鉄ちゃん爺やが生まれる前の、お話でっけど。
1933年(昭和8年)6月17日のこと。
大阪市大淀区(現在は北区)天神橋筋6丁目の
交差点で起きた、小さな出来事でしたんや。
(天神橋筋6丁目 駅名標)
大阪8連隊の中村一等兵(22)が赤信号を無視し
京阪電鉄の天神橋駅前から大阪市電の停留所に向けて
渡ろうとしたのを曽根崎警察所の戸田巡査(25)が
発見し派出所に連行した際に事件が発生しましたんや。
中村一等兵は休暇で実家の東淀川区から京阪電車で
天神橋駅まできて、大阪市電で映画を見るために
新世界辺りへ向かう途中だったとのこと。
(新京阪 天神橋駅舎) (事件当時は京阪電鉄)
新京阪の呼び方は鉄ちゃん爺やが学生時代まで
使われてまして、阪急電鉄では他所者扱いの感じ。
戦後に京阪神急行から京都線と千里線は、何故か
現在の阪急電鉄に移行されてますんで念のため。
現在は単なる阪急電鉄と大阪市営地下鉄の連絡駅で
1969年(昭和44年)に地下駅舎に成ってまぁ。
でも~ 当時は京阪電鉄の天神橋駅という始発駅で
淀川右岸から京都市内への重要な駅だったそうです。
超特急の京阪電車が大山崎付近で当時は国鉄だった
「特急はと」を追い抜いたとの話題が残ってますんや。
この天神橋駅舎の裏手に天六の派出所が在ったとか。
(現在の 天六交差点 ビル8階より撮影)
(現在の 天六交差点を 平地から撮影)
現在も天六交差点は五差路になってますが、画像の
右奥へ行くと大阪市の中津を経由して野田方面へ。
左奥へ行くと国鉄の大阪駅になり当時は大阪市電が
画像の左右に当たる天神橋筋で交差をしてましたんや。
(右側が 当時は京阪電鉄 天神橋駅舎)
この画像の左下になる道路で事件は起こったようでんな。
「帝国軍人が巡査ごときに逮捕される、いわれがない!」
「軍人であろうが、赤信号の無視は交通違反だ!」と争論に。
「ちょっとこい!」 と天六の派出所に連行したらしい。
「軍人は憲兵以外には、逮捕される訳がない!」
挙句の果てに殴り合いの喧嘩となり双方が負傷したとも。
「兵隊さん巡査にいじめられてる」と野次馬が電話で
憲兵隊に通報したので、憲兵が飛んできたんだって。
双方が先に手を出したと、譲らなかったんだとか。
憲兵が中村上一等兵を無理やりに8連隊へ連れ戻り
事件を完全に無視しようとしたんだとの事。
(大阪 曽根崎警察署) (画像右側の建物)
曽根崎警察署の高柳署長と、8連隊の和田連隊長が共に
公用でこの日は外出していたので、事件は上層部に波及。
「陛下の赤子(せきし)を殴って怪我をさせるとは
けしからん、大阪府警本部に詫びを入れさせろ!」
8連隊の上層部である第4師団の寺内寿一師団長が激怒。
(第4師団司令部)(今も大阪城内に現存)
この第4師団司令部は大阪城の天守閣と同時に、大阪市民の
寄付金150万円の内80万円で完成したのが前年の11月。
大阪城の天守閣の方は約47万円で完成したそうですわ。
この寺内寿一師団長は後の太平洋戦争では南方総軍の元締め
総司令官として君臨した、後の東条英機首相より先輩でおます。
これに対して大阪府警本部長の粟屋仙吉が反論を開始した。
「兵卒が陛下の赤子ならば、巡査も陛下の警察官である!」
「公用外出でなければ、民間人として逮捕するのは当然だ!」
「まして兵隊は武官ではない 文官であるはずだ!」
よって中村一等兵を曽根崎警察署に速やかに引き渡せと通告。
この粟屋仙吉という堅物の方は昭和20年に広島市長に就任し
8月6日の原爆投下により市長公舎で被爆され即死されてまぁ。
(当時の 巡査の夏服) (昭和15年頃の画像)
はでな服やパーマネントをしている女性を注意している画像。
天六ゴーストップ事件より少し後ですが感覚は同じでっかな。
話はこじれて、陸軍大臣荒木貞夫までが乗り出してきたとか。
