鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  京都市内をデジカメ散歩

2014-08-31 16:59:27 | デジカメ散歩
今回から2~3回に分けて京都をデジカメ散歩でおます。

6月と8月に歩いた処をアレンジしながら紹介しまひょ。

(白川橋 三条通の道標) (京都市東山区三条通白川橋東詰め)


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是より左 知恩院から祇園や清水寺 と書かれてるようでんな。

HPで検索したら、この道標が京都市内に残る最古の物なんだって。

1670年(延宝6年)江戸時代の4代将軍・家綱公の時代でおます。

平安時代からの古都だから、もっと古いのがと考えたんでっけど。

意外に新しいのには期待外れでしたわ。

(京都 白川の流れ) (三条通から下流を望む)


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この道を南に下ると祇園白川を通って鴨川に合流するようでんな。

古都の風情を残す良い区域なんでっけど、次回に訪ねる事にしまひょ。

白川橋の横に真新しい石碑が見えたので近づいてみましたんや。

(坂本竜馬 お竜 結婚式場の跡)


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読み難いので要点だけ書き込みますと、ここは青蓮院の塔頭で
金蔵院というお寺でした、お竜さんの父親が青蓮院の医師だったとか。

ここで内祝言をしたけど一緒に暮らす事は殆んどなかったとか。

歴史学者の中村武生さんの学説だからウソでは無いと思うんだけど。

現在は小さなビジネスホテルで箔を付ける意味を感じまんな。

それでは京阪三条駅の方へ向かいまひょ。

(高山彦九郎の 銅像) (京阪電鉄 三条駅前)


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寛政の三奇人と呼ばれる方でっけど、奇人とは「奇妙な人」と言う
意味ではなくて「優れた人」ということなんだって。

土下座してはる~ 若い人がそんな会話をしながら立ち去りましたわ。

土下座じゃおまへん、京都御所に向かって「望拝」してはりますんや。

戦後は楠正成と並んで人気が急落して若い方では知りはらへんやろな。

京阪電車は昔はここが終点で当時は地上に駅舎がおましたんや。

駅の横を琵琶湖疏水が流れているのが印象的な風景でしたわ。

それじゃ三条大橋を渡って木屋町の方へ向かいまひょ。

(三条大橋 東側の川端通から撮影)


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三条大橋は江戸時代には東海道五十三次の終点でしたよね。

豊臣秀吉が命じて慶長年間に五条大橋と並んで架けられたとか。

現在のコンクリート製の橋は1950年(昭和25年)に完成。

でも、欄干の擬宝珠(ぎぼうし)は当時の物が幾つか使われていて
慶長年間の銘が入っているものが有るそうでっせ。

(古そうな 擬宝珠=ぎぼうし)


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(三条大橋 西詰め 弥次喜多の像)


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これは小説の世界なんだけどご愛嬌やと、しときまひょ。

でも~ その横の説明書きを見て驚きましたわ。

(三条大橋 擬宝珠の刀傷跡 説明書き)


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昔から何度も三条大橋は渡っていたけど、知らなかったね。

もういちど三条大橋へ戻って確認してみましたで。

(三条大橋 擬宝珠の刀傷跡)


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確かに幕末には、この辺りは勤王の志士や新撰組が往来し、川の西側には
長州藩邸や土佐藩邸それに木屋町や先斗町(ぽんとちょう)の料亭など。

多くの志士や佐幕の人が刃に倒れたと幕末の記録には載ってまっしゃろ。

ここから150mぐらい先に有名な「池田屋騒動の跡」もおましたな。

そちらの方へ立ち寄ってみまひょ。

(三条小橋) (高瀬川に架かる橋ですよ)


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画像で白い乗用車がこちらへ向かってまっしゃろ、その右手「池田屋」と
書かれた居酒屋が歴史上で有名な「池田屋騒動の跡」でっせ。

20年ぐらい前には旧家か宿屋らしき無人の建物だった記憶。

(池田屋騒動の跡)


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「池田屋」の名前だけ拝借して商魂たくましい居酒屋さんですな。

そう言えば坂本竜馬と中岡慎太郎が殺害された「旧近江屋跡」も
回転寿司の店舗になったとか聞きましたな。

それじゃ高瀬川の方へ戻って、その辺りを散策して見まひょ。

(角倉了以 顕彰碑)


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江戸時代初期の1614年(慶長19年)に高瀬川を開削した方でっせ。

おやおや~ 今年が丁度 400年になりまんねんな。

当時の鴨川は現在よりも広くて中州や分流が思うままに流れて
現在の河原町の西側までの川幅があったんだって。

角倉了以は高瀬川を作り京都と伏見や大坂を結ぶ物資の輸送路として
江戸時代には重要な運河の役目をしていたようでんな。

(現在の 高瀬川)


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現在では浅くて流れも緩やかだから船便には使えないようでんな。

画像の左手の道が木屋町通りで、この辺りを木屋町と呼びまんねんで。

その左手もう1本路地を入ったら有名な先斗町(ぽんとちょう)ですわ。

久しぶりに昼間だけど先斗町(ぽんとちょう)を歩いて見ましたで。

(先斗町の通りは両側がお茶屋さん)


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漢字で先斗町と書いて「ぽんとちょう」と読める方は少ないのでは
京都や大阪の地元の方は読めると思いますんやけど。

「富士の高嶺にふる雪も 京都ぽんとちょうに降る雪も
  雪に変わりは有るじゃなし 融けて流ればみな同じ」

こんな流行歌が50年ぐらい前にマヒナスターズさんでしたかな
この歌詞から先斗町(ぽんとちょう)を知った方も居られるかも。

(先斗町の 料亭前で自分撮り)


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京都五花街(きょうとごかがい)と言って花街が五つおますんや。

花街(はなまち)の事を京都では花街(かがい)と呼びまんねんで。

祇園甲部(ぎおんこうぶ) 祇園東  宮川町

上七軒町(かみひちけんちょう) そして先斗町(ぽんとちょう)

祇園甲部が一番有名でテレビなどでも良く紹介されてますやろ。

先斗町(ぽんとちょう)は江戸時代には正式な遊里じゃなくて
勤王志士などが利用した半分は潜りの花街だったそうでっせ。

先斗町(ぽんとちょう)の名前は明治に成ってから付いたようで
江戸時代には「新河原町通」と呼んでいたそうな。

(京都名物 納涼川床) (三条大橋から撮影)


