今回から2~3回に分けて京都をデジカメ散歩でおます。
6月と8月に歩いた処をアレンジしながら紹介しまひょ。
(白川橋 三条通の道標) (京都市東山区三条通白川橋東詰め)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
是より左 知恩院から祇園や清水寺 と書かれてるようでんな。
HPで検索したら、この道標が京都市内に残る最古の物なんだって。
1670年(延宝6年)江戸時代の4代将軍・家綱公の時代でおます。
平安時代からの古都だから、もっと古いのがと考えたんでっけど。
意外に新しいのには期待外れでしたわ。
(京都 白川の流れ) (三条通から下流を望む)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この道を南に下ると祇園白川を通って鴨川に合流するようでんな。
古都の風情を残す良い区域なんでっけど、次回に訪ねる事にしまひょ。
白川橋の横に真新しい石碑が見えたので近づいてみましたんや。
(坂本竜馬 お竜 結婚式場の跡)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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読み難いので要点だけ書き込みますと、ここは青蓮院の塔頭で
金蔵院というお寺でした、お竜さんの父親が青蓮院の医師だったとか。
ここで内祝言をしたけど一緒に暮らす事は殆んどなかったとか。
歴史学者の中村武生さんの学説だからウソでは無いと思うんだけど。
現在は小さなビジネスホテルで箔を付ける意味を感じまんな。
それでは京阪三条駅の方へ向かいまひょ。
(高山彦九郎の 銅像) (京阪電鉄 三条駅前)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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寛政の三奇人と呼ばれる方でっけど、奇人とは「奇妙な人」と言う
意味ではなくて「優れた人」ということなんだって。
土下座してはる~ 若い人がそんな会話をしながら立ち去りましたわ。
土下座じゃおまへん、京都御所に向かって「望拝」してはりますんや。
戦後は楠正成と並んで人気が急落して若い方では知りはらへんやろな。
京阪電車は昔はここが終点で当時は地上に駅舎がおましたんや。
駅の横を琵琶湖疏水が流れているのが印象的な風景でしたわ。
それじゃ三条大橋を渡って木屋町の方へ向かいまひょ。
(三条大橋 東側の川端通から撮影)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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三条大橋は江戸時代には東海道五十三次の終点でしたよね。
豊臣秀吉が命じて慶長年間に五条大橋と並んで架けられたとか。
現在のコンクリート製の橋は1950年(昭和25年)に完成。
でも、欄干の擬宝珠(ぎぼうし)は当時の物が幾つか使われていて
慶長年間の銘が入っているものが有るそうでっせ。
(古そうな 擬宝珠=ぎぼうし)
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(三条大橋 西詰め 弥次喜多の像)
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これは小説の世界なんだけどご愛嬌やと、しときまひょ。
でも~ その横の説明書きを見て驚きましたわ。
(三条大橋 擬宝珠の刀傷跡 説明書き)
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昔から何度も三条大橋は渡っていたけど、知らなかったね。
もういちど三条大橋へ戻って確認してみましたで。
(三条大橋 擬宝珠の刀傷跡)
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確かに幕末には、この辺りは勤王の志士や新撰組が往来し、川の西側には
長州藩邸や土佐藩邸それに木屋町や先斗町(ぽんとちょう)の料亭など。
多くの志士や佐幕の人が刃に倒れたと幕末の記録には載ってまっしゃろ。
ここから150mぐらい先に有名な「池田屋騒動の跡」もおましたな。
そちらの方へ立ち寄ってみまひょ。
(三条小橋) (高瀬川に架かる橋ですよ)
