日本書紀によれば推古天皇元年(593年)聖徳太子により
日本最初の官寺として創建されたのが「四天王寺」だったとの事。
(国道25号線 四天王寺の道路標識)
聖徳太子が戦いに勝てば、お寺を創建したいと、おっしゃった。
物部守屋と蘇我一族との戦いで亡くなった人々を弔うために
建てられたのが「四天王寺」だったとの説が有力のようでんな。
「四天王寺」の住所は 大阪市天王寺区四天王寺1-11
大阪の新しい名所になった「あべのハルカス」の近くに在る
JR天王寺駅などの地名も「四天王寺」から拝借してまんねん。
奈良の法隆寺が同じく聖徳太子ゆかりのお寺として有名でっけど
天災や戦乱から免れて現在は、世界文化遺産になってまっしゃろ。
残念ながら「四天王寺」は火災や風水害とか大阪での戦乱により
幾度も焼失や倒壊を重ね、そのたびに再建された違いがおますかな。
(四天王寺 南大門)
ここが「四天王寺」の正門に成ると知ったのも、恥ずかしながら
平成になってからで、約25年ぐらい前になりますかな。
この南大門も、次に紹介する大伽藍も昭和20年3月の大空襲で
鉄ちゃん爺やが若い頃には焼失して焼け跡に成ってましたんや。
1968年(昭和38年)に再建されたことは知ってましたが
信仰心も無くて、一昨年に訪れるまで永いご無沙汰でおました。
(四天王寺の 西門) (国の重要文化財に指定)
(四天王寺 西門の扁額)
鎌倉時代の1294年(永仁2年)忍性上人により造られた石の鳥居。
お寺に鳥居が? これは中世からの神仏習合時代の名残りですわ。
幾多の天災や戦乱にも免れ「四天王寺」に残る最古の建造物でおます。
現在はJRや地下鉄の駅からの近道に成りますんで、大阪人でさえ
この「西門=さいもん」が正門だと勘違いをされているはず。
扁額に、ここは極楽浄土への入り口との意味が漢文で記されてまぁ。
(四天王寺 西門から 西側を眺める)
(四天王寺 西門から西側の坂を撮影)
春と秋のお彼岸に、この鳥居から沈んでいく太陽を眺めたら
西方浄土への信仰から極楽へ通じる、入り口と信じられたとの事。
大阪の名所である通天閣の頭の部分だけが見えてまっしゃろ。
その手前は我が家の両親が眠る「一心寺」で急な坂に成り
昔は坂の下が大阪湾の浜辺だったように言われてますんや。
「一心寺」はお骨仏として有名なお寺なんでっせ。
通天閣は平安時代までは大阪湾の岸辺だつた事に成りますかな。
(西門の次は 西大門を潜ります)
この日は秋のお彼岸で9月22日でしたかな、参道の両側には
縁日の屋台が並んでいて、お参りする人も多かったですよ。
(転法輪を廻して 静かに合掌します)
西大門の四隅に「転法輪」が設けられてますんで、お参りに来た際に
静かに廻してから、回転を止めて合掌するのがルールのようですな。
鉄ちゃん爺やも同じように廻してから、静かに合掌しましたんや。
この西大門を潜り抜けると、大伽藍が目の前に現れてきましたで。
(四天王寺 大伽藍への拝観入口)
普段はここから先へは大人300円の拝観料が必要なんですわ。
本日は無料で拝観できるんだって、ラッキー!
