古事記では 倭建命(ヤマトタケルノミコト)
日本書紀では 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
神話や伝説上の人物だとの説も濃厚でっかな。
でも~ 日本各地にヤマトタケルノミコトの足跡や
伝説が残っている、不思議なお方でもおます。
宮内庁は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の
お墓は羽曳野市の軽里に存在する前方後円墳で
「軽里大塚古墳」が該当すると定めてますんや。
この御陵は鉄ちゃん爺やの自宅から北西に約500m
全長190mで周囲を幅約30mのお濠に囲まれた
古市古墳群では一番美しい古墳だと考えられてまぁ。
(日本武尊=ヤマトタケルノミコト 白鳥陵)
お濠に古墳の姿を写すこの北西側からの画像が
一番美しいと鉄ちゃん爺やは考えてますんや。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と言えば
やはり白鳥伝説が有名なお話になりますかな。
以下のお話は、興味の無い方はスルーしてくださいね。
(伊吹山を 車中より撮影) (滋賀県側から撮影)
伊吹山の荒神との争いに敗れ伊勢の能煩野(のぼの)で
悲運な死を遂げた皇族だと古事記に書かれてますんや。
急を聞き、大和(現在の奈良県)から、お妃や皇子が
駆け付けた処、倭建命(ヤマトタケルノミコト)の
魂が白鳥に変わって故郷に向けて飛び去ったと。
能煩野(現在の三重県亀山市)から河内の志紀に下り
その後は和泉の大鳥郷へ飛び去ったと記されてまんな。
日本書紀では伊勢の能煩野(のぼの)は同じでっけど
大和の御所(ごせ)で羽を休め、次に河内の古市邑へ
最後は和泉の大鳥郷へ向けて羽を曳くように飛び去った。
この羽を曳くように飛び去ったの文面から、我が町の
「羽曳野市」という都市名が付けられてまんねんで。
(日本武尊 白鳥陵の 金具)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は日本書紀では
西へそれから東へと、従わぬ敵を征伐した大和建国の
偉大な皇子であると書かれてますんや。
一方で倭建命(ヤマトタケルノミコト)は古事記では
父親である景行天皇の命で、西へそして東へと戦いに
行かされて悲劇的な生涯を閉じた皇子と書かれてまぁ。
やはり古事記に書かれた悲劇のヒーローとされる姿が
ヤマトタケルノミコトの伝説に近いかもしれまへんな。
(日本武尊 白鳥陵 説明板)
それでは白鳥が最後に飛び去ったとされる大鳥郷の
和泉の国では一宮とされる大鳥神社を紹介しまひょ。
(和泉の国 大鳥大社の森)
JR阪和線から関西空港や和歌山へ向かう際に、鳳駅の
手前右手にこの森と、大鳥大社の看板が見えまんねんで。
鉄ちゃん爺や大鳥大社がここに在るのは知ってましたけど
実際に訪れたのは今回が初めてなんですわ。
(大鳥大社の 鳥居)
(大鳥大社の由来書き)
皇室の三種の神器の一つで「草薙の剣=くさなぎのつるぎ」を
ご存じかしら? 現在は熱田神宮のご神体として安置されてまぁ。
この剣は元々は「天叢雲の剣=あめのむらくものつるぎ」と
称されて、スサノウノミコトが出雲で八岐大蛇を退治した際に
尻尾から取り出して天照大神に捧げられたとされてまんな。
天孫降臨で再び地上に返されて、日本武尊が伯母と言われている
倭姫命(やまとひめのみこと)から関東へ向かう際に
剣と袋を授かり、危険が迫ればこれを開けと言われたんだとか。
駿河の国で偽りの謀で火攻めに会った時に、剣が自然に鞘から
抜けて草木をなぎ倒して危機を救ったとされてまんな。
古事記では相模の国の出来事とし、日本書紀では駿河の国で
焼津市かもしくは静岡市の清水だと、食い違ってまっけど。
この剣を、後世に「草薙の剣」と呼ぶようになったんだって。
この「草薙の剣」が名古屋の熱田神宮に在るのは伝説によれば
日本武尊が伊吹山の荒神を退治に出かける際に、お妃の一人
「宮簀媛=みやすひめ」に預けて出発したようですわ。
この方は尾張氏の娘ででしたが、日本武尊は再び「宮簀媛」の
元には戻らずに、伊勢の国で亡くなってしまうんですな。
熱田神宮は尾張氏の氏神さまであり皇室に娘をお妃に出す
天皇家にとっては重要な姻族だったということでっせ。
