鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

お別れ旅行のつもりが~  パート7

2023-04-09 16:39:07 | 鉄道

手術前なので最後の東京見物かな、とか考えてました。

大腸癌のステージⅢ を覚悟しての旅行でしたんや。

幸いにもリンパに転移せず間もなく6か月検診を迎えます。

手術後の経過も順調でほとんど体調も戻った感じ。

 

今回の旅行で書き忘れた思い出をまとめてみました。

(相模鉄道へ乗り入れ用 JR・E257車両)

鉄ちゃん爺やが単身赴任中にはこんな電車はまだおまへんでした。

相模鉄道の羽沢横浜国大駅からJR貨物線を経由してJR横須賀線の

武蔵小杉駅でJRに合流しその後はJR大崎駅で埼京線に入るらしい。

(相模鉄道の終点 海老名駅行き?) (JR埼京線・武蔵浦和駅にて)

武蔵小杉駅から先の相模鉄道の海老名駅まで乗ってみたかったが

ICOCA(JR西のカード)で相模鉄道に乗れるのか心配になり

武蔵小杉駅で下車しました、ネットで検索したらOKのようでした。

(E257の 車内) (関東では三角の吊り革が主に)

この画像は昨年の10月の物ですが、今年の3月18日以降は

相模鉄道と東急電鉄が新横浜駅でドッキングして新しい路線を開業

相互乗り入れし、渋谷と目黒で東京メトロに乗り入れし埼玉県まで

電車賃と時間は別として新幹線の新横浜駅から乗り換えが可能に。

神奈川県だけの私鉄だった相模鉄道が都内へ乗り入れして大躍進!

東京メトロの三田線で西高島平駅へ東京メトロの南北線で埼玉美園駅へ

東京メトロ副都心線と有楽町線で和光市駅まで随分の拡大でおます。

一方でJR直通線も今年から大宮駅や川越駅まで延伸したんだって。

(東武東上線 和光市駅舎)

この画像は今回の旅行で最後の宿となった和光市駅の物で現在では

料金は高いんだろうが、乗り換えなしで新幹線の新横浜駅に行ける訳なんだ。

和光市は荒川を挟んで鉄ちゃん爺やが勤めていた戸田市と隣同士なんでっせ。

東京メトロの有楽町線がここで地上に出て終点となっています。

(和光市のホテル前にて)

(注文型・回転寿司)

昨今は回転寿司で迷惑行為が横行しているが、このようなタブレットから

注文したら数分で自分の前まで流れてくる方式なら迷惑行為はやれないよね。

満席の際は上手く流れるのか見れなかったけどアイデアとしては良しかな。

回転寿司で流れている分で、食べられず廃棄されるものが案外と多いとも聞く。

(JR錦糸町駅舎)

(JR錦糸町駅 横須賀線ホーム)

左手に停車する普通の千葉駅行きから走って地下を通りこの階段を上る

停車中の快速電車の千葉駅行きに飛び乗った時代がおましたんや。

平成13年(2001年)の戸田市から千葉市へ通勤した頃の話。

この懐かしい階段は20年前と変わりがない姿で残っていました。

(JR総武快速 千葉駅行き)

(JR錦糸町駅前の 喫煙所)

当時はまだホームでの喫煙は許される時代でした、現在は主要な駅前には

喫煙所があるんですが、タバコを吸う方には肩身が狭くなりましたね。

私の通勤中は錦糸町駅から千葉駅まで特急に乗ればタバコが吸えた時代でした。

500円の特急券は必要でしたが1年間で20回以上は使いましたかな。

疲れて戸田市へ戻る際に使ったことの方が多かったかも?

鉄ちゃん爺やもこの頃はまだタバコを吸っていたんですよ。

(JR錦糸町駅前の 国道14号線)

(JR錦糸町駅前 国道14号線)

JRAの場外馬券売り場が有って何度かお世話に成りましたよ。

千葉に通勤していたので秋の天皇賞でナリタトップロードという

馬から買って1-8 1720円 大勝ちしたのが最後の競馬!

現在は競馬もパチンコも全て引退して真面目なもんですわ。

(新装なった JR千葉駅・構内)

前回は2017年に訪れましたが駅ビルは第1期工事が完成したところで

今回は全てが完了して見違えるほど素敵な駅ビルに変わってましたよ。

(JR千葉駅構内より 総武本線ホームを望む)

正面の高架橋は千葉市のモノレールでこの風景だけは20年前と変わりなし。

駅ビルは奇麗になりましたがプラットホームは改装されなかった感じ。

(千葉市の マンホールの蓋)

(船橋市の マンホールの蓋)

はい~ 今日はこれでお仕舞いです   ほな! さいなら~♪

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想い出の 鉄道写真から  国鉄時代を偲ぶ

2021-08-08 16:13:55 | 鉄道
鉄ちゃん爺やの幼い記憶ながら、初めて乗った鉄道を思いだぜば
山陽本線の姫路駅から大阪駅へ向かったのが最初だったはず。

昭和21年の春に叔母の家に養子に入ることになったらしい?

疎開先である但馬の竹田駅から大阪駅に向かった記憶が少しだけ。

祖父が作ってくれた「草鞋=わらじ」履きでの旅だったとの話。

戦災の傷跡があちこちに残る大阪駅はまだ焼け跡のど真ん中でした。

今回は羽曳野市立図書館の蔵書と鉄ちゃん爺やの保存資料から
敗戦後の鉄道小話を進めて行くことにしましたので、ご容赦の程。

(進駐軍の専用列車) (昭和22年10月撮影)


戦前から残っていた1等車や優良な2等車がGHQに接収されて
白い帯を車体に付けて、優先して各地を走り回ったそうですわ。

進駐軍の将校さんや連合国の関係者しか乗ることが出来まへんでした。

日本人が乗る列車に1~2両だけ併結するケースも有ったとか。

客車や電車が空襲で損傷し敗戦国の日本人は貨車で運ばれたんでっせ。

(大阪駅~姫路駅間は 貨車も活躍) (昭和21年5月撮影)


鉄ちゃん爺やも貨車の中で進行方向に向かって足を伸ばして座ってたはず。

走行中は貨車の扉は片側だけが開放され縄が張られていたように記憶。

SLのC51が電力不足で電車を繋いで大阪駅から姫路駅まで走ったことも。

昭和21年までは無蓋の貨車まで利用され雨の時は大変だったとか。

なにせGHQ(進駐軍)に優良な電車や客車を供出していたので日本人は
貨車で運ばれる、まるで動物扱いの時代が2年間ぐらい続いたんでっせ。

(鉄ちゃん爺や 幼少の写真) (昭和21年冬の写真)


敗戦後なので食べるものにも困り、幼稚園に行けば「おやつ」が貰えた。

サッカリンやズルチンという危険な甘味料でしたが甘くて美味しかったね。

あんパンを始めて食べたのも幼稚園のお昼だった、今も大好きですけど。


ご存じの方も少なくなりましたが昭和22年6月1日にGHQ命令で
国営の官設鉄道から「日本国有鉄道=国鉄」に名称が変更になりましたんや。

それまでは「鉄道省」という組織で国が統括していたんでっせ。

そんな訳で「省線」という名前が戦後も使わていたんですわ。

「国鉄」という俗称は有ったが正式には「官鉄」だったんですね。

明治時代からの官設鉄道が民間鉄道16社を併合したそうでんな。

GHQに睨まれて公共企業体に強制的に再編された訳でおます。

何せGHQ(進駐軍)からの指令は、鶴の一声で決まった時代ですわ。

(特急つばめ 大阪駅に到着の写真) (昭和28年頃の写真)


終戦から3年が経過して世の中も少し落ち着いてきた感じでしたかな。

昭和24年(1949年)9月15日に復活したのが特急「へいわ」でした。

翌年の昭和25年1月1日から特急「つばめ」に名前を改めましたんや。

東京駅をAM9時に発車して大阪駅にはPM17時に到着しましたそうな。

特急「つばめ」と 特急「はと」が日本では唯一の特急列車でしたんや。

特急はと は東京駅を12時30分に発車して大阪駅には20時30分に到着。

庶民は乗れないから、大阪弁で「ええし~ が乗るもん」との揶揄も。

大阪弁で「ええし~」は裕福な資産家や貴族階級のことをいいまんねんで。

東京行きの上り便も同じ時刻に発着が設定されていたように思いまんねん。

(京都駅に到着 特急つばめ) (昭和28年頃の写真)


SLのC62は鉄ちゃん爺やが子供の頃は憧れの蒸気機関車でしたんや。

東京~大阪間を8時間で結ぶ特急「つばめ」特急「はと」が双璧でした。

子供の絵本には必ず「特急つばめ」の写真が載っていた時代ですかな。

まだ東京~大阪間を日帰りで行動することなど無理な時代でおました。

(特急つばめ 東海道本線・電化後の雄姿) (昭和30年代の写真)


