鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

京都で一番古い建物  醍醐寺・五重塔

2022-06-05 19:05:57 | 世界文化遺産
京都に都が定められたのは西暦794年(延暦13年)11月8日だった。

約1200年超の都だったので名所旧跡はあちこちに存在するはず。

さぞかし1000年を超える建造物も数多く有ると考えたが大間違い。

なんと1000年超える建造物は醍醐寺の五重塔が唯一なんだって。

(世界文化遺産 醍醐寺・五重塔)


京都は都が置かれた関係で幾多の戦乱に巻き込まれた経緯がおますんや。

特に室町時代の応仁の乱と幕末の禁門の変で多くの寺社や民家が焼失とか。

応仁の乱なんて戦と言うよりも寺院や神社を焼くことの方が中心だった。

勿論、寺社が両軍の軍事拠点になっていたのも大きな要因なんだけど。

そんな訳で京都市内には室町時代以降の建物しか残ってまへんのですわ。

江戸時代以降の建造物が今の京都市内では大半の観光地なんだとの話。

(醍醐寺の総門)(平成24年5月撮影)




醍醐寺も応仁の乱で本堂を始め多くの堂塔が焼失してまんねんで。

五重塔は少し離れた位置に在ったので戦乱を免れたのかもしれまへん。

醍醐天皇の冥福を祈るために西暦951年(天暦5年)に完成したそうですわ。

1000年を超える京都では貴重な建造物となってますんや。

醍醐寺は醍醐天皇の勅願寺とされ現在は真言宗の醍醐寺派の総本山でおます。

(国宝 醍醐寺 五重塔)(平成24年5月撮影)






高さは約38mで屋根の相輪が12mもある見事な五重塔なんでっせ。

初層(1階)の曼陀羅の壁画も国宝に指定されてますと書かれてました。

新幹線から見える京都・東寺の五重塔が約55mで高さは日本一。

奈良・興福寺の五重塔が約50m、第三位が京都・八坂の塔で約49m。

醍醐寺の五重塔は日本で四番めに高い五重塔になるんだそうですわ。

日本で一番古い奈良・法隆寺の五重塔は約34mとやや低い感じでんな。

(国宝 醍醐寺の金堂)(平成24年5月撮影)


元は紀州の湯浅に在った萬願寺の本堂を豊臣秀吉が焼き討ちする方針を
醍醐寺の座主の願いを聞き入れて醍醐寺に移設することで許可したとか。

後白河法皇の勅願寺だつた立派な建物で有ったのが幸いしたのかも。

平安末期の様式に織豊時代の様式を加えた立派な金堂になってますかな。

正面が約21mで奥行きも約17mと大きな建物でおます。

(醍醐寺 金堂のご本尊他) (平成24年5月撮影)


中央がご本尊の薬師如来坐像で左右に日光菩薩と月光菩薩が配置され
その左右に四天王立象が並ぶ重厚で威厳のある仏さまのようでした。

最近はご本尊など撮影禁止が多いのでこれは貴重な画像となりましたね。

(国宝 醍醐寺三宝院の唐門)(平成24年5月撮影)


勅使や位の高い人しか使用できなかった勅使門のようですね。

皇室の家紋と豊臣家の家紋が当時の権威を残しているようでんな。

(醍醐寺 三宝院の玄関口)(平成24年5月撮影)


(醍醐寺 三宝院の境内)(平成24年5月撮影)


三宝院は醍醐寺の塔頭で江戸時代までは醍醐寺の最高権力者である
醍醐寺座主が代々の居住する建物だったそうでっせ。

撮影が厳重に禁止されてますので邸内や庭園は写せまへんでした。

(醍醐寺の ご主印)


(西国第11番札所 上醍醐寺の ご朱印)


考えたら、これらの画像やご朱印は2012年(平成24年)5月11日!

来週の日曜日で丁度10年になるようですわ、現在も風景に変わりはないはず。

(醍醐寺の参道) (平成24年5月撮影)








醍醐寺は桜で有名でこの参道も桜の頃は見事な景色になりますんや。

しだれ桜に山桜とソメイヨシノまで現在は桜は約1900本だとか。

豊臣秀吉が醍醐の花見をした1598年(慶長3年)3月の話は有名!

それから6か月足らずで豊臣秀吉は亡くなるんでしたよね。


この2年ぐらい後に桜が満開の頃にもう一度訪れているんですが
桜の画像をPCで見失ってますんで、ご容赦ください。

ほな~ 今日はこれで、さいなら~♪





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焼失前の 首里城を SDカードから復元

2021-01-31 20:00:10 | 世界文化遺産
新ノートパソコンにSDカードから画像を復元中なんですわ。

2014年(平成26年)4月の沖縄旅行が復元できましたんや。

(首里城の 守礼門) (1958年再建)




首里城に入る際に最初に潜る有名な門でっせ。

二千円札に描かれてましたが覚えてはりまっか?

