前日の成田山新勝寺は小雨でしたが、翌日は本降りの雨に。
アポを取っていたのでAM中に元の勤務先へ向かいました。
(E257系 特急あかぎ) (JR大宮駅にて)
(JR埼京線より 元の勤務地を撮影)
右手遠くに東京外環自動車道が見えていますが住所は、さいたま市南区。
鉄ちゃん爺やが大阪へ戻る半年前に埼玉営業所として購入した物件。
当時は千葉営業所を指導していたので実際の勤務地とは言えないけど。
ただ、鉄ちゃん爺やが採用した女子事務員とドライバーが数人ですが
20年を超えた今も、現役でここに勤めているとの話でした。
25年前に採用した現在は総務課長のU嬢にJR北戸田駅まで送迎でした。
(JR埼京線 北戸田駅舎) (2017年10月撮影)
3年ぐらい前のブログにも紹介しましたがJRの駅舎で
地上からプラットホームが日本一高いのがこの北戸田駅でした。
実は3月16日に北陸新幹線が延伸し福井県の敦賀駅で
北陸新幹線の敦賀駅ホームが地上から21mとなり日本一に
20.5mの北戸田駅は在来線では日本一ですが全体では第2位に。
何故、JR北戸田駅がこんなに高いのかと言いますと。
(JRと東京外環自動車道路)(2017年10月撮影)
(歩道橋から撮影) (2017年10月撮影)
JR北戸田駅のすぐ北側で東京外環自動車道路をオーバーブリッジで
渡る必要が有るので設計上でこんな高い駅舎とホームに成ったとも。
当初は浦和市側に駅舎を予定するものの辻小学校付近の住民の
反対で埼玉県戸田市付近に変更になったのが一因かも?
(JR北戸田駅前にて 自撮り) (2024年3月撮影)
(JR北戸田駅 1階から2階へのエスカレーター)
同じく2階から3階部分へのエスカレーターが続きますからね。
階段で改札口からホームへ登るのは大変な駅なんですよ。
鉄ちゃん爺やが勤務していた戸田市の物流センターへは
このJR北戸田駅が最寄り駅でその当時とほぼ同じかも。
さて~ 本降りの雨だし何処へ行こうかなと思案したのがこの付近。
ネットで検索したら上野の国立博物館の総合一般展示場は70歳以上無料との事。
2年前は上野動物園でびしょ濡れになったし、やはり屋内設備が良いよね。
そんな訳で北戸田駅から赤羽駅で乗り換えて上野駅で下車することにしまひょ。
(上野恩賜公園内 うえの桜フェスタ2024の看板)
本来なら3月26日ですので桜が開花しているはずが、今年はまだなんですわ。
鉄ちゃん爺やが信州へ向かう日に確か開花したとか聞きましたけど。
(国立博物館 大勢の入場者)
建立900年特別展「中尊寺金色堂」がお目当ての見学者のようですわ。
1600円(当日券)で空いているなら並ぶけど入場制限らしく
この雨では2~3時間並ぶのはご免だよね。
横にある国立科学博物館は65歳以上は無料と出ている。
とにかく雨を避けて屋内へ入りたいのが本音でしたんや。
(国立科学博物館 本館) (国の重要文化財に指定)
嫌いなジャンルでもないので無料とは有難いことでおます。
春休みで小学生や家族連れの見学者が多いけど入場制限はなし?