この方も「瞬間湯沸かし器」と呼ばれた熱血漢の軍人ですわ。
後に東京極東裁判でA級戦犯となるも11人の判事さんの内
5名が絞首刑に賛成で1名足らずで終身刑になったとも。
戦後にも影響力を残して活動をされ奈良県の十津川で急病死。
片や戦前には全国の警察署は内務省の管轄にあったそうでんな。
当時の内務大臣山本達雄が一歩も引くなと訓令をだす始末。
必要ならば中村一等兵に私服の刑事を尾行させよとも発言。
大阪の裁判所も大阪府警側を支持し民間人を応援したとも。
第4師団も和田巡査を8連隊に召集させろといやがらせを。
兵隊と巡査の小さな争いが陸軍と内務省の大きな争いに発展。
メンツをかけた争いが、どんな結末を迎えるのか市民も注目。
曽根崎警察の高柳署長が7月に心労から病気で急死する事態に。
目撃者が大阪府警と憲兵隊の両方から事情聴取され、この方も
国鉄の吹田操車場で貨物列車に飛び込み自殺をされますんや。
世間はこの出来事を「天六ゴーストップ事件」と呼んだらしい。
(昭和天皇の 大阪第4師団 視察)(昭和7年の画像)
先頭を歩かれる昭和天皇が民間から寄贈された防空用の
聴音機を大阪城の大手前広場で視察された写真だそうです。
今から考えたら役に立たない防空用機械で笑い話でっけど。
6月に発生した事件が9月には双方が相手方を告訴するに発展。
泥沼のような争いは、大阪の新聞を大いに賑わしたんだって。
大阪の寄席では漫才のネタにも取り入れられたそうでっせ。
大阪市民も当初は陸軍側を良しとしたが、あまりにも陸軍側の
横暴に警察や内務省を支持するように変わってきたんだとか。
何処から聞かれたのかは不明だが、昭和天皇のお耳に届いたらしい。
「ゴーストップ事件と云うのが有るそうだが、どうなったのか?」
12月に福井県まで昭和天皇が来られる予定も迫っていたらしい。
この一言に、荒木陸軍大臣は大いに恐懼して友人の兵庫県知事に
斡旋を求め、大阪府知事の調停もあって一件落着にしたんだって。
5か月間も解決しなかった天六ゴーストップ事件が天皇陛下の
一言で、一転して解決したのには大阪市民も驚いたようですわ。
(昭和15年に完成の 国鉄大阪駅舎)(三代目)
11月18日に中村一等兵と戸田巡査が、お互いに詫びて
検察庁の官舎に出向いて握手をしたんだって。
8連隊の和田連隊長と曽根崎警察署の増田新署長が8連隊の本部で
11月20日に和解の握手をし、最終的に解決とされてますんや。
詳しい和解の条件は発表されてませんが、当時の陸軍の横車で
大阪府警や曽根崎警察署が譲歩し、折れたとも言われてますな。
でも当時は信号機はまだ珍しいらしく、中村一等兵も信号機に
気が付かなかったようなことが原因だったとの説も。
法律的には赤信号で渡れば交通違反と決まったのは戦後の
昭和22年の道路交通法からだとの説もあるんだとか。
でも、この一件が有った後には、帝国軍人は違反をしても
憲兵しか、取り締まれなくなったろの法律が出来たらしい。
軍人が政治や民間に優先する風潮が強まったのも事実。
大阪人はこんな冗談を当時ですが流行らせたんだって。
「赤信号 兵隊さんと渡れば 怖くない」
(大阪の春木海岸で 高射砲の実弾訓練)(第4師団も参加)
(現在の ジオタワー天六 低層部)
新京阪駅舎は1969年(昭和44年)に地下に新駅が完成後
天六阪急ビルと変わり、平成22年まで存在していたそうです。
貴重な建物で保存したいとの声も出たらしいが、所詮は阪急さん
京阪電鉄さんが建てたビルなので関心すらなかったとの話が。
現在は取り壊されて、高層ビルに成り、大通り側の低層部のみ
天六阪急ビル当時の外壁の色で生まれ変わっているようでんな。
蛇足ながら「また負けたか 8連隊」こんな歌がおますけど。
大阪の市民から招集された兵隊さんなので弱いとされた?
