大阪府立・狭山池博物館は狭山池の北側におますんや。
関西では何故か人気のある安藤忠雄の設計でんな。
鉄ちゃん爺やと同期の人物で、しかも大阪市の出身
でも~ 何故かあまり好きにはなれないタイプ。
2010年の東京オリンピック新国立競技場の選定でも
私は担当外と責任回避の発言をした理事さんでしたな。
(大阪府立 狭山池博物館)
鉄ちゃん爺やの税金も含めて、建設費は何百億円かしら?
大阪府も無駄な箱モノを沢山と造ったもんですわ。
文句はこれぐらいにして、入館しまっさ。
(狭山池博物館の 中庭と滝)
上水道か地下水を循環させているんだろうが意味不明。
そもそも、狭山池と滝なんて関連がおまへんけどな。
空間を、わざと大きくして建設費を高額にした感じ。
(狭山池博物館の 入口広場)
ループ式のスロープで博物館の玄関へ達するという構造。
階段を降りて、中庭を通り、再び登ってやっと入口でっせ。
入場無料だと書いてあったんで、鉄ちゃん爺やは入場ですわ。
入場料を徴収したら誰も入場しないと考えたのかしら?
おそらく大半の府民には興味のない博物館でっしゃろな。
(狭山池の 北堤をスライスした断面)
いくら1400年前の土木遺跡だか知らないけど、狭山池の
堤防を切り取ったという、馬鹿げた巨大な展示物がお目見え。
これを保存するために、巨大な建物を造ったという話でっせ。
約60mもある堤防の断面でっしゃろ、巨大な展示物やけど
学術的に貴重なのか、それとも驚かせるだけの仕掛けかしら。
狭山池の堤防が、こんなに幅が広いと言うだけの話かな。
(江戸時代の 東樋=ひがしひ)
大坂夏の陣が始まる前に片桐且元が豊臣秀頼に命じられて
狭山池から農業用水を抜き出すための排水口でんな。
完成して直ぐに埋もれてしまい、平成の大改修の際に
北堤の土の上層から偶然に出土したんだそうですわ。
上下に飛鳥時代・奈良時代・江戸時代の三つが発見され
2015年に国の重要文化財に指定されたんだって。
(東樋=ひがしひ 樋管の説明図)
樋管とは池の水を取り出すための管(くだ)でっせ。
高野槇の大木をくり抜いて、二枚を合わせて管を作ったと
土木工事を考え出した、昔の人は偉かったんですわ。
(奈良時代の東樋=ひがしひ)
奈良時代には行基という高僧が狭山池を改修したとの記録。
こちらは北堤の土の下層から出土した物なんだって。
(奈良時代の高僧 行基の像)
(鎌倉時代の高僧 重源の像)
こちらは鎌倉時代に同じく狭山池を改修した重源という高僧。
この方は東大寺の大仏を再建したことでも有名のお方でんな。
同時に狭山池を改修した契機と内容を刻んだ石碑も出土。
重源像の手前に置かれている石が「重源狭山池改修碑」で
判読は薄れていて、鉄ちゃん爺やには読めまへんでしたわ。
この改修碑も国の重要文化財に指定されたそうでっせ。
(中世の 狭山池の改修絵図)
(狭山池の 築造された堤の構造)
実はこの平成の大改修で出土した最下部の木材が科学検査で
西暦616年に伐採された木材だと断定されましたんや。
それで狭山池は1400年前には、既に完成していたとの説
だから、今年が狭山池の築造1400年と決まりましたんや。
本当はもっと古くから存在した可能性が強いんでっけど
科学的な証明が出来るのは、西暦616年ちゅう事でっかな。
(狭山藩北条氏の特別展示会場)
実は期間限定で「狭山藩北条氏」という特別展示がここで
行われるというので、鉄ちゃん爺やは訪れましたんや。
ここ大阪狭山市は江戸時代には北条氏1万1千石の狭山藩で
陣屋も狭山池の北東の辺りに在ったようでっせ。
(狭山藩 陣屋の大手門)
明治維新後は堺市に移されて、明治天皇の行幸に際し
使用されたと記録が残ってるそうですわ。
現在も本願寺堺別院に現存していると書かれてまぁ。
昭和20年の堺空襲にも焼けずに残ってる訳でんな。
御成門と称され本願寺堺別院では、長く開閉されずで
当時は、これが堺県庁の正門だったと考えられまんな。
(小田原 北条早雲の肖像画)
(現在の小田原城)
(北条氏政の 肖像画)
(狭山藩北条氏 ポスター)
ご存じの通り後北条氏は1590年(天正18年)に
豊臣秀吉の小田原征伐により一旦は滅亡しましたかな。
当主の北条氏政と弟の北条氏照は対秀吉の強硬派で切腹。
北条氏直は徳川家康の娘婿だったので助命され高野山へ。
北条氏規は対秀吉との和平派であり徳川家康とは若き時代
共に今川義元の人質生活を味わった仲だったそうですわ。
そんな縁もあって河内で7千石を貰い豊臣家の家臣に。
(北条氏の 旗印)
北条氏直は1591年に赦免され1万石を与えられたが
同年に子供が無くて死亡。
代わって北条氏規の長男である北条氏盛が本家を相続。
関ヶ原の戦いの後に1万1千石の大名に取り立てられて
河内の狭山藩を立て、明治維新まで存続したんでっせ。
小さい大名だったので関東で覇をとなえた後北条氏が
河内狭山藩で生き残ったのを知らぬ人も多いのでは?