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テレビにも良く登場する鴨川の納涼川床は大半の裏側が先斗町の料亭で
一部が木屋町の料亭でおます、5月から9月までに限定されてますんや。

あの川床の下は鴨川じゃなくて厳密には鴨川の支流で「みそぎ川」
まあ~ 細かいことは言わないで鴨川でも宜しおますかな。

(先斗町=ぽんとちょう 昼間の風景)


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提灯に千鳥の紋が見えますが、これが先斗町のシンボルマークでっせ。

竹矢来に千本格子のトビラ、それに黒塗りの壁は祇園でも見られますが
京都の花街(かがい)では昔からお馴染の料亭の玄関だと思いますんや。

わての母親などは男ならお茶屋遊びぐらい、出来る身分になりなはれ。

祇園は無理でも先斗町(ぽんとちょう)ならと聞いた事はおます。

鉄ちゃん爺やも、こんな高級な料亭は1~2度しか入ったことがおまへん。

お馴染さんんが同行じゃないと一見さんはお断りが常識でっからね。

わてがお供したのも某都銀の京都支店長さんでしたけど。

(お稽古帰りの芸妓さんかしら?)


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京都の花街では芸妓(げいぎ)さんと見習いの方を舞妓(まいこ)さんと呼び
大阪や関東では芸者(げいしゃ)さんと半玉(はんぎょく)さんと言いますんや。

芸子(げいこ)さんと呼ぶ地方もおますかな?

京都花街では厳格で非常に厳しい稽古や京ことばを教えこまれるとか。

京都の場合は舞妓さんは、だらりの帯に桃割れの髪型で地毛でおます。

舞妓さんに成り初めは上唇に口紅を塗らないのが仕来たりだそうで
舞妓さんは2~4年ぐらいの修業の後に芸妓さんにならはるそうですわ。

芸妓さんは、留め袖に太鼓の帯に髪型は中島田でカツラを使用されます。

左褄(ひだりつま)で着物を左手で少しだけ持ちあげて歩かれますんや。

これは男の手が着物の中に入らないようにとの工夫だそうです。

現在の京都五花街では「芸は売っても体は売らない」のが常識でっせ。

現在は先斗町(ぽんとちょう)で舞妓さん芸妓さんが合わせて40人ぐらい。

祇園甲部でも舞妓さんと芸妓さんを合わせて60人ぐらいに減ったとか。

戦後のピーク時には祇園甲部では600人も居られたんだって。

(先斗町 歌舞練場)


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この建物は国の登録文化財に指定されている明治時代の歌舞練場です。

和洋折衷で重厚な建物は、祇園甲部の建仁寺塔頭から改造した物とは
同じ歌舞練場でも雰囲気が随分違うように感じますな。

京都五花街(きょうとごかがい)は各々が歌舞練場を保有してますんや。

ここ先斗町(ぽんとちょう)では毎年5月1日から「鴨川をどり」が
芸妓さんや舞妓さんの合同で行われまっせ。

今年の入場料はお茶券付きで4300円だとか聞きましたけど。

(先斗町 鴨川をどりの 看板)


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「鴨川おどり」じゃなくて「鴨川をどり」になってまっしゃろ。

京都五花街は全て「をどり」を名乗っているので書きだしてみまひょ。

先斗町が  「鴨川をどり」  尾上流で  唯一のセリフ入り

祇園甲部が 「都をどり」   井上流で  テレビにもよく登場

祇園東が  「祇園をどり」  藤間流で  唯一の秋に開催される

宮川町が  「京をどり」   若柳流です  

上七軒町が 「北野をどり」  花柳流です

各々が秋にも発表会をやられるようですが、先斗町では水明会の
名前で秋にも芸妓さんや舞妓さんの「鴨川をどり」が観れるんだって。

普段は芸妓さんや舞妓さんの稽古場として利用されますが
特別にイベントなどに貸し出されることも有るようでっせ。

(先斗町 歌舞練場 壁面の拡大)


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スクラッチタイルと呼ぶ物だそうで戦後はこの歌舞練場も
進駐軍に接収されてビヤホールに使われた苦難の時代もあったとか。

申し遅れましたが先斗町という正式な地名は存在しまへんで。

先斗町通りは南北約600mぐらいでおます、地名を言う時には
中京区先斗町通三条下ルとか先斗町通四条上ルと呼ぶようでんな。

(先斗町の 各種団体)


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昔は置き屋さんに芸妓さんや舞妓さんが所属してお茶屋からのご指名で
お茶屋である料亭の座敷にお出ましするという形態だったそうです。

現在は置き屋を経営する方が老齢で引退されてしまいお茶屋さんが
芸妓さんや舞妓さんを住まわせることが増えているそうですわ。

先斗町も昔ながらのお茶屋が減って来て現代的なスナックや
イタリアンやフレンチなどの店が増えて来ましたので
昔の雰囲気は薄れつつ有るもののまだムードは残ってますかな。

長くなりますので本日はこれぐらいで失礼します。

次回は木屋町や四条通などを紹介しまひょ。

ほんなら、これでさいなら~♪


  




















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鉄ちゃん爺や  広島巡り 番外編

2014-08-24 19:19:34 | 旅行
広島市の土石流で亡くなられた方に
お悔やみを申し上げます。

怪我をされた方や家屋に被害を受けられた方にも
謹んでお見舞いを申し上げます。

(山陽自動車道路 広島IC) (平成21年に撮影)


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IC入口の奥に見えているのが土石流で大きな被害を出した山で
高速道路の向こう側が緑井と呼ばれる地域になりますね。

まさか~ あの山が土石流を起こしたとは今でも考えられません。

私の娘は安佐南区に10年ぐらい前からマンションに住んで居ます。

山陽自動車道路から手前側になりますので被害は無くご安心ください。

ブログに心配するコメントなども頂戴し有り難うございました。

前置きはこれぐらいにして広島巡りの番外編を続けさせて頂きまひょ。


(国宝 不動院 金堂)  (平成21年撮影)


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(国宝 不動院 金堂)  (今回の7月に撮影)


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修復工事の真っ最中で5年前とのイメージが随分と変ってますわ。

この不動院は足利尊氏が全国に造らせた安国寺の一つでおます。

不動明王を本尊にしているので不動院と呼ばれるようになったんだって。

このお寺は原爆の爆心地から3.9kmしか離れていないので
焼失を免れたのは奇跡だと言われてますんや。

その事が書かれている説明書きを読んで貰いまひょか。


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(不動院の 山門)