「宮簀媛=みやずひめ」が日本武尊の死後に熱田神宮へ
奉納したのが「草薙の剣」だとされてますんや。
現在も熱田神宮が皇室の重要な神様であるルーツでんな。
(大鳥大社の 拝殿)
和泉の国の一宮として平安時代には既に重要な神社として
延喜式の「式内社」として記録がされてますんや。
「大鳥造り」という神社建築でも貴重な様式なんだって。
明治時代に火災で焼失してしまいましたので、現在の拝殿は
明治の再建だとか、国の文化財には成って無いようですわ。
(大鳥大社の 本殿)
(大鳥大社の森)
(平清盛の石碑)
1189年(平治元年)に平清盛が熊野詣でを止めて
大鳥大社に戦勝を祈願したのが、ここ大鳥大社だそうで
京都に取って返し、源義朝を破って平家の天下となる
そんな歴史上の逸話を残すと書かれているようですわ。
(与謝野晶子の歌碑)
堺市に生まれた与謝野晶子は大鳥大社を崇拝したそうで
昔の和泉の国の一宮だから、当然かも知れまへんな。
(JR阪和線 鳳駅)
大鳥大社や大鳥郷と呼ばれてましたが、現在は地名でも
JRの駅名でも「鳳=おおとり」が使われてますんや。
(JR鳳駅 ⇒ JR大阪駅 460円)
日本武尊の伝説では、相模の浦賀水道を渡ろうとしたら
海の神が大波を起こしたために、お妃の一人である
「弟橘媛=おとたちばなひめ」が海に入水して
海の神の怒りを鎮めたとの逸話が残ってまんな。
お妃の着物の袖が流れ着いた処が、現在の千葉県袖ケ浦市。
「弟橘姫」の死を悼み「君去らず~」と日本武尊が
歌を詠んだのが、現在の千葉県木更津市だとか。
他にも東国を平らげて足柄峠から「吾妻の~」と呼び
関東から立ち去るのを悲しんだのが、現在でも
関東の事を「吾妻=あずま」と呼ぶこともおますかな。
他にも日本全国で日本武尊の銅像や逸話が見られます。
日本の神話としては、英雄なのか悲劇のヒロインなのか
謎の多い、お方であることには違いがおまへん。
(JR阪和線 205系 電車)
我が町には「白鳥神社」とか「白鳥」と言う地名
日本武尊に関連する名前も現存してまっせ。
ユルキャラで「タケルちゃん」と言うのもおます。
今日のお話は、これでお仕舞にしまっさ。
ほんなら~ さいなら~🎵
日本書紀では 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
神話や伝説上の人物だとの説も濃厚でっかな。
でも~ 日本各地にヤマトタケルノミコトの足跡や
伝説が残っている、不思議なお方でもおます。
宮内庁は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の
お墓は羽曳野市の軽里に存在する前方後円墳で
「軽里大塚古墳」が該当すると定めてますんや。
この御陵は鉄ちゃん爺やの自宅から北西に約500m
全長190mで周囲を幅約30mのお濠に囲まれた
古市古墳群では一番美しい古墳だと考えられてまぁ。
(日本武尊=ヤマトタケルノミコト 白鳥陵)
お濠に古墳の姿を写すこの北西側からの画像が
一番美しいと鉄ちゃん爺やは考えてますんや。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と言えば
やはり白鳥伝説が有名なお話になりますかな。
以下のお話は、興味の無い方はスルーしてくださいね。
(伊吹山を 車中より撮影) (滋賀県側から撮影)
伊吹山の荒神との争いに敗れ伊勢の能煩野(のぼの)で
悲運な死を遂げた皇族だと古事記に書かれてますんや。
急を聞き、大和(現在の奈良県)から、お妃や皇子が
駆け付けた処、倭建命(ヤマトタケルノミコト)の
魂が白鳥に変わって故郷に向けて飛び去ったと。
能煩野(現在の三重県亀山市)から河内の志紀に下り
その後は和泉の大鳥郷へ飛び去ったと記されてまんな。
日本書紀では伊勢の能煩野(のぼの)は同じでっけど
大和の御所(ごせ)で羽を休め、次に河内の古市邑へ
最後は和泉の大鳥郷へ向けて羽を曳くように飛び去った。
この羽を曳くように飛び去ったの文面から、我が町の
「羽曳野市」という都市名が付けられてまんねんで。
(日本武尊 白鳥陵の 金具)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は日本書紀では
西へそれから東へと、従わぬ敵を征伐した大和建国の
