鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

備後の国 福山城を訪ねて

2017-07-29 20:27:43 | お城 & 城址
この日は備後の一之宮を訪ねるのが目的で
広島駅から新幹線で福山駅へ向かいまんねん。

片道を新幹線にしないと一寸キツイ感じでしたな。

(広島駅に到着の 新幹線 N700系)


まずは新幹線・福山駅のホームから伏見櫓を撮影。

新幹線から見えるお城としてはもっとも近いかな?

国宝だった天守閣は昭和20年8月の空襲で焼失し
戦後になってから、再建されてますんや。

この伏見櫓は奇跡的に戦災を免れた当時のままだとか。

(福山城の 伏見櫓を撮影)


広島県の福山市は人口は約46万人で広島市に次ぐ
県下では二番目に大きな都会なんですわ。

この福山市を語る時には水野勝成というお方が
重要なキイを占めていると考えますんや。

水野勝成(みずのかつなり)は徳川家康公の
母方の従兄弟に当たる方なんでっせ。

お年は21歳も年下なので親子に近い存在でっけど。

(福山城への 登り坂)




この方が1619年(元和5年)に備後の国で10万石の
大名として神辺城に入られたんですが、神辺城は中世に
何度も落城し、かつ瀬戸内海からも遠い場所でしたんや。

新しいお城を造ることで各地を巡って決心したのが
「蝙蝠山=こうもりやま」で「福」に通ずるとのことで
「福山」という地名と、お城の名前を決められたんだとか。

1619年と言えば既に徳川家康公は亡くなっておられて
世は二代将軍・徳川秀忠公の時代に移ってましたんや。

(再建された 福山城の天守閣)




五層と地下1階の見事な天守閣には以前から驚いてました。

五層の天守閣は30万石を超える大名にしか許可されず
普通なら三層の天守閣が相応しいんでっせ。

失礼ながら、たった10万石の大名なのに武家諸法度では
三層の天守閣しか認められないはず、多いな疑問でしたんや。

(福山城 天守閣)


これには徳川秀忠公の意思が秘められていたとの説。

御三家の紀州藩や水戸藩ですら五層の天守閣は認められず
いくら徳川家康公の従兄弟にあたる方と言えども
破格な待遇で、福山城が造られたのには驚きでんがな。

実は、ここ福山は西に広島藩の浅野家が、東には岡山藩の
池田家が控えており、いつ徳川に反旗を翻すかもわからない。

そこで両方に睨みを利かすには「鬼日向」の呼び名を持つ
水野勝成を据えるのが一番だと考えたようでんな。

徳川譜代・水野勝成の為に立派な城を造れと命じたのかも。

(重要文化財 伏見櫓)




普通ならこの伏見櫓が福山城の天守閣になったとしても
当時の規則では、不思議じゃなかったんでっせ。

(伏見櫓&筋鉄御門の 説明書き)


(重要文化財 筋鉄御門=すじがねごもん)




徳川秀忠公の命により伏見櫓と筋鉄御門(すじがねごもん)は
京都の伏見城から取り壊して、ここ福山城へ移設されたんだって。

万一に備えて、櫓や門が福山城には多く造られたそうですわ。

西国大名が謀反を起こした際には、福山城が第一の砦となり
瀬戸内海や西国街道から援軍を送るという構えでしょうな。

この二つは戦前は天守閣や月見櫓などを含めて国宝だったが
天守閣が空襲で焼失して、戦後は重要文化財に留まっているとも。

(本丸広場 伏見お湯殿跡)


ここには昭和20年の空襲で焼失するまでは、これも
伏見城から移設した「伏見お湯殿」が在ったそうですわ。

現在は一帯が福山城公園となってますんや。

(福山城の石垣)




蛇足ながら水野勝成さんは徳川家康公の従兄弟さんなのに
一時はたったの17石しかもらえない下級武士を経験し
鉄ちゃん爺やが調べた限りでも、10人以上の主君を変え
当時としては珍しい経歴をお持ちなんですわ。

