー式の特急や急行の表示ページに行先への
ピンを差し込んでプリンターから印刷する仕組みになってましたんや。

当時は地方の小さな駅名は印字ができないぐらいのレベルだったとか。

(国鉄時代の L型端末による指定席券)


同じ「マルス105」のコンピューターでしたが端末機が進歩して
全国の駅名や列車の名前までプリント出来る時代になったようです。

これは前回にお話した息子とホテルを予約できず松本駅から夜行で
大阪へ戻ることになった際の急行・指定券の現物なんですけど。

ちくま4号 松本駅発 22時14分  7号車

昭和56年8月14日の事だったと最近に成って判明しました。

(夜行急行 ちくま  間もなく大阪駅に)(羽曳野市立図書館の蔵書より)


(夜行寝台急行 やまと 湊町駅に到着)(羽曳野図書館の蔵書より)


東京駅から関西線経由で湊町駅までこんな夜行寝台も
昭和の時代にはおましたんでっせ。

鉄ちゃん爺やが最初に勤務したのが、この駅の近くでした。

線路を跨ぐ陸橋から撮影した画像で、後方に見える貨物列車は
鉄ちゃん爺やが、まだ独身時代に車扱いの荷受けの指導を受けた
想い出の場所で、現在はJR難波駅と名前が変ってますけど。

勿論、貨物駅は現在では廃止となりJR難波駅も地下ホームへ。

ディゼル機関車がけん引しているので昭和45年頃の写真かも?

鉄ちゃん爺やが駐在してた頃はSLのC57がけん引していたはず。

(変な乗車券) (昭和53年の手書き 茅野駅発行)


長野県の茅野駅から東京の三鷹駅を経由して東海道本線で
大阪駅まで遠回りしているようで、記憶がないんだけど。

昭和53年8月12日 旅行をしたんだろうとは想像するが
アルバムをめくってみるが、それらしき画像もなし。

社用での出張は長野県など一度もなかったはず。

「まだ青春18きっぷ」は始まってなかったように記憶。

三鷹駅から先は東京都内へ入るようになっている感じ。

「チャレンジ20000km」が始まったのも昭和55年から?

そもそも中央本線の茅野駅など息子がまだ1歳ぐらいの夏に
昭和44年でした、白樺湖から名古屋経由で帰ったことが一回。

次は10年ぐらい前に「諏訪の御柱祭り」の際にも1泊。

鉄ちゃん爺やの記憶から忘れ去られた「きっぷ」なんですよ。

(マルス301から印字された 往復乗車券)(平成15年8月)


千葉市内へ向かう際に四駅先の「誉田駅」まで往復で買えば
片道の料金が1割引きになるというケースですね。

行きたい千葉市駅では601kmに達しませんから割引の適用外。

埼玉県に単身赴任中も戸田駅では601kmに満たないので
大阪から東北本線の久喜駅まで往復で買えば割引の対象でしたかな。

(マル501から印字された 青春18きっぷ) (平成21年に使用分)


昨年に「マルス505」の新型に入れ替えられたと聞いてまぁ。

昭和35年に「マルス1」でスタートした際は本体が東京駅に置かれ
上野駅・新宿駅・渋谷駅など10駅に端末が有っただけだったとか。

指定できる列車も「こだま」「つばめ」の4往復の特急2300席
15日間の予約しか出来なかったそうですわ。

昔も現在もコンピューター本体は日立製作所の大型のようですね。

現在は東京の国立市の鉄道情報センター(JRシステム)に本体が
全国のJRの主な駅や旅行会社の端末総数は約1万台とか言われてますかな。



 
今日はこれで中断します。

続きは次回にしますんでご免なさい!

ほな~ さいなら~♪














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想い出の いい旅チャレンジ20,000km

2021-07-22 16:07:23 | 鉄道
もう40年以上も昔の話になりますので、ご免なさい。

当時の国鉄さんが主催で富士フイルムさんが協賛だったかな。

全国の国鉄に乗って貰い年間70億ぐらいの売上を想定したとか?

