鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やのデジカメ散歩   6代目グリコの看板

2014-12-28 13:44:58 | デジカメ散歩
今年最後のブログになると思いますんや。

沖縄・広島・高山・富山と旅行ばかりのブログでしたな
久しぶりに大阪のミナミを歩いて来ましたで。

大阪ミナミの名物とも称されるグリコの看板が
今年10月23日に6代目がリニューアルされましたんや。

オープン3日目になる10月25日の画像を紹介しまひょ。

(大阪ミナミ 道頓堀川&えびす橋)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

最近では大阪のミナミを訪れる観光客は日本人も外国人でも
ここからグリコの看板を記念に撮影するようになりましたな。

鉄ちゃん爺やは学生時代は大阪市内に住んでましたんで
別に珍しくも無く、写真を撮るような気持ちはおまへんでした。

他府県の方が記念写真として写される物やと考えてましたがな。

(6代目グリコの看板)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

だから4代目までの画像は残ってまへんわ。

噴水式だとかワニがピアノを弾くような物も有ったかな。

3代目まではそんなに有名なネオンでも無かった記憶。

5代目だけはブログ用に写したような記憶がおます。

貼り付けて見まひょ、違いが分かりまっしゃろから。

(5代目グリコの看板)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

5代目は背景に大阪城や通天閣それに京セラドームなど
大阪の名所が描かれてましたので違いがわかりまっしゃろ。

5代目までは昔ながらのネオン管を使ってたそうでっせ。

5代目は鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中の平成10年に完成。

16年間のお努めが終了し今年8月に撤去されましたんや。

(心斎橋筋 入口から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

新しい6代目はLEDを14万個も使っているそうでっせ。

夕方の6時に点灯し午前0時に消灯されるそうですわ。

今回は昼間のグリコの看板だけしかお見せ出来まへんけど。

角度を変えて御堂筋側からも写して見まひょ。

(6代目グリコの看板)


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5代目グリコの看板は電気代が16万円(1ヶ月)とか聞きましたな
今回のはやはりLEDを使ってるので安く成るんでしょうかな?

やはり~えびす橋側から写した方が見慣れている感じがしまぁ。

昔は「一粒300m」と書かれていたような記憶がしますんや。

4代目からは「おいしさと健康」に変ったと書かれてますな。

その頃からグリコの看板が観光客の人気を呼ぶように成ったとか。

ランナーの顔が優しくなってイメージチェンジしたからとの噂も。

(宗右衛門町通り)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

大阪ミナミの歓楽街で普段は夜の街でっさかいに昼間は静かなはず。

人出が多いのはグリコの看板がリニューアルした影響でっしゃろな。

ここで蛇足ながら、大阪市内では「○○通り」と云えば東西の道を
「○○筋」と云えば南北に通っている道路なんでっせ。

だから大阪市内では方角が分かりやすくて、しかも大阪城から
1丁目~2丁目と離れるように番地が付けられてまんねんで。

大阪の旧市内だけで私が住む郊外では適用外でっけど。

大阪市内を歩くことが有れば覚えてはったら便利でっかな。

(心斎橋筋)


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心斎橋筋でっから南北に通って居る道路と云う事になりまぁ。

この心斎橋筋と云うのは江戸時代に船場の旦那衆などが
商売繁盛の今宮戎神社へお参りするための参道でしたんや。

途中に道頓堀通りが在って芝居小屋や難波新地なども有り
参詣の帰りに、かこつけて遊びはったんやそうですわ。

先程の宗右衛門町などは茶屋や料亭が戦前までは多かったとか
現在はクラブやスナックなどが乱立してまっけど。

(旧心斎橋 現在は歩道橋)


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昭和37年頃まではこの下を長堀川が流れてましたんや。

現在は埋め立てられて地下街や駐車場になってまっせ。

心斎橋は挟んで昔は北側を船場地区と呼び南側を
島の内と呼んで大阪では商売人の本拠地でしたんや。

この画像を写している場所が船場への入口になりまぁ。

画像の奥の方が島の内なんですが戦後は大丸やそごうの
百貨店を含めて心斎橋筋と呼ぶことが多くなりましたんや。

(旧心斎橋 ガス灯と 島の内側を撮影)


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現在は長堀通りと呼ぶ幅の広い道路を横断する歩道橋として
心斎橋筋の南北をつなぐ役目をしてるちゅう事になりまぁ。

普通はこの心斎橋辺りがミナミと呼ばれる地区の北限で
これから北側は今でも南船場という地名が残ってますんや。

本年最後のブログを通して拙い文章と画像で皆さま方に
見苦しい思いをさせたこととお詫びして置きます。

どうか来るべき新年が皆さま方に良い年であることを祈りながら
鉄ちゃん爺や本年度のブログをお仕舞いとさせて頂きます。

それでは良いお年をお迎えくださいませ。


















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鉄ちゃん爺やの一人旅   越中と飛騨の雑記帳

2014-12-23 16:08:12 | 旅行
富山の名物と云えば「ブリ」「ホタルイカ」「シロエビ」

雪が降る今頃は天然物の「ブリ」が美味しいでしょうな。

私が訪れた10月中旬は「シロエビ」のシーズン最終の頃でしたんや。

(富山湾の おさかなカレンダー)


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(富山名物 シロエビ) (正式名は シラエビ)


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富山では「シロエビ」とも呼んでいますが学名は「シラエビ」ですよ。

「シラエビ」はエビ目のオキエビ科で300mぐらいの深海に住むそうで
日本各地でも獲れるそうですが商業用の漁業では富山県のみなんだって。

他の地域では大量に獲れないので商売に成らないんだとのこと。

だから春の生ホタルイカが終ったら次は富山県の割烹や居酒屋で
よく見掛けるシロエビが酒の肴として喜ばれるようですな。

富山湾では新湊や岩瀬浜など大きな川の河口で大量に獲れるんだって。

新鮮なのは刺し身で食べますが透明で少しだけ赤味がある美しいエビで
鮮度が落ちると白く成るので首都圏や関西ではほとんど見かけませんな。

透明感のある新鮮なのは富山県内でしか食べれないとも云われてますね。

鉄ちゃん爺やはお隣の方が食べているシロエビの刺し身がそれほど
新鮮じゃなく乳白色に見えたので唐揚げで食べる事にしましたんや。

(富山名物 シロエビの唐揚げ)


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春から6月頃までは殻も柔かなんですが10月中旬ともなれば
少しだけ殻が硬く感じますが、そのまま食べれんことはないですよ。

富山県内ではこのシロエビをヒラタエビとかベッコウエビと呼ぶ
地域もあるようでんな。

富山湾ではこのシロエビを獲る事が出来るのは許可された漁師のみ
それも4月~11月まで比較的長く川の河口付近だから大きな船も不要。

夜から夜明けに掛けて水面下50m近くまで浮上してくるんだそうです。

この許可書を持っている漁師はシロエビが高く売れるので富山県内でも
恵まれた生活ができるとの噂が昔からあるんだって。

富山県内では煎餅にしたり昆布〆にして食べる事も多いそうですが
やはり新鮮なシロエビは「にぎり寿司」か刺し身には勝てませんかな。

蛇足ながら学名で「シロエビ」という別なのも有りますんや。

「シロエビ」は三河地方から西の太平洋沿岸で獲れる赤いエビで加工されて
海老煎餅や唐揚げや干物として良く食べられている種類のようですわ。

こちらは富山県のとは全く別のエビ目のクルマエビ科に入るんだって。

だから富山のシロエビとは全く異成る種類なんですよ

(富山の お酒)