雨宿りを兼ねて見学することにしまひょ。
(国立科学博物館 展示のポスター)
(フタバスズキリュウの骨格) (学名は 首長竜)
確か1968年(昭和43年)に福島県双葉郡で当時高校生だった鈴木君が
地層から発見したのでフタバ(郡名)とスズキ(発見者)を合わせて命名のはず。
日本では恐竜の化石は発見されないとの学説が覆された大事件だったかな。
最近では福井県や兵庫県で恐竜の化石が発掘されてブームになっているよね。
(お母さんパンダ ホアンホアンの剥製) (1997年死亡)
手術前に雨の上野動物園でパンダを見に行ったけど睡眠中で
後ろ姿しか観れなかった、数日後に上野動物園へ再度だけど
入場し今回は動くパンダにやっと会えたけど、この時点では
まだパンダに会えていない状態だったんですわ。
(ダイオウイカの剥製 & ニシキヘビの骨格)
(ティラノサウルスの骨格)
(日本国内の 岩石各種)
(アンモナイトの化石と 自撮り)
ほとんどの博物館では写真の撮影は禁止ですがフラッシュ使用が禁止で
学術的な利用や個人的な資料としてのみが撮影が許可されてますんや。
詳しく撮影もしたかったが鉄ちゃん爺やのデジカメではこれぐらいが限界。
(国立科学博物館 館内の撮影)
(3階より下へ向けて 撮影)
鉄ちゃん爺やには展示品も感心しましたが、建築様式の方に興味がありましたんや。
大阪にはこんな国立の博物館はおまへんので流石だと感じましたね。
独立行政法人になっているのに国立を名乗っているのが疑問でしたけど。
この日は本降りの雨で午後の3時過ぎに早めにホテルにもどりました。
次回は未踏の地であるお台場を中心に紹介する予定でおます。
3月27日は4日ぶりに風は強いがお天気は晴れに恵まれました。
ほな~ 今日はこれで失礼します、さいなら~♪
10月4日(火)2日目、一番お天気が良かったんかな。
夕方に同級生と赤羽で一杯飲もうとの予定がおまして
川崎市と東京都内の近場をデジカメ散歩で歩き回ったはず。
(JR赤羽駅 駅名標)
(赤羽のビジネスホテル)(5泊)
「赤羽の湯」とか称してホテルに温泉付きが増えてまんねん。
鉄ちゃん爺やも温泉付きビジネスホテルを、ご愛用なんですわ。
赤羽は交通の便が良いので今回はここに5泊しましたんや。
(ビジネスホテルの食堂)
部屋に入ったらテレビがおまへんのや、フロントへ電話したら
部屋の壁にプロジェクターで投影してくださいだって。
鉄ちゃん爺やも時代の変化には付いていけまへんわ。
リモコンのみでテレビ本体はいらないって言うことでんな。
現在は上野東京ラインとか言いまんのかな、北関東から
乗り換えなしで川崎や横浜や熱海まで一本で行けまんねんで。
赤羽駅からなら昔ながらの京浜東北線で行くことも可能やけど。
旅行気分のボックス席で上野東京ライン川崎駅へ向かいまひょ。
(JR川崎駅 改札前広場)
(川崎市のマンホールの蓋)
川崎市にはギネスにも登録されている、日本一短いエスカレーターが
有るらしいと聞いてまぁ、駅前のモアーズというショッピングビル。
駅前の警備員さんに聞いた方が早いですわな。 駅前のすぐそこ!
(川崎市 モアーズのビル)
高さがたった83cm、5段しかないエスカレーターでおます。
しかも~ 下り専用という 乘って5秒の変りもの⁉
1991年のギネスに世界一短いエスカレーターとして登録済み。
(ギネス認定 日本一短い エスカレーター)
1989年(平成元年)10月にエスカレーターを企画したんですが
工事を始めたら2枚目の画像のフロント辺りに大きな梁が通っていて
一旦は中止も考えたそうですが、お客さんの便宜と日本一短いと言う
ネタで逆に愛称まで募集 プチカレーターの名称を得たんだって。
ギネスの認定書が貼ってあるとの件は帰阪してから知りました。
地下街とビルの地下2階に段差があってお客さんが不便だろうと
短いエスカレータでお助けしようと考えたんだが、想定外の代物に。
(川崎駅前の商店街)
日本一長いエスカレーターはJR川崎駅より3つ都内へ戻ったJR大井町の
京浜東北線のホームとりんかい線に? あるらしいが長いエスカレーターを
デジカメで写してたら盗撮してると間違われそうなのでパスしまひょ。
JRで折り返して東京駅の方向へ戻りましたんや。
次回は神田明神と湯島の聖堂を訪ねて見ることにしまひょ。
ほな! 今日はこれで さいなら~♪
大腸癌と宣告されたんで、昔の仲間や同級生などと
別れの挨拶と飲み会でも、のんきな病人でっしゃろ。
大袈裟でっけど人生の1割を過ごした街でおますんや。
大阪よりも逆に馴染みが多いのかもしれまへんわ。
病院から戻ってその日の内にホテルと新幹線をキープ。
(東京都 マンホールの蓋)
この時点では、手術が終わったら東京や埼玉へなんか二度と
一人では来られへんやろと、悲観的に考えてましたんや。
10月3日(月)東京駅に着いて改装なった駅舎と自撮りですわ。
前々から埼玉県深谷市に東京駅に似た駅舎が在ると聞いてました。
鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中の1996年(平成8年)に
改装された新しい駅舎なんじゃけど、あまり知らてないかも?