水野忠重・徳川家康・織田信長・織田信雄・豊臣秀吉
小西行長・黒田孝高・三村親成・加藤清正・徳川秀忠

これは父親である水野忠重が「奉公構え」と呼ぶ他家への
仕官を認めなかったので諸国を転々としたんだって。

正室は備中の成羽城の三村親成の元に居た時に長男を得て
後に福山藩の二代藩主になった水野勝俊だったとか。

後に三村親成は福山藩の家老として恩に報いたとの話も。

この下積みの時代に水野勝成は、備後や備中をよく歩き
後の福山藩を起こす際には、参考になったんでしょうな。

(福山城 鐘櫓)




日向守(ひゅうがのかみ)に就任する際も、明智光秀の
官職でだれも望まなかったのを、気にもしなかったとも。

大坂夏の陣では「鬼日向」と恐れられ、大和口から進軍する
3万5千人の先鋒大将として活躍されたと記されてまぁ。

大坂夏の陣では松平忠明(家康公の外孫)に次ぐ功績で
大阪城の桜門に一番乗りを果たしたんだとか。

でも徳川家康公は、大将が先頭に成って大坂城に入るのを
嫌って大坂夏の陣の功績を評価せず、恩賞もなかったとか。

「将であるから 昔のように自ら先頭に立って 
  戦ってはならない」 と強く命じていた結果だとか。

徳川秀忠公が水野勝成を兄のように慕い、家康公が隠居後に
10万石を与えると約束したとも言われてるようでっせ。

その約束が備後の福山藩10万石と成ったんでしょうな。

(福山城跡の 石碑)




逆に関ヶ原の戦いで敗れて、大坂の堺を引き回されていた
小西行長に出会い、昔の主君に対して所持していた
編み笠をかぶせてやり、礼をつくしたとの伝説もおますんや。

現在でも水野勝成さんは福山周辺の市民から慕われていて
幕末に活躍した阿部家の方が、統治が長いにもかかわらず
水野勝成が福山市を発展させた偉大な人との考えなんだとか。

(JR福山駅 南側を撮影)




(舟入・二重櫓台 説明書き)


現在のJR福山駅を含めて南側の一帯は昔の外濠や
二の丸で、瀬戸内海とも運河でお城と繋がっていたとか。

鉄ちゃん爺やが現役時代に大阪から日帰りの出張で
何度かタクシーを拾っていた頃とは、風景が
昔とすっかり変わってしまってますので記憶もなし。

もっと地方都市で駅前も狭かったような記憶でっけど。

(100万本のバラの町 福山)






(駅ビルで コヒータイム)


(JR福山駅 改札口)


何となく新幹線のホムから改札口の付近は
昭和の時代に、鉄ちゃん爺やが訪れていた当時の
面影が残ってい居るようにも感じますんやけど。

(115系 JR西日本 郊外型電車)


最後に江戸の旗本で乱暴者で有名な水野十郎左衛門は
水野勝成さんの、お孫さんに当たるようでっせ。

幕府も水野勝成公がまだ健在で,大切な水野家なので
乱暴者の水野十郎左衛門を処罰できなかったとか。

徳川家康公の母方の実家が、この水野家ですからね。

1651年(慶安4年)水野勝成が亡くなった後に
処分が決まり、確か切腹に成ったんでしたかな?

今日はこれにてお仕舞にさせて頂きまひょ。

次回は備後の国・一之宮である吉備津神社などを
紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵
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日本一 短い国道 & 短い県道 

2017-07-22 20:10:15 | 街道 & 国道・県道
クイズにでも出題されそうなお話でっけど。

まずは日本一短い国道から紹介しまひょ。

(フラワーロードの道路標識)


神戸市の繁華街にフラワーロードという道がおます。

正確には新幹線の新神戸駅前から三ノ宮駅を通過して
国道2号線に繋がっている、兵庫県道30号線ですわ。

昭和40年代から舗道に花を植えたり花時計を設置したので
最近では「フラワーロード」と呼ぶようになりましたんや。

兵庫県道30号線なんて名前を知らない人が大半かも。

(フラワーロードの 花時計)