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鉄ちゃん爺やが現役時代に出張した際に飲まして貰ったお酒なので
高岡市の居酒屋で見付けて懐かしく感じまして三合ほど飲みましたかな。

ここ高岡市から少し南へ入る礪波市(となみし)に在る立山酒造のお酒ですわ。

(サンマの 刺し身)


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板さんのお勧めはサンマのお刺身でした、シロエビとは云わなかったので
やはりシロエビの鮮度は今一だったのかなと、店を出てから納得しましたんや。

(富山湾のお寿司)


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一番右上の軍艦巻きになっているのが「シロエビ」ですな。

これはJR高岡駅構内に置かれた蝋細工のPR模型ですけど。

次は電車の中で地元の方から聞いたお話しを載せてみまひょ。

日本では満潮時に水面から出ている周囲100m以上有る物を「島」と呼び
それよりも小さい物を「岩」と呼ぶんだって。

(雨晴海岸の 女岩=おんないわ)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

なるほど~ この女岩は周囲が80mと書かれているから海上保安庁の
「島」の中には含まれていない「岩」なんだね。

でもこの女岩の沖合に男岩が有るんだけど、こちらは周囲が100m
名前は男岩だけど、海上保安庁の資料には「島」に含まれてまっせ。

日本の都道府県で海に面している38都道府県で富山県が不思議な事に
「島」が3個しかない最下位の第38位なんだって。

富山湾は陸地から一気に深海に落ち込んでいる特殊な海なんだね。

因みに第37位が茨城県で島は7個 第36位が福島県で13個。

逆に島が多いベスト1は長崎県で971個も島が存在するんだね。

第2位は鹿児島県で605個 第3位が北海道の508個でした。

次は飛騨へ戻ってお土産で買った栃の実せんべいのお話しでっせ。

(飛騨名物 とちの実せんべい)


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この画像は飛騨の高山で手焼きの実演をしているお店でした。

下呂温泉や高山市の銘菓としては「とちの実せんべい」が有名でしょうな。

鳥取の米子市に同じ栃の実せんべいが有ったように記憶するけど
形も味付けも違い円形だったと思うね。

全国でも「とちの実せんべい」と云えばやはり飛騨のお土産の代表かな。

(とちの実せんべい 実物)


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この千寿堂さんは下呂温泉が本店でご当地では有名なお店ですよ。

栃の実は苦くて渋いのでそのままでは食べられないんだそうです。

それが飛騨に住む縄文時代の遺跡から栃の実の加工品が出土したんだって。

それが下呂温泉から少し東へ湯の峰とかいう場所だったようですわ。

現在は栃の実に小麦粉と砂糖を混ぜて煎餅にして焼いているそうですよ。

甘くて食べやすく日持ちもする良いお土産なんで人気があるのかも。

お米の少ない飛騨地方が生み出した非常食がお土産品になったのかも?

(下呂温泉 お食事処)


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飛騨名物の「さるぼぼ」はご紹介しましたように災いが去る(猿)とか
家内円(猿)満など縁起物のお土産として良く売れてますね。

重複しますが「ぼぼ」は飛騨地方で赤ん坊を意味しますよ。

だから猿の赤ん坊が人形となった物を云うようですね。

下呂温泉で七福神をモデルにした「さるぼぼ」が有りましたので
3~4つばかり貼り付けて置きまひょ。

(大黒さまでしょうね)


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(恵比寿さまです)


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(寿老人ですな)


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(弁財天さまです)


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七福神なので七種類が置かれてましたが四つだけにしときまひょ。

再び富山の高岡市へ話しを戻しまっせ。

(JR高岡駅前 中央の大通り)


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(JR高岡駅構内 郵便ポスト)


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「ドラえもん」が郵便ポストになってますな。

漫画家の藤木弘さんは高岡市の出身でもう一人の安孫子素雄さんは
富山県は氷見市の出身なんですが安孫子さんが高岡市の小学校へ転校。

同じクラスでマンガを書いて二人で遊んでいたのが出合いだそうです。

二人は手塚治虫に認められて世に出たそうで最初は足塚不二雄の名前で
これは手塚治虫先生の「足元にも及ばない」の意味だったそうです。

後に上京し手塚治虫さんの借家を肩代わりしてもらい二人で住まれたとか。

二人で共同で製作したのが「オバケのQ太郎」でヒット作品になりました。

藤子不二雄のペンネームでしたが実際は別々の作品も多いそうですね。

この「ドラえもん」も児童漫画の生活ギャグを得意にした故藤村弘さんの
作品だったそうですが当時は二人の共同作品とされていましたかな。

(忍者ハットリくん ラッピング列車)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

逆に安孫子素雄さんはブラックユーモアを描くのを得意にされたとか。

JR氷見線には安孫子さんの出身地と云うことでこんなラッピングの
気動車が走り、沿線の案内放送も忍者ハットリくんの口調で流れますよ。

他にも「笑ウせぇるすまん」なども等も安孫子さんの作品ですね。

安孫子さんは今も健在とかで藤子・不二雄A で執筆されているとか。

藤子・F・不二雄さんは平成8年に亡くなられてしまいましたね。

(JR氷見線の ラッセル車)


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普通なら1月~2月の風景なんでしょうが今年は北陸も大雪だとか
今頃はこんな風景が雨晴海岸では見れるでしょううな。

(北陸新幹線 開業まで154日)


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キトキトとは富山弁で「新鮮なとれとれ」の意味なんだそうですよ。

富山県内のJR駅にはこのキトキト君が立てられてまっせ。

今日は年末も12月23日だから「開業まで81日」と成っているはず。

(北陸新幹線 PR用パネル) (JR高岡駅構内)


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鉄ちゃん爺やの一人旅も計画では金沢市か礪波市へ足を延ばす予定でした
所が台風が沖縄に接近してJR西日本が関西圏の列車を止めるとの報道。

仕方がないので特急サンダーバード号で急遽、帰る事にしましたんですわ。

(特急サンダーバード 特急券)


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(JR高岡駅に到着の サンダーバード18号)


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この特急サンダーバード号も北陸新幹線が開業する3月14日からは
大阪駅から金沢駅でストップに成ってしまいますんや。

このJR高岡駅で特急電車を観れるのもあと80日間となりましたで。

この広い構内を持つJR高岡駅もローカル線に転落しますんや。

(特急サンダーバード車内にて 自分撮り)


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(特急サンダーバード車内から撮影)


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JR金沢駅の手前を走行中に並行する北陸新幹線を写しました。

もう試運転も始まっているようで富山や金沢はお祭り気分のようですわ。

現在は富山や金沢は大阪からの方が電車の所要時間が短いので
昔から関西圏に入るとか云われてましたんや。

でも北陸新幹線が金沢まで開通したら東京駅の方が早く着きますな。

これからは富山や金沢は首都圏を中心とした動きに成るかもしれまへん。

(683系 特急しらさぎ号) 


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

現在は名古屋駅から米原駅や福井駅を経由して富山駅まで走ってます。

これも同じく北陸新幹線が開業したらここ金沢駅で打ち切りになりまぁ。

長いこと鉄ちゃん爺やの一人旅をブログに載せて来ましたがこれでお仕舞い。

年内にもう一度ぐらいグリコのネオンが新しくなりましたんで
それらを含めて大阪市内の風景をお届けしたいと思いますんや。

それでは今日はこれで、さいなら~♪








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鉄ちゃん爺やの一人旅   高岡市内を歴史散歩  

2014-12-14 15:26:21 | 旅行
高岡市と云うのは富山県の北西部に在り人口約17万人で
富山県下では富山市に次ぐ第二位の都市なんですよ。

この町は律令時代には越中の国府が置かれ奈良時代には
大伴家持が国司として赴任した事が記録にも見られますね。

万葉線だとか万葉ロードなど現在もイメージ付けで
高岡市内では万葉の言葉があちこちで見かけますかな。

下の画像は2013年(平成23年)完成の駅舎です。

(JR北陸本線 高岡駅舎)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

でも現在の高岡市を発展させた功労者は「前田利長」で
この方を中心にして今回はお話しをさせて頂きまひょ。

「前田利長=まえだとしなが」って知らないけど?