マニアの間では電気機関車の色から「青大将」と呼んだんだって。

この特急「つばめ」と特急「はと」の発足と同時に急行「銀河」が
寝台列車としてスタート、最初は1等車と2等車のみで運行でしたが
翌年には3等車を連結し、庶民にも利用が可能になったそうですわ。

現在はグリーン車と普通車の二つですが、当時は1等から3等までの区分。

(寝台急行銀河 のヘッドマーク)


(寝台急行銀河  廃止直前の雄姿) (平成5年撮影)


後に多くの急行が見られた国鉄の中でも急行「銀河」は名前を付けられた
第1号の名誉ある急行として、永く親しまれてきた列車でもおました。

東京~大阪間を永年に渡り走り続けた寝台急行「銀河」は平成7年3月
惜しまれながら引退して、後継の列車もないのが残念ですけど。



次は鉄ちゃん爺やが初めて国鉄の急行電車に乗った時のお話。

昭和40年(1965年)8月の夏季休暇の時でおます。

(急行ゆのくに 指定席券と急行券)


まだコンピュターが導入される前の手書きの懐かしい切符でっせ。

急行券が200円と指定席券が100円という、お安い値段です。

「動橋駅」何と読む駅名かご存じの方は相当の鉄道マニアになりまぁ。

現在でも「動橋駅」は北陸本線では難解な駅名の筆頭でしょうな。

「動橋駅=いぶりはしえき」と読むのが正解なんですよ。

急行や特急が停車する北f陸本線の駅でしたが大阪側に一つ寄った
「加賀温泉駅」がメインの駅となり現在は無人駅になってまぁ。

当時はこの駅から片山津温泉や山代温泉へ向けての乗換駅でした。

動る=いぶる  ゆすぶるとか 言う古い言葉からの変化だとか。

(急行ゆのくに他 当時のダイヤ) (昭和43年のダイヤ)


鉄ちゃん爺やが乗車した頃から3年ぐらい後のダイヤなんで
少しだけ座席指定の位置が変わってます、当時は全車指定席。

3等車が連結されてないので優越感を示す急行列車でおます。

1等車や2等車の表示から「急行ゆのくに」は花形でしたんですわ。

(急行ゆのくに 大阪駅に到着)


この頃から国鉄には急行や特急が続々と出現したんでおます。

前年10月に東海道新幹線も開通して時代が大きく変わりましたけど。

「ええし~ が乗るもん」と言われた急行や特急も庶民の足に変化でした。

大阪からでも金沢や富山は当時は鉄道でも遠い感じが有りましたが
確かこの前年に日本で初の交流電化が完成してスピードアップでした。

後に特急「雷鳥」が大阪~金沢・富山間にピーク時には14往復も増発。

大阪から福井・石川・富山 の北陸三県を近づけることになりましたんや。



次は同じく昭和41年8月(1966年)の夏季休暇の時のお話。

今は廃止された国鉄の1等車に乗った唯一の経験となったお話。

(急行みささ 1等の乗車券)


(急行みささ 車内で発行された甲冊 1等の急行券)


松江駅で駅員さんに何でこんな遠回りをして、しかも1等車で
6時間~7時間もかかるのにと笑われたのが印象的でした。

鉄ちゃん爺やが初めて1等車に乗るんだから普段は観れない
景色と路線を7時間かけて大阪まで味わいたかったのが本音。

急行「だいせん」で米子駅から大阪駅へ直行したら確か4時間で
帰れるので駅員さんから見れば変人だと思われたかも。

(急行みささ 大阪駅に到着) (昭和42年の写真)


(米子駅の 入場券)


松江駅から普通列車で米子駅で急行「みささ」に乗り換え。

山陰線で鳥取駅から因美線(いんみせん)に入り山越えして
津山駅で急行「みまさか」と併結してから姫新線で姫路駅へ
さらに山陽本線を経由して大阪駅へと向かうコースなんですよ。

(急行だいせん 武田尾駅を通過中) (昭和50年頃の写真)


後に会社の慰安旅行で鳥取駅から大阪駅まで利用したことがおました。

現在は中国自動車道などが開通してJRの山陰線を利用して鳥取へ
鉄道で向かう人はほとんどなし、高速バスがメインになりました。

米子や松江には岡山から伯備線経由の特急を利用する人が大半かも。

当時は岡山県の美作三湯や鳥取県の三朝温泉や米子の皆生温泉など
温泉客を運ぶルートとして鉄道が活躍した時代でおましたんや。

(夜行急行ちくま  大阪駅は目前) (昭和58年頃の写真)


息子と諏訪湖まで青春18きつぷで足を延ばしたんだけど8月15日
諏訪湖は花火大火でホテルの予約が出来ずに塩尻から松本へ
当時はネット予約などおまへんから、観光案内所で予約でした。

全て満員で夜行の「急行ちくま」で旅行を中止して大阪へのハプニング。

こんな判断をしないと松本駅で野宿のはめになるところでしたんや。

当時は国鉄の待合所で野宿をさせてくれる駅も多かったんですけどね。

(中央西線 電化前の 急行 きそ) (昭和43年頃の写真)


鉄ちゃん爺やが初めて名古屋から信州へ向かった頃はこんな気動車だった。

塩尻駅で反対向きに発車するので驚いた記憶が今では懐かしいですかな。

長くなりますので今日はここまでにしておきまぁ。

次回も国鉄時代の急行や特急のお話の続きをしまひょ。

ほな~  これで、さいなら~♪
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今では懐かしい 鉄道の風景!

2021-03-08 19:47:38 | 鉄道
昔のファイルから今では懐かしい画像を紹介しまひょ。

(JR原宿駅舎) (2012年1月撮影)


(JR原宿駅舎) (2017年4月撮影)


JR原宿・旧駅舎は確か解体工事が始まったと聞いてまんねん。

東京都内で一番古い木造の駅舎として2020年3月まで
使用されてましたが、現在は南側に新しい駅舎が出来ているとか。

1924年(大正13年)近くに出来た明治神宮への
参拝客の為に新しく開業した当時は国鉄・山手線の駅舎。

三角屋根に風見鶏を乗せた趣のある駅舎だなと感じての撮影。

一部を再築して新しいJR原宿駅舎のそばに復元予定とのこと。

1945年4月でした米軍の空襲に焼夷弾が直撃したようでっけど
全てが不発弾だった為に、奇跡的に焼失を免れたとの話も。

都民の方には明治神宮への初詣や近くの表参道への最寄り駅として
お馴染みの駅舎でしたが、現在は観れなくなったようでんな。

(185系 特急電車 JR東日本) (2000年10月撮影)


首都圏で走る国鉄時代からの車両が次々と引退が続いてまんねんで。

この185系特急電車も今週の3月12日東京駅~伊豆下田駅間の
「踊り子号」が最終で、定期の運行から外れることになったんだって。

撮り鉄さんが今週は東京駅や沿線に押しかけそうなので心配をしてまぁ。

画像は鉄ちゃん爺やが単身赴任中にJR上野駅でたまたま撮影した物。

「特急・谷川」が廃止になり「特急・水上」として再スタートでした。

上越新幹線に「たにがわ」の名前が付けられての変更でしたかな。

この「特急・水上」も2010年には一足早く引退してまっけど。

年内は臨時便などで運行があるようですが引退は近いように思いまぁ。

185系の引退で首都圏で国鉄時代の特急列車は全て無くなるとのこと。

関西でも有名な駅舎が高架工事の為に使用を停止しました。

(南海電鉄 浜寺公園駅舎) (2007年10月撮影)








東京駅を設計した辰野金吾さんが初めて手掛けた鉄道の駅舎なんだって。

1907年(明治40年)に完成し、日本の私鉄では一番古い木造の駅舎で
国の登録有形文化財に指定されてますんで、保存することに成りましたんや。

国鉄の東京駅が完成したのが1914年(大正3年)でっさかいに
辰野金吾さんの設計した駅舎としては7年も古い建物と言うことになりまぁ。

2016年(平成28年)1月に高架工事の為に使用を停止し、2017年に
「曳家=ひきや」と言う工法で解体せずに30mほど西側に移動させました。

2018年(平成30年)駅カフェ及びギャラリーとしてオープンしたとか。

高架工事が終わる2028年には駅のエントランスとして利用されるんだって。

画像は全て南海電鉄の駅舎として使用していた頃の写真でおます。

JRの一番古い駅舎などは今年1月24日に拙者のブログに載せました
「JR亀崎駅舎 & JR善通寺駅舎」の方を参考にしてくださいね。

一部のマニアから滋賀県の近江鉄道にもっと古い明治時代の現役の駅舎が
存在するとの情報もあるようですが未確認なんでご容赦のほど。

(JR新潟駅 万代口駅舎) (昭和58年前後か?)