今回は是非に訪れてみたいと、考えていた内の一つなんですわ。
(JR深谷駅標)
大正時代に東京駅舎を改修する際に、ここ深谷駅から赤レンガを
貨車で大量に送った、レンガの街それが深谷市でしたんや。
東京駅舎・赤坂迎賓館等の外壁は、当時の主流だった赤レンガを使用し
深谷市の日本煉瓦製造が納品したと記録されているんだって。
そのイメージを広くPRする願いが込められているんだとか。
(JR深谷駅舎 正面)
何となく東京駅に似ていると思いまっしゃろ、 似てるはず!
注釈なしで画像を見せられたら東京駅だと答える方が多いかも?
1996年(平成8年)に駅舎を改装する際に東京駅舎に似せて
コンクリートの上にレンガ風のタイルを貼りつけて完成させたんだって。
(渋沢栄一翁の 銅像) (深谷駅前の公園)
深谷市に今は亡き日本煉瓦製造と言う会社を設立したのも
渋沢栄一翁で数年前にNHKの大河ドラマに登場しはったかな。
そうそう~ 新しい1万円札の図柄はこの渋沢栄一さんでしたな。
駅前のビル群も、赤レンガ風でお付き合いの感じがしまんねん。
現在の深谷市と言えば「深谷ねぎ」の方が、有名なんかしら?
この日は生憎の雨で街中を見て歩くことが出来まへんでした。
二駅戻って新幹線も停まるJR熊谷駅へ立ち寄ってみまひょ。
(JR熊谷駅 改札口)
(熊谷市の マンホールの蓋)
源平合戦に登場する熊谷直実の銅像のようでっせ。
この辺りの小さな武士団の一人ですが地名で残ったのは偶然かも。
(熊谷の銘菓 五家寶)
江戸時代から続く銘菓とやらで、五つほど大阪へ宅配で送っときまひょ。
忍藩10万石を詠った庶民的な「十万石」饅頭は味見だけにしとこ。
ここは秩父方面へ向かう秩父鉄道の乗り換え駅になりますんや。
SLは各地で運行されていて、どこも人気は衰えまへんな。
(秩父鉄道の SLポスター)
今回の旅行は真ん中の3日間が雨でしかも気温13度この時期としては
寒く事前に計画をしていた、埼玉県鴻巣市の「川幅の広さ日本一」や
前回夕立ちで半分しか観れなかった「浜離宮恩賜庭園」などが今回も
見送りに成ったのが、悔いが残ると言えば残りまんな。
完治して杖ナシの一人旅が出来るかどうか神のみぞ知ると言った所ですわ。
(JR高崎線 熊谷駅)
今日はこれまでにしておきまひょ。
ほな! さいなら~
記憶が薄れてSDカードからも確認ができまへんのや。
ミニ同窓会をやろうと同級生が12名ほど集まりましたんや。
(浜坂の民宿での ズワイガニの刺身)
(同じく カニみそ)
(同じく 焼きガニ)
関西では山陰地方で獲れるズワイガニを松葉ガニと呼びまんねん。
これが福井県に行けば越前ガニと呼ばれますんや。
写真に載せた兵庫県の浜坂港で獲れたズワイガニを
ハマサカガニとも呼び、各地で名前がそれぞれ異なりますんや。
(浜坂の民宿に 集合した面々)
この頃でした、鉄ちゃん爺や太腿の裏筋を痛めていたので正座や
胡坐が出来ないので、一人だけ椅子に掛けてさして貰いました。
10年が経過した12名の同級生でっけど3名が既に亡くなりました。
残る9人なんですが車いすの方が1名、夜間の人口呼吸器装着が1名
杖を使用しないと歩けない方も1名、運転が可能なのは1名と成りました。
どうやら、これが最後の遠出の旅行と成りそうな記念写真でっしゃろか?