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画像で白い乗用車がこちらへ向かってまっしゃろ、その右手「池田屋」と
書かれた居酒屋が歴史上で有名な「池田屋騒動の跡」でっせ。
20年ぐらい前には旧家か宿屋らしき無人の建物だった記憶。
(池田屋騒動の跡)
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「池田屋」の名前だけ拝借して商魂たくましい居酒屋さんですな。
そう言えば坂本竜馬と中岡慎太郎が殺害された「旧近江屋跡」も
回転寿司の店舗になったとか聞きましたな。
それじゃ高瀬川の方へ戻って、その辺りを散策して見まひょ。
(角倉了以 顕彰碑)
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江戸時代初期の1614年(慶長19年)に高瀬川を開削した方でっせ。
おやおや~ 今年が丁度 400年になりまんねんな。
当時の鴨川は現在よりも広くて中州や分流が思うままに流れて
現在の河原町の西側までの川幅があったんだって。
角倉了以は高瀬川を作り京都と伏見や大坂を結ぶ物資の輸送路として
江戸時代には重要な運河の役目をしていたようでんな。
(現在の 高瀬川)
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現在では浅くて流れも緩やかだから船便には使えないようでんな。
画像の左手の道が木屋町通りで、この辺りを木屋町と呼びまんねんで。
その左手もう1本路地を入ったら有名な先斗町(ぽんとちょう)ですわ。
久しぶりに昼間だけど先斗町(ぽんとちょう)を歩いて見ましたで。
(先斗町の通りは両側がお茶屋さん)
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漢字で先斗町と書いて「ぽんとちょう」と読める方は少ないのでは
京都や大阪の地元の方は読めると思いますんやけど。
「富士の高嶺にふる雪も 京都ぽんとちょうに降る雪も
雪に変わりは有るじゃなし 融けて流ればみな同じ」
こんな流行歌が50年ぐらい前にマヒナスターズさんでしたかな
この歌詞から先斗町(ぽんとちょう)を知った方も居られるかも。
(先斗町の 料亭前で自分撮り)
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京都五花街(きょうとごかがい)と言って花街が五つおますんや。
花街(はなまち)の事を京都では花街(かがい)と呼びまんねんで。
祇園甲部(ぎおんこうぶ) 祇園東 宮川町
上七軒町(かみひちけんちょう) そして先斗町(ぽんとちょう)
祇園甲部が一番有名でテレビなどでも良く紹介されてますやろ。
先斗町(ぽんとちょう)は江戸時代には正式な遊里じゃなくて
勤王志士などが利用した半分は潜りの花街だったそうでっせ。
先斗町(ぽんとちょう)の名前は明治に成ってから付いたようで
江戸時代には「新河原町通」と呼んでいたそうな。
(京都名物 納涼川床) (三条大橋から撮影)
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テレビにも良く登場する鴨川の納涼川床は大半の裏側が先斗町の料亭で
一部が木屋町の料亭でおます、5月から9月までに限定されてますんや。
あの川床の下は鴨川じゃなくて厳密には鴨川の支流で「みそぎ川」
まあ~ 細かいことは言わないで鴨川でも宜しおますかな。
(先斗町=ぽんとちょう 昼間の風景)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
提灯に千鳥の紋が見えますが、これが先斗町のシンボルマークでっせ。
竹矢来に千本格子のトビラ、それに黒塗りの壁は祇園でも見られますが
京都の花街(かがい)では昔からお馴染の料亭の玄関だと思いますんや。
わての母親などは男ならお茶屋遊びぐらい、出来る身分になりなはれ。
祇園は無理でも先斗町(ぽんとちょう)ならと聞いた事はおます。
鉄ちゃん爺やも、こんな高級な料亭は1~2度しか入ったことがおまへん。
お馴染さんんが同行じゃないと一見さんはお断りが常識でっからね。
わてがお供したのも某都銀の京都支店長さんでしたけど。
(お稽古帰りの芸妓さんかしら?)
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京都の花街では芸妓(げいぎ)さんと見習いの方を舞妓(まいこ)さんと呼び
大阪や関東では芸者(げいしゃ)さんと半玉(はんぎょく)さんと言いますんや。
芸子(げいこ)さんと呼ぶ地方もおますかな?