前回は入口から覗き見だけし退散しましたんや。
毎月22日は 太子会(たいしえ) 聖徳太子さまの法会
毎月21日は 大師会(だいしえ) 弘法大師さまの法会
それに春と秋のお彼岸の期間は無料で拝観ができるんだとのこと。
無料なら拝観させて貰わなくちゃと、入場しましたんや。
(四天王寺 五重塔 & 金堂)
(四天王寺 大伽藍内で自撮り)
五重塔の奥に見えているのは中門と呼ぶ大伽藍への正門でっせ。
五重塔のてっぺんが自撮りの為に写ってまへんな。
(四天王寺 五重塔の全景)
現在は和宗の総本山と呼ぶそうで、どんな宗旨にも関わらず
八宗兼学のお寺として、関西の人々に親しまれて居るんだって居るん。
でも~ 弘法大師さまをお祀りしているのには不可思議ですけど。
(四天王寺 金堂の全景)
ご本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)とされてます。
1963年(昭和38年)に再建されたコンクリート製のお堂です。
歴史的な価値は薄いんですが日本で最古の「四天王寺式」と呼ぶ
寺院建築の様式と配置を、忠実に再現しているとのことですわ。
法隆寺の「若草伽藍跡」もここと同じ「四天王寺式」だったとか。
南大門を一番南に置き、中門・五重塔・金堂・講堂 と北へ一列に
配置したのが「天王寺式」と呼ぶ古い大陸から伝わった様式だとの事。
(四天王寺 中門)
中門の向こう側、遠くに「あべのハルカス」ビルが見えてまっしゃろ。
本来は南大門から入り中門を潜って大伽藍に入るのがルールですわな。
でも~ 西側から入り右手に中門を見るような形に成ってますんや。
(四天王寺 大伽藍の回廊)
(四天王寺 講堂)
救世観音菩薩さまや講堂に納められている薬師如来さまなど
全て撮影が禁止されてますんで、ご容赦の程。
(四天王寺 大伽藍の回廊)
(金堂の裏手から 撮影)
(四天王寺さん ご朱印)
鉄ちゃん爺やがまだ小学校の低学年だったころのお話。
一族の方々は「お寺のおばあちゃん」と呼んだ祖母に連れられ
四天王寺にお参りしたことが記憶に残ってますんや。
帰りに西門の近くで親子丼・天丼・ざる蕎麦などを
食べさせてくれるので記憶に残っていたようですわ。
戦争直後の食べ物のない時代のお話ですけどね。
記憶では21日にお参りをしていたようで弘法大師さまを
自分の信仰心として崇めていたんでしょうな。
何故か、法名は浄土真宗系に成っているのが疑問ですけど。
(経木と言いますんや)
経木って、ご存知かしら? 祖母は先祖代々の他に
早くして亡くなった我が子や我が孫の名前を書いて貰い
四天王寺の亀の池に流して供養をしていたようですわ。
(四天王寺 経木お流し処)
回向して貰った経木をここで水に浸して亀の池に流すんですわ。
神聖な場所として撮影などは禁止されてますので悪しからず。
(四天王寺の 石舞台) (国の重要文化財に指定)
日本三大舞台と呼ばれるそうで、4月22日の聖徳太子さまの命日に
「聖霊会」の舞楽が厳かに、ここで舞を演じられるんだそうです。
ちなみに日本三大舞台は広島の厳島神社の舞台と大阪市内にある
住吉大社の舞台を称するんだそうですけど。
石舞台の奥に「六時堂=ろくじどう」と呼ばれるお堂が在ります。
(四天王寺 六時堂礼賛堂)(国の重要文化財に指定)
四天王寺では1945年(昭和20年)の大阪大空襲や、その前の
室戸台風にも被害を免れた江戸時代は元和年間に建造されたお堂です。
このお堂の中で祖母が持参した経木を回向して貰ったような記憶ですわ。
(四天王寺 亀の池)
大阪では有名な池で、上方の漫才や落語にも登場しまんねんで。
この池が極楽浄土まで繋がっていると考えられたようですわ。
(大坂夏の陣 茶臼山・天王寺の絵図)
(黒田絵巻に 天王寺の西門が)
(大坂の陣史跡案内所)
黒田絵巻の本物は大阪城の天守閣に保存されてるそうです。
大坂夏の陣に四天王寺の石造りの西門を挟んで下に有名な
真田幸村の軍勢が、反対側の四天王寺の境内に毛利勝永が