まだ流通はしてるそうでっけどお目に掛りまへんな。

扁額に「守禮之邦」と書かれてまっしゃろ。

「礼節を守る国」と言う意味なんだって。

この門は首里城から離れてますんで焼失を免れました。

(首里城跡の 石碑)


(世界文化遺産の 説明書き)




琉球国王が外出する際はここで拝礼したと言われてますんや。

昭和20年の沖縄戦で首里城は軍司令部が置かれて居た関係で
ほとんどの建物が焼失または破壊されてしまったそうでんな。

この門だけは唯一ながら戦災を免れたとか聞いたように思いまぁ。

戦後に修復がされてるようですが首里城で現在は一番古い門かも?



(首里城の 瑞泉門=ずいせんもん)




瑞泉門は首里城を日本流にすれば二の丸に入る為の門に成るのかも。

この門も幸いにも焼失は免れたと聞いてまんねん。

確かここまでは無料で登れるがここから先は有料だったはず。

(首里城の 城内から市街地を望む)






この城壁などが世界文化遺産に認定されているんだとか。

標高120m前後の高台に首里城は造られたそうでんな。

(首里城 広福門=こうふくもん)


幾つの門を潜ってきたのか覚えてまへんけど、五つぐらいだったかな?

この門までが2019年(令和元年)10月の火災を免れたんだって。

(首里城の 奉神門=ほうしんもん)


(内の奥さん 首里城の 奉神門の前にて)


この奉神門(ほうしんもん)は日本流に例えれば本丸に入る
大手門に当たりますかな、潜ると広い敷地になりますんや。

この奉神門は側壁の一部が今回の火災で焼失したはず。

(首里城の 正殿=せいでん)






この首里城・正殿の向かっ左奥から出火しての全焼でしたね。

1992年(平成4年)の再建ですから建物としては歴史的な
価値は薄いと思いますが、沖縄県民の心の礎でもありました。

ここ正殿まえの広場を首里城では御庭(うなー)と呼んだそうで
琉球国王が臣下の拝謁を受けたり、重要な行事をした場所だとも。

(首里城の 南殿)


画像の上部のこじんまりした建物が南殿でっせ。

この南殿も2019年の火災で焼失してしまいましたよ。

この南殿は日本式の建築で造られ、江戸時代には薩摩藩の
役人が首里城を訪れる際に使用された建物だったとか。

火災が発生する前は正殿を見学する観光客はこの南殿から
通路に従って見学するコースの入口と成ってましたんや。

(首里城 南殿から正殿に向かう庭園)






同じく2019年の火災で焼失した北殿と呼ばれる建物は
中国の清朝の役人が来訪した時に使用された建物だそうです。

此方は中国様式を取り入れた建造物になってました。

火災の前には正殿の見学が終わって城外へ出る通路になってましたな。

(首里城・正殿  琉球国王の玉座)


中国皇帝の直筆が残っているので模写したとのこと。

江戸時代の琉球国は中国の清朝と日本の薩摩藩の両者に
従属することで独立を保っていたようでんな。

(琉球国王の 王冠)




(琉球王朝の 儀式のミニチュア)


(高貴な方の 御涼傘)




これら400点以上の琉球王国時代の貴重な文化財がほとんど
焼失してしまったのが、首里城・正殿火災の問題点でしたんや。

(首里城・御庭で 琉球装束の案内人)


(首里城の 淑順門)




首里城から退出する時はこの門から北側の通路を通って
再び守礼門を潜って帰るようになってますんや。

(首里城の 守礼門)


(観光バスから 道路標識を撮影)


沖縄県では「城」とかいて「グスク」と読むんだそうですわ。

「北中城」これで「きたなかぐすく」と言うんでっせ。

(ゆいレール 沖縄都市交通モノレール)


沖縄県で唯一の鉄道で那覇空港から那覇市の中心地を経由して
首里駅から、てだこ浦西駅まで運行されてますんや。



本日はこれにてお仕舞にさせて貰いまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪







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我が街の 古市古墳群に 鉄ちゃん爺やの疑問?

2019-09-18 21:49:24 | 世界文化遺産
前々回に百舌鳥古墳群は紹介したんで、今回は
我が街の 古市古墳群を掲載しまひょ。

(我が街の ゆるキャラ つぶたん)


我が街と、お隣の柏原市を併せて「デラウエア」の生産が日本でも有数の
出荷量を誇り、現在でも山梨県・福島県に次ぐ生産高が第三位のはず。

(我が街の 市役所でっせ)


築50年を超えてますんで、相当くたびれた建物でっしゃろ。

赤字都市なので新しく建て替えるような話は聞きまへんけど。



前々回に掲載した仁徳天皇陵には大きな駐車場が出来てましたかな。

こちら古市古墳群は残念ながらメインの応神天皇陵には大型のバスは
勿論のこと、自家用車も留め置くことが難しいんですわ。

ここ羽曳野市役所に駐車して徒歩で向かえば約30分ぐらいかな?