この道に面して神戸市役所の本庁舎などが有り
神戸市内でも休日には最も賑わう区域でっかな。

花時計を右に曲がれば旧居留地や南京町になりまぁ。

舗道には名前の通り花が植えこまれてますんや。

(フラワーロードの花壇)




(神戸市 レトロな路線バス)


(フラワーロードの 街路灯)


国道2号線でフラワーロードは終了して、その先は
新神戸港への国道174号線となってますんや。

(国道174号線 道路標識)


国道は明治時代に作られた法令により、県庁所在地や
主要港とか飛行場を結ぶように計画されたんだって。

戦前の国道は1号から41号までしかなかったそうな。

戦後もこの流れを引き継ぎながら拡大したようでっせ。

戦前の1号線は東京から伊勢神宮までだったようでんな。

戦後にできた道路法で国道174号線は国道2号線から
国鉄三ノ宮駅付近で分岐して新しく命名されたんだとか。

だから当時は国鉄三ノ宮駅から南へ約500mぐらい?

神戸港へのメインルートして計画されたんでしょうな。

ところが、国道2号線がルート変更で海岸側へ移動して
国道174号線の大部分が県道に格下げと成ったんですわ。

道路は格下げでっけど、立派な県道30号線フラワーロード。

(フラワーロード終点から 神戸市庁舎を望む) 




神戸市のマンホールの蓋にも、神戸市の市庁舎や
ポートタワーが描かれてまっしゃろ

(神戸市の マンホールの蓋)


片や生き残った国道174号線は神戸の税関庁舎前まで
たったの187mしかない「港国道」となりましたんや。

主要港である新神戸港への道路なので県道に出来まへん。

短いけど立派な11車線もある一般国道なんでっせ。

(国道2号線の 歩道橋から撮影)


画像の左右が国道2号線で、中央で右折しようとしている
ワゴン車の辺りが国道174号線の終点になりまんねん。

起点は新神戸港の入口に当たる神戸税関庁舎前になりまぁ。

国道174号の上を阪神高速神戸線と2号線のバイパス
浜手バイパスの2本が高架で通過してますんや。

(神戸税関庁舎を北側から撮影)


(神戸税関庁舎を南側から撮影)


(日本一 短い国道174号)(全長187m)


逆手にとって、こんな国土交通省認定の標識まで設置。

7~8年前にはこんな道路標識は無かったはず?

全長187mの国道でっさかいに歩いて約2分で踏破。

(神戸税関前 国道174号線の起点)


画像の奥に見える高架橋の先までが国道174号線。

ここから先の新神戸港までの道路は神戸市の市道なのかしら?

約300mぐらいなのでフェリーターミナルまで歩きまっせ。

(神戸 ポートアイランドを望む)




6月に国内で初めて「ヒアリ」が発見された埋め立て地でっせ。

その先には神戸空港があるポートアイランドと呼びますんや。

JR三ノ宮駅からポートライナーというモノレールで行けまぁ。

(新神戸港入口の 三菱倉庫)


蛇足ながら日本一長い国道は東京から東北本線沿いに
青森市まで続く国道4号線で約743kmだそうです。

それでは一番短い国道のお話はこれまでにして。

次は日本一短い県道の方も紹介しまひょ。

こちらは広島県の呉市で撮影してきましたで。

(JR呉線 安登駅にて 自撮り)


広島県の呉市と言っても、大和ミュージアムや海上自衛隊など
観光客で賑わうJR呉駅から、六つ先の駅まで乗りますんや。

下車したのも、帰りに乗車したのも、鉄ちゃん爺やただ一人。

のどかな田園風景が広がるローカル線の無人駅でしたわ。

(JR呉線 安登駅の駅舎)


ネットでは一寸した話題になってますが、何せJR呉駅から
先のJR三原駅までは1時間に1本有るかないかのダイヤ。

さすがに、ここまで足を延ばすのは、鉄ちゃん爺やぐらいの
物好きか、変人か、それとも暇人ぐらいしか居まへんやろな。

JR広島駅から往復して半日はたっぷりと費やしましたがな。

(日本一 短い県道の説明板)




なんと~ 全長が10.5mで 道路幅が18.7mだっせ!