(湯村温泉 薬師の湯にて 集合写真)
この日は早朝に浜坂漁港を見学させて貰いましたんや。
民宿の主人が仲買人の資格を持っておられるとかで
普通は一般人は観れないセリを拝見させて貰いましたで。
(兵庫県浜崎漁港の セリ市)
浜崎漁港は冬場ならズワイガニが夏場にはホタルイカが有名で
特にホタルイカは漁獲高では日本一を誇っていると聞きました。
ホタルイカは富山県産が有名でっけど、関西の市場ではスーパーで
富山産は1パック500円前後、浜坂産は1パック300円前後。
鉄ちゃん爺やも初夏には、お酒の肴に浜坂産のホタルイカを食べまっせ。
(浜坂漁港で セリ落とされた ズワイガニ)
午前中に浜坂の民宿をスタートして関西では有名な観光地である
兵庫県豊岡市の出石(いずし)に向かいましたんですわ。
(出石へ向かう 国道にて撮影)
トイレ休憩に立ち寄ったのが神鍋高原の道の駅でおます。
鉄ちゃん爺やが20代に訪れたこともある関西では名の知れた
スキー場で大阪からのスキー客で賑わう観光地でおますんや。
昔と随分と変わりましたので記憶が全くおまへんけど。
(神鍋スキー場 道の駅 駐車場にて)
神鍋高原から約30分ぐらい走ったら豊岡市内に入りましたで。
ここは江戸時代は出石藩(いずしはん)5万8千石の城下町でおます。
江戸時代には5万石を超えるとお城を造る許可が下りたとか。
「但馬の小京都」とも呼ばれているんだっせ。
(出石の観光案内絵図)
(出石城公園)
こじんまりしたお城ですが明治維新に廃城となり
戦後になって、観光用に再建されたお城だと思いますんや。
(出石のシンボル 有子のしらべ)
(出石のシンボル 有子のしらべ 説明書き)
鉄ちゃん爺やが出石(いずし)に訪れたのは会社の慰安旅行で
城崎温泉の帰りに立ち寄った記憶がおましたけど。
随分と昔のことで昭和の40年代後半だったかな?