おそらく日本歴史に詳しい人しかご存知ないでしょうな。

豊臣家の五大老として徳川家康と共に活躍した前田利家なら
少しは分かって貰えるかもしれませんね。

その前田利家と正室まつ、との間に生まれた長男です。

加賀百万石は前田利家が初代と考えて居られるようですが
厳密には関ヶ原の戦いの後に前田利長公が加増されて初めて
100万石に達したというのが正しい答えなんですよ。

歴史のお話しが続きますので興味の無い方は
画像だけを見られてスルーしてくださいね。

(金沢城 石川門) (2011年4月撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1598年(慶長3年)4月に前田利家公は家督を長男・前田利長に譲り
前田利長は越中の守山城から金沢城へ入城されたと記録が残ってますね。

豊臣秀吉の命で権中納言に任官し晴れて加賀・前田家の当主と成った訳です。

同年8月に豊臣秀吉は亡くなられるので、ご存知のとおり前田利家公は
隠居できず五大老の一人として豊臣秀頼の傳役を秀吉から遺言で託され
大坂城へ入城し徳川家康公は伏見城へ入られることになりますよね。

当時、前田利長公は加賀・越中で約75万石ぐらいのお殿様で
同じく同腹の弟・前田利政は能登七尾で21万石のお殿様でした。

共に豊臣秀吉から拝領した領地と云うことになりますかな。

(現在の 大阪城天守閣)


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1599年(慶長4年)の新年は大坂城に於いて
前田利家公に抱かれた豊臣秀頼に向かって諸大名は平伏し
あの徳川家康公も新年の挨拶を述べたことになっていますね。

前田利家公は太閤秀吉と同い歳の生まれと記録されています。

徳川家康公としても一目置かざるを得ない先輩になりますかな。

その直後である閏3月前田利家公は大坂で亡くなってしまいます。

死の直前に前田利長公を枕元に呼び寄せこう命じたそうです。

「三年間は加賀に戻る事なく秀頼様をお守りせよ」

「万が一に戦いが生じるならば利長・利政の二人で
  兵を分けて加賀・越中・能登三国と大坂城を守れ」

歴史には「たら~ れば~」ば禁物なんですが
もし前田利家公が5年~10年ぐらい長生きしておれば
徳川家康公の天下は無かったかも知れないとされてますね。

何せ、前田利家公の正室まつ殿と豊臣秀吉の正室である北政所とは
尾張弁で話をする仲でもあり、尾張出身の豊臣秀吉傘下の武将も
ほとんどが、同じ尾張出身の前田利家公に肩入れをしたと考えます。

(大阪城を 京橋口から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

前田利長公は親父の死後は入れ替わって五大老の職に就かれました。

でも徳川家康公とは年齢が20歳ぐらい下ですから親父の時代とは
貫録もちがい主導権は徳川家康公に移るのは致し方がなかったのかも。

徳川家康公から一度、金沢へ戻られたら如何と云われ軽く承知し
金沢へ帰国したら国元で謀反を企んでいると訴えられます。

徳川家康公と一戦もと考え金沢城を修理し豊臣家に援軍を求めるも
とうとう無しのツブテだったとの説。

母親の芳春院(まつ)も関東で255万石もの太守である家康公とは
戦っても100万石を切る前田家だけでは勝ち目はなし。

徳川家康公の策略に嵌ってしまったと云うべきですかな。

ここは芳春院(まつ)が江戸へ人質として下向し徳川家康公に
詫びを入れて前田家を存続させることを最優先にしたようですね。

その際に前田利長公が隠居する代わりに異腹弟・前田利常に将来
家康公の孫娘を嫁がせることを条件に家督も譲ると決められたとか。

当時は前田利常は6歳で徳川秀忠の娘も3歳だったそうですね。

徳川家康公も前田家2万超の兵力を味方にしたかったようですな。

こんな交渉が成立して関ヶ原の戦いの前哨戦には前田利長公は
東軍側に付き、西軍の大聖寺城の山口宗永を攻めていますね。

続いて越前の福井まで出陣し西軍の青木一矩を降伏させています。

ここまでは弟の前田利政も同行しているんですが、西軍の敦賀勢が
海岸から金沢へ上陸するとの情報で軍を返してしまうんですよね。

(関ヶ原の 戦場址) (2010年8月撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1600年(慶長5年)9月が有名な関ヶ原の戦いになりますね。

結論を先に述べますと前田利長公は関ヶ原の戦場へ向かおうとしますが
加賀の国で西軍だった丹羽長重の小松城を開城させるのみで終わりました。

これは前哨戦で同行した同腹弟の前田利政が西軍に廻り出陣を拒否。

前田家でも豊臣家よりの家臣が前田利政に走ったとの事のようです。

丹羽長重も織田信長の娘を共に嫁にする義兄弟と微妙な関係に有ります。

前田利長公は織田信長の四女である永姫を正室にされていたとか。

関ヶ原の戦いが終わった後は弟の前田利政の能登の領地は前田利長公に
丹羽長重や山口宗長の領国だった加賀の国の南部二郡も
前田家に加増されて初めて120万石の大大名に成った訳ですね。

前田利長公も弟の前田利政を隠居させて京都へ追放したけど殺さず。

義兄弟の丹羽長重も国外に退去させるも、後に江戸幕府に働きかけて
東北で小大名として復活させるような道も残したようですよ。

前田利政は親父の遺言を守り豊臣側に義を尽くしたとも兄弟で談合し
前田家が勝っても負けても家名が残るようにしたとの説もおますな。

隠居中の前田利政は大坂冬・夏の陣で豊臣側と徳川側から共に
誘われるも大野修理ごときの指図を受ける気はないし
徳川家康公に義理立てする気も無いと丁重にことわったとの事。

前田利政の長男が後に前田土佐守家として加賀前田家に復帰して
芳春院の化粧領を含む1万1千石で家名を保っているそうです。

(JR高岡駅 古城公園口)


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その前田利長が親子ほど歳の差が有る弟の前田利常に家督を譲り
隠居することになり富山城に入られるのが1605年(慶長10年)

前田利常は京都で元服し晴れて徳川2代将軍秀忠公の娘で千姫の妹
家光の姉である珠姫と結婚され加賀の国で三男五女をもうけておられます。

この前田利常というお方は生母が側室の(ちよ)寿福院で
おそらく京都辺りでお生れに成った前田利家公の晩年の
お子供さまで四男とされていますね。

前田利長公は徳川の娘が前田家の嫁として迎えたことを見届けて
富山城に入り養老分として越中22万石で隠居をされましたよ。

その富山城が1609年(慶長14年)に大火で焼失してしまい
徳川家康公の許可を得て新しく城を築いたのが現在の高岡城址で
建設中の同年9月に高岡城へ入られたと記録されてますね。