1958年(昭和33年)に完成した国鉄時代の新潟駅舎です。

2020年(令和2年)11月から解体が始まったんだって。

国鉄時代には各地で観られる駅舎のスタイルでしたかな。

新潟市内には三度ばかりお邪魔していますが画像はこれだけかも。

鉄ちゃん爺やはまだ40歳代で、息子と二人「青春18きっぷ」で
各地を訪ねていた頃の、フイルムカメラの画像ですよ。

(横浜港の近くで 息子とのツーショット) (昭和58年前後か?)


現在は赤レンガ倉庫で賑わっている当時は貨物駅だったような記憶!

鉄ちゃん爺やの頭は、まだ黒髪がふさふさしてるのが分かりまっか?

ウエスト73cmのズボンを着用してまんねん、スマートでっしゃろ?

身長が161cmぐらいで体重はこの頃50㎏を切っていたはず。

この当時は良く、生え際が奇麗ですねと、言われたもんですけど。

現在は52歳になった息子もまだ中学生の丸坊主で真面目な少年ですわ。

(数年前の内の奥さんと 息子のツーショット)


息子も随分と中年太りでスタイルが悪くなりましたけど。

鉄ちゃん爺やの方がスタイルがもっと悪いって~ かもしれまへん。

(客車の窓から 顔出して撮影) (昭和60年前後か?)


「松任工 56-8」の文字が右端に写ってますので、国鉄時代の
北陸本線で富山県か石川県で、何処かの駅で停車中のようでんな。

金沢のお隣で松任(まつとう)の工場で1956年に検査済みの表示。

(長野県で国鉄時代の 梓橋の駅名標と息子を撮影)


松本市内で一泊するには時間が早いので大糸線で少しだけ足を延ばし
撮影をしたように記憶しまぁ、ここから折り返して松本駅へ
「青春18きっぷ」は何度でも普通電車なら乗り降り自由でっせ。

(国鉄の飛騨一ノ宮駅で 撮影)  (昭和60年前後か?) 


高山駅の手前で特急と対向車待ち30分とは、のんびりした時代でしたな。

駅前で蕎麦を食べて駅に戻ってもまだ停車中でおます、笑い話のようでっしゃろ。

当時は普通列車の旅なら、こんな時間待ちは当たり前の時代でしたんや。

(国鉄時代の 赤羽駅のホームにて) (昭和58年前後か?)


鉄ちゃん爺やが単身赴任中にJR赤羽駅は高架になり新しい駅に
成りましたが、当時は東京都内と思えない寂しげな構内でしたよ。

当時は国鉄・赤羽線(現在の埼京線)の終着駅として二人で
交互に撮影して「チャレンジ2万キロ」の事務局に提出した物。

国鉄時代に息子と二人で国鉄の路線を60線区ほど走破したはず。

息子が大学受験の為に昭和61年でお仕舞に成りましたけど。

その後も鉄ちゃん爺やはローカル線を乗り続けて現在は74線区?

(国鉄時代の 山陽本線・西広島駅で撮影したはず)(昭和60年前後か?)


115系の湘南カラーと呼ばれた緑と黄色のツートンカラーは当時では
国鉄の標準的な配色で、現在は「国鉄色」とも呼ばれていますかな。

最近では湘南カラーに戻し静態保存されている車両もよく見かけまっせ。

115系の電車も首都圏では全て引退したように思いまんねん。

(115系 湘南カラーの電車 横川駅にて) (2009年4月撮影)


長野新幹線が開通してJR信越本線はここでストップになりましたね。

昔は碓氷峠を超える国鉄の難所でしたが今は閑散とした駅になりました。

鉄ちゃん爺やが、ここから乗車した際には乗客はたったの5人のみ。

現在は横川駅から軽井沢駅前まで路線バスが運行されているのみ。

(信越本線・横川駅舎) (2009年4月撮影)


(峠の釜めし 横川駅前の本店) (2009年4月撮影)


横川駅や軽井沢駅では電気機関車の切り替えの時間を利用して
この「峠の釜めし」を買い陶器の釜を待ち帰った方も多かったはず。

現在は駅弁からレストランで「峠の釜めし」を食べることが多くなり
信越本線の名物の駅弁も懐かしい想い出となったように思いまぁ。

ほな~ 今日はこれぐらいにして、さいなら~♪
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今は昔話に! 開かずの踏切日本一 & JR東淀川駅舎 

2020-11-28 19:41:21 | 鉄道
新幹線が停車するJR新大阪駅から京都方面へ約700mぐらい。

JR東海道本線の普通電車しか停まらないJR東淀川駅のお話でおます。

2018年(平成30年)11月11日に新しく橋上駅舎に変りました。

(旧 JR東淀川駅舎) (1940年 完成)






鉄ちゃん爺やより、少しだけ年寄りの木造の駅舎でしたんや。

現在は大阪市淀川区に成るんでっけど、当時は大阪市東淀川区でした。

最初の画像で駅舎の手前が淀川区と東淀川区の境界線に成りまんねん。

JRの線路が概ね淀川区と東淀川区の境目ということになりまぁ。

JR東淀川駅を挟んで三つの踏切がおましたんですわ。

(JR東海道本線 北宮原第一踏切)




今では珍しい踏切警手さんが駐在する踏切でしたんや。

保安員の駐在する踏切はあちこちにおますが、警手さんの居る踏切は
鉄ちゃん爺やの記憶では大阪市内ではここだけのはず?

昔は踏切警手さんが居るのは当たり前でしたが現在では珍しい風景かも。

(JR東海道本線 北宮原第一踏切)








国土交通省の見解では「開かずの踏切」とは1時間に40分以上の
遮断機が下りて横断が出来ない踏切と定義しているようでんな。

ここ三つの踏切は朝のラツシュ時には1時間に56分から57分間も遮断される
「開かずの踏切」として平成24年4月以降で日本一を誇る難所でしたんですわ。

何せ東海道本線や貨物線に特急電車まで8本の線路を通過していきますんや。

踏切の長さも南宮原踏切では約46mで北宮原第一踏切でも約21mもおます。

渡り切れないことも考慮して3番線と4番線の間に遮断機が設けられてまっせ。

一日では最大で16時間も遮断機が下りているとのことでした。

ラッシュ時間なら1時間の内40分以上も横断できないんだとか。

そこに2019年月3月からJR大阪ひがし線が参入することに成り
この踏切が1時間の内に全てが遮断される恐れが考えられたんですわ。

それでこの踏切を廃止し新しい橋上駅に自由通路を設けると同時に
スロープ式に自転車等も通行できる跨線橋を新設することに。

地元の方はこれで地下道を通らずに往来が出来るように成りますんや。

(旧 JR東淀川駅の地下通路)




足の悪い方などはこの階段の上下は大変でしたそうですわ。

特に西口の駅舎からはこの地下通路を経由しないとホームに
入れないと言うことも有って問題に成ってたんだそうですよ。

(ホームから 旧の東淀川駅舎を撮影)


(JR東淀川駅ホームから新大阪駅方向を撮影)


(旧 JR東淀川駅南の跨線橋より撮影)


お隣のJR新大阪駅はこんな近くに在るんですよ。

元々は戦前に計画された弾丸列車として、ここ国鉄の東淀川駅が新大阪駅に
成る予定だったはずが東海道新幹線のルートが変更に成ったようですわ。

地元の方も快速や新快速に乗る場合は歩いて新大阪駅へ回る
そんな中途半端な駅に成りましたが廃止には至らなかったとも。

普通電車しか停車しない駅でも地元の方には大事な駅ですわな。

この三つの踏切は2018年(平成30年)11月11日で廃止となり
車両はJR新大阪駅の南側の府道に迂回することに成ったようです。

でも東淀川区と淀川区を往来する車両は少なくて1日で千台未満とか
自転車と歩行者の便宜を図ることで踏切は廃止にされたようですわ。

地元の方は一日で約1万人ぐらの方が踏み切を利用してたんだとか。

車両は従来から「開かずの踏切」を避けて往来してたようでっせ。

そりゃ~ 40分も50分も踏切待ちをする車はおまへんわな。


新しいJR東淀川駅舎が載せられずご免なさい。

新型コロナの関係で新しいJR東淀川駅を撮影に行けまへんでした。

(JR西日本 225系新型快速電車の車両)


(今は廃止された トワイライトエクスプレス号)




関東にも東海道本線の「総持寺踏切」や「戸塚大踏切」が同じように
ラッシュ時に1時間当たり58分から56分の「開かずの踏切」が
存在しましたが、アンダーパスにより「戸塚大踏切」は2015年に廃止へ。