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70年前には山が在った為に原爆の被害から免れたこのお寺。

一方で山が在った為に大きな被害を出した今回の土石流。

なんとも言えない複雑な心境になったもんですわ。

(広島市 新交通システム アストラムライン)


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このモノレールのような乗り物は広島の繁華街である本通りから
安佐南区を繋ぐ便利な足として利用されてますんや。

電車越しに山が少しだけ見えてまっけど土石流を起こした山ですわ。

ここで一級河川の大田川を渡ると向こう側が安佐南区になりますんや。

下の道路が今回テレビにもチョコチョコ出てくる国道54号線でっせ。

(アストラムラインの駅から 大田川を望む)


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大田川は画像の左端で二つに枝分かれしてますんや。

左側が本流で広島市の中心部へ入ると元安川とに分かれ
原爆ドームの前を流れるのが支流の元安川でんな。

右側へ分かれているのが大田川の放水路で向こうに見える山の手前を
JR可部線が走っていて画像の右端ぐらいが山本と呼ぶ地区でんな。

ここでも今回は土砂崩れで子供さんが2名亡くなられたとか。

安佐南区は人口が24万人でJR可部線とアストラムラインの両方で
通勤に便利な為に広島市で一番人口が多い区になってますんや。

広島市の人口の2割を超えてますから、あんな山の近くまで
宅地が開発されて今回の被害の要因にもなったんでしょうな。

話が変って鉄道フアンなら良く知っている「瀬野八」を紹介しまひょ。

興味の無い方はこの辺でスルーしてくださいね。

JR山陽本線には瀬野駅~八本松駅間に26.6パミールと言う
約10kmの難所が有りSLの時代には全てに後押しの機関車が付いて
登り坂の頂上で運転中に後押し機関車を切り離すので有名でしたんや。

現在は電車の性能が良くなり貨物列車だけに後押しの機関車が
瀬野駅で取り付けて二つ先の西条駅で切り放しているようですわ。

(後押し専用の EF210-302号 電気機関車)


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JR貨物ではEF210型の電気機関車を主力にして東海道本線と
山陽本線では1300トンものコンテナなどを一編成で走らせ
このEF210型を「桃太郎」と呼んでいるようでんな。

スタートした頃は全車両が岡山機関区に所属していたので
「桃太郎」の名前が採用されたんだとのことですわ。

この電気機関車の車体に黄色のラインが入ってまっしゃろ。

この後押し専門の電気機関車は現在は3台が活躍中なんですわ。

貨物車の連結部分を傷めないように特殊な部品が使われてるとか。

だから通常の本線を走るのには黄色のラインは入ってまへんのや。

(瀬野八を 電車の車窓から撮影)


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この画像ではそんなに難所とも思えないですが約10km以上も
連続の登り坂という瀬野八は115系電車では軽々と乗り切りますが
約1300トンを運ぶ貨物列車では大きな障害になるんでしょうな。

(JR広島駅附近で撮影)


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鉄ちゃん爺やは広島市へ行くたんびに路面電車を撮影してますんや。

全国で路面電車が見直されてまっけど、そのナンバー1は広島電鉄でっせ。

昔の京都や大阪や福岡などで走っていたのを今も使い続けてますんや。

逆に日本初の最新型低床電車も走らせるなどバライティに富んだ広島市の
路面電車には鉄道ファンは堪らないぐらい魅力を感じてるんですわ。

(広島電鉄 1900形 路面電車)  (元は京都市の市電でした)


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(広島電鉄 3000形 路面電車)  (元は福岡市で西鉄の路面電車)


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大阪市の元市電も走っているとかでシャッターチャンスを狙ってましたが
大阪市の懐かしい市電は残念ながら写せまへんでした。

次ぎの画像は最新型の低床路面電車でっせ。

(広島電鉄 1000形 路面電車)  (国産最新型の 低床路面電車)


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5000形のドイツから輸入した低床路面電車を改良して我が国で初の
低床路面電車を生み出したのがこの車両でっせ。

(広島電鉄 5100形 路面電車)  (現在の広島電鉄での主力電車)


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(広島電鉄 5100形 車内)


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次ぎの路面電車は1999年(平成11年)にドイツから輸入した路面電車で
当時は日本のメーカーではどこも製造が出来なかったんだって。

この5000形を改良して国産の5100形が出来たのが最近なんですわ。

5100形が出来たのが2005年(平成17年)という有様で
路面電車の新型はやっと外国に追いついたという処でしゃろか?

(広島電鉄 5000形 路面電車)  (ドイツから輸入された車両)


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6回に渡って広島・岩国・尾道と続けましたブログはこれでお仕舞い。

次回は京都の三条通り・木屋町・先斗町などを紹介しまひょかな。

ほんならこれで、さいなら~♪

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鉄ちゃん爺や  今も海軍の街  呉市を散歩

2014-08-17 10:13:32 | 旅行
今回は日本一の軍港だった広島県の呉市を歩きまっせ。

鉄ちゃん爺やが生まれた頃は呉市の人口が約40万人。

原爆が投下された当時の広島市と概ね同じだったんだって。

当時の人口調査は戸籍によるものと国勢調査の両方で
厳密には比較できず、軍人は機密保持の為に抜けていたとも。

陸軍の軍都だった広島市と海軍の軍港だった呉市だけに
今となってはどちらの方の人口が多かったのかは不明でんな。

当時の記録で呉市の人口は日本で10位だったとの説も。

(JR呉駅 駅名標 & 駅舎)


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呉市は現在でも広島県の人口では3番目に大きな都市のようでっせ。

でも広島市の118万人 福山市の46万人 呉市の23万人

東広島市が後ろから追いかけてますんや将来は4位転落かな?

でも旧海軍のインフラや呉海軍工廠が民間に引き継がれ
重工業の街として活気は十分におまっせ。

(JR呉駅前のモニュメント) 


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呉ライオンズクラブが50周年記念事業で呉市に寄贈したとか。

直径が4.25m 重さが約6700kg もおまっせ。

ニッケル・アルミ・ブロンズの合金で出来ているとか。

しかも廃船になった冷凍輸送船から取り外した本物なんだって。

(呉市のレトロな街路灯)


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鉄ちゃん爺やが前回に訪れたのは平成21年の11月でしたかな。

あの日は「大和ミュージアム」しか見る時間が無かったんですわ。

今回は1日かけてのんびりと散策することにしましたんや。

歩き始めてレンターサイクルにすべきだったと反省しましたがな。

小雨が降ったり止んだりで、傘が要るほどの雨でもないし。

(水兵さんの卵  海上自衛隊呉教育隊の若者)


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この日は日曜日だったので休暇を終えて教育隊へ戻る処かな?