(狭山藩北条氏の 家宝)
実は、鉄ちゃん爺やの住む町は江戸時代は天領でしたんや。
お隣に同じ古市郡に軽里村という村落の一部が狭山藩で
江戸時代に水利権で長く天領との訴訟が続いたとのこと。
その文書でも見れるかと、特別展示に訪れたんですが
そのような文書や記録は見当たりませんでしたわ。
(豊臣秀吉が出した 北条氏への安堵状)
(徳川家康が出した 北条氏への安堵状)
(狭山池と羽曳野丘陵の絵地図)
狭山池は画像の左側の下になりまっせ。
中央の緑色の部分が羽曳野丘陵で右側が石川水系でつせ。
鉄ちゃん爺やの自宅は右側の石川水系の方になりますんや。
古市大溝と書かれたのと街道が交わる所になりますかな。
(中世以前の羽曳野丘陵と河内湖)
最後は明治維新に際して明治政府が出した
狭山藩知事を命じる文書。
直ぐに堺県に吸収されて消滅したようでっけど。
(明治維新後の 狭山藩知事の許可書)
それでは今日はこれでお仕舞にしまひょ。
ほんなら、これで、さいなら~♪
関西では何故か人気のある安藤忠雄の設計でんな。
鉄ちゃん爺やと同期の人物で、しかも大阪市の出身
でも~ 何故かあまり好きにはなれないタイプ。
2010年の東京オリンピック新国立競技場の選定でも
私は担当外と責任回避の発言をした理事さんでしたな。
(大阪府立 狭山池博物館)
鉄ちゃん爺やの税金も含めて、建設費は何百億円かしら?
大阪府も無駄な箱モノを沢山と造ったもんですわ。
文句はこれぐらいにして、入館しまっさ。
(狭山池博物館の 中庭と滝)
上水道か地下水を循環させているんだろうが意味不明。
そもそも、狭山池と滝なんて関連がおまへんけどな。
空間を、わざと大きくして建設費を高額にした感じ。
(狭山池博物館の 入口広場)
ループ式のスロープで博物館の玄関へ達するという構造。
階段を降りて、中庭を通り、再び登ってやっと入口でっせ。
入場無料だと書いてあったんで、鉄ちゃん爺やは入場ですわ。
入場料を徴収したら誰も入場しないと考えたのかしら?