でも~ 観光バスは羽曳野市役所の駐車場では収容が難しいかも。

それでは古市古墳群の一部だけでっけど、紹介させてもらいまっせ。

(応神天皇陵 拝所から撮影)








仁徳天皇陵に次ぐ墳丘の長さが南北に425mもある
堂々たる、立派な前方後円墳になってまっせ。

しかも墳丘を盛り上げた体積では仁徳天皇陵を上回り
こちらが容積では世界一と言われているんだって。

しかも平安時代には早くも八幡大菩薩と崇敬された神様だったので
恐れ多いとのことで、おそらく盗掘がされていないとの説が?

考古学者では今回、世界遺産に認定された古墳の中でも
発掘が許可されるなら、一番やってみたい古墳だとの話も。

宮内庁の管理だから当分は発掘の許可は無理だと思いまぁ。

(百舌鳥古墳群 ~ 古市古墳群 周遊バス)




大阪府府知事さんの提案で約12km離れている百舌鳥古墳群と
古市古墳群を直接つなぐ定期バスが試験的に運行を始めましたんや。

片道600円なので、JRの電車で天王寺駅から近鉄電車で
古市駅まで迂回する必要がないので効率的だと思いまぁ。

乗り継ぎ時間と電車賃を考えたらこちらの方が便利かも?

近鉄バスと、南海バスが交互に運行し利用者が多く成れば
来年以降は便数も増やすことを、考慮しているようでんな。

(誉田八幡宮 ご祭神 応神天皇)




応神天皇陵の南側には誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)が

築地の前の道は「東高野街道=ひがしこうやかいどう」で

自慢じゃないでっけど、古代史の宝庫と言って良いかも。

古市古墳群の名前に成った古市村で日本最古の国道である
「竹内街道=たけのうちかいどう」と交差してますんや。

(東高野街道の 石碑)


歴史好きの方には興味がある街なんでっけど、全体に地味なイメージ。

人気は百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵になりまっけど、本当の
世界文化遺産を巡るなら、古市古墳群の方だと思いまっけど。

(日本武尊=やまとたけるのみこと 白鳥陵)









白鳥陵のお濠の前を「竹内街道」が奈良県の方へと延びてますんや。

古市古墳群の中では白鳥陵が一番美しいように見えますかな。

日本武尊のご陵は三重県の鈴鹿市と奈良県の御所市と我が街の
三つが現在も宮内庁の管理する陵墓に指定されてるようですわ。

白鳥が埴生の丘を羽を曳くように飛び去ったと日本書紀にも
記されていますが、我が街・羽曳野市の名称にもなりました。

今回百舌鳥古墳群で22か所・古市古墳群で23か所

併せて45か所の大小の古墳が認定されましたんや。

でも世界文化遺産から外れた古墳も50か所を下りません。

鉄ちゃん爺やが疑問を感じる古墳を2~3か所だけ
貼り付けて置きますのでご覧ください。

(世界文化遺産 西馬塚古墳 墳丘45m 方墳)(古墳カード)










住宅地の真ん中の小さな古墳が世界文化遺産に認定されました。

夏草が茂って知らない人は見逃がして通過しそうな感じ。

応神天皇陵の周辺に造られた陪家(ばいちょう)の一つだとか。

(安閑天皇陵=あんかんてんのうりょう)















江戸時代にペルシャ産のガラス容器が出土したとの記事が
現在は東京国立博物館に保管されているそうです。

戦国時代には高屋城の本丸として古墳が変形しているとの説。

古市古墳群の中で所在地が「羽曳野市古市5丁目」として
世界文化遺産に認定されてしかるべきなのに、何故か除外に。

唯一「古市の地名」を持ちながら除外とは?

蛇足ながら鉄ちゃん爺やの町内会の敷地内に有るんですわ。

(安閑天皇陵 墳丘122m 前方後円墳)(古墳カード)


古墳カードから貼り付けましたが高台にあるために画像でも
遠くに色んな古墳が写っていのが、お分かりになりますかな。

画像の左上に鉄ちゃん爺やの自宅の屋根だけが写ってますがな。

虫眼鏡で拡大しないと小さすぎて分かりまへんけど。

(清寧天皇陵=せいねんてんのうりょう)








(清寧天皇陵 墳丘115m 前方後円墳)(古墳カード)


西馬塚古墳からは埴輪が出土しているが、特別に立派な古墳でもない。

他方、安閑天皇陵や清寧天皇陵は墳丘100m以上の立派な前方後円墳なのに?