当時よりは随分と観光地化したように見受けましたけど。
関西は普通は「うどん圏」なんですが兵庫県の出石だけは
不思議なことに「そば圏」として有名なんですよ。
なんでも信州の小諸から兵庫県の出石に転封を命じられた
仙石なんとかのお殿様が、小諸の蕎麦職人を大勢引き連れて
兵庫県の出石に着任した、江戸幕府への嫌がらせのような行為。
そんな訳で関西には珍しい蕎麦の街として今日に伝わったとも。
(出石蕎麦の 由緒書き)
(出石名物 皿蕎麦)
小皿5枚に卵が1個ついて1セットになってるようですわ。
何処も同じスタイルで統一されているのはご立派。
(兵庫県豊岡市 出石のマンホールの蓋)
今日はこれにてお仕舞にしまひょ。
ほんなら~ これで、さいなら~♪
中学校の修学旅行は四国の香川県かもしくは東京見物のどちらか。
高等学校の修学旅行は長崎から熊本を経由して別府が多かったはず。
今回は中学校の修学旅行の地を訪ねて見ました。
(天保山の 明治天皇観艦之所碑)
明治元年に明治天皇がこの丘から新政府の軍艦6隻を観艦したとか
記念碑が戦前からここに建てられていたようですわ。
当時はこの碑の以外は何もない単なる盛り土の山でしたんや。
この記念碑は何故かはっきりと見た記憶が残ってまんねん。
(天保山の絵図)
当時は瀬戸大橋が無い時代なので大阪から四国へは
天保山桟橋から高松港への船旅がメインでしたんや。
1956年(昭和31年)の古いお話でご免なさいね。
最初の画像の記念碑を左手に観ながら天保山桟橋を船出して
関西汽船か加藤汽船で高松港まで約7時間ぐらいの旅でしたかな。
勿論、2等船室で雑魚寝のような船旅でしたで。
気分が悪いとか言って甲板に出たような悪知恵の子供でしたけど。
(天保山公園)
大きな観覧車が有る辺りが当時は天保山桟橋の有った場所のはず。
この公園が出来たのが1958年(昭和33年)でっさかいに
当時は単なる標高7mぐらいの盛り土の山が天保山でしたかな。
現在は標高4.5mの二等三角点がある日本で二番目に低い山だとか。
東日本大震災で新しく宮城県の日和山に第一位を譲ったそうですわ。
戦後の地盤沈下で約3m近く天保山は低くなってしまったんだって。
(天保山公園の桜と 観覧車)
(天保山公園の 二等三角点)(標高4.5m=国土地理院認定)
現在は新幹線でJR岡山駅まで約1時間で、在来線の快速に乗り換え
瀬戸大橋を越えてJR高松駅までは約1時間少々ですかな。
現在も神戸港から高松港までフェリーは運航しているようですけど。
天保山桟橋は1965年(昭和40年)頃に弁天ふ頭に変わり廃止だったかな。
(JR岡山駅舎と 桃太郎の銅像)
(JR瀬戸大橋線を走る 快速マリンライナー)
鉄ちゃん爺やの中学校の修学旅行の際は朝の9時前後に天保山桟橋を出て
夕方の4時ごろに高松港に到着したような記憶がしますんや。
まだ太陽は沈んでなかったので高松の港は良く覚えてますよ。
(高松琴平電気鉄道の車両)
確か高松港で船から下船して徒歩で琴平電鉄の駅まで歩いたような記憶。
通称は現在も琴電(ことでん)の名前で高松市近郊で活躍してますんや。
高松港駅から琴平駅まで約32kmですので約1時間ぐらい走ったのかも。
(高松琴平電気鉄道 琴平駅舎)(昭和63年 改築)
当時は2階建ての木造駅舎だったような記憶がしますが定かじゃおまへん。
ここから集団で歩いて約1km先の旅館に向かったはずだが記憶が途切れてまぁ。
(旅館 備前屋)
土産物店に変ってますが外観は当時の面影が残ってますんや。
この2階で宿泊し同級生と枕投げをして担任の先生にドヤされた記憶が。
7年前に近くの旅館に泊まり備前屋さんの外観が当時のままと聞きました。
(琴平の酒造メーカー 金陵の清酒)
備前屋さんのお向かいの店で義父が若い頃に2年間だけお世話になったとか。
お酒を飲めない義父はそのまま大阪へ出て商売を始めたと生前に聞いた話。
備前屋で1泊した鉄ちゃん爺や達は翌日は金毘羅宮に参拝した記憶がおます。
(金比羅さんの 提灯)
(金毘羅宮への参道)
1378段有るんでしたかな、当時は若いので楽々と登ったような記憶。
7年前に参拝した時は息切れしながら本殿にたどり着きましたかな。
(金毘羅宮の拝殿)
(金毘羅宮から 讃岐平野を眺める)
(薄っすらと見えるのは 讃岐富士です)
(琴平町の マンホールの蓋)
金刀比羅宮を終えてバスで移動したのか琴電で移動したのかが不明。
次に残っている記憶は丸亀城の天守閣の側を通過したような感じ。
日本で一番高い石垣によるお城だと教えてもらったかな?