長さよりも、道路の幅の方が大きいという変な県道でんがな。

駅前広場から50mぐらい先に国道185号が通ってますんや。

その国道185号との接続点である横断歩道が該当の県道で
広島県道204号の安登停車場線の路線名まで付いてまっせ。

(広島県道204号 横断歩道のラインの辺り)


(JR安登駅から 撮影)


実はネット上で、ここ広島県道204号と長野県の上田市で
長野県道162号の日本一短い県道の論争が起きてますんや。

「しなの鉄道」上田駅から、上田城・お城口交差点に接続する
全長7mの方が、日本一短いと書き込んでる方が居られるとか。

実は国道や県道には実距離だけではなく、他と重複した部分も
総延長として表示されている道路もあるんですわ。

正解は長野県道162号線の上田停留所線は実距離は7mで
長野県道77号線と重複区間が123mほどおますんや。

だから長野県道162号は総延長距離が130mとなりまぁ。

片や広島県道204号線は実距離も、総延長距離も10.5m
だから、両方共に日本一短い県道ということになりまんな。

逆に日本一長い県道は新潟県の佐渡島を一周している
新潟県道45号線で約170kmも有るんだって。

(安登駅前の お好み焼き店)


(広島焼き風 お好み焼き蕎麦)




JR広島駅方面へ戻りの電車は約1時間25分待ちだって。

昼食にはボリュームのある「お好み焼き蕎麦」にしまっさ。

ビールにしたい処でしたが、トイレのない電車が心配なので
この日は我慢して、広島風の「お好み焼き蕎麦」のみでした。

ここの店長はバイクの趣味があるんでしょうかな?

(店内に展示された バイク)




それではJR広駅行きの電車が到着時間なので戻りまひょ。

JR広駅で乗り換えて、JR広島駅まで約1時間30分かな。

(JR安登駅の跨線橋から撮影)




(広島県呉市 旧安浦町の マンホールの蓋)


(JR安登駅に 到着する105系電車)


JR西日本さんがローカル線用に103系を改造して
概ね2両編成で走らせてる電車なんですわ。

関西でもJR桜井線やJR和歌山線で見れまっけど。

(JR広駅 駅名標)


(JR呉駅 駅名標)


JR呉線には不思議と一文字の駅名が多く見られますんや。

写真には写せまへんでしたが「坂駅」と言うのもおました。

実はJR安登駅に行く気に成ったのは、JR広島駅で観光用
特別列車が入線してきたんですわ。

一両は指定席だが、もう一両は普通の乗車券で乗れるらしい。

鉄ちゃん爺やのマニアックな好奇心が騒いだんですわ。

(JR呉線 観光用 瀬戸内マリンビュー)


(JR呉線 瀬戸内マリンビュー 車内)




これは~ お宝の列車だと乗って見ることにしましたで。

キハ48系の気動車を観光用に改造したようでんな。

乗り心地は古い気動車だから、やはり今一でしたけど。

瀬戸内海が観れるように指定席は窓側に座席が向いてまぁ。

確かに瀬戸内海が観れる一番優れた路線がJR呉線でおます。

(JR広島駅にて 227系 新型電車)


JR西日本の広島支社で主力の郊外型電車としてデビュー
JR福山駅~JR広島駅~JR岩国駅間で運用中。

古い車両を順次置き換えるために大量に投入中なんだって。

これにて、日本一短い国道と県道のお話はお仕舞い。

次回は備後の福山城などを紹介しまひょかな。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵






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被爆建物の現状 広島市を訪ねて

2017-07-16 15:01:57 | デジカメ散歩
広島を代表する風景と言えば前回に紹介した
厳島神社と原爆ドームと言えまっしゃろな?