京都花街では厳格で非常に厳しい稽古や京ことばを教えこまれるとか。
京都の場合は舞妓さんは、だらりの帯に桃割れの髪型で地毛でおます。
舞妓さんに成り初めは上唇に口紅を塗らないのが仕来たりだそうで
舞妓さんは2~4年ぐらいの修業の後に芸妓さんにならはるそうですわ。
芸妓さんは、留め袖に太鼓の帯に髪型は中島田でカツラを使用されます。
左褄(ひだりつま)で着物を左手で少しだけ持ちあげて歩かれますんや。
これは男の手が着物の中に入らないようにとの工夫だそうです。
現在の京都五花街では「芸は売っても体は売らない」のが常識でっせ。
現在は先斗町(ぽんとちょう)で舞妓さん芸妓さんが合わせて40人ぐらい。
祇園甲部でも舞妓さんと芸妓さんを合わせて60人ぐらいに減ったとか。
戦後のピーク時には祇園甲部では600人も居られたんだって。
(先斗町 歌舞練場)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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この建物は国の登録文化財に指定されている明治時代の歌舞練場です。
和洋折衷で重厚な建物は、祇園甲部の建仁寺塔頭から改造した物とは
同じ歌舞練場でも雰囲気が随分違うように感じますな。
京都五花街(きょうとごかがい)は各々が歌舞練場を保有してますんや。
ここ先斗町(ぽんとちょう)では毎年5月1日から「鴨川をどり」が
芸妓さんや舞妓さんの合同で行われまっせ。
今年の入場料はお茶券付きで4300円だとか聞きましたけど。
(先斗町 鴨川をどりの 看板)
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「鴨川おどり」じゃなくて「鴨川をどり」になってまっしゃろ。
京都五花街は全て「をどり」を名乗っているので書きだしてみまひょ。
先斗町が 「鴨川をどり」 尾上流で 唯一のセリフ入り
祇園甲部が 「都をどり」 井上流で テレビにもよく登場
祇園東が 「祇園をどり」 藤間流で 唯一の秋に開催される
宮川町が 「京をどり」 若柳流です
上七軒町が 「北野をどり」 花柳流です
各々が秋にも発表会をやられるようですが、先斗町では水明会の
名前で秋にも芸妓さんや舞妓さんの「鴨川をどり」が観れるんだって。
普段は芸妓さんや舞妓さんの稽古場として利用されますが
特別にイベントなどに貸し出されることも有るようでっせ。
(先斗町 歌舞練場 壁面の拡大)
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スクラッチタイルと呼ぶ物だそうで戦後はこの歌舞練場も
進駐軍に接収されてビヤホールに使われた苦難の時代もあったとか。
申し遅れましたが先斗町という正式な地名は存在しまへんで。
先斗町通りは南北約600mぐらいでおます、地名を言う時には
中京区先斗町通三条下ルとか先斗町通四条上ルと呼ぶようでんな。
(先斗町の 各種団体)
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昔は置き屋さんに芸妓さんや舞妓さんが所属してお茶屋からのご指名で
お茶屋である料亭の座敷にお出ましするという形態だったそうです。
現在は置き屋を経営する方が老齢で引退されてしまいお茶屋さんが
芸妓さんや舞妓さんを住まわせることが増えているそうですわ。
先斗町も昔ながらのお茶屋が減って来て現代的なスナックや
イタリアンやフレンチなどの店が増えて来ましたので
昔の雰囲気は薄れつつ有るもののまだムードは残ってますかな。
長くなりますので本日はこれぐらいで失礼します。
次回は木屋町や四条通などを紹介しまひょ。
ほんなら、これでさいなら~♪
6月と8月に歩いた処をアレンジしながら紹介しまひょ。
(白川橋 三条通の道標) (京都市東山区三条通白川橋東詰め)
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是より左 知恩院から祇園や清水寺 と書かれてるようでんな。
HPで検索したら、この道標が京都市内に残る最古の物なんだって。
1670年(延宝6年)江戸時代の4代将軍・家綱公の時代でおます。
平安時代からの古都だから、もっと古いのがと考えたんでっけど。
意外に新しいのには期待外れでしたわ。
(京都 白川の流れ) (三条通から下流を望む)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この道を南に下ると祇園白川を通って鴨川に合流するようでんな。
古都の風情を残す良い区域なんでっけど、次回に訪ねる事にしまひょ。
白川橋の横に真新しい石碑が見えたので近づいてみましたんや。
(坂本竜馬 お竜 結婚式場の跡)
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読み難いので要点だけ書き込みますと、ここは青蓮院の塔頭で
金蔵院というお寺でした、お竜さんの父親が青蓮院の医師だったとか。
ここで内祝言をしたけど一緒に暮らす事は殆んどなかったとか。
歴史学者の中村武生さんの学説だからウソでは無いと思うんだけど。
現在は小さなビジネスホテルで箔を付ける意味を感じまんな。
それでは京阪三条駅の方へ向かいまひょ。
(高山彦九郎の 銅像) (京阪電鉄 三条駅前)
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寛政の三奇人と呼ばれる方でっけど、奇人とは「奇妙な人」と言う
意味ではなくて「優れた人」ということなんだって。
土下座してはる~ 若い人がそんな会話をしながら立ち去りましたわ。
土下座じゃおまへん、京都御所に向かって「望拝」してはりますんや。
戦後は楠正成と並んで人気が急落して若い方では知りはらへんやろな。
京阪電車は昔はここが終点で当時は地上に駅舎がおましたんや。
駅の横を琵琶湖疏水が流れているのが印象的な風景でしたわ。
それじゃ三条大橋を渡って木屋町の方へ向かいまひょ。
(三条大橋 東側の川端通から撮影)
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三条大橋は江戸時代には東海道五十三次の終点でしたよね。