描かれているので、当時も今と同じ鳥居が立っていたようでんな。
(国道25号線から 四天王寺の外壁を撮影)
大坂夏の陣では真田幸村が有名に成ってますが、一番活躍し
本多忠朝や小笠原英政などを打ち取って、真田幸村が戦死後に
大坂城まで戻って、豊臣秀頼を介錯した後に自刃したそうです。
毛利勝永は豊臣秀吉時代に九州の小倉城主の息子だったそうで
秀吉の命により名門・毛利氏の名前を拝領していたそうですわ。
(お騒がせしました 逃走犯人のパネル)
最後に大阪府の富田林署から逃走した犯人が48日ぶりに
山口県の周南市で9月29日に逮捕されたそうですな。
お粗末な大阪府警の出来事で、本当にお騒がせしました。
画像は駅や公共施設に掲示された犯人のパネルでした。
更なる事件を起こさずに逮捕されたのは幸いでしたかな。
それでは、本日はこれにて、お仕舞にさせてもらいます。
台風24号がまもなく大阪府の南側を通過するそうです。
全国の皆様方へ、十分にお気を付けくださいませ。
ほな~ これで、さいなら~♪
日本最初の官寺として創建されたのが「四天王寺」だったとの事。
(国道25号線 四天王寺の道路標識)
聖徳太子が戦いに勝てば、お寺を創建したいと、おっしゃった。
物部守屋と蘇我一族との戦いで亡くなった人々を弔うために
建てられたのが「四天王寺」だったとの説が有力のようでんな。
「四天王寺」の住所は 大阪市天王寺区四天王寺1-11
大阪の新しい名所になった「あべのハルカス」の近くに在る
JR天王寺駅などの地名も「四天王寺」から拝借してまんねん。
奈良の法隆寺が同じく聖徳太子ゆかりのお寺として有名でっけど
天災や戦乱から免れて現在は、世界文化遺産になってまっしゃろ。
残念ながら「四天王寺」は火災や風水害とか大阪での戦乱により
幾度も焼失や倒壊を重ね、そのたびに再建された違いがおますかな。
(四天王寺 南大門)
ここが「四天王寺」の正門に成ると知ったのも、恥ずかしながら
平成になってからで、約25年ぐらい前になりますかな。
この南大門も、次に紹介する大伽藍も昭和20年3月の大空襲で
鉄ちゃん爺やが若い頃には焼失して焼け跡に成ってましたんや。
1968年(昭和38年)に再建されたことは知ってましたが
信仰心も無くて、一昨年に訪れるまで永いご無沙汰でおました。
(四天王寺の 西門) (国の重要文化財に指定)
(四天王寺 西門の扁額)
鎌倉時代の1294年(永仁2年)忍性上人により造られた石の鳥居。
お寺に鳥居が? これは中世からの神仏習合時代の名残りですわ。
幾多の天災や戦乱にも免れ「四天王寺」に残る最古の建造物でおます。
現在はJRや地下鉄の駅からの近道に成りますんで、大阪人でさえ
この「西門=さいもん」が正門だと勘違いをされているはず。
扁額に、ここは極楽浄土への入り口との意味が漢文で記されてまぁ。
(四天王寺 西門から 西側を眺める)
(四天王寺 西門から西側の坂を撮影)
春と秋のお彼岸に、この鳥居から沈んでいく太陽を眺めたら
西方浄土への信仰から極楽へ通じる、入り口と信じられたとの事。
大阪の名所である通天閣の頭の部分だけが見えてまっしゃろ。
その手前は我が家の両親が眠る「一心寺」で急な坂に成り
昔は坂の下が大阪湾の浜辺だったように言われてますんや。
「一心寺」はお骨仏として有名なお寺なんでっせ。
通天閣は平安時代までは大阪湾の岸辺だつた事に成りますかな。
(西門の次は 西大門を潜ります)
この日は秋のお彼岸で9月22日でしたかな、参道の両側には
縁日の屋台が並んでいて、お参りする人も多かったですよ。
(転法輪を廻して 静かに合掌します)
西大門の四隅に「転法輪」が設けられてますんで、お参りに来た際に
静かに廻してから、回転を止めて合掌するのがルールのようですな。
鉄ちゃん爺やも同じように廻してから、静かに合掌しましたんや。
この西大門を潜り抜けると、大伽藍が目の前に現れてきましたで。
(四天王寺 大伽藍への拝観入口)
普段はここから先へは大人300円の拝観料が必要なんですわ。
本日は無料で拝観できるんだって、ラッキー!