それじゃ現在は古城公園と呼ばれている高岡城址を紹介しまひょ。

(高岡城址 古城公園)


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加賀前田家第2代目藩主・前田利長公は母親のまつ(芳春院)を
江戸幕府に人質に出してまで謀反の疑いを晴らして隠忍自重し
関ヶ原の戦いでは東軍に付き、晴れて加賀百万石を成し遂げた
名君なんですが、世間の評判はあまり芳しくないようですな。

実は親父の前田利家公が死に際し「三年間は加賀に戻るな」との
遺言を残し秀頼様を守れとの命令を無視して大坂城から帰国した事。

だらしなく徳川家康公の軍門に下ったからでしょうかな。

(古城公園内 本丸広場)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

母親の芳春院とも相談して豊臣家を守るより前田家を守る事を
最優先にしようと考えた結果だと云われていますけど。

もはや天下は徳川様で決まりだと芳春院も前田利長公も肌で感じ
加賀百万石を如何にして存続させるかに努めたんだと思いますね。

(前田利長の銅像  本丸広場)


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この方は親父の前田利家公と一緒に何度も戦場に出て居られて
けして軟弱な武将じゃないんですが、歴史上では加賀百万石を
守り抜いた名君としての評価のみが記録されていますね。

年齢は加藤清正や福島正則と同じ年齢で2代将軍徳川秀忠とは
17歳も年齢が上になるという歴史上の人物になりますよ。

彼が豊臣秀吉により初めて領地を与えられたのが越中の三郡で
現在の高岡市を含む23万石だったと云われています。

そんな縁もあって隠居の地も養老の所領も越中の国に纏めて
加賀の本国は全て弟の前田利常に譲り渡したようですな。

(古城公園の お堀端)


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大坂冬の陣直前の1614年(慶長19年)5月に
前田利長公は、ここ高岡城で亡くなってしまいました。

まだ53歳という年齢から毒殺との噂もあるようですな。

大坂夏の陣(1915年)が終り完成し高岡城だったのに
翌年に出された元和の一国一城令により高岡城は取り壊し。

だけど弟の前田利常は城郭やお堀は兄の遺産として全て残し
城下町の住民も金沢に移動を禁止する法令を出してますんや。

恩人である兄が残した高岡を加賀前田家の本領に加えるも
街並みや産業は維持したかったようですな。

だから現在も昔の姿を残している古城公園なんですよ。

本来は側室の子である前田利常は藩主に成れない身分
それを四男の自分に家督を譲った兄の恩を終生忘れずに
高岡市内に立派な墓所や菩提寺を造らせているんですよ。

それでは菩提寺の瑞龍寺(ずいりゅうじ)へ行きまひょ。

(曹洞宗 瑞龍寺=ずいりゅうじ 総門)(重要文化財に指定)


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画像の説明書きでこのお寺の由来はお分かりになりますよね。

鉄ちゃん爺やは平成4年頃の12月に悪友4人とこのお寺を
訪れてますんや、今回は単独で二度目の参詣となりました。

大きなお寺がこんな地方都市にとしか当時は考えませんでした。

でも加賀百万石をスタートさせた前田利長公がお祀りされていて
建立したのが異母弟の前田利常だと云う処に興味がおました。

(曹洞宗 高岡山・瑞龍寺の山門)(国宝に指定されています)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


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(国宝 瑞龍寺 伽藍の配置図)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

鉄ちゃん爺やが前回に訪れた時には国宝にはなってませんでした。

1997年(平成9年)に山門・仏殿・法堂の三つが
富山県では初めての国宝に指定されたそうですよ。

重要文化財の総門から国宝の山門・仏殿・法堂を一直線に配置し
左右に禅堂と大庫裏を置き周囲を回廊で結ぶという厳粛で整然とした
伽藍構造の江戸時代初期の禅宗のお寺を代表する建物だそうです。

(国宝の仏殿を これも国宝の山門から撮影)


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このお寺を建立した加賀前田家第3代藩主・前田利常さんは
世間では「馬鹿殿さま」とされていますよね。

鼻毛を伸ばすやら小便を垂らしたりの馬鹿殿さまぶりを示す事によって
徳川幕府には謀反を起こすような器じゃないとの名演技ぶりですかな。

早々と徳川秀忠の娘との間に生まれた前田光高に家督を譲ることまで。

苦労して加賀百万石を守り通した兄・利長公を見習ったような仕草。

江戸幕府から睨まれないように苦労した外様大名筆頭の前田家が
明治維新まで生き残ったのは前田利長公を模範にしたような感じ。

(重要文化財 瑞龍寺 大庫裏)


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(国宝 瑞龍寺・仏殿を これも国宝の法堂から撮影)


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この国宝・仏殿は1659年(万治2年)に建立された総欅造りで
屋根は鉛板で葺かれた全国でも珍しい形式の建物だそうですよ。

金沢の石川門とこの仏殿の他には見れない建造物なんだって。

堂内には中国明代の釈迦・文殊・普賢の三尊が祀られているそうです。

お城などを変に修復すると江戸幕府に謀反の疑いを掛けられるけど
先代の菩提寺ならいくら立派に造っても文句などは言えないだろう。

加賀百万石の粋を結集した見事な文化財なんだと思いましたね。

徳川幕府に半分ぐらい意地と加賀藩の生きざまを示しているのかも。

この建造物を見たら前田利常さんはとてもじゃないが馬鹿殿さま
だとの俗説は間違っていると鉄ちゃん爺やは感じましたね。

(国宝 瑞龍寺 法堂の内部)


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法堂は瑞龍寺の建造物の中で一番大きな建物だそうです。

中央には大きな前田利長公のお位牌が置かれていますよ。

「瑞龍院殿聖山英賢大居士」と書かれていますね。

お寺の瑞龍寺はこの戒名の最初の文字を拝借しているんですな。

1650年代は江戸時代明暦年間に竣工の建物だそうです。

側に座禅を組む場所が有りますが禅僧が修業中なのでデジカメの
撮影はお断りと書かれてますので遠慮しましたよ。

(瑞龍寺 回廊の内部)


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瑞龍寺の境内はこのような回廊で囲まれていて見学者は
山門から右回りか左回りで自由に一周することになりますね。

昔はお寺の敷地は3万6千坪もある広大なお寺だったそうです。

周囲には壕を巡らし城郭のような姿だったと書かれていますね。

(瑞龍寺の回廊と 大庫裏の屋根を外から撮影)


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現在でも5000坪は超える敷地がある名刹でしょうな。

それでは次の前田利長公の墓所の方へ歩いて行きまひょ。

(八丁道 瑞龍寺と墓所への参道)


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この八丁道とは前田利長公の墓所と菩提寺の瑞龍寺を結ぶ参道ですね。

この参道は瑞龍寺に向かってその先は金沢のお城の方角になるんだそうです。

逆に前田利長公の墓所は南向きでその方角は彼の出身地であると共に
元の主君である織田信長の領国である尾張の国に向いているんだそうです。

前田利長公の墓所から瑞龍寺までの距離が昔の8丁ぐらいなので高岡市は
八丁道と名付けて観光用の参道として管理しているようでした。

(前田利長公の墓所)