でも広島市内には当時の被爆を語る建物や
被爆樹木などが、多く存在してますんや。

今回は鉄ちゃん爺やが訪ねた被爆の痕跡を
デジカメで写して来ましたので紹介しまひょ。

まずは原爆ドームからスタートでんな。

(世界遺産 原爆ドーム)


(慰霊碑から 原爆ドームを望む)


オバマ前大統領がここで哀悼の意を示されてから
もうすぐ1年が経とうとしてますかな。

いつ来ても、献花の絶えない被爆地なんですよ。

(原爆の子の像) (平和公園内)


(原爆の子の像を 内側から撮影)


(各地から送られた 折鶴の画像)


それでは隠れた被爆地を順番に訪ねて見まひょ。

原爆ドームから一筋だけ裏手に入って行きまっせ。

(原爆の爆心地) (現在は島外科内科病院)


ここの上空約600mで1945年8月6日に
原子爆弾が投下され、炸裂したんだそうです。

当時も島外科病院で職員や患者80余名が
一瞬にして全員が即死されたんだそうですわ。

島院長は世羅町へ往診中で奇跡的に被爆を免れ
翌日から、救護の活動をされたそうでっせ。

3年後の1948年に病院は再建されたとのこと。

(爆心地から 北側を撮影)(当時を撮影したパネル)


画像の奥に破壊された石の鳥居が見えてまっしゃろ。

当時の廣島護国神社で現在は基礎石だけが残ってまぁ。

(元護国神社 被爆した石鳥居の台座)(2014年撮影)




次は爆心地に近い袋町小学校の被爆校舎でっせ。

爆心地から約400mぐらい東になりまっかな。

(原爆で被爆した 袋町小学校校舎)




当時は袋町国民小学校と呼ばれ、大半の生徒は疎開して
難を逃れましたが、残っていた教員と生徒は一瞬にして
全員が即死したと記録が残されてますんや。

鉄筋コンクリートだった西校舎のみ外壁だけを残し
小学校の校舎は全て焼失してしまったんだって。

鉄筋コンクリートの校舎は被爆当時は数少ない施設で
被爆した市民が多く収容されて治療が施されたが
多くの方が、被爆後に亡くなったとも言われてますんや。

翌日8月7日から市民の救護所として使われたそうで
広島市内で救護活動の中心となった施設だったとも。

先程の島外科病院の島院長と看護婦さん1名も
世羅町から戻った後に、救護活動をここでされたと
広島市の記録にも残ってるそうですわ。

(現在の 袋町小学校平和資料館)


(袋町小学校平和資料館 パンフレット)


1999年に児童館として利用していた黒板を撤去したら
下から、被爆当時の伝言板が出現したそうですわ。

広島市は貴重な被爆資料として保存することに成り
現在の平和資料館として改装がされたんだって。

(袋町小学校の壁面に 被爆当時の伝言板)


(袋町小学校 被爆した扉と窓)


(被爆した扉と窓の 説明書き)


(同じく被爆で 炭化した「もくれんがの壁」)


(被爆し炭化した 「もくれんがの壁」説明書き)


係りの方から近くの旧日本銀行・広島支店で特別展示が
されてますので、そちらもご覧に成ってくださいとのこと。

約100mぐらい表通りに出た処なので2014年に
見学したんだけど、もう一度だけ立ち寄ってみまひょ。

(旧日本銀行・広島支店 案内掲示板)




現在は日本銀行から広島市に貸与され内部も改装して
貴重な被爆建物として一般に公開されてまんねんで。

(旧日本銀行広島支店 被爆直後のパネル)


(現在の 旧日本銀行広島支店)(爆心地から約350m)


1945年8月6日の原爆投下で被爆した建物の中でも
頑丈に出来ていたので、地下金庫室などが被爆を免れ
支店長室など貴重な痕跡なども一般公開されてますんや。

(被爆を免れた 地下金庫)(2014年に撮影)


(被爆を免れた 地下金庫室の入口)(2014年に撮影)


(旧日本銀行広島支店 地下金庫室)(2014年に撮影)


今回はこの地下金庫室で平和記念資料館から被爆の資料を
借り受けて展示し、一般公開をしているようでんな。

刺激の強い画像もおますんで、見たくない方は
スルーされるようにお願いしておきます。

(人影の石) (紙屋町の銀行前にて)


住友銀行の営業開始を石段に座り待っていた方が原爆投下で
一瞬にして溶けて消滅し、人影だけが残った写真です。

原爆の無残な痕跡として世に知られるようになった画像かも。

この画像は約40年ぐらい前に平和記念資料館で拝見して
当時も凄くショッキングだった記憶が残ってますんや。

(人影の石 説明書き)


(被爆した 少年の服)




この衣服を着ていた少年はおそらく被爆後に
幼くして亡くなられたんでしょうな。

生きてたら、鉄ちゃん爺やとほぼ同年代の少年。

(被爆で破損した 地下金庫室の金具)




現在は開閉が出来ないような状態で使用中か?