当時は日本一の「開かずの踏切」だった「総持寺踏切」も2012年4月に
廃止に成っていると聞きましたけど確認はしていません。

JRでは大きな「開かずの踏切」は消滅したようですが全国にはまだ
約500近い「開かずの踏切」が有ると聞いてますんや。

山手線で唯一の踏切である駒沢駅近くの「第二上中里踏切」も近く
廃止に成るとの情報で将来の自動運転の可能性が出てきました。

関東では京王線の笹塚から仙川間にある25か所の踏切とか
西武新宿線に「開かずの踏切」が多数残っているようでんな。

関西ではJR阪和線の杉本町駅の踏切などが存在するようですわ。

次回はJR大阪駅界隈の懐かしい画像を紹介しますのでね。

ほな~ 今日はこれで さいなら~♪






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第7代大阪市長 関一 & 地下鉄のお話

2020-10-04 20:14:38 | 鉄道
大阪市に初めて地下鉄が開通したのは1933年(昭和8年)5月20日でおます。

前々回にお話しました御堂筋の拡張とほぼ同時に計画されたんですわ。

関市長は御堂筋の開通を見ずに1935年(昭和10年)に亡くなられてまぁ。

地下鉄の開通にはどうにか間に合ったようですね。

(開業当時の 大阪市営地下鉄の車両)




大阪で地下鉄が開通したのは梅田駅~心斎橋駅間(約3.3km)でした。

当時の車両が住之江区の車庫に保管されてるんでっせ。

この画像は何かの記念行事で大阪市庁舎の前に展示された際の物ですよ。

銘板の中央に現在も使用されている社標が写ってまっしゃろ。

「澪標」(みおつくし)の大阪市標と電車の「電」が合成されてまぁ。

(大阪市営地下鉄・心斎橋駅名標) (2012年2月撮影)


(大阪市営地下鉄・心斎橋駅 構内)(2012年2月撮影)




開通した頃とほとんど変わらないホームの風景でおます。

数年前に自動扉が設置された後の現在の画像が下ですよ。

シャデリアも当時の外観を残して居るんだって。

(大阪メトロ・心斎橋駅 構内)(2019年2月撮影)


東京メトロの浅草駅や上野駅と比較してホームの幅が広いでっしゃろ。

当時から10両編成の車両が停まれるようにされていたんだとか。

1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲の際にはこの駅に
市民が多数逃げ込んで助かったともいわれてるんでっせ。

大阪大空襲の翌日も大阪市営地下鉄は運転を続けたとのこと。

(大阪市営地下鉄・梅田駅構内) (2012年2月撮影)




大阪市営地下鉄は2019年4月1日から民営化されましたんや。

大阪市が100%株式を保有して2019年度は320億円の純利益。

立派な黒字経営で大阪市に多額の配当金を提供していることになりまぁ。

子会社に赤字の路線バス事業も含んでいるから素晴らしいと思いまんねんで。

(大阪市営地下鉄時代の ロゴマーク)


(大阪市営地下鉄時代の 出入り口のマーク)


(大阪メトロに変更後の ロゴマーク)


大阪メトロは俗称で正式名称は「大阪市高速電気軌道株式会社」でっせ。

東京メトロは正式名称が「東京地下鉄株式会社」でっしゃろ。

(東京メトロ 銀座線の車両)


同じ地下鉄なんですが大阪メトロは何故か「電気軌道」という名前が?

「大阪地下鉄株式会社」にすれば良いのにと思いまへんか。

(大阪メトロ  地下鉄の車内を撮影)


実は鉄道には昔の鉄道省が鉄道法により免許を与えた「鉄道会社」と
運輸省と建設省が軌道法により特許した「軌道会社」がおますんや。

大阪市の地下鉄は「軌道法」により認められた会社なんですわ。

「軌道法」によれば道路交通の補助として路面電車や地下鉄は
道路を占有して使用することを認めるという法律のようですな。

一方で「鉄道法は」原則として道路に鉄道を敷設してはならないとされ
例外として国土交通大臣が認めた時のみ道路を占有することを認める。

国道や県道を鉄道が踏切で通過するのがこれに当たりますかな。

(大阪メトロ 社標は昔の大阪市交通局のまま)


(大阪メトロ 堺筋線の車両)


(大阪メトロ 中央線の車両)




関西では「鉄道法」では鉄道の許可が降りないので「軌道法」を元に
鉄道の敷設する道を選んだ会社が多かったと聞き及んでますんや。

「鉄道法」では鉄道省と軍部の横やりが入り上手くいかなかったとか?

「軌道法」により道路の一部を占有するけど、大半は専用の鉄路を敷設し
合わせて「軌道法」で電車を走らせてまっせ、と言う手を考えたようでんな。

「軌道法」の盲点を付いて会社を設立することを考えたようですわ。

関西の阪神電鉄・京阪電鉄・阪急電鉄などは「軌道法」でスタートし
戦後に成ってから「鉄道法」に基ずく会社に変更しているんでっせ。

大阪市営地下鉄は現在も「軌道法」のままで運営してますんで
「大阪高速電気軌道株式会社」と言う聞きなれない名前なんですよ。

東京でも「軌道法」で走っている交通機関はおまんねんで。

(都営 荒川線)




こちらは路面電車でっから「軌道法」が適用されるのが基本ですわな。

他には郊外に多摩モノレレールというのがおまっしゃろ。

(多摩モノレール  立川駅にて撮影)


こちらは「軌道法」を利用して作られたと聞いてまんねんけど。

大阪府下でも北大阪急行さんが「鉄道法」と「軌道法」を使い分けて
現在千里中央駅から新箕面駅までの工事をしてはりますんや。

新千里駅から箕面船場駅までは「鉄道法」でそこから先の
新箕面駅までは「軌道法」で認可を受けたようでっせ。

「軌道法」を使えば大阪府や箕面市から補助金が受けられる
そんな訳で、二刀流を使い分ける会社も出てきたようでんな。

(大阪メトロ 御堂筋線 梅田駅ホーム)


これで今回はお仕舞にしまひょ。

ほんなら! これで、さいなら!
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伊那谷を巡る旅  JR飯田線で縦断

2020-07-20 19:10:52 | 鉄道
大阪府も新型コロナウイルス感染者が急速に増えてまんねん!

7月15日が61人 7月16日が66人 7月17日が53人 7月18日が86人

7月19日が89人 7月20日が49人 7月21日が72人 7月22日が121人

大阪府で7月22日の感染者が遂に過去最多を記録!

大阪市内の通天閣と吹田市の万博公園にある太陽の塔が7月12日から
黄色に点灯され、大阪府民に強く警戒を呼び掛けてるんですわ。

(大阪モデル  黄色信号点灯) 


「Go To トラベル」とかで世の中が騒がしいでっけど、鉄ちゃん爺やのは
机上でのトラベルでっさかいに、新型コロナウイルスに感染しまへんわな。

ほな~ JR中央本線の岡谷駅からスタートしまひょ。

画像は2009年(平成21年)4月に撮影した物なんで、ご容赦くださいね。

(JR中央本線 岡谷駅名標)


JR飯田線は本来は二つ先のJR辰野駅から始まるんでっけど運行上では
JR岡谷駅と一部がJR上諏訪駅を始発として現在も運転されてますんや。

(JR岡谷駅構内の 喫煙コーナー)


この頃は禁煙をする直前でしたので、ここでタバコ休憩をしましたんですわ。

最近は何処の駅も禁煙になり喫煙コーナーが見れなくなりましたな。

(119系 JR飯田線の電車) (2012年3月で全車両が引退)




JR飯田線は何せJR辰野駅からJR豊橋駅まで195.7kmしかないのに
駅の数が94もあって、しかも山岳路線でスピードを出せないんですわ。

大きなカーブやキツイ勾配もあり最高速度も85kmに制限されてまんねん。

そんな訳で国鉄時代に119系という加速減速に重点を置いた専用の電車を
約60両ばかり投入して、民営化後はJR東海が引き継いだそうでんな。

ほとんどが廃車されて福井市の「えちぜん鉄道」に12両ばかりが譲渡され
現在も塗装は変わったそうでっけど、元気に働いているそうでっせ。

(天竜川の源流近くを 通過中)


天竜川の源流は岡谷市の諏訪湖にある釜口水門で標高が約759mに成りまぁ。

伊那谷を南へ流れて浜松市の東側で太平洋の遠州灘に注いでいるそうでんな。

(天竜川の流れに沿って 伊那谷を南下)


鉄ちゃん爺やが乗った544M列車はJR上諏訪駅を9:22に発車し途中の
JR岡谷駅を9;45に通過し、何とJR豊橋駅に16;16に到着するらしいでっせ。

鉄道マニアには良く知られた在来線の普通電車で最長時間を走るだとかで
何と6時間54分も掛けて約222kmを走る鈍行列車なんだって。

鉄ちゃん爺やも乗った時は何も考えず、帰阪してから気が付きましたんや。

JR辰野駅でJR東日本さんとJR東海さんの乗務員が交代されましたで。

天竜川は左手に変わって暫くはJR飯田線からは見えなくなりますんや。

その代わり右手に中央アルプスが左手に南アルプスが見えてきまぁ。

(JR飯田線 駒ヶ根駅名標)