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前田利長公は豊臣秀吉時代の末期に権中納言に任命されています。

死後には正二位大納言の位を追贈されてますので「公」の名前で
鉄ちゃん爺やのブログには書き込ませて頂きました。

前田利長公も前田利常も徳川家に頭を下げることには仕方がないが
加賀百万石は大半が織田信長や豊臣秀吉から拝領した土地である。

だから他の外様大名とは違うんだとの意識があったようですね。

瑞龍寺の敷地内には元の主家である織田信長と織田信忠の親子
それに織田信長の正室正覚院が前田利家公と前田利長公の親子
と並んで五つの石廟が分骨されてお祀りされていますよ。

豊臣秀吉廟だけは徳川幕府に遠慮して置かれてないのを考えれば
織田家では前田利家公と秀吉公は同僚だとの意識が有ったのかも。

前田利長公は織田信長を終生の主君として敬っていたようですね。

(自動販売機にも 前田利長公)


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高岡市内には自動販売機にも前田利長公のデザインが目立ちますね。

前田利長公が高岡城で亡くなられた時に母親の芳春院は江戸でまだ
人質生活をされ、翌月になりやっと金沢に帰る事が許されたそうです。

勿論、入れ替わりに前田利常の生母である寿福院が今度は江戸に
人質として送られたという事は厳しい外様大名の統制だったんだね。

前田利常さんは徳川幕府も4代将軍で徳川家綱公の時代である
1658年(万治元年)まで生きて、息子である前田光高の子で
前田家5代目藩主前田綱紀の時代までも後見しながら永眠。

この前田綱紀という方も79年間の長期に渡り加賀前田家の
藩主として有名な兼六園の元を築いた方でもありますよ。

加賀前田家もここに盤石の時代を迎えたように思われますね。

恩人である兄前田利長公に天国で加賀前田家を守り抜いたことを
報告されたことでしょうな。

蛇足ながら富山藩10万石は前田利常さんの次男坊で前田利次が
分家として初めて入られたので前田利長公との関連はありません。

この富山藩10万石と同時に加賀大聖寺藩7万石が三男が分家し
以降は明治維新まで加賀前田家は102万5千石の本領で
世に加賀百万石と現在まで呼ばれ続けてることになりますよ。

長々と加賀前田家のお話しを続けましたがこれでお仕舞い。

次回は鉄ちゃん爺やの一人旅、総集編として
書き忘れた事や画像などを紹介して終了したいと存じます。

それじゃ、今日はこれで、さいなら~

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鉄ちゃん爺やの一人旅   越中の富山市から高岡市へ  

2014-12-07 19:38:11 | 旅行
鉄ちゃん爺やの一人旅も後半戦になりましたで。

10月に訪れた富山市も今日は雪が積ってまっしゃろな。

(富山市水道局の マンホールの蓋)


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立山連峰に雪が降っているデザインでんな。

周りの花は富山市の花で「アザミ」やと思いまんねん。

それでは再びJR富山駅に戻りまひょ。

(JR富山駅前 南口広場の 完成図)


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画像の左側に見える線路は現在は南北に分断されている路面電車を
JR富山駅の下を通過させて相互乗り入れさせる考えのようですわ。

北陸新幹線が来年の3月14日に開業しても在来線の高架工事が
まだ2年ぐらい続くようにHPには載ってまんな。

画像中央の路線バスやタクシー乗り場は間に合いそうでっけど。

(東日本大震災直後の JR富山駅構内) (平成23年4月7日撮影)


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この二枚の画像は東日本大震災の直後に訪れた時に写した物でっせ。

同じ日にJR金沢駅では高架工事は殆んど終って線路の架設も
始まってたのに、JR富山駅は基礎工事が始まったばかりでしたんや。

下の画像には鉄ちゃん爺やが出張で通った改札口附近が残ってまんがな。

これで工事が間に合うのか心配してた懐かしい頃の画像でおます。

なんとか北陸新幹線だけは間に合う感じやけど、在来線や駅前の
工事はやはり約1~2年ぐらい完成が遅れそうでっせ。

(現在の JR富山駅地下 南北連絡通路)


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現在はJR富山駅の南北が分断されているので連絡には都合が良いんだけど
富山駅舎が完成したら1階部分に連絡通路が出来るので不要になるのかな。

今回は話の種にと通路を歩いてJR富山駅北口へ抜けて見まひょ。

(JR富山駅 北口側のビル群)


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鉄ちゃん爺やは昭和の60年代から平成の5年頃まで何度も出張で
JR富山駅には乗り降りもしてるんやけど北側にはビルは無かった記憶。

確かに前回訪れた東日本大震災直後にはビル群は出来てましたけど。

だから昔にはJR富山駅には北口はなかったと記憶してますんや。

(富山ライトレール 超低床の路面電車)


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国鉄の時代は富山港線と呼ぶ路線でしたんや、第三セクター方式で
富山県や富山市が中心になって路面電車に変更して成功した例ですわ。

奥に見える高架は北陸新幹線の富山駅で在来線はまだ現在は地上を
走ってますんや、右側に富山駅の北口仮駅舎が少しだけ見えてまっしゃろ。

この富山ライトレールを新富山駅が完成したら南側の富山地鉄の
路面電車と相互に乗り入れで県民には便利な交通機関になりますんや。

それではJR富山駅の在来線のホームへ入りまひょ。

(JR富山駅 北口仮駅舎)


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実は鉄ちゃん爺やが今回の一人旅で富山へ降り立ったのには
北陸新幹線が金沢駅まで開業したら大きな変動が起きますんや。

現在は特急列車が多く走るJR富山駅は在来線ではローカル駅に
転落してしまい鉄道マニアの好む旧型電車も廃止になりまんねん。

鉄道の画像ばかりが続きますんで興味の無い方はスルーしておくれやす。

まずは鉄ちゃん爺やが一番興味のある電車からスタートしまひょ。

(683系 特急はくたか)(越後湯沢駅~金沢駅間)(北越急行所属車)


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現在は関東の方が富山や金沢へ行かれるには上越新幹線で越後湯沢駅で
乗り換えれば「特急はくたか」が一番早く到着するんですわ。

ただこの「特急はくたか」は北陸新幹線が金沢駅まで開業される
平成27年3月14日には廃止と成ることが決まってますんや。

現在は北越急行の区間は時速160kmで走れる在来線では一番早く
北陸本線内でも時速130kmで走る優等生の列車なんですわ。

ところが北越急行とJR西日本が投入している特急電車なんでっけど
メンテは全てJR西日本の金沢運転所でやってますんや。

運転も越後湯沢駅から直江津駅まではJR東日本の乗務員が運転し
直江津駅から金沢駅まではJR西日本の乗務員に交代しまんねん。


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北越急行の「ほくほく線」と呼ばれる区間は収入の90%が現在は
「特急はくたか」が通過する使用料なんで、北陸新幹線が開通後は
殆んどの利用価値が無くなると以前から云われてましたんや。

北越急行はこの車両を3編成ぐらい保有してますんやけど
来年の3月14日以降は廃車にするのか譲渡するのかは不明でんな。

ただ北陸新幹線が開通する事を考えて北越急行さんは昨年までで
約130億円ぐらいに積立金を保有してますんで10年や20年間は
収入が殆んどなかっても倒産したり廃業することはおまへんけど。