まだ午前中なのに真面目な「水兵さんの卵」さんですこと。

鉄ちゃん爺やはJR呉線のガードを潜りぬけて丘の方へ行きまひょ。

(呉市入船山記念館 正門)


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(旧呉海軍工廠に置かれていた塔時計)


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故障していたのを昭和の50年代に地元の有志と愛知時計機械さんとで
修復して動くようになったので、ここ呉市入船山記念館へ移設したとか。

ここには明治時代に在った呉鎮守府司令長官の官舎が一般公開されてま。

(番兵塔)


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海兵団の入口や呉鎮守府司令長官官舎などに置かれていた番兵の詰め所。

陸軍のは厳めしい衛兵詰め所だけど、海軍のはなんとなく愛嬌がある感じ。

(火薬庫)


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(火薬庫内部に展示された 三八歩兵銃の銃弾)


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今回、鉄ちゃん爺やがお目当てで訪ねたのが次の画像の建物だっせ。

明治時代に呉市には海軍の呉鎮守府というのが置かれてましたんや。

その司令長官の官舎が一般公開されてますんで見学したかったんですわ。

(旧呉鎮守府 司令長官官舎)  (国の重要文化財に指定)


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説明書きを貼り付けて置きますんで詳しい事は読んで貰いまひょ。

戦後は進駐軍の時代まで使われた明治時代の建物のようですわ。

(旧呉鎮守府 司令長官官舎 応接室)


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(旧呉鎮守府 司令長官官舎 食堂)


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官舎は公用に使われる部分は洋館で造られているようでんな。

その壁面と天井部分は金唐紙(きんからかみ)という素晴らしい
壁紙が張り付けられてますんや。

現在ではその技法を知る職人もほとんど居なくなったとか。

(金唐紙の壁面と 説明書き)


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旧呉鎮守府 司令長官官舎は半分ぐらいが和室になってますんや。

ここは長官が私用に使ったり官舎の使用人の部屋も兼ねていたのかも。

(旧呉鎮守府 司令長官官舎 和室の部分)


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洋館の部分と和室の部分との接合部は外から眺めたらこんな感じ。

公用に使用する洋館の部分が、ずば抜けて豪華になってまっしゃろ。


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(旧呉鎮守府 司令長官官舎 藤製の椅子)


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数多く有った物と考えられるが、唯一当時から残った椅子

最後にもう一度、外観を撮影してから、次ぎの処へ向かいまひょ。


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(元 東郷邸)


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日露戦争の英雄である東郷平八郎元帥もまだ若い次官クラスだったのかな。

一戸建ての家に住めても海軍大佐じゃこれぐらいのレベル。

呉鎮守府司令長官は中将クラスだから住む家も随分と違ってまっしゃろ。

(旧呉海軍練兵場)  (現在は呉市民広場)


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左の方にクレーンが見えている処が旧呉海軍工廠の造船所でっせ。

この練兵所では新兵さんが猛訓練で絞られたんでしょうな。

現在は平和な呉市民の広場になってまっけど。

(旧海軍練兵場の横にある遊歩道)


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この辺りは丘陵地帯で鉄ちゃん爺やが向かう歴史の見える丘まで
緩やかな登りが続くのでレンターサイクルにすべきだったと嘆きながら
国道487号線を歩いてましたんや。

(旧呉海軍工廠造船部への入口)


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現在は国道から海岸の方へ下るようになってますんや。

戦前はこの辺りは山の斜面で軍事機密で道路もなかったはず。

一般人は立ち入ることも出来なかった地帯だと思う。

こんな石造りの標識が立てられていたんだって。

(呉の要塞地帯標)


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現在は平和な時代で国道を自家用車も路線バスも走ってまっせ。

車を停めれば旧呉海軍工廠の造船所も眺めることが出来ますんや。

(歴史の見える丘)


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(戦艦大和の艦橋を模した 忠魂碑)


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ここには戦艦大和が建造された造船所が真下におますんや。

そんな訳で戦艦大和の戦没者の慰霊の為に立てられたんでしょうな。

手前に見える白いのは右側が戦艦大和の主砲の砲弾の実寸の大きさで
左側は同じく戦艦長門の主砲の砲弾のサイズなんだって。

画像では大きさが分からないので鉄ちゃん爺やが横に並びまひょ。


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2mぐらいのス主砲弾をレイテ沖海戦で発射したけど命中しなかったとか。

相手が輸送船を改造した護衛空母だったので砲弾が突き抜けたとの説も。

でも主砲を発射したら小さい機関砲などは照準が狂ってしまうそうでっせ。

だから飛行機相手の戦場では無用の長物に終わったのが残念でおます。

国道の歩道橋に登って旧呉海軍工廠を眺めて見まひょ。

(旧呉海軍工廠 造船部の浮ドック)


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造船所の建屋の壁面に「大和のふるさと」と書いてまっせ。

戦艦大和を建造した浮ドックが現在も稼働しているとはご立派。

右手にカメラを振ると呉市の中央桟橋が見えてますわ。

(歴史の見える丘から 呉市の中央桟橋方向を)


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丸いドームの屋根が見えてるのが中央桟橋のターミナルビルでっせ。

その左手に大和ミュージアムがおますんやけど鉄塔が邪魔かな。

それでは折りかえして中央桟橋の方へ向かう事にしまひょ。

(総監部前 バス停)


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(海上自衛隊 呉地方総監部 正門)


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この日は日曜日でしたので先に見える旧呉鎮守府の建物を
見学する方の自家用車が入って行く処でした。

(旧呉鎮守府 現在は 海上自衛隊呉地方総監部庁舎)


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1907年(明治40年)竣工したレンガと御影石で完成した建物。

1945年(昭和20年)のアメリカ軍の度重なる空襲にも
被害は軽微んで進駐軍から返還されて現在使われているんだとか。

日曜日だけ一般公開には隊員の説明で団体で見学出来るんだって。

鉄ちゃん爺やは海上自衛隊の艦船の見学の方をしたいので
写真だけを撮って先を急いだんでっけど失敗でしたんや。

実は前夜の大雨で艦船のデッキが滑りやすいのでこの日の
自衛隊の護衛艦内見学が中止になったのを知らなかったんですわ。

(海上自衛隊 呉地方総監部 呉警護隊の正門)