豊臣秀吉が命じて慶長年間に五条大橋と並んで架けられたとか。
現在のコンクリート製の橋は1950年(昭和25年)に完成。
でも、欄干の擬宝珠(ぎぼうし)は当時の物が幾つか使われていて
慶長年間の銘が入っているものが有るそうでっせ。
(古そうな 擬宝珠=ぎぼうし)
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(三条大橋 西詰め 弥次喜多の像)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
これは小説の世界なんだけどご愛嬌やと、しときまひょ。
でも~ その横の説明書きを見て驚きましたわ。
(三条大橋 擬宝珠の刀傷跡 説明書き)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
昔から何度も三条大橋は渡っていたけど、知らなかったね。
もういちど三条大橋へ戻って確認してみましたで。
(三条大橋 擬宝珠の刀傷跡)
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確かに幕末には、この辺りは勤王の志士や新撰組が往来し、川の西側には
長州藩邸や土佐藩邸それに木屋町や先斗町(ぽんとちょう)の料亭など。
多くの志士や佐幕の人が刃に倒れたと幕末の記録には載ってまっしゃろ。
ここから150mぐらい先に有名な「池田屋騒動の跡」もおましたな。
そちらの方へ立ち寄ってみまひょ。
(三条小橋) (高瀬川に架かる橋ですよ)
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画像で白い乗用車がこちらへ向かってまっしゃろ、その右手「池田屋」と
書かれた居酒屋が歴史上で有名な「池田屋騒動の跡」でっせ。
20年ぐらい前には旧家か宿屋らしき無人の建物だった記憶。
(池田屋騒動の跡)
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「池田屋」の名前だけ拝借して商魂たくましい居酒屋さんですな。
そう言えば坂本竜馬と中岡慎太郎が殺害された「旧近江屋跡」も
回転寿司の店舗になったとか聞きましたな。
それじゃ高瀬川の方へ戻って、その辺りを散策して見まひょ。
(角倉了以 顕彰碑)
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江戸時代初期の1614年(慶長19年)に高瀬川を開削した方でっせ。
おやおや~ 今年が丁度 400年になりまんねんな。
当時の鴨川は現在よりも広くて中州や分流が思うままに流れて
現在の河原町の西側までの川幅があったんだって。
角倉了以は高瀬川を作り京都と伏見や大坂を結ぶ物資の輸送路として
江戸時代には重要な運河の役目をしていたようでんな。
(現在の 高瀬川)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在では浅くて流れも緩やかだから船便には使えないようでんな。
画像の左手の道が木屋町通りで、この辺りを木屋町と呼びまんねんで。
その左手もう1本路地を入ったら有名な先斗町(ぽんとちょう)ですわ。
久しぶりに昼間だけど先斗町(ぽんとちょう)を歩いて見ましたで。
(先斗町の通りは両側がお茶屋さん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
漢字で先斗町と書いて「ぽんとちょう」と読める方は少ないのでは
京都や大阪の地元の方は読めると思いますんやけど。
「富士の高嶺にふる雪も 京都ぽんとちょうに降る雪も
雪に変わりは有るじゃなし 融けて流ればみな同じ」
こんな流行歌が50年ぐらい前にマヒナスターズさんでしたかな
この歌詞から先斗町(ぽんとちょう)を知った方も居られるかも。
(先斗町の 料亭前で自分撮り)
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京都五花街(きょうとごかがい)と言って花街が五つおますんや。
花街(はなまち)の事を京都では花街(かがい)と呼びまんねんで。
祇園甲部(ぎおんこうぶ) 祇園東 宮川町
上七軒町(かみひちけんちょう) そして先斗町(ぽんとちょう)
祇園甲部が一番有名でテレビなどでも良く紹介されてますやろ。
先斗町(ぽんとちょう)は江戸時代には正式な遊里じゃなくて
勤王志士などが利用した半分は潜りの花街だったそうでっせ。
先斗町(ぽんとちょう)の名前は明治に成ってから付いたようで
江戸時代には「新河原町通」と呼んでいたそうな。
(京都名物 納涼川床) (三条大橋から撮影)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
テレビにも良く登場する鴨川の納涼川床は大半の裏側が先斗町の料亭で
一部が木屋町の料亭でおます、5月から9月までに限定されてますんや。
あの川床の下は鴨川じゃなくて厳密には鴨川の支流で「みそぎ川」
まあ~ 細かいことは言わないで鴨川でも宜しおますかな。
(先斗町=ぽんとちょう 昼間の風景)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
提灯に千鳥の紋が見えますが、これが先斗町のシンボルマークでっせ。
竹矢来に千本格子のトビラ、それに黒塗りの壁は祇園でも見られますが
京都の花街(かがい)では昔からお馴染の料亭の玄関だと思いますんや。
わての母親などは男ならお茶屋遊びぐらい、出来る身分になりなはれ。
祇園は無理でも先斗町(ぽんとちょう)ならと聞いた事はおます。
鉄ちゃん爺やも、こんな高級な料亭は1~2度しか入ったことがおまへん。
お馴染さんんが同行じゃないと一見さんはお断りが常識でっからね。
わてがお供したのも某都銀の京都支店長さんでしたけど。
(お稽古帰りの芸妓さんかしら?)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
京都の花街では芸妓(げいぎ)さんと見習いの方を舞妓(まいこ)さんと呼び
大阪や関東では芸者(げいしゃ)さんと半玉(はんぎょく)さんと言いますんや。
芸子(げいこ)さんと呼ぶ地方もおますかな?