前回は入口から覗き見だけし退散しましたんや。
毎月22日は 太子会(たいしえ) 聖徳太子さまの法会
毎月21日は 大師会(だいしえ) 弘法大師さまの法会
それに春と秋のお彼岸の期間は無料で拝観ができるんだとのこと。
無料なら拝観させて貰わなくちゃと、入場しましたんや。
(四天王寺 五重塔 & 金堂)
(四天王寺 大伽藍内で自撮り)
五重塔の奥に見えているのは中門と呼ぶ大伽藍への正門でっせ。
五重塔のてっぺんが自撮りの為に写ってまへんな。
(四天王寺 五重塔の全景)
現在は和宗の総本山と呼ぶそうで、どんな宗旨にも関わらず
八宗兼学のお寺として、関西の人々に親しまれて居るんだって居るん。
でも~ 弘法大師さまをお祀りしているのには不可思議ですけど。
(四天王寺 金堂の全景)
ご本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)とされてます。
1963年(昭和38年)に再建されたコンクリート製のお堂です。
歴史的な価値は薄いんですが日本で最古の「四天王寺式」と呼ぶ
寺院建築の様式と配置を、忠実に再現しているとのことですわ。
法隆寺の「若草伽藍跡」もここと同じ「四天王寺式」だったとか。
南大門を一番南に置き、中門・五重塔・金堂・講堂 と北へ一列に
配置したのが「天王寺式」と呼ぶ古い大陸から伝わった様式だとの事。
(四天王寺 中門)
中門の向こう側、遠くに「あべのハルカス」ビルが見えてまっしゃろ。
本来は南大門から入り中門を潜って大伽藍に入るのがルールですわな。
でも~ 西側から入り右手に中門を見るような形に成ってますんや。
(四天王寺 大伽藍の回廊)
(四天王寺 講堂)
救世観音菩薩さまや講堂に納められている薬師如来さまなど
全て撮影が禁止されてますんで、ご容赦の程。
(四天王寺 大伽藍の回廊)
(金堂の裏手から 撮影)
(四天王寺さん ご朱印)
鉄ちゃん爺やがまだ小学校の低学年だったころのお話。
一族の方々は「お寺のおばあちゃん」と呼んだ祖母に連れられ
四天王寺にお参りしたことが記憶に残ってますんや。
帰りに西門の近くで親子丼・天丼・ざる蕎麦などを
食べさせてくれるので記憶に残っていたようですわ。
戦争直後の食べ物のない時代のお話ですけどね。
記憶では21日にお参りをしていたようで弘法大師さまを
自分の信仰心として崇めていたんでしょうな。
何故か、法名は浄土真宗系に成っているのが疑問ですけど。
(経木と言いますんや)
経木って、ご存知かしら? 祖母は先祖代々の他に
早くして亡くなった我が子や我が孫の名前を書いて貰い
四天王寺の亀の池に流して供養をしていたようですわ。
(四天王寺 経木お流し処)
回向して貰った経木をここで水に浸して亀の池に流すんですわ。
神聖な場所として撮影などは禁止されてますので悪しからず。
(四天王寺の 石舞台) (国の重要文化財に指定)
日本三大舞台と呼ばれるそうで、4月22日の聖徳太子さまの命日に
「聖霊会」の舞楽が厳かに、ここで舞を演じられるんだそうです。
ちなみに日本三大舞台は広島の厳島神社の舞台と大阪市内にある
住吉大社の舞台を称するんだそうですけど。
石舞台の奥に「六時堂=ろくじどう」と呼ばれるお堂が在ります。
(四天王寺 六時堂礼賛堂)(国の重要文化財に指定)
四天王寺では1945年(昭和20年)の大阪大空襲や、その前の
室戸台風にも被害を免れた江戸時代は元和年間に建造されたお堂です。
このお堂の中で祖母が持参した経木を回向して貰ったような記憶ですわ。
(四天王寺 亀の池)
大阪では有名な池で、上方の漫才や落語にも登場しまんねんで。
この池が極楽浄土まで繋がっていると考えられたようですわ。
(大坂夏の陣 茶臼山・天王寺の絵図)
(黒田絵巻に 天王寺の西門が)
(大坂の陣史跡案内所)
黒田絵巻の本物は大阪城の天守閣に保存されてるそうです。
大坂夏の陣に四天王寺の石造りの西門を挟んで下に有名な
真田幸村の軍勢が、反対側の四天王寺の境内に毛利勝永が
描かれているので、当時も今と同じ鳥居が立っていたようでんな。
(国道25号線から 四天王寺の外壁を撮影)
大坂夏の陣では真田幸村が有名に成ってますが、一番活躍し
本多忠朝や小笠原英政などを打ち取って、真田幸村が戦死後に
大坂城まで戻って、豊臣秀頼を介錯した後に自刃したそうです。
毛利勝永は豊臣秀吉時代に九州の小倉城主の息子だったそうで
秀吉の命により名門・毛利氏の名前を拝領していたそうですわ。
(お騒がせしました 逃走犯人のパネル)
最後に大阪府の富田林署から逃走した犯人が48日ぶりに
山口県の周南市で9月29日に逮捕されたそうですな。
お粗末な大阪府警の出来事で、本当にお騒がせしました。
画像は駅や公共施設に掲示された犯人のパネルでした。
更なる事件を起こさずに逮捕されたのは幸いでしたかな。
それでは、本日はこれにて、お仕舞にさせてもらいます。
台風24号がまもなく大阪府の南側を通過するそうです。
全国の皆様方へ、十分にお気を付けくださいませ。
ほな~ これで、さいなら~♪