いい旅チャレンジ20,000kmというキャンペーンをやりましたんや。

スタートした1980年(昭和55年)3月現在には国鉄は242線区
合計したら約20,000kmに達する路線を保有していたそうでわ。

「いい旅チャレンジ20,000km」のパスポート


起点駅と終着駅の両方で駅名標の入った自分の写真に年月日を添えて
事務局に送ると、パスポートに貼り付けるシールが送付されてきまぁ。

10線区ごとに賞状と各種の記念品も贈られてきましたかな。

いい旅チャレンジ20,000kmでは線区を乗れば踏破と言いました。

本来は列車に乗るので走破と呼ぶ方が正しいのかも、でも「踏破」と。

「いい旅チャレンジ20,000km」 踏破した線区のシール


一緒に同行した息子が小さい数字で乗った順番を記録したのかも。

1番目が「桜島線」   当時は大阪市内なのにローカル線並のダイヤ
            現在はUSJが出来て人気の線区に昇格ですわ。

2番目が「東海道本線」 寝台急行「銀河」で息子には初めての乗車体験
            終着駅は神戸なので別の日に神戸駅は撮影したかも
            枝線の大垣~美濃赤坂間が未踏破に終わる。

3番目が「山手線」    起点が品川駅で終着駅は田端駅になりますんや。
            一周するには東海道本線と東北本線が含まれて
            写真が東京駅も必要にも感じますが省略された感じ。

4番目が「赤羽線」   現在は埼京線に併合されて線区としては消滅か?

5番目が「岡多線」   現在は第三セクターに移管されて岡崎駅から
            岐阜県の多治見駅まで運行されてますが
            当時は岡崎駅~新豊田駅までの国鉄でしたよ。

(いい旅チャレンジ20,000km 用に撮影の写真)




このように駅名標を入れて写真を撮り事務局に送るんでっせ。

鉄ちゃん爺や、まだ40歳代なので髪の毛もフサフサでっしゃろ。

(いい旅チャレンジ20,000km 40線区踏破の賞状) (昭和61年)


(いい旅チャレンジ20,000km  50線区踏破の賞状) (平成1年)


40線区を踏破した頃は国鉄の時代で、50線区を踏破した時はJRに
時代も平成の年号に変わっていますね、今では随分と昔に成りましたけど。

1990年(平成2年)3月で「いい旅チャレンジ20,000km」は終了。

息子も大学入試から社会人へと鉄ちゃん爺やが勝手にJRを乗り続けて
現在は70線区を超えていますが、認定してもらう事務局はおまへんのや。

いい旅チャレンジ20,000kmのキャンペーンが終わった時には記憶では
167線区しか存在せず75線区が廃止もしくは第三セクターに移管でした。

現在ではJRの路線は合計で約18,000kmぐらいになってますかな?

(寝台急行 銀河) (2008年3月15日 廃止)


鉄やん爺やがまだ学生の頃から東海道本線で寝台急行として長く走り続け
平成20年3月15日で長い歴史を終えた、懐かしい列車でおますんや。

東京への出張で5回、いい旅チャレンジで3回 新幹線が出来てからも
東京で朝9時~10時の会議には厳しく、愛用するサラリーマンが多く
鉄ちゃん爺やらの年配者には良く知られた寝台急行列車でおました。

JR時代になり急行が特急に格上げされ、懐かしの急行列車は次々と廃止
寝台急行「銀河」も戦後からの長い歴史を閉じることになりましたんや。

次回は懐かしの急行列車を昭和の時代の写真で載せることにしまひょ。

ほな~ これで、今日はさいなら~♪
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SLやまぐち号  C57 1号機 苦難と栄光の歴史

2021-04-22 19:58:26 | 鉄道
蒸気機関車C57 1号機は1937年(昭和12年)3月22日
川崎車両(現在の川崎重工)で完成し当時の鉄道省に納入され
国鉄・常磐線の水戸機関区に配属されたC57形式の1号機でおます。

1939年(昭和14年)4月に東北本線・宇都宮機関区に転属して
あの戦争中は東北本線の上野駅~宇都宮駅間で運行されていたんだって。

最初の苦難は1945年(昭和20年)7月に米軍の艦載機により
宇都宮機関区内で被弾して走行が不能に追い込まれたんだって。

(C57 137号機)  (撮影地不明)


蒸気機関車のC57型は1945年(昭和20年)までに169台が
戦後に170号機から201号機まで合計201台が製造されたとか。

C57 1号機は戦後すぐに修理されて戦列に復帰したそうですわ。

戦後の1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)まで
宇都宮機関区で東北本線の客車をけん引していたとの記録が。

1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までは
総武本線の千葉機関区で普通列車をけん引していたとの記録も。

(東海道本線 電化前のSL 近江八幡駅?)(昭和30年前後の画像)


C57型は当時でもスピードは優れていた物の山岳路線では力不足?