でも日露戦争では南山の戦いで1日で4千人を超える死傷者を
出しながら、一番乗りを果たしたのは大阪の8連隊でした。
太平洋戦争でもフイリピンで苦戦するバターン半島の戦いで
応援に駆け付けて8連隊が攻略し、コレヒドール島も占領。
決して大阪の8連隊が弱かったとは言えないんですよ。
天六ゴーストップ事件の書き込みが長くなりましたので
「大阪くらしの今昔館」は次回に回させて貰いまっさ。
最後に関西で春の風物詩と言われる「いかなごの釘煮」を
画像で貼り付けて置きまひょ。
(いかなごの釘煮)
ほんなら~ これで、さいなら~🎵
戦前の古い画像は我が町の図書館の写真集より拝借しました。
1933年(昭和8年)6月17日のこと。
大阪市大淀区(現在は北区)天神橋筋6丁目の
交差点で起きた、小さな出来事でしたんや。
(天神橋筋6丁目 駅名標)
大阪8連隊の中村一等兵(22)が赤信号を無視し
京阪電鉄の天神橋駅前から大阪市電の停留所に向けて
渡ろうとしたのを曽根崎警察所の戸田巡査(25)が
発見し派出所に連行した際に事件が発生しましたんや。
中村一等兵は休暇で実家の東淀川区から京阪電車で
天神橋駅まできて、大阪市電で映画を見るために
新世界辺りへ向かう途中だったとのこと。
(新京阪 天神橋駅舎) (事件当時は京阪電鉄)
新京阪の呼び方は鉄ちゃん爺やが学生時代まで
使われてまして、阪急電鉄では他所者扱いの感じ。
戦後に京阪神急行から京都線と千里線は、何故か
現在の阪急電鉄に移行されてますんで念のため。
現在は単なる阪急電鉄と大阪市営地下鉄の連絡駅で
1969年(昭和44年)に地下駅舎に成ってまぁ。
でも~ 当時は京阪電鉄の天神橋駅という始発駅で
淀川右岸から京都市内への重要な駅だったそうです。
超特急の京阪電車が大山崎付近で当時は国鉄だった
「特急はと」を追い抜いたとの話題が残ってますんや。
この天神橋駅舎の裏手に天六の派出所が在ったとか。
(現在の 天六交差点 ビル8階より撮影)
(現在の 天六交差点を 平地から撮影)
現在も天六交差点は五差路になってますが、画像の
右奥へ行くと大阪市の中津を経由して野田方面へ。
左奥へ行くと国鉄の大阪駅になり当時は大阪市電が
画像の左右に当たる天神橋筋で交差をしてましたんや。
(右側が 当時は京阪電鉄 天神橋駅舎)
この画像の左下になる道路で事件は起こったようでんな。
「帝国軍人が巡査ごときに逮捕される、いわれがない!」
「軍人であろうが、赤信号の無視は交通違反だ!」と争論に。
「ちょっとこい!」 と天六の派出所に連行したらしい。
「軍人は憲兵以外には、逮捕される訳がない!」
挙句の果てに殴り合いの喧嘩となり双方が負傷したとも。
「兵隊さん巡査にいじめられてる」と野次馬が電話で
憲兵隊に通報したので、憲兵が飛んできたんだって。
双方が先に手を出したと、譲らなかったんだとか。
憲兵が中村上一等兵を無理やりに8連隊へ連れ戻り
事件を完全に無視しようとしたんだとの事。
(大阪 曽根崎警察署) (画像右側の建物)
曽根崎警察署の高柳署長と、8連隊の和田連隊長が共に
公用でこの日は外出していたので、事件は上層部に波及。
「陛下の赤子(せきし)を殴って怪我をさせるとは
けしからん、大阪府警本部に詫びを入れさせろ!」
8連隊の上層部である第4師団の寺内寿一師団長が激怒。
(第4師団司令部)(今も大阪城内に現存)
この第4師団司令部は大阪城の天守閣と同時に、大阪市民の
寄付金150万円の内80万円で完成したのが前年の11月。
大阪城の天守閣の方は約47万円で完成したそうですわ。
この寺内寿一師団長は後の太平洋戦争では南方総軍の元締め
総司令官として君臨した、後の東条英機首相より先輩でおます。
これに対して大阪府警本部長の粟屋仙吉が反論を開始した。
「兵卒が陛下の赤子ならば、巡査も陛下の警察官である!」
「公用外出でなければ、民間人として逮捕するのは当然だ!」
「まして兵隊は武官ではない 文官であるはずだ!」
よって中村一等兵を曽根崎警察署に速やかに引き渡せと通告。
この粟屋仙吉という堅物の方は昭和20年に広島市長に就任し
8月6日の原爆投下により市長公舎で被爆され即死されてまぁ。
(当時の 巡査の夏服) (昭和15年頃の画像)
はでな服やパーマネントをしている女性を注意している画像。
天六ゴーストップ事件より少し後ですが感覚は同じでっかな。
話はこじれて、陸軍大臣荒木貞夫までが乗り出してきたとか。