(丸亀城の天守閣を 遠くに眺める)
(丸亀城の大手門)
(JR丸亀駅 駅名標)
(丸亀の名物 うちわ)
江戸時代から金比羅宮への街道ですので「〇金」のデザインですよね。
可能性としては観光バスで高松市内へ向かったのが正しいのかも?
何せ次は讃岐富士が見えたところまで記憶が飛んでますんや。
(車中より 讃岐富士を撮影)
飯野山が正式なようですが讃岐富士と呼ぶ方が多いようにきいてまぁ。
標高は421mと低いですが周囲に高い山が無いことも有って
丸亀市と坂出市の境に聳えて、美しい姿を見せてまっしゃろ。
確か疲れて、うとうとと、していたような気もしますんですわ。
(高松市内の名勝 栗林公園)
(栗林公園の 正門)
当時は若い学生ですから公園なんて興味がおまへんがな。
何だか、だだっ広い公園だなぐらいしか考えなかった感じ。
栗林公園の近くで昼食を済まして次は屋島へ向かったはず。
(高松港から 屋島を眺める)
現在はこじんまりとした高松港ですが当時は四国へのメインルート。
国鉄の貨車も全てが宇高連絡船で対岸の岡山県の宇野港と繋がり
乗客も宇高連絡船で必ず高松港と宇野港で乗り換えが必要でしたんや。
松山駅や高知駅や徳島駅への国鉄も高松駅が起点に成ってましたんでっせ。
現在は瀬戸大橋が開通して昔より寂れた感じがしますんや。
(高松港の西灯台)
鉄ちゃん爺やが修学旅行で高松港に着いたのは1956年(昭和31年)
実は前年の1955年(昭和30年)5月に高松港の少し先で濃霧の為に
「紫雲丸」と「第三宇高丸」が衝突して「紫雲丸」が沈没し
修学旅行生など166名と船長他1名が水死する大事故がおましたんや。
前年の北海道の「洞爺丸」の沈没と合わせて船の大事故が連続したんでっせ。
関西でも四国への修学旅行が危険だとなり鉄ちゃん爺やの次の学年から
国鉄で東京見物に変更する学校が大半となったようですわ。
丁度、ひので号 や きぼう号の修学旅行専用列車が出来ましたんや
鉄ちゃん爺や達は既に予約も終わっていたので四国へ向かった感じ。
帰りの夜間の船で大阪へ戻るときは不安な気分がしましたんですわ。
(JR高松駅 駅舎)
(高松市の マンホールの蓋)
有名な源平の屋島の戦いで那須与一が平家方の軍船から
示された扇の的を射落とした伝説の一コマを描いてるようでんな。
(高松城址公園)
当時は高松城は復元されてなかったように思いますけど。
それでは修学旅行の最終地点の屋島へ向かうことにしまひょ。
(JR高徳線 屋島駅 駅名標)
(高松琴平電気鉄道 屋島駅舎)
ここから当時はケーブルカーで屋島へ登ったように記憶しまぁ。
2013年(平成25年)に訪れた際にはケーブルカーは廃止されてました。
(屋島へ登る ドライブウエーから撮影)
(屋島から 対岸の五剣山を望む)
ここで修学旅行の際は集合写真を撮ったはずで、自宅のアルバムを
探してみましたが残念ながら見当たらなかったんですわ。
画像に見える入り江が源平の屋島の戦いの古戦場になりますんや。
(屋島から 瀬戸内海を撮影)
(屋島から 高松市内を撮影)
(瀬戸内海の 大槌島を遠くに望む)
大槌島は三角形の見分けやすい島で、鉄ちゃん爺やは夏休みに
岡山県側の渋川海水浴場に従兄を訪ねて良く訪れていたんですわ。
従兄の話でこの大槌島は香川県と岡山県の境界になっているとか。
画像の向かって左半分が香川県で右半分が岡山県になるんだって。
江戸時代からの讃岐藩と備前藩の領土争いがそのまま残っているとの話。
晴れていればその向こうに瀬戸大橋が見えるんですがこの日は