鉄道ファン仲間ではC57型は「シゴナナ」という名前で呼ばれまぁ。

関東地方の国鉄路線が電化されるに及び1954年(昭和29年)に
新潟県の新津機関区に配属されて羽越本線で急行列車などもけん引を。

1958年(昭和33年)にはボイラーを載せ替えてリニューアル化。

1961年(昭和36年)羽越本線で急行「日本海」をけん引中に
新潟県の村上駅と間宮駅間で土砂崩れの現場に進入し脱線転覆の大事故に。

C57 1号機としては最大の危機に陥り現場に2か月間も放置されてたとか。

C57型のトップナンバーである点と3年前にボイラーを載せ替えていた事
それに台枠が損傷してないので、長野工場で5か月間を掛けて大修理を実施。

1972年(昭和47年)3月14日に秋田駅行きの普通821列車として
最後の定期運行を務めて、本来ならこれで引退の予定でしたんや。

その後には植樹祭に臨幸された昭和天皇のお召し列車の栄誉をも体験。

この頃に京都の梅小路機関区でSLの動態保存の話が持ち上がり
C57型の代表としてC57 1号機は京都の梅小路機関へ配属と決まり
新潟の新津機関区に別れを告げて京都へやってきたそうでっせ。

1975年(昭和50年)12月に国鉄はSLの定期運行を終了しました。

それまではSLなんて何処でも見られたので、鉄ちゃん爺やでも関心は
薄かったんですが、いざSLが観れなくなると聞いたら国民的な反響が!

ここから今に続くSLの復活が始まったと、言うことですかな。



1976年(昭和51年)9月に「京阪100年号」として京都駅と大阪駅の
間を1往復する臨時便の為に、C57 1号機に白羽の矢が立ったそうですわ。

SLを懐かしむ群衆が線路に押しかける大盛況の中を「京阪100年号」は
大阪駅までは無事に到着しましたが、帰路の茨木駅手前で線路に立ち入った
小学生と接触し死亡事故となる人身事故で運行が打ち切られる事態になったとか。

この事故の為に大都市でのSL運行は危険であると国鉄は考えたようでんな。

(C57 1号機 SLやまぐち号) (1979年=昭和54年8月)


新幹線の停車駅が有り観光地にも適する場所として山口県の小郡駅から
島根県の津和野駅まで約63kmに「SLやまぐち号」として企画。

3月から~11月までの土日・祝祭日それにGWとお盆休みに期間を限定し
運行することに成ったんだって、今に続くSLブームの到来でしたかな。

1979年(昭和54年)8月1日に「SLやまぐち号」は運行を開始。

鉄ちゃん爺やは我が子にSLの乗車体験をさせてやろうとお盆休みに
親子4人で山口県の小郡駅まで新幹線で出かけましたんですわ。

JTBの平野町で店長をしていた同級生のF君に、難しい切符を依頼し
お盆休み直後の8月18日に津和野駅~小郡駅間の切符が取れましたんや。

(新幹線の特急券 新大阪駅~小郡駅間)(昭和54年8月)


(SLやまぐち号 指定席 親子4人分) (昭和54年8月18日)


現在では小郡駅は新山口駅と名前が変りましたので念のために。

現在の「SLやまぐち号」が走るのは新山口駅~津和野駅間と成りまぁ。

(SLやまぐち号の 蒸気機関車に息子と娘です)(国鉄・小郡駅で撮影)


まだ息子が小学校の6年生で娘は小学校の1年生だったはず。

現在もこの「SLやまぐち号」に乗ったことは記憶しているようでっせ。

(SLやまぐち号と 国鉄・津和野駅 機関区で撮影)


(SLやまぐち号 津和野駅から 峠越えを撮影) 


(貨物車に しがみ付いてるのは 息子です)(津和野駅にて撮影)


右手に写っているのは、当時の「SLやまぐち号」の12系客車のはず。

この12系客車は塗装をレトロ調に変えて長年に渡り使用されていましたが
確か5~6年前に廃車となり現在は残ってないと聞いてまんねん。

(C58 1号機 SLやまぐち号 予備機)


1980年(昭和55年)に予備機のSLとして同じく梅小路機関区から
C58 1号機が参入したんですが、ボイラーの故障で僅か3年で離脱でした。

1987年(昭和62年)にはC56 160機が代わりに参入しましたんや。

この頃からC57 1号は長年の使用で故障がたびたび、生じてたようでんな。

山岳路線に強いC56 160号機の参加でC57 1号機との重連運転も
話題になってましたが、一足早く2018年(平成30年)に引退したとか。

C57 1号機は今年で製造されてから84年にもなりますので長年に渡り
部品交換やオーバホールがされてますが、珍しいほど長生きをしてますかな。

国鉄時代から稼働している最も古い機関車に成るかもしれまへんな?