おそらく大半の府民には興味のない博物館でっしゃろな。
(狭山池の 北堤をスライスした断面)
いくら1400年前の土木遺跡だか知らないけど、狭山池の
堤防を切り取ったという、馬鹿げた巨大な展示物がお目見え。
これを保存するために、巨大な建物を造ったという話でっせ。
約60mもある堤防の断面でっしゃろ、巨大な展示物やけど
学術的に貴重なのか、それとも驚かせるだけの仕掛けかしら。
狭山池の堤防が、こんなに幅が広いと言うだけの話かな。
(江戸時代の 東樋=ひがしひ)
大坂夏の陣が始まる前に片桐且元が豊臣秀頼に命じられて
狭山池から農業用水を抜き出すための排水口でんな。
完成して直ぐに埋もれてしまい、平成の大改修の際に
北堤の土の上層から偶然に出土したんだそうですわ。
上下に飛鳥時代・奈良時代・江戸時代の三つが発見され
2015年に国の重要文化財に指定されたんだって。
(東樋=ひがしひ 樋管の説明図)
樋管とは池の水を取り出すための管(くだ)でっせ。
高野槇の大木をくり抜いて、二枚を合わせて管を作ったと
土木工事を考え出した、昔の人は偉かったんですわ。
(奈良時代の東樋=ひがしひ)
奈良時代には行基という高僧が狭山池を改修したとの記録。
こちらは北堤の土の下層から出土した物なんだって。
(奈良時代の高僧 行基の像)
(鎌倉時代の高僧 重源の像)
こちらは鎌倉時代に同じく狭山池を改修した重源という高僧。
この方は東大寺の大仏を再建したことでも有名のお方でんな。
同時に狭山池を改修した契機と内容を刻んだ石碑も出土。
重源像の手前に置かれている石が「重源狭山池改修碑」で
判読は薄れていて、鉄ちゃん爺やには読めまへんでしたわ。
この改修碑も国の重要文化財に指定されたそうでっせ。
(中世の 狭山池の改修絵図)
(狭山池の 築造された堤の構造)
実はこの平成の大改修で出土した最下部の木材が科学検査で
西暦616年に伐採された木材だと断定されましたんや。
それで狭山池は1400年前には、既に完成していたとの説
だから、今年が狭山池の築造1400年と決まりましたんや。
本当はもっと古くから存在した可能性が強いんでっけど
科学的な証明が出来るのは、西暦616年ちゅう事でっかな。
(狭山藩北条氏の特別展示会場)
実は期間限定で「狭山藩北条氏」という特別展示がここで
行われるというので、鉄ちゃん爺やは訪れましたんや。
ここ大阪狭山市は江戸時代には北条氏1万1千石の狭山藩で
陣屋も狭山池の北東の辺りに在ったようでっせ。
(狭山藩 陣屋の大手門)
明治維新後は堺市に移されて、明治天皇の行幸に際し
使用されたと記録が残ってるそうですわ。
現在も本願寺堺別院に現存していると書かれてまぁ。
昭和20年の堺空襲にも焼けずに残ってる訳でんな。
御成門と称され本願寺堺別院では、長く開閉されずで
当時は、これが堺県庁の正門だったと考えられまんな。
(小田原 北条早雲の肖像画)
(現在の小田原城)
(北条氏政の 肖像画)
(狭山藩北条氏 ポスター)
ご存じの通り後北条氏は1590年(天正18年)に
豊臣秀吉の小田原征伐により一旦は滅亡しましたかな。
当主の北条氏政と弟の北条氏照は対秀吉の強硬派で切腹。
北条氏直は徳川家康の娘婿だったので助命され高野山へ。
北条氏規は対秀吉との和平派であり徳川家康とは若き時代
共に今川義元の人質生活を味わった仲だったそうですわ。
そんな縁もあって河内で7千石を貰い豊臣家の家臣に。
(北条氏の 旗印)
北条氏直は1591年に赦免され1万石を与えられたが
同年に子供が無くて死亡。
代わって北条氏規の長男である北条氏盛が本家を相続。
関ヶ原の戦いの後に1万1千石の大名に取り立てられて
河内の狭山藩を立て、明治維新まで存続したんでっせ。
小さい大名だったので関東で覇をとなえた後北条氏が
河内狭山藩で生き残ったのを知らぬ人も多いのでは?
(狭山藩北条氏の 家宝)
実は、鉄ちゃん爺やの住む町は江戸時代は天領でしたんや。
お隣に同じ古市郡に軽里村という村落の一部が狭山藩で
江戸時代に水利権で長く天領との訴訟が続いたとのこと。
その文書でも見れるかと、特別展示に訪れたんですが
そのような文書や記録は見当たりませんでしたわ。
(豊臣秀吉が出した 北条氏への安堵状)
(徳川家康が出した 北条氏への安堵状)
(狭山池と羽曳野丘陵の絵地図)
狭山池は画像の左側の下になりまっせ。
中央の緑色の部分が羽曳野丘陵で右側が石川水系でつせ。
鉄ちゃん爺やの自宅は右側の石川水系の方になりますんや。
古市大溝と書かれたのと街道が交わる所になりますかな。
(中世以前の羽曳野丘陵と河内湖)
最後は明治維新に際して明治政府が出した
狭山藩知事を命じる文書。
直ぐに堺県に吸収されて消滅したようでっけど。
(明治維新後の 狭山藩知事の許可書)
それでは今日はこれでお仕舞にしまひょ。
ほんなら、これで、さいなら~♪