(JR飯田線 駒ヶ根駅舎)


ここで途中下車して光前寺と駒ケ根ロープウエーに乗りまひょかな。

計画ではロープウエーに乗ってから戻る途中で光前寺へと考えてましたんや。

所が昨夜に春の嵐が有って小さい雪崩でロープエーが運転休止だとか。

それで先に光前寺へ向かうことにしてバスの乗務員さんにロープウエーが
復旧したら携帯に連絡をお願いして、光前寺に向かいましたんや。

(長野県駒ケ根市の マンホールの蓋)


(南アルプスの 残雪の峰々)




路線バスを降りて脇道を1kmほど歩くと山門が見えてきましたで。

ここは1992年(平成4年)5月に悪友たちと一度だけ訪れた事がおますんや。

珍しい「光苔」が見られる信濃五山の一つ天台宗の別格本山でしたかな。

(駒ケ根市 光前寺の仁王門)




枝垂れ桜が有名なんですが4月2日なので信州では桜は少し早すぎた感じでんな。

前回に昼食をした門前の蕎麦屋さんも季節外れでお休みとは残念の限り。

(光苔の見られる 光前寺の参道)




光苔は冬場は枯れてしまうんだと初めて知ったような次第。

前回は5月下旬で微かに光っているのを見た記憶がおますんやけど。

(光前寺 本堂)


(光前寺 三重塔)




(霊犬 早太郎の墓)


村の娘の身代わりに成って化け物と戦い亡くなったとの伝説があるんだって。

この犬の生まれた静岡県磐田市と駒ケ根市は、そんな訳で姉妹都市に成ってるんだって。

(花より だんごの 幟)


丁度境内を写していたら携帯が鳴り、先ほどのバスの乗務員さんからTEL
ロープウエーが復旧したとのこと、次のバスは35分後にバス停に着きますよだって。

(駒ケ根市の 駐車場)


此処から先は自然保護により一般車両は入れないそうで車をここに置き
路線バスに乗りかえることに成っていると、前回に来た時に確認済み。

前回はそんな訳でロープウエーを諦めて光前寺に急遽変更し昼食でした。

(駒ケ根バスで ロープウエー駅前へ)








ロープウエーの駐車場は関係者のみで一般や観光バスは入れません。

ここからは鉄ちゃん爺やも初めてのコースになりますんや。

(駒ケ根ロープウエーの駅舎)








話には聞いてましたが凄いロープウエーで驚きましたで。

標高2600mまで一気に登って行きまんがな。

(駒ケ根ロープウエー 車内から撮影)






(駒ケ根ロープウエー 標高2531m地点を通過中)


(係員さんが二人で 雪崩の雪を除雪中)


ここが春の嵐で雪崩が発生しロープウエーが運行できなくなった場所らしい。

係り員さんが安全を確保する為に今も除雪作業をされているようですわ。

(駒ケ岳ロープウエー 千畳敷駅) (標高2612m)


(日本一高い駅 千畳敷駅で記念撮影)


交通機関で日本一の高い所にある駅が駒ケ岳ロープウエーの千畳敷駅になりまっせ。

第二位が立山黒部アルペンルートの室堂駅で標高が2450mだったはず。

(千畳敷カールにて撮影)


まだ冬の千畳敷カールですが6月頃には高山植物が咲き乱れ周りは
遊歩道で観光客が大勢押し掛ける人気の千畳敷カールですよ。

現在はまだ深い雪に覆われて遊歩道なんかは埋もれてわかりまへんで。



(千畳敷駅 構内の温度計 氷点下4度)


気温は室内で4月2日なのに氷点下4度を示していますね。

寒くて室外では10分ぐらいしか歩けませんでしたよ。

(寒いので ホットコーヒで小休止)




(中央アルプス 宝剣岳 標高2931m)






千畳敷カールからは300mぐらいの標高差ですが険しい山ですよ。

裏側には木曽駒ケ岳(標高2956m)が聳え登山者でも初心者なら
夏場でも入山が規制される危険な箇所があるとか聞きましたで。

(遥か彼方には 南アルプスの山々が)


なだらかな中央から右手が間ノ岳で標高が3190mで日本第三位の高山で
数年前に標高が修正されて北アルプスの奥穂高岳と同じ高さになったっとか。

中央の一番高く見える山が北岳で標高が3192mのはず。
ご存じの通り富士山に次ぐ日本第二位の高山ですよね。

肉眼では富士山が薄っすらと右端に見えてますが画像では?

小さくて富士山には見えないかもしれまへんな。

日本で一位の富士山から二位の北岳それに三位の間ノ岳と
三つが同時に見えるとは、ここ千畳敷駅ならではの絶景かも?

(中央アルプス 空木岳&南駒ヶ岳を ズームアップ)




この日は長野県の飯田市に宿泊の予定でしたので次のロープウエーの
時刻で下山することにしました、夏場の6月頃にもう一度登りたいですな。

標高2600mですがスニカーで十分な千畳敷カールなんですよ。

(戻りの路線バスの 車内から撮影)


遠くに残雪の南アルプスが見える、もう暫く眺めて居たい心境でした。

伊那谷は交通が不便だけど、景色は木曽谷より、こちらの方が優れている感じ。

(JR飯田線 駒ヶ根駅の 観光用標識)


(JR飯田線 119系普通電車)




(JR飯田線 飯島駅舎)


JR飯田線は伊那谷の河岸段丘の上を走ってますので川を超える際は
大きく山側に迂回してから鉄橋を渡り再び元の位置に戻りますかな。

(JR飯田線 大きく河岸段丘を迂回中)








鉄ちゃん爺やはJR飯田線には4~5回ばかり往復で乗ったことがおますんや。

時間は掛かりますが残雪のアルプスを眺める旅は、見飽きることが無いんですよ。

(右手には中央アルプスの 空木岳?)






(左手には南アルプスが)






(長野県飯田市の マンホールの蓋)




この日は飯田市のホテルに早めに到着しましたので、一風呂浴びた後に
近くの居酒屋で夕食としましたんや、ここは飯田バスターミナルの近くでした。

(飯田市の 居酒屋で)




(伊那の名物 馬刺しです)


馬刺しと言えば熊本県と、ここ長野県の伊那地方になりますかな。

この馬刺しは特別に取り寄せて貰った特製で確か2000円ぐらいでしたかな?

ここまで来て鉄ちゃん爺やのPCのファイルが一部だけ欠けているのを発見。

本当はJR飯田駅から先は山が迫ってきて天竜川との複雑な地形を走りますよ。

(天竜峡 川下りの船乗り場を通過)


何せJR飯田線って、これから先はモグラ鉄道のような感じになりますんや。

JR辰野駅からJR飯田駅まではトンネルは1個だけで殆どが河岸段丘を
走りますが、JR天竜峡駅を過ぎると山また山をトンネルで通過します。

在来線ではJR山陰本線(トンネル数176)に次ぐ第二位がJR飯田線で
138個のトンネルの内、137個が連続してますのでウンザリしますよ。

(トンネルの合間に 天竜川の流れが右手に)




(JR飯田線 平岡駅名標)


令和2年7月豪雨でここから先は現在も不通になっているそうですよ。

この辺りは数年に一度は不通になる、鉄道会社泣かせの難所でもありますかな。

JR飯田線はここから先は秘境のような山間部を通過していきます。

(JR飯田線 小和田駅舎)


皇后陛下のお生まれの実家と同じ駅名だとかで一時は人気になったとか。

でも~ この駅で下車したら次の電車までは2~3時間待ちで周囲は何もなし。

天竜川にも降りられず、近くには村落も全くない秘境なんですよ。

有るのは「長野・静岡・愛知 三県の境界」を示す標識のみ。

この標識をデジカメで撮影したんですがファイルが消滅してまんがな。

(渡らずの鉄橋を通過中))


鉄道マニアには良く知られた面白い鉄橋ですよ、普通の鉄橋は対岸に渡るんですが
川の途中まで行って元の岸に戻ってくるのが不思議なんですよね。

計画では対岸に渡る予定だったそうですが、地盤が悪くて対岸に渡れずに
半分まで川を渡りかけてから元の岸に戻ってしまう形になったそうですわ。

(JR飯田線 東栄駅舎)


まるで鬼の顔をしたようなユニークな駅舎でJR飯田線でも人気の駅舎ですかな。

ここは既に愛知県に入ってきましたので、終点のJR豊橋駅まではもう少しですね。

(愛知県豊橋市 マンホールの蓋)


(JR豊橋駅舎)


後半の部分がPCの画像ファイル消滅で中途半端になりまして、ご免なさい。

本当は秘境の駅や風景を紹介したかったんですが竜頭蛇尾に終わりましたね。

それでは、信州を巡る旅は、今回でお仕舞にさせて頂きます。

ほんなら~ これで、さいなら~



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北アルプスを眺めながら  JR大糸線の旅

2020-06-15 19:34:40 | 鉄道
JR大糸線は長野県の松本駅から新潟県の糸魚川駅までの鉄道なんですよ。

北陸新幹線が金沢駅まで開通して糸魚川駅(いといがわえき)は
「えちごトキめき鉄道」へ北陸本線から名称が変わったんですわ。

そうするとJR大糸線の糸魚川駅から南小谷駅までのJR西日本の
部分が飛び地のようになり孤立しているのが現状なんでっせ。

JR西日本管轄では赤字路線の最大の区間に成っているとも。

(キハ120形 JR西日本の気動車)(2011年4月撮影)


(JR糸魚川駅名標) (2011年4月撮影)


この駅名標は当然ながら「えちごトキめき鉄道」のデザインに変わったはず。

昔はこの駅から特急「白鳥」で大阪駅まで乗ったこともありましたけど。

(JR北陸本線時代の 糸魚川駅ホームにて)(2011年4月撮影)


(糸魚川駅構内の ラッセル車)(JR北陸本線時代に撮影)


JR松本駅まで約105kmでっせ、それでは~ 出発! 進行!