確かに廃車しても問題がないのは、ご立派な経営方針でございます。

北陸新幹線の名称に「はくたか」が残るのがせめてもの救いでっかな。

「はくたか」という名称は立山の開山伝説に出てくる「白い鷹」でっせ

次は同じく新潟駅と金沢駅間を走っている「特急 北越」でおます。

(485系リニューアル車 特急 北越) (JR東日本所属)


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この越中と越後を合わせて「北越」と呼ぶ特急電車も同じく
北陸新幹線の開通の前日で廃止と決まりましたんや。

車両は東北地区や常磐線などへ転用は可能でっけどな。

以上の他に大阪を起点として富山駅まで運行されている
特急サンダーバードや名古屋を起点とする「特急しらさぎ」などは
全てが金沢駅までで終点となりますんや。

この華やかな特急電車ばかりじゃおまへんで。

(455系 近郊形電車)


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この国鉄時代には急行などに使用された455系や475系も現在は
富山駅から直江津駅までの普通電車として辛うじて残ってましたんや。

製造後40年を経過している関係で物持ちの良いJR西日本さんも
鋼鉄製の昔懐かしいこの形式も全て廃車にしてしまうんだって。

(413系 近郊形電車)


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この413系もJR西日本は全て廃車にしたかったようでっけど。

「あいの風 とやま鉄道」に譲渡する新型の521系新型電車が不足で
この413系の内で比較的新しい車両を5編成だけ塗装を塗り替えて
暫定的に走らせるそうですが、もはや引退も時間の問題でしょうな。

(JR富山駅構内 立山そば)


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在来線を北側の貨物線や富山港線の方へ移動したのでお店は
移動したと思いまっけど、デザインは昔のままの立ち喰いの店でっせ。

出張の途中で何度か蕎麦を食べたんで懐かしい風景ですわ。

北陸新幹線が開業したらまずは金沢方面の上り線と高山本線が
新幹線の高架の下にある2階部分に移動し、その後の2年ぐらい先に
画像の下り線ホームが高架へ移って完成となるようでっせ。

このホームの辺りは将来は駅前北口広場になるんでっしゃろな。

最後は富山地方鉄道の珍しい行き先表示板だけを貼り付けて置きまひょ。

(電鉄富山駅構内にて撮影)


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昔の電車はこんな行き先表示のプレート板を付けてましたな。

現在は殆んどの車両がLEDの電光表示板に変ってまっしゃろ。

宇奈月駅など懐かしいプレート板が残されてまんがな。

この富山地方鉄道の電鉄富山駅もまもなく高架の駅に変わるんだって。

それでは鉄ちゃん爺やは次のJR高岡駅に向かいまっせ。

(JR北陸本線 車内にて自分撮り)


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富山市から西へ約20kmの高岡市へ向かいますんや。

本当は金沢まで廻りもう1泊する考えでしたんやけど
台風が接近してJR西日本が関西の列車を止めるとの噂。

そんな訳で次の高岡市が最後の訪問地となりましたんや。

まずは雨晴海岸(あまはらしかいがん)を目指しまっせ。

(JR氷見線 雨晴駅舎)


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雨晴(あまはらし)と云う地名はその昔、源義経が東北へ逃れる途中
夕立に遭いここの岩場で雨が止むのを待ったとの伝説がおますんや。

その岩を現在は義経石と呼んで雨晴海岸の名所に成ってまっせ。

(雨晴海岸=あまはらしかいがん)


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海に浮かぶ小島は「女岩」と呼びますんや、お天気が良ければ
3000m級の立山連峰が海の彼方に見えるんでっせ。

別に「男岩」も海岸寄りに有るそうでっけど写し忘れましたわ。

この日は台風も沖縄辺りまで接近とかで期待は出来まへんでした。

仕方がないので駅構内のパネルを貼り付けて置きまひょ。

(冬場の 雨晴海岸を撮影したパネル)


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こんな素晴らしい写真が撮れるのは冬場の雪が止んだ後の日の出で
一年間でもそう度々は見れないとの駅員さんのお話しでしたわ。

私は平成4年12月に悪友とこの先にある氷見の民宿で忘年会をした翌日
この海岸から見事な立山連峰の雄姿を見たことがおますんや。

画像の様に凄く近くに立山連峰の雪景色が浮かび上がってましたで。

(雨晴海岸から 能登半島を望む)


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日本海は富山湾の波打ち際でっせ、この日は台風も接近してるので
普段は静かな日本海も冬の海のように少し波が荒いようでしたわ。

能登半島が遠くに見えてまっけど左手が氷見市でブリ漁で有名な漁港。

12月になると天然ものの「ブリ」が富山県民の愛する魚でっせ。

昔はブリ一匹を嫁の実家から婿の実家に持参して帰りに一部を頂いて
帰って来ると云う年末の風習が戦後まで富山県では続いていたとの話。

富山から飛騨の高山までの街道を「ブリ街道」とも呼んだそうですわ。

(雨晴海岸の マンホールの蓋)


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おそらく高岡市に合併される前に作られたデザインでっしょろな。

雨晴海岸に立山が描かれた観光地にお似合いのマンホールの蓋でっしゃろ。

(JR氷見線 雨晴駅ホームにて 自分撮り)


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(JR雨晴駅 構内から女岩を望む)


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画像の向こう側に「女岩」と雨晴海岸が見えてまっせ。

勿論ここはローカル線だから線路は全て単線でんな。

立山連峰が見えないのが残念でっけど高岡市内へ戻りまひょ。

(高岡市内 大仏寺の入口)


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(高岡大仏 & 本堂)


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(高岡大仏の 由来が書かれた説明板)


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日本三大仏の一つと云われてるようですが鉄ちゃん爺やは知りまへんでした。

確かに奈良の大仏それに鎌倉の大仏は有名でっけど三番目かはどうなんでしょう?

何度も焼けて1907年(明治40年)から高岡の特産品である銅製で造られ
1933年(昭和8年)に完成した比較的新しい大仏さまのようですな。

何せ日本で銅製の容器の90%は高岡市の製造だと云われてまんねんで。

(高岡大仏 ズームアップ)


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正式のお名前は銅造り阿弥陀如来座像とお呼びするんだって。

与謝野晶子さんがこの大仏さんを見て鎌倉の大仏さまより
美しくてお優しい顔だと云ったとの伝説がおますんやて。

(江戸時代の 木造高岡大仏の頭部)


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高岡大仏の台座の下は回廊に成ってますんや。

そこに1900年(明治33年)に焼失した高岡大仏さまの
頭部だけが残っていて展示されてますんや。

当時は木造の大仏さまだったようでっけど、高岡の銅製品を
製造する職人さんが焼けない大仏さんを造ろうと考えたようですわ。

現在の大仏さまは高さが15.85mで重量が65トンもおまっせ。

でも江戸時代の大仏さまより優しくて男前なのは確かでおますな。

(高岡市の 名所3カ所)


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雨晴海岸(あまはらしかいがん)と高岡大仏は今回で紹介しましたが
最後の曹洞宗・瑞龍寺は次回のブログにさせて頂きまっさ。

実は瑞龍寺にお祀りされている加賀100万石を成し遂げたお殿様で
前田利長と云う方がいらっしゃって、歴史上ではあまり有名じゃないけど
非常に興味を覚えて今回は高岡市を訪れて見たんですわ。