丁番が破損したにも関わらず地下金庫室は頑丈で
被爆から守ったとは、凄い技術だったんですな。

(同じく 原爆で溶けた ガラス瓶)


(同じく 原爆で溶けた レンガの塊)


(原爆ドーム&日本銀行広島支店 被爆直後の画像)


頑丈な建物だったので、内部は焼失したものの
奇跡的に倒壊を免れて、外観は当時のままの
重厚な姿を今に伝える、原爆の被爆建物だっせ。

旧日本銀行・広島支店は原爆投下の3日後には
地下金庫が残ったので、地元の銀行11行が集まり
復興のシンボルとなる活動を開始したそうですわ。

屋根が破損していたので銀行員の方は雨の日には
傘を差しながらでも、営業は止めなかったとのこと。

旧日本銀行・広島支店では8月6日原爆投下により
被爆した方は18名で内8名の方が亡くなったそうです。

(旧日本銀行・広島支店 支店長室)




(支店長室  被爆の痕跡)




(支店長室の 被爆の痕跡 説明書き)


支店長室だけは奇跡的に家具や調度品までも焼失せず
傷跡を見れば、原爆の痕跡とは考えられないようなキズ。

強化ガラスだったので原爆の光線が遮断されたのかも?

(2階通路より 1階のフロアを撮影)(2014年撮影)


3階まで吹き抜けの立派な構造になってますんや。

1階を眺めるとこんな感じで、日本銀行から無償で
現在は広島市に貸与されているんだそうです。

国の重要文化財に指定された時には広島市に土地・建物共に
無償で譲渡されることに成っているんだって。

(旧日本銀行・広島支店 1階フロア)(今回の撮影)




(広島市中区 袋町5 住居表示)


何となく黄色く焼けたように見えるのは日本銀行広島支店の
被爆した外壁の部分なんですが、被爆して変色したのかしら?

旧日本銀行・広島支店の住居表示なんですけど。

それでは元安川の方へ歩いて行きまひょかな。

(夕暮れの 元安川遊歩道から撮影)


対岸は平和記念公園で平和記念資料館の屋根だけが
林の向こう側に屋根だけが写ってるようですわ。

この元安川も現在は穏やかに流れてますが、原爆投下の日には
水を求めて多くの市民が川に入り亡くなられたんだそうです。

(元安川から 遠くに原爆ドームを望む)


(被爆直後の 元安川と原爆ドームのパネル)


(元安川の畔の 慰霊塔)






(中曽根元首相 揮毫入りの慰霊塔)




撮影してから中曽根元首相が献納した慰霊碑なんだと
気が付いた次第、何と書いてあるのか確認が出来ず。

平和公園内ばかりじゃなく、元安川の遊歩道にも
数多くの慰霊碑が並んでいるのが特徴的な風景でした。

(被爆した 元安橋の柱が展示)




(現在の 元安橋の欄干)


原爆ドームで記念撮影してから、元安橋を渡り
平和記念公園へ向かう時に渡る橋でっせ。

原爆ドームを訪れた方なら一度は渡られたかも?

(元陸軍 広島幼年学校の被爆した門柱)




陸軍のエリートを育てる幼年学校でここを卒業し
東京の陸軍士官学校へ入学する憧れの学校でした。

親が陸軍の高官だった少年が優先で入学できたとか?