列車はヒスイを産出する姫川を遡上するように進みますんや。

姫川は長野県の白馬村辺りから北へ流れて糸魚川市で日本海に注ぎます。

発車して周囲は直ぐに雪景色と変わってきましたで。

(JR大糸線 姫川沿いを南下)(2011年4月撮影)




この区間は過去に集中豪雨や大きな雪崩や地震などで被害を受け
たびたび不通となりJR西日本の、お荷物的な存在なんですわ。

1日の乗客が80人~90人とも言われ被害のたびに廃線かな?

2010年にも地元と協議するとの発言もあり現在も代替えの
バス路線さえ難しい、険しい山岳地帯を走ってますんや。

この辺りで新潟県から長野県に変わったはずなんですけど。

(JR大糸線 中土駅付近を通過中)(2011年4月撮影)




ご承知の通りこの辺りは糸魚川・静岡のフォッサマグマと呼ばれる
地溝帯の真っただ中を鉄道が走っていることになりまぁ。

だから崩れやすい山岳部に合わせて冬場の豪雪地帯なんですから。

毎年のように不通となる鉄道の難所でもありますかな。

(JR大糸線 南小谷駅=みなみおたりえき)(2011年4月撮影)






長野県北安曇郡小谷村(きたあづみぐんおたりむら)と読みます。

寂しげな山村ですがJR東日本とJR西日本の唯一の連絡駅ですわ。

松本駅からやってきた電車も、糸魚川駅からきた気動車も全てが
この駅で乗り換えとなりますんや。

(JR南小谷駅構内で 撮影)(2011年4月撮影)


画像の左側はJR東日本の特急「あずさ」で、右側は鉄ちゃん爺やが
糸魚川駅から乗ってきた普通列車の気動車になりますよ。

この駅で糸魚川駅から約35kmほど乗ってきたことになりまぁ。

JR東日本とJR西日本の列車が並ぶのは日本ではこの駅のみでっせ。

鉄道フアンには珍しい画像ですが、一般の方には普通の写真ですわな。

(JR大糸線 E127系 普通電車) (海ノ口駅で撮影)


今度はワンマンカーで2両編成の普通電車に乗りますんや。

後ろ乗りで前から降りる、関西人には慣れない方式ですわ。

(JR白馬大池駅名標)(2011年4月撮影)


険しい山間部を抜けて右手に後立山連峰が見えてきましたで。

これからは4月ながら残雪の北アルプスが眺められまんねん。

(白馬大池付近を通過中に 撮影)  (2011年4月撮影)


間もなくスキーのメッカである白馬村に近づいてきましたな。

長野オリンピックでジャンプ競技場に成ったのが白馬村でしたかな。

(JR大糸線 白馬駅名標) (2011年4月撮影)


(JR大糸線 白馬駅舎) (2011年4月撮影)


(長野県白馬村 マンホールの蓋)


この日は白馬村で1泊して白馬三山をホテルから眺めることにしまひょ。

寒かったですが露天風呂から観る白馬三山は素晴らしい眺めでしたで。

(白馬ハイランドホテル)(2011年4月撮影)


(白馬三山をズームアップ)(2011年4月 ホテルの客室から撮影)








翌日は再びJR白馬駅に出て松本市の方へ向かうことにしました。

昭和の時代に改札口を入った所に掲げていた旧の駅名版を発見しました。

現在は白馬駅ですが当時は信濃・四ツ谷駅だったはず。

(JR大糸線 昔の 信濃・四ツ谷駅名標) (2011年4月撮影)


(白馬村付近の 姫川の流れ)  (2011年4月撮影)




姫川も白馬村の辺りまで来ると小川のような流れになりましたね。

まだ残雪が見られますので寒々とした風景ではありますけど。

(五竜岳に 武田菱の雪形を発見)(2011年月撮影)


五竜岳の雪形は4月か5月中旬まで長くみられると言われてまんな。

五竜岳は標高2814mの後立山連峰の中央付近に聳えていますよ。

鉄ちゃん爺やが雪形の実物を見たのはこの時だけでおます。

(JR大糸線 神城駅名標)(2011年4月撮影)




(JR大糸線 神城駅舎)(2011年4月撮影)


ここから列車は小さなの峠を越えて長野県の大町市に入りますよ。

姫川はこの辺りが源流で峠を越えると高瀬川となり安曇野市へ向かう
犀川(さいがわ)の支流となり、流れも南向きに変わりますかな。

(JR大糸線 先頭車両から撮影) (2011年4月撮影)








(JR大糸線 簗場駅名標) (2011年4月撮影)


(JR大糸線 簗場駅舎) (2011年4月撮影)


(仁科三湖ですが まだ氷結してますね) (2011年4月撮影)




JR大糸線はこの辺りが最高地点で下りに入り残雪もこの辺りでお仕舞のようでした。

野生の日本猿に見送られ、峠を下ると海ノ口駅という無人駅に到着しましたよ。

(JR大糸線 海ノ口駅舎を背景に)  (2011年4月撮影)






海のない長野県ですが「海ノ口駅」とはこれは如何にと言うような感じ。

別の線区には「小海駅」とかいうのも有りまして不思議ですよね。

この駅まで下って来ると雪は消えて春の花が咲いていましたよ。

(雪解けで 春の花が咲いてました) (2011年4月撮影)




(JR大糸線 海ノ口駅付近の 線路)(2011年4月撮影)


線路を歩くのはマナー違反ですが、なにせ1時間半ぐらい電車は来ませんので。

ご免なさい~ 近道をして30分ほど散歩をさせてもらいました。

(JR大糸線 先頭車両から撮影) (2011年4月撮影)


(特急電車あずさ号と すれ違い)(2011年4月差釣り)


E257系で長くJR東日本で使われてきましたがE353系が新しく参入し
2019年3月で定期運行から引退し、臨時特急や急行に時々は走るそうですが
E353系が続々と進出するので廃車になるのが近いかも?

(JR大糸線 信濃大町駅舎) (2011年4月撮影)




(JR大糸線 信濃大町駅名標)  (2011年4月撮影)


(長野県大町市 マンホールの蓋)  (2011年4月撮影)


(長野県大町市 塩の道 博物館) (2011年4月撮影)


信濃大町は立山・黒部アルペンルートの長野県側の起点となりますんや。

路線バスで大町温泉郷へ出て扇沢からトロリーバスでスタートですよ。

そんな関係で観光都市として夏場には凄く賑わいをみせるんですわ。

鉄ちゃん爺やが家族旅行で訪れたのも35年近く昔に成りましたけど。

(北アルプス 爺ケ岳 & 鹿島槍ヶ岳) (2011年4月撮影)




左側の三つの峰を持つのが「爺ケ岳=じいがだけ」で標高が2670m
右側の二つの峰を持つのが「鹿島槍ヶ岳=かしまやりがだけ」で
標高が2889mで鹿島槍ヶ岳は、後立山連峰の主峰と言われてますかな。

信濃大町駅を出た列車は北アルプスの東麓を一路走り続けますよ。

(JR大糸線 安曇追分駅名標)(2011年4月撮影)


長野県安曇野市(あづみのし)なのに駅名は「あずみおいわけ」ですな。

他にも安曇沓掛駅(あずみくつかけえき)も先ほど見かけたんだけど。

「づ」と「ず」を使い分けているのはネットで検索して正しいと判明でした。

(有明山=ありあけやま) (2011年4月撮影)


有明山は別名を有明富士または信濃富士とも呼ばれるそうですわ。

安曇野の一番東側に聳える山なので冬場でも積雪が少ないんだとか
北アルプスらしからぬ山だと言われますが台形型の目立つ山ではありますね。

標高が2268m有りますが意外に高く感じないので気の毒にも感じまぁ。

北アルプスの山なのに登山をする方も少なく人気のない山の一つだとか?