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左手の丘の上まで戻るには時間が掛かるので諦めました。

戻っても旧呉鎮守府の見学には間に合わない可能性が強い。

大和ミュージアムの方へ向かう事にしましたわ。

(てつのくじら館  海上自衛隊呉史料館)


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この大きな船は2004年まで海上自衛隊で使用された
潜水艦「あきしお」で陸上に初めて展示したんだって。

スクリュウだけは軍事機密の為にイミテーションだそうな。

それじゃ館内へ入りまひょ、入場料金が無料とは有り難い。

(てつのくじら館 展示された機雷)


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ここ、てつのくじら館では潜水艦の歴史と掃海艇の
機雷除去の歴史を詳しく展示して説明されてますんや。

昔の機雷は浮遊機雷なのでワイヤーロープで引っ張って
爆破したり信管を取り除いて回収したんだそうですわ。

現在では磁気機雷なので艦船の音波振動で接近するらしい。

だから掃海艇はFRP強化プラスチックか木製で
建造しないと危険で使用できない時代なんだって。

磁気で逆に誘き寄せて機雷を処理するようだね。

これは、鉄ちゃん爺やも知らなかった知識でんな。

(てつのくじら館 PR用幟)


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(潜水艦あきしお 潜望鏡)


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現在でも見学者が船内で潜望鏡を操作したら外の方で
潜望鏡が上がったり下がったりするのが見られますよ。

実際は自動で操作するんだろうが手動もOKなのかな?

(第二次世界大戦 アメリカ海軍 潜水艦用の双眼鏡)


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(第二次世界大戦 日本海軍 潜水艦用の双眼鏡)


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3kmぐらい沖合に停泊中の海上保安庁の巡視船を両方で
覗いて見たんだけど日本海軍のレンズの方が性能が良い感じ。

日本海軍は軍艦だけを発見することに専念したけど
アメリカ海軍は輸送船でも軍艦でも発見すれば良い。

その差が潜水艦の双眼鏡の性能に違いが出来たのかしら?

昼食は最近は呉市でも人気が出てきた海軍カレーですよ。

(海軍カレー  水兵さんのカレー 1000円)


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昔から呉市でカレーが良く食べられた訳じゃおまへんで。

大和ミュージアムが出来てから人気が出てきたような感じ。

関西では舞鶴港に海軍さんのカレーで昔から有ったようですけど。

味はそんなに美味しいとは思わないけど、これが海軍さんの
カレーだと言われれば反論することも出来まへんがな。

現在も海上自衛隊では毎週金曜日がカレーなんだって。

別に士官さんのカレーも有ったけどビーフが少し多いだけで
2000円前後もしたので水兵さんのカレーにしましたんや。

お腹も収まったから呉の港を散歩して見まひょ。

(大和ミュージアムの 裏庭で撮影)


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大きなタンカーかしら? 進水式が終って艤装している処でしょうな。

戦艦大和を建造した浮ドックから海へ下ろしたようにも見えまっせ。

(呉の港から 歴史の見える丘方向を撮影)


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先程、丘の上から旧呉海軍工廠を見下ろしていたのは
画像の中央部分で山の裾野あたりだっせ。

右から一つ目のクレーンと二つ目のクレーンの中間ぐらいかな。

(四国・松山から フェリーが到着)


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方向転換してバックで呉港の中央桟橋へ接岸する処でんな。

このフェリーは呉港に立ち寄った後は広島市の宇品港へ向かいますんや。

(戦艦大和の タイムベル)


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ここから建造された旧呉海軍工廠が見えているので鎮魂を兼ねて
大和ミュージアムの裏庭に復元された物だと思いまんねん。

(海上自衛隊 呉警備隊の艦船)


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昨夜の大雨が無かったら、あの基地で鉄ちゃん爺やも護衛艦に乗って
艦内を見学したりデジカメで写していたのに残念でした。

ここは小型艦艇や掃海艇だけの基地で潜水艦の基地は別に
旧呉海軍工廠の南側に専用の基地がおますんや。

大型の護衛艦やイージス艦も並んで隣に基地があるようですわ。

(大和ミュージアム 全景) (入場料金 大人500円)


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大和ミュージアムは2009年の11月に入館したので今日はパス。

画像だけを2009年に写したのを貼り付けて置きまっさ。

(10分の一で作られた 戦艦大和) (大和ミュージアムの1階)


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(2階ホールから撮影したら こんな感じ)


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(戦艦大和の沈没地点から 引き揚げられた遺品)


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戦艦大和は1945年(昭和20年)4月に瀬戸内海の桂島から出撃して
九州の南沖でアメリカ海軍の攻撃で二つに折れて撃沈されたんでしたかな。

この遺品は沈没地点の調査時に潜水員により回収された物だそうです。

(零式戦闘機 復元された実物機)


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この零式戦闘機は昭和20年に琵琶湖に不時着して沈んでいた物です。

この戦闘機を操縦していた方が戦後も健在で有志により引き揚げて
復元するプロジェクトが計画されたそうですわ。

元操縦者の記憶と三菱重工に残る設計図に従って忠実に修復され
三菱重工の名古屋事業場で復元が完成したんだって。

ここ大和ミュージアムで展示することになった理由は不明でっけど。


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この零式戦闘機は太平洋戦争初期には日本海軍のエース戦闘機でしたんや。

終戦までに三菱重工を中心に約1万機を超える生産が記録されてまんな。

戦争中の喪失や戦後の解体でほとんどが消滅してしまいましたんや。

そんな訳で現在、日本で零式戦闘機の実物を見れるのはここを含めて
2~3箇所しかないと記憶してますんや。

貴重な画像なので歴史遺産として観察して頂ければ幸いですけど。

(大和ミュージアム PR用幟)


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現在では呉市観光の一番人気になったのが大和ミュージアムだそうでっせ。

本日はこれにて終了とさせて頂きます。

それじゃ、さいなら~♪















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鉄ちゃん爺や  坂の街 &文学の街  尾道市を散歩

2014-08-10 16:42:25 | 旅行
今回は昔で言えば備後の国 尾道市をデジカメ散歩でっせ。

尾道市=おのみちし と読みまんねんで。

現在は工業地帯が出来て福山市の方が大きくなりましたけど
鉄ちゃん爺やが学生時代には、尾道市が備後の国の中心でしたんや。

尾道市 人口=13万9千人  

(JR山陽本線 尾道駅舎) (国道2号線から撮影)