(被爆樹木 クスノキ)






幼年学校の校門付近に植えられていたようでんな。

クスノキの支柱の向こう側に広島城が見えてまっせ。

勿論、原爆で倒壊し戦後に再建された天守閣でっけど。

(広島城の天守閣)


(鯉を描いた 埋め込み式のパネル)


広島市では爆心地から5km以内の被爆建物や樹木を
保存して、後世に伝える事業を続けているんだって。

ここ広島城付近で爆心地から約1kmぐらいでっかな。

広島城は昔から「鯉城」と呼ばれてましたんですわ。

(広島市内 不動院の本堂)(国宝に指定)




ここが爆心地から約4.6kmで原爆で屋根が破損したが
広島市内では唯一で残る国宝の建造物なんだって。

その他は全て原爆により焼失や倒壊してしまったそうで
現在の広島市では、貴重な文化財なんだそうですわ。

(広島市内を流れる 太田川の本流)


画像の左側で二つに分流し、右側が太田川の放水路で
左側が約2kmぐらい先で再び元安川と京橋川に別れ
広島市内を流れ下り、広島湾に注いでますんや。


今回はこれでお仕舞にさせてもらいまひょ。

次回は日本一短い国道と県道のお話をしまひょ。

日本一短い国道は神戸市で、同じく日本一短い
県道は広島県は呉市におますんや。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵









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安芸の宮島から 広島市内へ

2017-07-08 19:54:44 | 旅行
(JR宮島口桟橋の マンホールの蓋)


このデザインはマニアさん達が公開しているブログでは
見当たらない、ノーマークで珍しい画像のようでっせ。

宮島港や厳島神社のある宮島町はいずれも廿日市市で
旧町のデザインでもなくJRが自前で作成した物かも?

廿日市市で標準の物は下記のような無難な柄ですわ。

(廿日市市の マンホールの蓋)(厳島神社の参道で撮影)


昼食も終わり歩き出したら雄鹿が付いてきますんや。

俺に ついてこいよ~ 

そんな感じで、鉄ちゃん爺やを誘導しまんねん。

気が付いたら「みやじマリン」という水族館前でした。

(鉄ちゃん爺やを 先導する雄鹿)


(市立 宮島水族館 みやじマリン)




水族館ちゅうのは、どこも入場料金が高いんですわ。

ここも大人=1400円  

スナメリの親子が可愛いとのキャッチフレーズでっせ。

騙されても仕方がないか、入場することにしまひょ。

(広島名物 牡蠣の養殖)




牡蠣イカダの下はこんな状態で育てられているんだって。

テレビでは観たことはあるけど、実物はこれが初めて。

(宮島水族館 大きな水槽の中)




鉄ちゃん爺やのコンデジでは、巧く写りまへんけど。

それではスナメリの親子にご対面しまひょ。

(スナメリの子供 チハルちゃん)








泳ぎ続けるので、カメラで追いかけるのが精一杯ですわ。

一眼レフカメラじゃないので、これぐらいにてご勘弁を。

(フンボルトペンギン)




記念に出口でコンパニヨンさんにお願いし写して貰いました。

昔は宮島町立の水族館だったのが2005年(平成17年)に
廿日市市に合併となり市立の水族館になったんだとか。

(宮島水族館前にて 撮影)


ここが歩いて訪れる一番西の端になるようですわ。

それでは元来た道を戻ることにしまひょかな。

(帰りは 鹿の親子がお見送り)


ここも「神鹿」として保護されてるけど、餌やり禁止!

賛否の両論があるようだけど、仕方がないんだろうな。

通行人の土産物など狙う獰猛なやつもいるんだって。

頭数を増やさないためにも必要なんだろうね。

奈良公園では殺傷することも一部だけど許可したとの話。

(観光用 案内標識)


(厳島神社 反橋を裏通りから撮影)(重要文化財に指定)


裏側じゃなくて勅使などが入場する表側になるんだよね。

当然ながら普段は通れないように柵で囲われてますわ。

(厳島神社 本殿を裏側から撮影)


(厳島神社 本殿越しに五重塔を撮影)


今回で5回目の参拝でしたが、あの五重塔には一度も行ってない。

これが最後の訪問になるかもしれないので、訪ねてみよう。

(石段の下から 五重塔を撮影)(重要文化財に指定)


(五重塔の 説明板)