天候が悪く、大槌島までしか見えなかったんですわ。
(屋島の 観光用看板)
修学旅行はここから下山して高松港に集合したように記憶しまぁ。
カレーライスが夕食だったけど、船の中だったかそれとも
高松港の近くの食堂だったかは残念ながら記憶が薄れてますな。
夜の8時ごろに高松港を出港して途中で時間調整をしたんでしょうが
翌日の6時ごろに天保山桟橋に到着したように思いますんや。
当時の修学旅行は現地で十分な見学時間を取り夜行の船や
国鉄で大阪へ戻ると言うのが普通のパターンでしたかな。
ほな~ これで 今日はお仕舞にしまひょ。
さいなら~♪
今から思えば東日本大震災の一年前で民主党政権の時代でしたかな。
諏訪大社の御柱祭は寅の年と申の年の7年に一度の大祭なんですよ。
お祭りの年を含めて7年で、実際は6年に一度という事になりまぁ。
次回は令和4年(2022年)4月に実施されるそうですわ。
(平成26年度 御柱祭のポスター)
(御柱祭で使用される元網)
諏訪大社は上社(前宮・本宮)の二社と、下社(春宮・秋宮)の二社
合わせて四社の社殿を囲む4本の柱を建て替える重要なお祭りでっせ。
だから上社の8本と下社の8本で合計16本の柱を曳航しますんや。
上社は4月2日~4日まで、下社は4月8日~10日に行われるとか。
鉄ちゃん爺やが見学したのは上社の御柱祭りで平成22年4月2日に
八ヶ岳の中腹にある諏訪大社の社有淋から樹齢約300年の樅の木を
切り出して「山出し」と呼ぶ人力による曳航でスタートしますんや。
初日は八ヶ岳からこの木落とし公園の手前まで曳航してくるんだって。
茅野市の木落とし公園の傾斜26度・全長32mの坂を氏子を乗せて
滑り落とす勇壮な神事が「山出し」二日目と三日目なんですよ。
(上社・前宮一之御柱 木落としの風景)
(背景の山が 八ヶ岳です)
「木落とし」で有名なのは下社の方で傾斜35度・全長100mの
危険なようにも見える神事がテレビでも放映されますかな。
時には死者も出るらしいそうで、諏訪の男衆は誇りをもって
御柱に乗り込んで「木落とし」に参加するんだそうですわ。
上社の「木落とし」は坂も短くて迫力も少し劣るかもしれまへん。
この画像も綺麗に「木落とし」が出来たのかは分かりまへんでした。
でも~ 予行演習などは無いので観光客や地元の方の拍手と歓声は
よくやったとの、力強い声援がこもっていましたな。
「めどでこ」をV字型に飾った上社の方が画像写りでは優れてるかも。
下社の方は御柱にまたがって滑り下りるだけなんですよ。
(小休止中の 前宮一之御柱)
「木落とし」を終えた御柱は次の難所である宮川に向いますんや。
この日は本宮一之御柱を先頭に四本の御柱が続くような感じでした。
(宮川の川越しを 見守る観光客)
下社にはない「川越し」の神事は八ヶ岳から切り出してきた
ご神木を宮川の水で清めるというような感じかもしれまへん。
特設の観覧席もおましたが拝観料が高くて、それも1回ごとに
観客を総入れ替えするようで、川岸から見学することにしました。
(川越しを前に 待機中の御柱)
前宮一之御柱を追い抜いて鉄ちゃん爺やは宮川の対岸に向かいましたんや。
先頭を行くのは本宮一之の御柱で長さも重さも最大のものなんだって。
この御柱は周囲が3mで長さが16mもあり重量は約12トンだとか。
二之御柱から以下は五尺づつ短く切るらしく重量も軽くなりますんや。
(本宮一之御柱 宮川の川越しへ)
この「めどでこ」の最上段に登る人がこの村を代表する大人だとか。