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JR尾道駅の前は国道2号線が東西に走ってまんな。

尾道市は向島(むかいしま)や因島(いんのしま)などの島々
新興住宅街として発展する東尾道駅付近など、おますんやけど。

なんといってもJR尾道駅・東側の旧町が観光客のお目当てですわ。

戦争中の空襲も受けなかったので独特の風景が残ってますんや。

(林芙美子の像)


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尾道と言えば林芙美子が小学生から高等女学校卒業まで過ごした
想い出の街であり、文学に芽生えた街なんだって。

戦前ではおますけど「放浪記」が代表的な小説でしたかな。

(尾道 本通り商店街)


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この商店街は江戸時代までの西国街道沿い出来たんだって。

なんとなく歩いていたら「芙美子記念館」を発見しましたで。

(芙美子記念館)  (尾道市 本通り商店街)


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(林芙美子の部屋)


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九州から逃げるようにして両親と尾道にやってきたとか。

ここで小学校は2年遅れで卒業した後、先生の勧めで
高等女学校を卒業するまで住んだ家が保存されてますな。

東京の新宿区落合に「林芙美子記念館」が別に存在するので
ここは「芙美子記念館」と区別してるんかもしれまへん。

それじゃ「坂の街」らしい処へ向かうことにしまひょ。

(JR山陽本線を 歩道橋で渡ります)


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尾道市の旧町は国道2号線とJR山陽本線が山裾を走っていて
そこからは千光寺山や西国寺山の斜面を登ることになりますんや。

でも尾道市が「古寺めぐり」の標識を設けてくれてますんで
迷う事もなく石畳の坂道を登ったり下ったりしますんや。

(尾道市 坂の街 石畳の街)


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(古寺めぐりの 道標)


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まずはJR尾道駅から歩いて一番近いお寺から紹介しまひょ。

このお寺は地元では「花の寺」と呼ばれ紫陽花が奇麗んだって
まあ~ 訪れたのは7月でっさかいに、もう萎んでましたけど。

(浄土宗 持光寺=じこうじ)


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(持光寺 本堂)


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このお寺には尾道市にある国宝三つの内で一つが保存されているとか。

でも秘仏の普賢延命菩薩像だそうで拝観はできまへんでしたわ。

(次のお寺へを示す 道標)


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次ぎは第12代横綱 陣幕久五郎さんのお墓がある「光明寺」でっせ。

何せ尾道市には旧町だけで古寺が25カ寺も残っているのには驚き!

室町時代頃のお寺が多く残ってますな。

(浄土宗 光明寺=こうみょうじ  本堂)


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(第12代横綱 陣幕久五郎の 手形のついた石碑)


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25カ寺も廻ったんじゃ日が暮れて仕舞いまんな。

お寺はこれぐらいにして尾道は「文学の街」でっさかい
そちらの方へ足を向けまひょ。

(文学の館 志賀直哉旧居 標識)


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(志賀直哉旧居)


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志賀直哉は1912年(大正元年)の秋から半年ぐらいしか
この尾道の旧居には住んでないんだそうですわ。

でも唯一の長編小説である「暗夜行路」にここから眺める
風景や千光寺のことが書かれているので有名になったとか。

一度しか読んだ事ないんで内容は忘れてしまってますわ。

確か志賀直哉の心境小説だとも言われてまんな。

(文学の館 由来が書かれた掲示板) (入館料300円)


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先を急ぐので志賀直哉の旧居を外からデジカメで写しただけで
石畳の坂道へ戻ることにしましたんや。

(見覚えのある風景)


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朝の連続ドラマ「てっぱん」の場面だったかしら? 

それとも観光用のパンフレットだっのか、忘れたな~

でも~ 尾道が「坂の街」を称する風景には十分でっしゃろ。

(曹洞宗 天寧寺=てんねいじ 三重塔)


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(しまなみ海道五十三次のスケッチ) (平山画伯)


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デジカメを構えていたら、茶坊のお婆さんが声を掛けてくれましたんや。

ここで有名な画家さんが三重塔をスケッチされたんですよと。

聞かなかったらパネルを見落として通過してたかも知れまへん。

(曹洞宗 天寧寺=てんねいじ)


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正面へ廻ったんですが、この日は檀家さんのお葬儀をやってましたんや。

まさか、デジカメで写すのは失礼だと本堂の前から退散したんですわ。

(天寧寺=てんねいじ 三重塔)


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この三重塔は朝の連続ドラマ「てっぱん」や色んな映画にも必ず出てくる
尾道を代表する風景の一つだと言われてまんな。

小津安二郎監督もスクリーンの中で使っておられたと記憶するね。

(奥の方に 古い建物を利用した 喫茶店)


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(坂の街から しまなみ海道 新尾道大橋を撮影)


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「しまなみ海道」は左手の尾道市から主な島伝いに愛媛県の今治市まで
最近はサイクリングで抜けたり歩いて渡るツアーが人気なんだって。

自転車は「しまなみ海道」を渡るのに500円が必要だったんでっけど
鉄ちゃん爺やが大阪へ戻る直前に無料で走れるようになったとか。

今回、鉄ちゃん爺やが本命とした千光寺公園へ行くことにしますかな。

標高142mのたいした山じゃないけど千光寺山ロープウエィで行きまひょ。

(市営 千光寺山ロープウエィ 山麓駅)


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鉄ちゃん爺やが前回に尾道市を訪れたのは1962年(昭和37年)でした。

その時にも、このロープウエィは既に運転をしてましたんや。

最近にリューアルされたようで車両も新しくて約3分で山頂駅に到着でした。

(千光寺山 山頂の展望台) (屋上は無料)


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ここから眺める尾道市内と尾道水道と呼ばれる海峡を挟んだ対岸の風景。

向島(むかいしま)との展望を見たかったのが、わての願望でしたんや。

(展望台から 向島 & 尾道市街地)


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尾道水道は幅が500mぐらいかしら? 川のように見えまっしゃろ。

でも~ 正真正銘の瀬戸内海である海の一部でっせ。

対岸が向島(むかいしま)で尾道側に沿って昔から造船業などが盛んで
この画像の向こう側を「しまなみ海道」が通っているんですわ。


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画像の中央で一番高く見えるのが高見山(標高283m)でっせ。