(JR大糸線 穂高駅舎)  (2011年4月撮影)






近くに穂高神社が鎮座してますので駅舎も神社の建物のような感じでんな。

この駅前からレンターサイクルで大王わさび農場や碌山美術館など観光客が
のんびりと、安曇野(あづみの)らしい風景を堪能できる街でもあります。

鉄ちゃん爺やも2005年にレンターサイクルで回りましたが当時はまだ
デジカメじゃなくて、使い捨てのカメラで写していた頃で画像がおまへん。

(穂高神社 本殿) (2011年4月撮影)




穂高神社やの奥宮は上高地の明神池の側にあり、ここが本宮の様でした。

安曇野には道祖神が各地にあり、観光客にも人気のスポットだとか。

安曇野(あづみの)って何となく情緒のある地名だと思いまへんか?

(安曇野の 道祖神)  (2011年4月撮影)






(長野県安曇野市 マンホールの蓋) (2011年4月差釣り)


(安曇野から眺める 常念岳の峰々)


常念岳は標高2857mで北アルプスの手前で常念山脈とも言うらしいでんな。

安曇野市から眺める常念岳は周りの風景とマッチして信州らしい眺めでおます。

JR大糸線も穂高駅を出ると約30分ぐらいで松本駅に到着しますかな。

南小谷駅から松本駅までは70.1kmと表示されてました。

糸魚川駅からの旅も、これでお仕舞になりまぁ。

次回は木曽の奈良井宿と諏訪湖畔などを机上で巡りまひょ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪
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鉄ちゃん爺やの一人旅 JR門司港駅舎 & JR小倉駅周辺

2019-04-28 20:18:54 | 鉄道
一人旅3日目 3月19日 天気は 雨のち晴れ

(ようこそ 北九州市へ)(JR小倉駅 新幹線北口)


ネットのお友達と待ち合わせ時間がまだ30分有ったので
昔の出張で下車した新幹線北口へ立ち寄ってみました。

でも記憶に残る駅前は何も無くリニューアルされた感じ。

そうですよね25年近くも昔でJR小倉駅舎も変わったし。

(メーテルと鉄郎 銀河鉄道999の銅像) (JR小倉駅・新幹線北口前)


松本零士さんは小学生から高校時代までを当時の小倉市に
育ち「銀河鉄道999」の構想を当時に思い付いたとか。

2012年(平成24年)に北九州市漫画ミュージアムが
完成し名誉館長に就任した縁で銅像が造られたそうですわ。

メーテルと鉄郎 が銀河鉄道に乗って宇宙へ旅にでる。

その昔、鉄ちゃん爺やの息子が好んで見ていたアニメ。

(宇宙海賊 キャプテンハーロックの銅像)


(銀河鉄道999 マンホールの蓋)




戻ってからネットで検索したんだけど9か所ほどあるとか。

マンホールの蓋は北九州市の水道事業100周年を
記念してJR小倉駅周辺に設置されたんだって。

在来線の改札口に戻り門司港駅までの切符を購入しまひょ。

(小倉駅 ~ 門司港駅 280円)


(JR小倉駅名標)


(JR小倉駅にて 自撮り)


それではJR門司港駅へ向かうことにしまひょ。

実は、一週間前にJR門司港駅舎がリニューアルするとの
情報を知って、北九州を訪れることにしたんですわ。

小倉駅から門司港駅までは三つ目で約15分前後でっかな。

(JR門司港駅 レトロなホーム)








(JR門司港駅構内 鹿児島本線の 0キロ標識)


現在は関門トンネルが出来て二つ手前の門司駅が本州と
九州を繋ぐ連絡駅なんですが、鹿児島本線の正式な起点は
現在もここ、門司港駅とされているんだっせ。

(JR門司港駅舎) (国の重要文化財に指定)






鉄道の駅舎で国の重要文化財に指定された第1号なんでっせ。

1914年(大正3年)に開業されたと聞いてますんや。

重要文化財に指定は1988年(昭和63年)でしたけど。

あのJR東京駅の丸の内駅舎より5年も先に決まったちか。

私たち鉄道マニアでは門司港駅舎・東京駅丸の内駅舎それに
大社駅舎(島根県)を、日本三大レトロ駅舎と呼びまんねん。

(門司港駅舎の構内)













1941年(昭和17年)に関門トンネルが開通するまでは
こここ国鉄・門司港駅は当時には国鉄・門司駅と呼んだそうです。

下関駅とは連絡船で繋がり多くの乗客が、ここ門司駅で
乗り降りした由緒ある駅として繁栄したんだそうです。

だから戦前には朝鮮半島や満州への貿易港でもおました。

(バナナの叩き売り発祥の地)


当時は台湾から送られてきたバナナは腐りやすいので
神戸港へ送れないものを、ここで即売したのが始まりだとか。

「男はつらいよ」で寅次郎さんが演じた場面を思い出しますかな。

当時のレトロな建物も併せて観光の名所に成ってるんでっせ。

(旧門司税関)


1912年(明治45年)に完成した建物ですが何度も改修され
現在は北九州市が買い取って使用しているんだとか。

(旧大阪商船 門司支店)








1917年(大正6年)に完成した古い建物で、現在は
国の登録文化財に認定されているようでんな。

鉄ちゃん爺やが若い頃に出入りした神戸市や大阪市に在った
大阪商船の建物に雰囲気が似ているので懐かしく感じました。

(旧門司三井倶楽部)


大正時代にアインシュタイン博士が訪れたこともある建物で
現在は高級な「ふぐ料理の」店が1階を使用しているとか。

「フグ料理」は大阪でも安く食べれますのでパスしました。

(門司港の はね橋)






ここまで来ると前回に掲載した下関市は目と鼻の先に。

目測では約2~3kmぐらいに感じまっけどな。

(前日に登った 海峡ゆめタワー遠くに望む)


(下関市の水族館を遠くに望む)


(関門大橋の方向を撮影)




画像の向こうに見える高い山は下関市の火の山でこの山麓の
付近が源平の合戦になった壇ノ浦と呼ぶ海岸に成ります。

山陽新幹線は火の山の山腹から関門海峡の海底を潜っています。

(パトロールに向かう巡視艇)


右手の遠くに写っているのは海峡ゆめタワーのようです。

関門海峡は船の往来が多くて海難事故も多いようですね。





それではJR門司港駅に戻って小倉駅に向かいますよ。

JR門司港駅は北九州市の門司区になるそうです。

(JR門司港駅構内の電車)




この日が小倉のホテルに宿泊する最後の日なので夕方に
小倉の名所を観光地図を観ながら散策してみました。

(森鴎外の旧居)




森鴎外は軍医として小倉城内の第12師団に配属されていた当時
ここを住居として、俳句や短編小説を執筆し始めたそうです。

(小倉城外に 森鴎外の文学碑)






(紫川の向こうに 井筒屋百貨店の本店)


(夕闇迫る 小倉城天守閣)


紫川に沿って暫く300mぐらい下ると常盤橋にでました。

ここは江戸時代には長崎街道の起点に成る橋だったそうです。

(長崎街道の起点 常盤橋)






長崎街道は現在の博多は通らずに斜めに大宰府をかすめて
佐賀市内を通過して長崎市に通じていたようですね。

筑前の黒田藩を避けていたのは何故なのか不明ですが
黒田藩が出来る前からの街道だったのかもしれませんね。

(長崎街道の説明書き)








(JR小倉駅前の 繁華街)






滞在中に全国の地価が発表されましたが北九州市ではこの辺りが
一番地価が高い繁華街の様でした。

(小倉の魚町界隈の繁華街)










小倉までやってきたのでモノレールに少しの区間だけ乗って見ました。

昭和50年代には、このモノレールは走ってましたが乗るのは初めて。

(都市モノレール 小倉線)












これで北九州の小倉と門司港駅の掲載を終わります。

次回はJR鹿児島本線で博多へ向かいます。

それでは~ これで、さいなら~♪
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昇降ロープ式ホームドア  阿部野橋駅で運用開始!