この方も「瞬間湯沸かし器」と呼ばれた熱血漢の軍人ですわ。
後に東京極東裁判でA級戦犯となるも11人の判事さんの内
5名が絞首刑に賛成で1名足らずで終身刑になったとも。
戦後にも影響力を残して活動をされ奈良県の十津川で急病死。
片や戦前には全国の警察署は内務省の管轄にあったそうでんな。
当時の内務大臣山本達雄が一歩も引くなと訓令をだす始末。
必要ならば中村一等兵に私服の刑事を尾行させよとも発言。
大阪の裁判所も大阪府警側を支持し民間人を応援したとも。
第4師団も和田巡査を8連隊に召集させろといやがらせを。
兵隊と巡査の小さな争いが陸軍と内務省の大きな争いに発展。
メンツをかけた争いが、どんな結末を迎えるのか市民も注目。
曽根崎警察の高柳署長が7月に心労から病気で急死する事態に。
目撃者が大阪府警と憲兵隊の両方から事情聴取され、この方も
国鉄の吹田操車場で貨物列車に飛び込み自殺をされますんや。
世間はこの出来事を「天六ゴーストップ事件」と呼んだらしい。
(昭和天皇の 大阪第4師団 視察)(昭和7年の画像)
先頭を歩かれる昭和天皇が民間から寄贈された防空用の
聴音機を大阪城の大手前広場で視察された写真だそうです。
今から考えたら役に立たない防空用機械で笑い話でっけど。
6月に発生した事件が9月には双方が相手方を告訴するに発展。
泥沼のような争いは、大阪の新聞を大いに賑わしたんだって。
大阪の寄席では漫才のネタにも取り入れられたそうでっせ。
大阪市民も当初は陸軍側を良しとしたが、あまりにも陸軍側の
横暴に警察や内務省を支持するように変わってきたんだとか。
何処から聞かれたのかは不明だが、昭和天皇のお耳に届いたらしい。
「ゴーストップ事件と云うのが有るそうだが、どうなったのか?」
12月に福井県まで昭和天皇が来られる予定も迫っていたらしい。
この一言に、荒木陸軍大臣は大いに恐懼して友人の兵庫県知事に
斡旋を求め、大阪府知事の調停もあって一件落着にしたんだって。
5か月間も解決しなかった天六ゴーストップ事件が天皇陛下の
一言で、一転して解決したのには大阪市民も驚いたようですわ。
(昭和15年に完成の 国鉄大阪駅舎)(三代目)
11月18日に中村一等兵と戸田巡査が、お互いに詫びて
検察庁の官舎に出向いて握手をしたんだって。
8連隊の和田連隊長と曽根崎警察署の増田新署長が8連隊の本部で
11月20日に和解の握手をし、最終的に解決とされてますんや。
詳しい和解の条件は発表されてませんが、当時の陸軍の横車で
大阪府警や曽根崎警察署が譲歩し、折れたとも言われてますな。
でも当時は信号機はまだ珍しいらしく、中村一等兵も信号機に
気が付かなかったようなことが原因だったとの説も。
法律的には赤信号で渡れば交通違反と決まったのは戦後の
昭和22年の道路交通法からだとの説もあるんだとか。
でも、この一件が有った後には、帝国軍人は違反をしても
憲兵しか、取り締まれなくなったろの法律が出来たらしい。
軍人が政治や民間に優先する風潮が強まったのも事実。
大阪人はこんな冗談を当時ですが流行らせたんだって。
「赤信号 兵隊さんと渡れば 怖くない」
(大阪の春木海岸で 高射砲の実弾訓練)(第4師団も参加)
(現在の ジオタワー天六 低層部)
新京阪駅舎は1969年(昭和44年)に地下に新駅が完成後
天六阪急ビルと変わり、平成22年まで存在していたそうです。
貴重な建物で保存したいとの声も出たらしいが、所詮は阪急さん
京阪電鉄さんが建てたビルなので関心すらなかったとの話が。
現在は取り壊されて、高層ビルに成り、大通り側の低層部のみ
天六阪急ビル当時の外壁の色で生まれ変わっているようでんな。
蛇足ながら「また負けたか 8連隊」こんな歌がおますけど。
大阪の市民から招集された兵隊さんなので弱いとされた?
でも日露戦争では南山の戦いで1日で4千人を超える死傷者を
出しながら、一番乗りを果たしたのは大阪の8連隊でした。
太平洋戦争でもフイリピンで苦戦するバターン半島の戦いで
応援に駆け付けて8連隊が攻略し、コレヒドール島も占領。
決して大阪の8連隊が弱かったとは言えないんですよ。
天六ゴーストップ事件の書き込みが長くなりましたので
「大阪くらしの今昔館」は次回に回させて貰いまっさ。
最後に関西で春の風物詩と言われる「いかなごの釘煮」を
画像で貼り付けて置きまひょ。
(いかなごの釘煮)
ほんなら~ これで、さいなら~🎵
戦前の古い画像は我が町の図書館の写真集より拝借しました。