ここに登れば瀬戸内海の島々と対岸に四国山脈がみれるんだって。

あの山の手前を「しまなみ海道」が通っていて右手が因島になりまんねん。

(しまなみ海道&新尾道大橋 方向を自分撮り)


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(展望台から 向島&尾道市の西側)


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展望台の2階にレストランがあるので休憩していきまひょ。

ここから景色を眺めながらラーメンでも食べますかな。

(昼食は 尾道ラーメン たこ天入り)


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尾道ラーメンにトッピングでたこ天を追加したんですわ。

尾道ラーメンは小魚の出汁で味を付けて醤油味に背油とか
詳しくは知りまへんが、お腹が空いてたんで美味しかったでっせ。

これから「文学のこみち」を散策してみることにしましたんや

25人の文人の句碑や小説の一節を千光寺山の自然石に
刻んで尾道の文学にふれられる小道として作られたようでんな。

これも尾道市・市制100周年の事業だったんだね


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歩きはじめは3~4人の句碑を見たら引き返すつもりでした。

やはり志賀直哉と林芙美子の分だけは写そうと考えた次第。

(徳富蘇峰 漢詩の歌碑)


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(正岡子規の句碑)


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(十辺舎一九の 文学碑)


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十辺舎一九は山陽道を歩いて尾道にもやってきたんだ。

弥次喜多道中の東海道五十三次は有名だけどこれは知らないな?

(林芙美子 放浪記の一節 文学碑)


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「放浪記」の文面にデジカメの露出合わせたので背景が白トビしたね。

本当は句碑の向こう側は尾道水道と「しまなみ海道」を見下ろす
一番良い処を選んで置かれたように感じたけど。

(志賀直哉 暗夜行路の一節 文学碑)


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気が付いたら「文学のこみち」に熱中して千光寺のお寺まで来ましたがな。

赤い朱塗りの本堂をロープウエィから写すだけで良いと考えてましたんや。

下りの道だったんで、その気になって歩き過ぎましたかな。

(真言宗 千光寺)


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考えたら尾道で25カ寺もある中で「千光寺」はやはり一番有名でっしゃろ。

文人の小説や俳句にも載せられているお寺、デジカメで写せて正解としまひょ。

(松尾芭蕉の 句碑)


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この俳句は松尾芭蕉の作なのかしら? それとも立札に書いてある
松尾芭蕉を偲んで100回忌に別人が詠んだものなのかしら?

ここで「文学のこみち」は折り返しでロープウエィの山頂駅を目指して
今度は登って行くことになるんで思案六歩したんですわ。

この暑いのにお茶も持たずに歩くのはヤバイと考えて下山することに。


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(千光寺の境内から 新尾道大橋 & 尾道水道)


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展望台から眺めたアングルと比べたら半分ぐらい降りてまっしゃろな。

このまま、千光寺道を下まで歩くことにしましたんや。

(千光寺道から 天寧寺の三重塔を撮影)


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このアングルも観光用の写真で見覚えがおますな。

振り返ったらロープウエィが千光寺の上空を通過するところでしたわ。

デジカメを取りだしてそのまま、シャッターを押したのがこの画像。

(千光寺山ロープウエィ & 千光寺のお寺)


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(JR千光寺踏切から 千光寺道を振り返る)


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やっと元の本通り商店街まで下りてきましたわ。

こんな石碑を発見したので撮影


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江戸時代には安芸の浅野家が備後の国も西半分は所有していたんだね。

ここに奉行所を設けて商人や港を管理していたんだと書かれてましたで。

同じ尾道でも手前のJR東尾道駅辺りは福山藩の所領だったとか。

(尾道市内 本通り商店街)


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7月7日の七夕から10日以上過ぎているんだけどな~

なんで七夕飾りが残してあるのかは聞き忘れましたんや。

(尾道市の 消火栓)


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尾道のホテルに泊るんだったら、もっと見物したんだけど。

娘から夕方の5時には帰ってと頂戴との事。

普通電車しか走ってないJR山陽本線だから次ぎの糸崎駅駅で乗り換え。

JR広島駅まで戻るにしても2時間近く掛かるんですわ。

(JR広島駅前にて 自分撮り)


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これで本日はお仕舞いとさせて貰いまひょ。

次回は広島県の呉市を二度目の訪問でしたが、紹介しまっさ。

ほんじゃ、さいなら~




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鉄ちゃん爺や  岩国の錦帯橋を訪ねて

2014-08-02 21:01:52 | 大阪
JR宮島口駅から普通電車で約20分ぐらいで山口県に入りま。

確か広島県の大竹市の先で小瀬川を渡ったのが県境かしら?

川を挟んで三井化学の工場が両県にまたがっておますんや。

戦後に日本で最初の石油化学コンビナートが出来たのが、ここ
広島県大竹市と山口県の岩国市なんだって。

戦前の海軍や陸軍の敷地が多かったので戦後は民間に払い下げられ
帝人・日本製紙・東洋紡・三菱レイヨン・三井化学など。

現在も瀬戸内工業地帯として、有名企業が稼働してまっせ。

(JR山陽本線 岩国駅舎)


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今でこそ地方都市に良く在るJRの駅でっけど、SLの時代には
岩国駅には大きな機関庫があって貨物の取り扱いも多かったんでっせ。

広島方面からきたSLはここで水と石炭を補給し西へ向かったんですわ。

鉄ちゃん爺やが高校の修学旅行で、ここに夕方に到着して30分ぐらい
SLが停車中にホームで手足を伸ばして屈伸運動をしましたね。

そんな訳で現在もJR西日本の広島地区と山口地区の分岐点でおます。

当時の面影は無いけど留め置き用の線路が今も数多く残っていて
華やかな時代の名残が少しだけですが感じられますな。

鉄ちゃん爺やが乗ってきた普通電車もここで折り返しの終点ですわ。

(JR岩国駅前で ラッピングバス)


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宇野千代さんはここ岩国市がお生れの土地だったんだそうな。

代表作品の「おはん」でラッピングされて市バスが走ってまっせ。

この方は私が関東に単身赴任していた頃に98歳でしたかな
都内の虎ノ門病院でお亡くなりになったとか聞きましたな。

JR岩国駅前から路線バスで約15分~20分ぐらい走りますんや。

日本三大名橋として有名な錦帯橋=きんたいきょう、へ向かいまひょ。

(名勝 錦帯橋の石碑)