今回はこれでお仕舞いにさせてもらいますが、次回は
その加賀百万石・二代目当主の前田利長を中心に紹介させて貰いまっさ。

彼の築城した高岡城址と弟の前田利常が建立した菩提寺の国宝・瑞龍寺
そして八丁道から前田利長公の墓所までを予定しておきまひょ。

ほんなら、これでさいなら~♪



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鉄ちゃん爺やの一人旅   越中の富山を目指して  

2014-12-01 20:27:27 | 旅行
10月11日鉄ちゃん爺やの一人旅は三日目でっせ。

先ずは高山のホテル 花里の湯 桜庵 15階の露天風呂から


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朝風呂に入ろうとやって来たら遠くに北アルプスが見えてまんがな。

慌てて客室に戻りデジカメを持って来ましたがダメでしたわ。

太陽が出てきたらモヤがかかり見えなくなりました。

この画像は前日の夕方に写した物でっけど。

中央の奥に上高地の入口に在る焼岳と右側に乗鞍岳が見えたのに残念。

(ホテル 花里の湯 桜庵 バイキング会場にて)


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(ホテル 花里の湯 桜庵 玄関にて)


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この日は早めの朝食を済ませてJR高山駅に向かいまっせ。

ホテルからJR高山駅前までは歩いて10分弱でしたかな。

高山祭が終って駅前の幟が撤去される場面に出合いましたで。

(高山祭の幟の撤去)


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(飛騨のお土産 さるボボ)


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飛騨地方では赤ちゃんのことをボボと云いますんやて。

猿の赤ちゃんだから「さるボボ」でんな。

飛騨では何処の店にでも置いて有り、人気のお土産品だっせ。

それではJR高山駅に向かいまひょ。

(高山本線 全線開通80周年記念の幟)


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これから以降は鉄道の画像が続きまんねん。

興味の無い方は富山市内までスルーしておくれやすや。

(JR高山駅 上り線ホーム)


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やはり秋の高山祭でおましたから昨夜は高山に泊った方が多ようでんな。

上りの名古屋駅方面へ帰る観光客で混雑してまっせ。

日本人よりも外人の方が多いような気もしますんやけど。

欧米人が多かったので大阪とは違った雰囲気も感じましたで。

大阪は中国や韓国の観光客が多いので騒がしくて落ち着きまへんわ。

(JR高山駅 ワイドビューひだ8号 増結作業中)


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画像の左側が富山駅から到着した列車で、右側が4両増結のようですわ。

乗客の数から指定席も自由席も高山駅と次の下呂駅で満員でっしゃろな。

逆に鉄ちゃん爺やが向かう下り富山方面はガラガラの普通列車でおます。

(キハ48形 普通列車 猪谷駅行き)


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気にも掛けないで座ってたら次の駅から鉄ちゃん爺やより少し年配の男性が
乗って来られて向かいの席へ挨拶して腰を下ろしはりましたんや。

わてを鉄道フアンだと見て声を掛けてくれはったような感じでんな。

この列車が平成16年10月の台風23号の水害で打保駅(うつぼえき)で
宮川の鉄橋が流失し反対側へ戻るにも土砂崩れで立ち往生したそうですわ。

約2年間ばかり打保駅(うつぼえき)構内で放置されて居たそうな。

普通なら昭和50年代製造のロートルだから廃車にされるはずが珍しいことに
JR東海さんは名古屋の工場で修理して営業用に復帰させた車両なんだって。

だから画像で写したプレートが取り付けてあると教えてくれはりました。

約3年間も高山本線は高山駅の先から猪谷駅まで不通になって居たんだ。

(JR高山本線 上枝駅 読めない難解な駅名)


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「かみえだ」と読んでたけど難しい読み方をしまんねんな。

このキハ48ー6810号車は復帰後も奥飛騨の打保駅(うつぼえき)を
含む3年間不通だった区間を現在も元気に走って居る名物気動車なんだって。

だけど電化された武豊線から新型の気動車が来年から配属されてくるそうで
キハ47やキハ48は順次に廃車されるんだろうと仰ってましたで。

(神通川の支流 宮川の流れに沿って北上)


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高山市内を流れて来てJR高山本線に沿いながら、しばらく鉄ちゃん爺やの
お供をして富山市内で日本海へ流れ下る一級河川・神通川の支流でおます。

川の横は国道41号線のはずで、まもなくJR高山本線から離れて行きまっさ。

(JR高山本線 打保駅へ進入する処)


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年配の方は一つ手前の駅で降りられたので確認は出来なかったけど。

画像に見える雪除けの囲いで2年間も放置されていたのかしら?

この辺りは岐阜と富山の県境で且つ冬場は豪雪地帯なんでっせ。

JR東海さんは数十億円を掛けてこの不通区間を復旧したそうですわ。

鉄橋の橋脚まで流失し線路の地盤も約500mに渡って土砂崩壊した
現場を見て一時はこの区間の廃線も考えたとの事だったそうな。

それでも名古屋や関西方面から見てJR北陸本線が不通になる万が一を
考えて、この太平洋側と日本海側を結ぶJR高山本線は必要だったんだ。

ローカル線と馬鹿にするけど大震災などを考えると重要な路線なんだね。

(宮川の鉄橋を 通過中)


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この辺りが約3年間も不通になった険しい県境のルートかもしれないよ。

宮川に両側から山が迫り民家も見当たらない処を鉄道が敷かれているんだ。

国道41号線もこの難ルートを避けて越中東街道と呼ばれるコースを
遠回りしながら猪谷駅の手前で再びJR高山本線と合流するようだね。

(飛騨 最北端の駅 杉原駅)


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(キハ48形 猪谷行き 車内風景)


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2両編成のキハ48形普通列車には鉄ちゃん爺やを含めて乗客は8人だけ。

これじゃJR東海さんが数十億円も掛けて復旧したけど大赤字路線だっせ。

打保駅(うつぼえき)・杉原駅と停車はするけど乗り降りする客はゼロ。

(宮川の流れが少し 穏やかになったかな)


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この辺りで宮川の右岸が岐阜県で左岸は富山県という感じの処を
走りながらまもなく終着の猪谷駅に近づいているようでんな。

両岸が富山県に入ると宮川が神通川と名前が変るそうですわ。

猪谷駅のホームが前方に見えて来ましたで。

キハ48ー6810 気動車ともこれでお別れでんな。

次に来る時には引退してしまい、会えないかもしれないね。

(JR猪谷駅へ 到着します~)


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画像の先に写っている信号機から手前(高山より)がJR東海さんの管轄。

信号機から先はJR西日本の管轄で駅舎は当然ながらJR西日本でっせ。

前方に乗り換えで富山駅に向かう列車が停車しているのが見えてまぁ。

(JR猪谷駅  駅名標)


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これまでのJR東海さんのシンボルカラーであるオレンジから
JR西日本さんのシンボルカラーであるブルーの駅名標に変りまっせ。

JR東海さんのは高山市とか飛騨市など都市名が書かれてましたけど
JR西日本さんのは省略してはるから鉄道フアンとしては不親切に感じまぁ。

(JR猪谷駅舎を 構内から撮影)


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ここは無人の駅なんでっけど、特急「ワイドビューひだ」も停車しまっせ。