(C57 180号機 SLばんえつ号)(2000年=平成12年10月撮影)


関東に単身赴任中でしたが、会津若松から新潟へ出張時に撮影したはず。

C57型ですが戦後の製造に成りますのでSLやまぐち号の弟分になりますんや。

日本に残るC57型で動態保存にて運行が可能なのはこの2台だけに成りました。

C57 180号機は一時引退し新潟市の小学校の校庭に飾られていましたが
保存状態が良好なのでJR東日本が譲り受けて復活させた経緯がおますんや。

C57 1号機の方は製造されてから1度も廃車されることもなく現在も
走り続けるとは、少し可哀そうな気もする年齢になってますかな。

(SLやまぐち号 乗車記念)(1979年=昭和54年8月18日)


(SLやまぐち号 記念乗車券)(1979年=昭和54年)


最後にSLやまぐち号は昨年の10月に津和野駅より峠越えをする際に
蒸気機関車のシリンダーに異常を来し運行を中止してしまいました。

現在は梅小路機関区に戻し大掛かりな分解修理がされているとの情報でおます。

昔SLの時代にもC57型は山口線には使用されることは有りまへんでした。

C57型には山口線のような山岳の峠越えには苦手な面があるように思いまぁ。

今年中は「SLやまぐち号」は運休と決まってますんや。
代わりにディゼルカーで「DLやまぐち号」だそうですわ。

来年にはC57 1号機は復活の予定ですが、傘寿も過ぎたご老体なので
D51型などの補助機と合わせて重連運転させるべきだとも考える次第。

蛇足ながらC57型は優美な車体から「貴婦人」の名前を付けられますが
これは戦前に製造された1号機~169号機までが正しい呼び方ですよ。

「SLばんえつ号」のC57 180号機は戦後に製造されてますので
少し車体の外観が変ってますから「貴婦人」とは呼びませんのや。

それじゃ~ 今日はこれで さいなら~♪






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現役最古の駅舎  JR亀崎駅 & JR善通寺駅

2021-01-24 20:07:55 | 鉄道
USBメモリーから10年前の古い画像を復元しまひょ。

鉄ちゃん爺やの想い出フォトでもおますんや。

今回はJRの現役で使用されている最古の駅舎を二つ。

実は鉄道マニア仲間でも意見が二つに分かれるんですわ。

(JR武豊線 亀崎駅舎) (2010年10月撮影)


1886年(明治19年)に官設鉄道として開業した時の
駅舎だという説があるので事実なら現役の駅舎としては最古に。

撮影してから、もう10年が過ぎてしまったんでんな。

鉄ちゃん爺やが保存する駅舎の中で自慢できる画像かも?

(愛知県半田市の マンホールの蓋) (2010年10月撮影)


現在のJR武豊線はJR東海道本線の大府駅から分岐し
半田市の南側に隣接する愛知県知多郡の武豊町まで
知多半島の東側を走るJRのローカル線なんですよ。

JR名古屋駅から直通の電車が一部ながら乗り入れも。

明治10年代後半に半田港(現在の武豊港)に資材を陸揚げし
官設鉄道として武豊駅~熱田駅までが施設されたんでっせ。

当時は中山道線という官設鉄道を計画したるも峻険な信州の山岳や
木曽谷の為に、現在の東海道本線を優先することに変わったとか。

当初は海上から艦砲射撃で鉄道を破壊されることを恐れたのかも。

(JR亀崎駅 駅名標) (2010年10月撮影)


1889年(明治22年)に武豊駅から長浜駅を経由して福井県の
敦賀港までが開通し、日本海に達する官設鉄道が出来ましたんや。

当時は軍事的にも日本海に抜ける鉄道が重視されたんでっせ。

東海道本線が関ヶ原駅から大津市の馬場駅で全線が開通したのが
その半年後だったと記録されているようでっけど。

その後、東海道本線が開通し大府駅から先が切り離されて
現在のJR武豊線になってしまったという経緯がおますんや。

この亀崎駅舎は明治の28年頃に一度だけ焼失したとの記録が。

別の記事では焼けたのは亀崎駅の鉄道官舎だったとの説も。

半田市の郷土史にも正確な資料がなく、現在では最古の駅舎は
JR武豊線の亀崎駅だとの説も、否定はされてないようでんな。

(JR亀崎駅構内の 建物資産標)(M19=明治19年)


(JR亀崎駅構内 建物資産標を拡大)