経験と技術で神事を統率する力量も試されるが、御柱祭の花形ですかな。
8本の御柱は上社でくじ引きにより1番から8番までが決まるんだとか。
旧の18カ村が8地区に分かれて対抗試合のような感じもしまんな。
なんでも本宮一之御柱を引き当てた村は、特に力が入るそうですわ。
下社の方は昔から1番から8番までの順番が決まっているんだって。
(本宮一之御柱の 川越しを撮影)
宮川に着水した御柱をこんどは元綱を曳いて対岸に引き上げますんや。
受け持ちの村の氏子が全員で御柱休みのお屋敷に曳き上げるようでんな。
この際は幼い子供さんも綱を曳く神事に参加されてましたで。
(本宮一之御柱 川越しの風景)
宮川の対岸に引き上げられた御柱は約1か月間ここに置かれて
5月3日からの「里曳き」により諏訪大社に向かうんだそうです。
上社の「里曳き」は5月3日から5月5日に決まったそうですわ。
この「里曳き」には騎馬隊の行列なども見られるんだって。
ちなみに下社の「里曳き」は5月14日から5月16日だそうです。
そして6月15日には宝殿遷座祭が催されて終るんだそうですよ。
ここから諏訪大社の上社の本宮までは約2.5kmぐらいなんだって。
次の川越しの前に徒歩で諏訪大社の上社へお参りしましたんや。
(諏訪大社 上社・本宮)
(諏訪大社 上社・本宮の 拝殿前にて)
(諏訪大社 上社・本宮 一之御柱)
この御柱は平成16年度の御柱祭で建て替えられた柱でんな。
御柱は凄く大きくて感動しますが拝殿は期待したよりも小ぶりで
ご神体は裏のお山だそうで本殿が無いのが諏訪大社の特徴だとか。
ご朱印帳を持ってませんでしたので来年ぐらいにもう一度参詣かも?
ここは信濃の国の一之宮だそうですが、四つの神社は離れていて
レンターサイクルかもしくはタクシー利用に成りますかな。
(夕闇迫る宮川で 川越しを撮影)
日本陸軍の進軍ラッパが吹かれてお祭りは最高潮になりますよ。
突撃ラッパが聞えても不思議と違和感を覚えないですね。
御柱祭は日本三大奇祭とも言われているそうでんな。
富士吉田の火祭りと他の一つは何処だったかしら?
(本宮二之御柱 宮川を渡御)
諏訪地方の方は子供さんも総出で御柱祭に参加されるそうですわ。
画像に写った男の子も令和4年の御柱祭には成人に達する年齢かも?
「めどでこ」に登るのはまだ無理かもしれないが、
元網を曳いて、御柱の曳航に参加されるんでしょうな。
御柱祭にお越しくださいと教えていただいたKさんの村の御柱も夕暮れに
宮川を無事に渡り終えたようでホテルへ戻ることにしました。
宮川はこの時期でも雪解け水で0度ぐらいで凄く冷たいんだとか。
この日は「山出し」の二日目で4本の御柱が無事にお休み屋敷に到着。
残る4本が「山出し」三日目で同じように「木落とし」から
「川越し」を経て無事に終了した頃は夜の8時ごろに成ったようです。
(御柱のお休み屋敷で)
この穴に「めどでこ」を差し入れて曳航してきたようでんな。
この部分は諏訪大社で据え付ける際には地中に埋め込まれるので
穴が開けられていても問題はないとの話でした。
令和3年の春には次回の御柱祭りに参加する樅の大木を
八ヶ岳で8本の選定が行われ、準備が始まるんだそうでっせ。
(諏訪地方の銘酒 真澄)
このお酒は宿泊した茅野市のホテルで2合ほど頂戴しました。
飲みやすい日本酒で柔らかい飲み口の印象でしたよ。
(JR中央線 茅野駅舎)
今回は長くなりますので、これでお仕舞にしまひょ。
次回はJR飯田線で信州の伊那地方を紹介しまひょ。
ほんなら~ これで、さいなら~♪