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この錦帯橋(きんたいきょう)は約200mの川幅がある一級河川の錦川を
アーチ橋3連を中央部に両端に反り橋を2連加えて造られてまんねんで。

この錦帯橋を造らせたのは岩国藩3代藩主 吉川広嘉(きっかわひろよし)で
江戸時代の1673年(延宝元年)に城下町と陣屋を結ぶ為だった言われてま。

この初代の橋は翌年に早くも錦川の洪水で流失し、翌年から再建された橋が
約200年経った昭和の時代まで残り、日本三大名橋と呼ばれるように成り
岩国市と言えば錦帯橋(きんたいきょう)と呼ばれるようになったとか。

この2代目の錦帯橋が1950年(昭和25年)のキジア台風で流失。

1953年(昭和28年)に3代目の錦帯橋が再建されたと言われてま。

2004年(平成16年)に架け替え工事が50年ぶりに行われて
現在の錦帯橋は創建から数えて4代目ということに成るんだって。

(錦帯橋の入場券  往復で300円)


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錦帯橋の保護と修復に観光客から入場料として往復で300円を徴収する
そんな訳で、通行料とは呼ばないとか言われてますんや。

なんでも対岸に住む住民は無料で渡れるとか聞きましたんや
これは確認した訳じゃないので定かじゃおまへんけどな。

江戸時代に庶民はこの錦帯橋を渡る許しは貰えなかったとの説。

だから渡れたのは岩国藩の武士や本家の毛利藩士だけだったようでっせ。

(錦帯橋の上から撮影)


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(一級河川 錦川の流れ)


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錦帯橋の上から眺めてる内に3匹ぐらい鮎が釣れてましたで。

やはり上流に大きな町がないので水は奇麗な清流なので羨ましい。

橋の上から対岸の山の方を撮影して見まひょ。

(岩国城 天守閣)  (1963年・昭和37年再建)


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岩国藩は江戸時代には参勤交代をする大名として幕府は認めていたのに
本家の毛利藩が大名として認めず陪臣としての待遇しか与えなかったとか。

だから正式には岩国藩じゃなく岩国領として考えられていたそうでっせ。

初代藩主の吉川広家は毛利藩を率いて関ヶ原へ出陣したんだけど毛利藩家老
福原広俊と計り東軍の徳川家康に内応して兵を動かさなかったんだそうな。

処が戦後になって毛利輝元が西軍の総帥として動いたとの証拠を掴み
吉川広家と取り決めた毛利家の領土の安堵約束を破棄したんだって。

吉川広家は自分に与えられた30万石を放棄し本家の毛利家に譲るように
徳川家康の了承を得て毛利藩本家を守り通したとされています。

でも100万石の毛利家が30万石に減封されたのは吉川広家だとの思いが
毛利本家には有って江戸時代を通じて本家とは疎遠な付き合いが続いたとか。

元和の一国一城令により岩国城は破却されたけど、周防の国には岩国城しか
存在しないのに毛利家に遠慮しての処置は吉川広家の考えだったようですわ。

だから3万石から寛永時代に6万石になったけど損な役割をしたようでんな。

(佐々木小次郎の像)


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広島の孫がまだ小学校の2~3年生の頃にこの小次郎の像の前で
鉄ちゃん爺やと写真を写したのも早いもんで7年前になりますんや。

その時に初めて佐々木小次郎が岩国生まれなんだと知りましたけど。

(吉川経家の 弔魂碑)


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明治になってから建てられた碑だけど、吉川経家(きっかわつねいえ)

この方は戦国時代末に毛利家の先方として鳥取城に入っていた武将で
豊臣秀吉の鳥取城包囲作戦に破れて、家臣と庶民の命を助ける条件で
切腹した方で、岩国藩の吉川家の分家にあたる方ですな。

この方も、毛利本家の為に損な役目を勤めて亡くなったようですわ。

元々が毛利本家を支える為に吉川元春が養子に入った家系だから
その三男の吉川広家も分家の吉川経家も宿命と考えていたんでしょうな。

(岩国名物 日本一100種類ソフトクリーム)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


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「むさし」と「小次郎商店」が隣同士で同じソフトクリームの販売。

モメ事がないのは両家が親戚同士だとの説が有るようでっせ。

確かに100種類のソフトクリームなんて、ここでしか見れまへんけど。

もう一度だけ錦帯橋を河川敷に降りて下から眺めて見まひょ。

(槍倒し松) (やりこかしまつ と読む)


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(巌流 ゆかりの柳)


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両方ともに説明書きを貼り付けて置きますんで読んで貰いまひょ。

これらは錦帯橋の側に在りましたんで写しましたんや。

(錦帯橋 錦川の河原から撮影)


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木材は全て国産の木を全国から集めて巻き金とカスガイのみを使ってあるとか。

松やクヌギやヒバなど五種類の木が使われていると書かれてましたで。


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(錦川  鵜飼の船)


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錦帯橋の「う飼い」も岐阜県の長良川の鵜飼いと並んで有名なんですよ。

やはり、どちらも清流で鮎も多く生息しているようですわ。


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それじゃ、そろそろ広島の娘の家へ戻ることにしまひょ。

錦帯橋バス停もなかなか、洒落た建物でしたで。

(錦帯橋バス停)


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帰りのJR岩国駅行きのバスは国道2号線で渋滞に遭遇しましたわ。

岩国市には岩国錦帯橋空港が官民共同で出来たそうでんな。

(国道2号線の渋滞を 路線バスから撮影)


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岩国市は山口県と言っても県庁所在地の山口市までは約100km。

逆に広島市までは約40kmでJR岩国駅から普通電車で約1時間。

そんな訳で、住民は山口市よりは広島市の方に親密さを感じるんだって。

テレビやラジオも広島の放送を観たり聞いたりする方が多いとか。

これは江戸時代に長州藩から冷遇された岩国藩じだいからの
反骨精神が少しは影響をしているのかもしれませんな。

(岩国市の マンホールの蓋)


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岩国市の錦帯橋の附近には天然記念物の「シロ蛇」や吉川家の家老屋敷などが
公開されてますが、今回は時間が足らないので省略しました。

岩国城からの眺めも良いように聞きましたが今回はパスしました。

次回は広島県でも東の方で備後の国になる尾道市を紹介しまひょ。

ほな、今日はこれで失礼しまっさ さいなら~♪
コメント (38)
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