証明には成らないものの、JR東海でも明治19年1月に竣工した
開業時の駅舎だとの説を取っているようでんな。

証拠がないので登録文化財には指定されてはいない感じ。

(JR亀崎駅舎を 裏手から撮影) (2010年10月撮影)


何度か外観は修復されているように感じますが日本最古の駅舎として
鉄道マニアには知られた駅舎の一つに成っているんでっせ。

息子の住む岡崎市に立ち寄った際に訪れたんだったかな。

(終点の JR武豊駅舎) (2010年10月撮影)




こちらは愛知県知多郡武豊町(たけとよちょう)に成りまんねん。

中央競馬の武豊(たけゆたか)さんと同じ漢字になるんだとかで
平成の時代に2度ばかり一日町長をされたとか聞いてまっけど。

彼は滋賀県の栗東市の生まれ武豊町とは直接の繋がりはおまへん。

(JR武豊線 キハ75系 気動車) (2010年10月撮影)




当時は電化されて無かったのでディゼルカーが運用されてました。

現在は電化されて東海道本線と同じ車両が使われているはず。

このキハ75系の気動車も現在ではJR高山線やJR紀勢線で
最後のご奉公をしているんだろうなと考えまぁ。

JR武豊駅の話が長くなりましたが、8年前に訪れた
四国のJR善通寺駅舎の方に話を移しまひょ。

(JR土讃線 善通寺駅舎) (2013年10月撮影)




こちらは1889年(明治22年)3月30日に竣工したとの
記録が当時の国鉄や市役所に残っされているとか。

入口部分を「車寄せ」と呼ぶんでっけど1922年(大正11年)
陸軍大演習に来られる皇太子(後の昭和天皇)の行啓(ぎょうけい)に
伴って増設されたとの記録が残っているんだって。

何度か修復はされているようだが駅舎の本体部分は紛れもなく
明治22年の建造物で、国の登録文化財にも指定されてまぁ。

もしJR亀崎駅舎が焼けていたとすれば、こちらが現役での
最古の駅舎になると鉄道マニアの意見もおますんや。

(善通寺駅前の 大通りを撮影) (2013年10月撮影)


善通寺と言えば弘法大師がお生まれになった街として、加えて
真言宗の三大霊場の一つである善通寺も紹介しておきまひょ。

こちらの方が四国八十八か所巡りなどの影響もあって有名かも?

(真言宗総本山 善通寺 本堂) (2013年10月撮影)






(真言宗 善通寺の五重塔) (2013年10月撮影)






真言宗の三大霊場とは和歌山県の高野山に京都市内の東寺さん
加えて四国の善通寺さんを合わせて言うんだとか。

別に真義真言宗という別の宗派もおますので参考のため。

(香川県善通寺市の マンホールの蓋) (2013年10月撮影)




四国の善通寺市には戦前まで陸軍の第11師団が置かれ四国四県に
おのおの連隊が在るものの、師団の司令部は善通寺に存在したとか。

初代の師団長が有名な乃木将軍で当時は陸軍中将で赴任されたはず。

特に善通寺市内には旧の陸軍第11師団の施設が多く残されて居る
且つ、現在も使用されているという珍しい状況なんだって。

(善通寺市 偕行社) (2013年10月撮影)






偕行社とは陸軍の将校さん以上しか利用ができない施設でっせ。

この偕行社の車寄せも1922年(大正11年)の陸軍大演習に
皇太子(後の昭和天皇)をお迎えする際に増設されたんだとか。

偕行社の室内の写真も紹介しておきまひょ。

(善通寺市 偕行社の室内) (2013年10月撮影)










(善通寺市 旧陸軍第11師団兵器庫) (2013年10月撮影)




遠くに善通寺の五重塔が見えてまっしゃろ。

大本山の宗教施設と四国有数の軍事拠点が同居する
珍しい街が香川県の善通寺市なのかも知れまへんな。

この赤レンガの兵器庫は現在も使用されているようでっせ。

明治38年~明治44年頃に建てられた施設だとのこと。

(自衛隊 善通寺駐屯地) (2013年10月撮影)


現在も自衛隊の四国4県で中心的な旅団司令部が存在するとか。

写真を撮っていたら衛兵の方が、こちらへ近づいてきましたので
急いで立ち去りました、やはり撮影は禁止の軍事機密でっかな?



新しいPCで思い出の画像を復元しブログに載せることに成功!

どうもバックアップを忘れていた平成28年~令和元年ごろの
画像がSDカードに残っているか現在は確認中なんですけど。

本日はこれにてお仕舞にしまひょ、ほな~ さいなら~♪
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