ここでJR西日本さんとJR東海さんの乗務員は必ず交代しますんや。

だから駅舎の手前の屋根の色が違うのはJR東海とJR西日本の
乗務員の休憩用の建物が別々に成っているんだと思いまねんけど。

改札を出て表に廻るとこんな感じの駅舎でっせ。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

大昔に息子と二人で青春18きっぷで途中下車した頃は改札口に
ここには国鉄の駅員さんが立っていたような記憶がしまんな。

JRに変ってからは無人の駅になったんでっしゃろか。

(旧 細入村時代の マンホールの蓋)


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昔は富山県婦負郡(ねいぐん)細入村(ほそいりむら)でしたんや。

平成の大合併で2005年(平成17年)4月1日に富山市に編入。

こんな山深い処まで富山市と云われると違和感がしまへんやろか。

マンホールの蓋だけは昔の村の花である菊とサザンカでおますわ。

この辺りは冬場は豪雪地帯で多い時は2mぐらい積りまっせ。

(JR猪谷駅 構内の留め置き線)


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今は静かな山里の駅なのに、こんな大きな構内とは意外でっしゃろ。

実はここから分岐されて神岡鉱山へ行く鉄道が昔はおましたんや。

約20kmほど岐阜県側へ入った処に神岡鉱山が有りましたんですわ。

戦前は日本一あるいは東洋一と称される亜鉛や鉛の日本最大の鉱山で
嫌な記憶では「イタイイタイ病」の公害を発生させたことでっかな。

現在は廃坑になった地中にニュートリノの観測機器が置かれている
そんな汚名挽回のニュースが話題になった神岡鉱山ですな。

当時は亜鉛や鉛の鉱物に副産物の硫酸などがこの猪谷駅から全国へ
発送されたので、大きな貨物の留め置き線が残ってますんや。

(猪谷駅のホーム)


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左側に高山駅から乗ってきたキハ48形の気動車が停まってますな。

右側はこれから乗車して富山駅に向かうキハ120形の気動車でっせ。

(キハ120形 JR西日本 新型の気動車)


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上の画像が高山側の車両で下の方が富山側の車両で色を変えてまんな。

高山本線 全線開通80周年のヘッドマークを付け走ってまんねんで。

関西でも色は違うけど加茂駅から亀山駅間で見掛ける気動車ですわ。

(キハ120形 出発! 進行!)


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(神通川のダム湖の側を通過中)


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ここを通り過ぎると列車はどうやら富山平野に出てきたようでっせ。

お天気が良ければ立山連峰が右手の遠くに見るんだけど霞んで
今日はお休みのようでんな、立山の方は何も見えまへんわ。

(越中八尾で 井田川を渡ります)


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遠くに見える橋の向こう側が「風の盆」で有名な越中八尾の集落でっせ。

越中八尾=えっちゅうやつお「風の盆」のパネルを貼り付けて置きまひょ。


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早いもんでバスツアーで越中八尾の「風の盆」を見に来たのが
昨年の9月2日でしたから、一年以上が経ちましたがな。

列車はこの越中八尾駅から乗客も多くなり立つ人も出て来ましたで。

もう15分ぐらいで終点の富山駅でっしゃろな。

(JR富山駅  新幹線口)


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北陸新幹線の来年の3月14日開通に合わせてで完成まじかのようでんな。

「富山の静謐な雪」とやらで真っ白のデザインで奇麗でっしゃろ。

外装は完成したようで内部の工事も急ピッチで進んでいるようでっせ。

実は新幹線が開業すると北陸本線の金沢駅から東側がJRから離れて
富山県内では「あいの風 とやま鉄道」に移管されますんや。

(あいの風 とやま鉄道 ロゴマークのパネル)


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鉄道フアンが愛用する青春18きっぷ、金沢駅から東へは使用不能ですわ。

今回、鉄ちゃん爺やが利用してきたJR高山本線はそのまま存続だとか。

来年からは富山へ来るのには別料金が要ると考えて、今回は懐かしい
富山市内と高岡市内を巡って見ようとやってきたんですわ。

(JR富山駅  駅名標) 


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このブルーの駅名標も来年の3月14日から「あいの風 とやま鉄道」の
デザインに変わるので、今回は記念にデジカメで写しときまひょ。

「あいの風」とは春先に富山平野に吹く優しい風の事らしいででんな。

それでは気分転換で富山城址まで足を延ばしてみまひょ。

JR富山駅から歩いても30分は掛からないかな。

(富山城址 千歳御門=ちとせごもん)


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何処かで見たような門だと思いまへんか?

そう~ 「東大の赤門」でんな。

あれは、加賀百万石は前田家の上屋敷に造られた赤塗りの門ですわ。

将軍の娘が興し入れすると特別な御殿と門が許可されるんでしたかな。

こちらは同じ前田家でも分家で富山・前田家10万石でしたな。

(千歳御門の 説明書き)


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説明書きを読んで貰ったら分かるように「東大の赤門」と同じ様式で
造られた千歳御殿の正門だったと書かれてまっしゃろ。

富山城は残念ながら明治維新の廃藩置県に際して全ての建物が取り壊され
これが払い下げられて後に富山市に寄贈された貴重な建物のようでんな。

昭和20年8月2日B29の大空襲で富山市内も壊滅的な被害だったとか。

町の復興を兼ねて戦後に天守閣を模した建物が造られたそうですわ。

(富山市郷土博物館)


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これが戦後の1954年(昭和29年)に造られた代用品でんな。

もう一つ富山城址に佐藤記念美術館がおます、これも櫓の代用品。

(佐藤記念美術館)


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こちらは1961年(昭和36年)に角櫓を模して造られた美術館ですわ。

両方とも歴史的な価値はおまへんけど、詳しく知らない人は
富山にもお城があると思いながら見物してはるかもしれまへんな。

江戸時代には富山城は「浮城」と」呼ばれ神通川の流れをお堀にして
水面に浮いて見える様な奇麗なお城だと書物には残ってますんや。

(松川の流れと 桜並木)


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この松川は明治になったてからお城を取り巻いて流れていた神通川を
日本海へストレートに流れを改修した際に、神通川の川跡を一部だけ
運河のように残して桜並木を植えて市民の憩いの場にしたそうですわ。

テレビで富山市内の画像が放送される時はこの松川の桜並木が多いかな。

(富山市最大の歓楽街 桜木町)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


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この辺りに千歳御殿が建っていたようでっけど、現在は飲み屋街でおます。

バーやスナックやクラブなど富山市内では夜の町として有名なんでっせ。

わても出張で、お得意さんと会食後に二次会でよく訪れてましたんや。

今日は昼間だからひっそりとして誰も通ってまへんわ。

(デ7000形 旧型 路面電車) (富山地方鉄道)

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レトロな感じがする路面電車でっしゃろ、それもそのはず~♪

昭和の時代に走っていた頃の塗装にわざわざ塗り替えた特別車両なんだって。

富山市へ出張してた頃に富山駅前で見た路面電車はこんなカラーでしたわ。

このデ7000形は製造後50年を経過したので新しいT101と云う
超低床型の路面電車と順次に入れ替えるとHPには書かれてまんな。

(T101 超低床型 路面電車)(富山地方鉄道)


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(デ8000形 路面電車)  (富山地方鉄道)


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歩いてJR富山駅へ戻ろうとしてたら面白いバス停を発見しましたわ。

富山の方言が書かれているようでっけど。


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長く成りますので今日はこの辺でお仕舞いにしまひょ。

次回は富山駅から高岡市へ移動しまっさ。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~♪




















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