偉大な皇子であると書かれてますんや。
一方で倭建命(ヤマトタケルノミコト)は古事記では
父親である景行天皇の命で、西へそして東へと戦いに
行かされて悲劇的な生涯を閉じた皇子と書かれてまぁ。
やはり古事記に書かれた悲劇のヒーローとされる姿が
ヤマトタケルノミコトの伝説に近いかもしれまへんな。
(日本武尊 白鳥陵 説明板)
それでは白鳥が最後に飛び去ったとされる大鳥郷の
和泉の国では一宮とされる大鳥神社を紹介しまひょ。
(和泉の国 大鳥大社の森)
JR阪和線から関西空港や和歌山へ向かう際に、鳳駅の
手前右手にこの森と、大鳥大社の看板が見えまんねんで。
鉄ちゃん爺や大鳥大社がここに在るのは知ってましたけど
実際に訪れたのは今回が初めてなんですわ。
(大鳥大社の 鳥居)
(大鳥大社の由来書き)
皇室の三種の神器の一つで「草薙の剣=くさなぎのつるぎ」を
ご存じかしら? 現在は熱田神宮のご神体として安置されてまぁ。
この剣は元々は「天叢雲の剣=あめのむらくものつるぎ」と
称されて、スサノウノミコトが出雲で八岐大蛇を退治した際に
尻尾から取り出して天照大神に捧げられたとされてまんな。
天孫降臨で再び地上に返されて、日本武尊が伯母と言われている
倭姫命(やまとひめのみこと)から関東へ向かう際に
剣と袋を授かり、危険が迫ればこれを開けと言われたんだとか。
駿河の国で偽りの謀で火攻めに会った時に、剣が自然に鞘から
抜けて草木をなぎ倒して危機を救ったとされてまんな。
古事記では相模の国の出来事とし、日本書紀では駿河の国で
焼津市かもしくは静岡市の清水だと、食い違ってまっけど。
この剣を、後世に「草薙の剣」と呼ぶようになったんだって。
この「草薙の剣」が名古屋の熱田神宮に在るのは伝説によれば
日本武尊が伊吹山の荒神を退治に出かける際に、お妃の一人
「宮簀媛=みやすひめ」に預けて出発したようですわ。
この方は尾張氏の娘ででしたが、日本武尊は再び「宮簀媛」の
元には戻らずに、伊勢の国で亡くなってしまうんですな。
熱田神宮は尾張氏の氏神さまであり皇室に娘をお妃に出す
天皇家にとっては重要な姻族だったということでっせ。
「宮簀媛=みやずひめ」が日本武尊の死後に熱田神宮へ
奉納したのが「草薙の剣」だとされてますんや。
現在も熱田神宮が皇室の重要な神様であるルーツでんな。
(大鳥大社の 拝殿)
和泉の国の一宮として平安時代には既に重要な神社として
延喜式の「式内社」として記録がされてますんや。
「大鳥造り」という神社建築でも貴重な様式なんだって。
明治時代に火災で焼失してしまいましたので、現在の拝殿は
明治の再建だとか、国の文化財には成って無いようですわ。
(大鳥大社の 本殿)
(大鳥大社の森)
(平清盛の石碑)
1189年(平治元年)に平清盛が熊野詣でを止めて
大鳥大社に戦勝を祈願したのが、ここ大鳥大社だそうで
京都に取って返し、源義朝を破って平家の天下となる
そんな歴史上の逸話を残すと書かれているようですわ。
(与謝野晶子の歌碑)
堺市に生まれた与謝野晶子は大鳥大社を崇拝したそうで
昔の和泉の国の一宮だから、当然かも知れまへんな。
(JR阪和線 鳳駅)
大鳥大社や大鳥郷と呼ばれてましたが、現在は地名でも
JRの駅名でも「鳳=おおとり」が使われてますんや。
(JR鳳駅 ⇒ JR大阪駅 460円)
日本武尊の伝説では、相模の浦賀水道を渡ろうとしたら
海の神が大波を起こしたために、お妃の一人である
「弟橘媛=おとたちばなひめ」が海に入水して
海の神の怒りを鎮めたとの逸話が残ってまんな。
お妃の着物の袖が流れ着いた処が、現在の千葉県袖ケ浦市。
「弟橘姫」の死を悼み「君去らず~」と日本武尊が
歌を詠んだのが、現在の千葉県木更津市だとか。
他にも東国を平らげて足柄峠から「吾妻の~」と呼び
関東から立ち去るのを悲しんだのが、現在でも
関東の事を「吾妻=あずま」と呼ぶこともおますかな。
他にも日本全国で日本武尊の銅像や逸話が見られます。
日本の神話としては、英雄なのか悲劇のヒロインなのか
謎の多い、お方であることには違いがおまへん。
(JR阪和線 205系 電車)
我が町には「白鳥神社」とか「白鳥」と言う地名
日本武尊に関連する名前も現存してまっせ。
ユルキャラで「タケルちゃん」と言うのもおます。
今日のお話は、これでお仕舞にしまっさ。
ほんなら~ さいなら~🎵