京都花街では厳格で非常に厳しい稽古や京ことばを教えこまれるとか。
京都の場合は舞妓さんは、だらりの帯に桃割れの髪型で地毛でおます。
舞妓さんに成り初めは上唇に口紅を塗らないのが仕来たりだそうで
舞妓さんは2~4年ぐらいの修業の後に芸妓さんにならはるそうですわ。
芸妓さんは、留め袖に太鼓の帯に髪型は中島田でカツラを使用されます。
左褄(ひだりつま)で着物を左手で少しだけ持ちあげて歩かれますんや。
これは男の手が着物の中に入らないようにとの工夫だそうです。
現在の京都五花街では「芸は売っても体は売らない」のが常識でっせ。
現在は先斗町(ぽんとちょう)で舞妓さん芸妓さんが合わせて40人ぐらい。
祇園甲部でも舞妓さんと芸妓さんを合わせて60人ぐらいに減ったとか。
戦後のピーク時には祇園甲部では600人も居られたんだって。
(先斗町 歌舞練場)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この建物は国の登録文化財に指定されている明治時代の歌舞練場です。
和洋折衷で重厚な建物は、祇園甲部の建仁寺塔頭から改造した物とは
同じ歌舞練場でも雰囲気が随分違うように感じますな。
京都五花街(きょうとごかがい)は各々が歌舞練場を保有してますんや。
ここ先斗町(ぽんとちょう)では毎年5月1日から「鴨川をどり」が
芸妓さんや舞妓さんの合同で行われまっせ。
今年の入場料はお茶券付きで4300円だとか聞きましたけど。
(先斗町 鴨川をどりの 看板)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「鴨川おどり」じゃなくて「鴨川をどり」になってまっしゃろ。
京都五花街は全て「をどり」を名乗っているので書きだしてみまひょ。
先斗町が 「鴨川をどり」 尾上流で 唯一のセリフ入り
祇園甲部が 「都をどり」 井上流で テレビにもよく登場
祇園東が 「祇園をどり」 藤間流で 唯一の秋に開催される
宮川町が 「京をどり」 若柳流です
上七軒町が 「北野をどり」 花柳流です
各々が秋にも発表会をやられるようですが、先斗町では水明会の
名前で秋にも芸妓さんや舞妓さんの「鴨川をどり」が観れるんだって。
普段は芸妓さんや舞妓さんの稽古場として利用されますが
特別にイベントなどに貸し出されることも有るようでっせ。
(先斗町 歌舞練場 壁面の拡大)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
スクラッチタイルと呼ぶ物だそうで戦後はこの歌舞練場も
進駐軍に接収されてビヤホールに使われた苦難の時代もあったとか。
申し遅れましたが先斗町という正式な地名は存在しまへんで。
先斗町通りは南北約600mぐらいでおます、地名を言う時には
中京区先斗町通三条下ルとか先斗町通四条上ルと呼ぶようでんな。
(先斗町の 各種団体)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
昔は置き屋さんに芸妓さんや舞妓さんが所属してお茶屋からのご指名で
お茶屋である料亭の座敷にお出ましするという形態だったそうです。
現在は置き屋を経営する方が老齢で引退されてしまいお茶屋さんが
芸妓さんや舞妓さんを住まわせることが増えているそうですわ。
先斗町も昔ながらのお茶屋が減って来て現代的なスナックや
イタリアンやフレンチなどの店が増えて来ましたので
昔の雰囲気は薄れつつ有るもののまだムードは残ってますかな。
長くなりますので本日はこれぐらいで失礼します。
次回は木屋町や四条通などを紹介しまひょ。
ほんなら、これでさいなら~♪