2018-12-31 19:10:50 | 鉄道
乗降客数が10万人を超える駅に国土交通省が転落防止の
ホームドアを設置することを要望してから約2年が経ちました。

鉄ちゃん爺やの地元である近畿日本鉄道が12月から
新しい方式のホームドアの運用を始めましたんや。

近畿日本鉄道で乗降客が第1位の阿部野橋駅3番線に
昇降ロープ式のホームドアが12月中旬に出来ましたで。

続いて4番線には2019年2月に設置のようでんな。

(近鉄 阿部野橋駅3番線 昇降ロープ式ホームドア)






電車が入線して来るとロープが扉よりも上に巻き上げられますんや。

発車時刻に成り電車のドアが閉まるとロープが下がってくるんですわ。

ロープが下がり終わると電車が発車していくそんな感じでした。

係り員がボタン操作で稼働させるような感じに見えまっけど。

この簡単な昇降ロープ式ホームドアでも3番線と4番線に設置したら
約5億円の費用が必要なんだとは知りまへんでした。

半分は国と大阪府と大阪市の負担だとの事のようですわ。

この昇降ロープ式のホームドアは関西ではJR高槻駅の一部と
同じくJR六甲道駅でも運用が始まっているとのこと。

関東では田園都市線で試験運用がされているようですけど。

(従来型の ホームドア)






この横開き式のホームドアはJRや私鉄で採用されてまっけど
費用が昇降ロープ式よりも2倍ぐらいの費用が必要だとの話。

しかもホームの補強が必要で莫大な費用が要るのでJRや私鉄でも
なかなかホームドアの設置が進まないのが現状なんだそうですわ。

東京のJR山手線でも東京駅や新宿駅など設置がされて無い駅が
有るとか転落事故の防止が急がれると思いますんや。

2020年を目標に各社がホームドアの設置を急いでいるようで
転落防止に大きな効果も見られるとかで期待したいですわな。

今年のブログはこれにてお仕舞にさせてもらいまぁ。

鉄ちゃん爺やの拙いブログにお付き合い頂き有難うございました。

どうか~ 来るべき新しい年が良い一年である事を願っています。


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Osaka Metro & 自然史博物館 

2018-06-10 14:00:23 | 鉄道
大阪市営地下鉄が今年の4月1日から名前が変わり

Osaka Metro (オオサカメトロ)

正式名 大阪市高速電気軌道 ㈱ (民間会社に)

2018年(平成30年)4月1日に発足


鉄道と呼ばないのは道路の下を掘って出来た
地下鉄でしたもんで軌道法が適用されてまぁ。

鉄道とは道路以外の所を走る車両という法律が
大正から戦前には施行されていたんだって。

こちらは国鉄などで「鉄道法」と呼びましたんや。

だから路面電車がルーツなのが「軌道法」でんな。

大阪市の地下鉄は「軌道法で」認可されましたんや。

(オオサカメトロの ロゴマーク)


デザインと名前が横文字に変わったんでっけど。

でも大阪府民は今後も「地下鉄」と呼びまっせ。

公募で選ばれたオオサカメトロでっけどな。

大阪人には泥臭い「地下鉄」がお似合いでおます。



東京は地下鉄が2社あるので都営地下鉄と区別し
東京メトロと呼ぶのが定着してきたそうでんな。

大阪は地下鉄が、一つしかおまへんので新しく
オオサカメトロなんて呼ぶ人は少ないと思いまぁ。

それに東京メトロの真似したとか言われたら
大阪人は、けったくそ悪いもんでね。



ご丁寧に Osaka Metro だっせ。


いくらインバウンドで外国人が多いと言いまっけど
乗客の大半は日本人のはずだと思いまんねん。

日本語での表記が欲しかった気もしますんや。

他府県からお越しの方が迷わなければと思いまぁ。

決まったものは、仕方がおまへんけど。

(オオサカメトロ ロゴマークの変化)


オオサカの「O」が変化して ⇒ メトロの「M]に

らせん状に変化することを表現してるんだって。

左の上に 走り続ける 変わり続ける との表示が。

小さくて老人には読めないぐらいの文字でおます。

下の大きな文字は4月から暫くの表記でっしゃろな。

流石に駅の構内には日本語が併記されてまっけど。

(オオサカメトロ 梅田駅 改札口前)


地下鉄の車両はロゴマークの付け替えが遅れまして
5月の撮影でっけど、旧の「マルコマーク」のまま。

こんな車両が6月まで一部で見られるんだそうですわ。

現在では全ての車両が新しいロゴマークに変わったはず。

オオサカメトロには全部で約1344台の電車がおます。

(オオサカメトロ 御堂筋線の車両)(旧のロゴマーク)


(大阪市営地下鉄時代の 元のロゴマーク)


懐かしい感じがするのは鉄ちゃん爺やだけかしら?

何せ40年近くこのロゴマークを見慣れてたもんでね。

大阪の地下鉄はホームドアの設置が遅れてますんや。

特にメインルートである御堂筋線が問題なんですわ。

現在の所は天王寺駅と心斎橋駅の二か所だけでっせ。

(オオサカメトロ 天王寺駅のホーム)


天王寺駅に昨年の春にホームドアが初めてお目見え。

乗降客が一番多いオオサカメトロの梅田駅には
現在も何故かホームドアーが設置されてまへん。

過去の転落事数などから考慮したのかしら?

1日平均で約40万人が乗り降りする梅田駅だっせ。

悲惨な転落事故が起こらないことを願ってますわ。

一つの駅で設置に数億円の費用が掛かるんだって。

(オオサカメトロ 梅田駅のホーム)


(オオサカメトロ 長居駅名標)


(オオサカメトロ 長居駅構内)


セレッソ大阪のホームグランドらしいでっしゃろ。

遅れてた長居公園の自然史博物館を紹介しまひょ。

(大阪市立自然史博物館前にて 自撮り)


ここは10年ぐらい前に一度だけ入場したんですが
最近になって大きくリニューアルされたそうですわ。

(約6万年前の ナンマン象 & オオツノジカ)


約45万年前から約2万5千年前まで生存していた?

当時の大阪は今よりも相当に温暖だったようでんな。

1階のフロアは殆ど変わりがないように見えました。

2階の展示場が大きくなり展示品も倍増した感じ。



2階には大阪大学構内から出土したマチカネワニが。

(マチカネワニの 骨格標本)


自然史博物館のはレプリカでっけど有名な標本だっせ。

全長が約7mもある完全な骨格で出土したんですわ。

大阪大学の豊中キャンパスに本物が保存されてまぁ。

約42万年前に現在は標高20mぐらいの丘陵地に
住んでいた「待兼山」の名前が付けられてますんや。

大阪大学のキャンパスを造成中に発見されたんだって。

東京オリンピックの直前で1964年(昭和39年)
地元新聞やテレビで大きなニュースになりましたんや。

大阪府豊中市に「マチカネワニ」が居たなんて驚き!

大阪大学で一度だけ本物を拝見したが写真撮影は禁止!

現在も無料で大阪大学の豊中で見学ができますから。

(6500万年前の アンモナイトの化石)




ここ自然史博物館では小学生などが実物に触れるように
各所で工夫がされてるのが特徴なんですわ。

アンモナイトの化石は10年前も置かれていたような記憶が。

触られすぎてピカピカに光っているのは仕方がないのかも。

(こちらは 石炭)


鉄ちゃん爺やなどは、石炭ストーブを使った世代なので
珍しくもないけど、現在の小学生なら珍しいんでしょうな。

最近は外国からの輸入するのが石炭なんだから。

昭和30年代までは日本にも多くの炭鉱が有ったけど。

(小学生も大人も モニターで検索)


鉄ちゃん爺やも近所に植わっている知らない樹木を検索。

今回は鉄ちゃん爺やも新しい発見でしたのを紹介しまひょ。

日本人が大好きな「カニ」の事で目からウロコでした。

「カニ」は学問的に5本が対になる足が10本なんだって。

(タラバガニの 標本)(足が8本)


(タカアシガニの標本)(足が10本)


タラバガニは4本の対で足が8本になってまっしゃろ。

タラバガニや花咲ガニは正式には「蟹」の仲間じゃなく
「ヤドガリ」の仲間に入るんだと初めて知りましたで。

10脚目なのが学問的には「蟹」なんだそうですわ。

ヤドガリと呼んだらタラバが売れなくなるでしょうな。

別にタラバを「蟹」と称しても違反じゃないんだって。

学問的には「蟹」じゃないだけの話なんでしょうな。

(大阪府に生息する 蝶々)




右側の一番下のが鉄ちゃん爺やの庭に飛んでますがな。

最近になって大阪府で増加している蝶々なんだって。

(自然史博物館の 展示室を拝観する子供たち)


(これはタヌキだったはず?)


(こちらは日本イタチだったかな?)


尻尾が短くて丸みを帯びているのがタヌキなんだね。

タヌキは一度だけ早朝に我が家の前で見かけた記憶。

最近は近くの山へ帰ったのか見ることおまへんけど。

(マガもと カルガモの違い)


本来はくちばしの部分の色が異なるとの事。

本来の「マガモ」は渡り鳥の冬鳥ですよね。

最近は交雑種が増えて夏場も住み着くのがいるとか。

この日はカメラのご機嫌が悪く30枚ぐらいがダメでした。

大阪府の樹木や地層や生物などの画像が全滅でしたんや。

どうやら変な所を触って動画モードに化けてしまった感じ。

(オオサカメトロ 新型車両)


(オオサカメトロの ロゴマーク)


写真がネタ切れに成りましたんでお仕舞にしまっさ。

ほんなら~ これで さいなら~🎵





コメント (8)
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