偉い先生さんに認定の基準を聞いてみたくなるような実態なんですけど。

古墳カードが百舌鳥・古市古墳群で合わせて60枚準備したとか

古市古墳群だけでも31枚あるそうで収集してみまひょかな。

(古墳カード 現在は6枚)


他にも古市古墳群の色んな画像が有りますが後日にさせて貰いまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪




 


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世界文化遺産の  仁徳天皇陵へ行ってきましたで~♪

2019-07-22 20:42:18 | 世界文化遺産
2019年 (令和元年)7月6日 (土曜日)

百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録が承認されました。

四度目の正直で12年の歳月を経ての登録決定でしたんや。

内心は鉄ちゃん爺やの眼の黒い内に決まるとは思ってまへんでした。

色々と問題が多い船出となりましたが、どうなりますことやら?

(百舌鳥・古市古墳群 PR用冊子)


(羽曳野市が出した広報  号外です!)


テレビでは最大の目玉と言うべき百舌鳥古墳群にある

「仁徳天皇陵」が話題を呼んでまっしゃろ
約60年ぶりに訪れてみることにしましたんや。

(JR百舌鳥駅舎)


百舌鳥駅(もずえき)と読めなかった人が多かったかも。

鉄ちゃん爺やは学生時代に中百舌鳥陸上競技場で
100メートル走で、準決勝まで進出したこともあり
自宅から約6kmぐらいしか離れてない準地元でしたんや。

JRの普通電車しか停まらないローカルの駅だっせ。

関西空港や和歌山へ向かう快速や特急は通過でんな。

百舌鳥駅(もずえき)を降りて目の前にある道路が
「御陵通り=ごりようどおり」と呼びまんねん。

(御陵通りの 標識)




道路の名前は「仁徳天皇陵」の拝所前を通過するので
鉄ちゃん爺やの子供の頃から名前は付いてたはず。

JR百舌鳥駅から徒歩7分ぐらい直ぐでっせ。

(仁徳天皇陵 説明掲示板)




高校時代に後輩と男女7~8名で仁徳天皇陵に侵入したのが
1959年(昭和34年)の秋ごろだったと記憶しまぁ。

当時は北側から通路と濠を越えて侵入が可能でしたんや。

画像に見える右やや中央よりから侵入して大きな濠を左手に
時計と反対回りで左手の中央にある拝所から脱出しましたかな。

一周ではおまへんが半周したことに成りますんや。

当然ながら世界文化遺産に登録申請を始めた平成の時代から
宮内庁や堺市が監視を強め、近づくことも出来ないようですわ。

(仁徳天皇陵 拝所から撮影)




(仁徳天皇陵の 拝所前にて)




早くも観光バスが3台ぐらい駐車場に停まってましたかな。

堺市のボランテイアの方が観光客に説明してはりまぁ。

何でも平日は2名で土日は4名で現在は対応しているとのこと。

駐車場だけは早めに完成させたようで取り合えずはOKかな。

(仁徳天皇陵の お濠)




仁徳天皇陵を含めて百舌鳥古墳群の全ての古墳はお濠と
小高い丘と森にしか見えまへんし内部には立ち入りができまへん。

歴史学者は埋葬者が断定できないとかの理由で、この古墳を
「大山古墳」と呼びますが、住所は堺市大仙町です。

「大山古墳」という名前の方が意味不明なような感じ?

近くの堺市の市立博物館を紹介して置きまひょ。

(大仙公園の花壇)


御陵通りを反対側に渡ると広い大仙公園となってますんや。

仁徳天皇陵の拝所から歩いて約10分ぐらいでっしゃろか。

(堺市博物館)






ここでVR映像で百舌鳥・古市古墳群を上空300mから
撮影した360°パノラマの映像で体験できるそうですわ。

(堺市博物館 VR映像)


博物館の入館料と合わせて800円だとか聞きましたので
今回はパスしましたが、観光客には人気なのかも?

この日も観光バスの団体さんが並んではりましたけど。

(百舌鳥古墳群めぐり 冊子)




公園の西側には自転車の歴史を語る博物館もおまっせ。

近くにシマノという自転車メーカーの本社と工場が有りますんや。

(百舌鳥・古市古墳群の幟)


二つの古墳群は約11kmぐらい東西に離れて存在します。

しかも直接に連絡する鉄道も路線バスも現在はゼロなんですわ。

路線バスを走らせると大阪知事さんの提案でっけど赤字に?

南海さんと近鉄さんが協力するかどうか目下は不明でっしゃろな。

(千利休の石像)


(千利休の師匠)


この方が千利休さんに茶道を教えた師匠さんなんだって。

共に戦国時代から安土桃山時代を生きた堺の商人だったとか。

我が街の古市古墳群は改めて次回に紹介させてもらいまひょ。

ほんなら~ これで  さいなら~♪
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