室町時代に創建された貴重な五重塔なんだね。

ここで毛利氏と陶氏が有名な「厳島合戦」をしたんだけど
幸いにも兵火による焼失を免れたんだって。

両軍ともに厳島神社や大願寺などに兵火が及ばないように
離れた場所で決戦をした結果だとのこと。

(宮島の千畳閣) (現在は豊国神社)








戦国の戦乱で亡くなった将兵をお祀りするために
豊臣秀吉が毛利輝元に命じて造らせたお寺だって。

現在は豊臣秀吉と加藤清正をご祭神にしているとか。

豊臣秀吉の死亡で未完成な状態で残ったようですわ。

当時は神仏習合の時代だから厳島神社の別当寺として
厳島神社も合わせて管理し運営をしてたんだね。

明治になり仏像や仏具は隣の「大願寺」に移し替えて
「豊国神社」に変更されたんだと記されてますな。

現在は厳島神社の摂社の一つに成っているんだって。

でも元は寺院だったから、仏教形式の建物なんだ。

(厳島の最高峰 弥山 標高535m)


ここは「塔の岡」と呼ばれ少し高くなってますんや。

厳島の最高峰である弥山がはっきりと見渡せまっせ。

あの頂上に登れば瀬戸内海の美しい島並が見えるとか。

日本三景に安芸の宮島が選ばれた元来の姿なんだって。

明治の元勲である伊藤博文公が日本三景の中でも一番の
景色だと絶賛した言葉として今に伝わってますんや。

(新緑の樹木を通して 五重塔が)


(塔の岡 説明板)


有名な「厳島合戦」で大内方の陶晴賢(すえはるかた)が
此処に本陣を置いて毛利方を攻めるつもりだった。

毛利元就は夜半の風雨を付いて厳島に上陸し夜襲をかけ
陶晴賢はここから西へ逃れるも、味方の水軍がおらず
山中で自刃してしまったんだそうですわ。

これにより毛利氏は安芸の小領主から安芸・備後・周防
それに長門までの戦国大名に飛躍したそうでっせ。

なぜに陶晴賢は大軍を率いて山口からやってきて
こんな島に上陸したんでっしゃろか?

鉄ちゃん爺やのような素人でも首を傾げまんねん。

対岸で本陣を置いて部下を派遣すればいいのにね。

いくら謀略に載せられたにしてはお粗末な結末でんな。

それでは岡を降りながら宮島桟橋へ向かいまひょ。

石段を下ってたらこんな松がおましたで。

(塔の岡 龍髭の松)




京都の郊外に「善峯寺」というお寺がおますんやけど
ここにも、同じような松が植わってましたな。

どちらの松の方が長く伸びているんでしょうかな。

鉄ちゃん爺やは「善峯寺」の方が大きいと思いますんや。

後ろを振り返ったら五重塔が見えてまっせ。

これで見納めになるのかしら?

(宮島の 五重塔)


参道まで降りて厳島神社の大鳥居をもう一度見ましたで。

引き潮で大鳥居の側まで人が歩いて近づいてまんな。



スニーカーが汚れるのでデジカメで写すだけにしまひょ。

2時間ぐらいで海水が引いて歩けるようになりまんねんな。

(平清盛公 生誕九百年の幟)


(宮島桟橋の フェリー乗り場)


(宮島桟橋の フェリー待合室)




4年前にはもつと古い建物だったような記憶がしまぁ。

桟橋の部分などは10年前と変わってまへんけど。

何せ広島県では原爆ドームと、ここ厳島神社が観光の
双璧で外人さんの訪れも増えているようでっせ。

再びフェリーに乗船して宮島口桟橋までは約10分。

広島電鉄系の宮島松大汽船と料金も同じ180円。

(宮島口桟橋へ接岸)




行きはJRで来ましたが帰りはのんびりと広島電鉄の
路面電車で広島市内の紙屋町へ向かいまっさ。

(広島電鉄 広電・宮島口駅舎)


(広島電鉄・宮島線の 路面電車)


広島市内へはJRの方が早いんですが、観光などで
原爆ドームや平和公園へ行く場合は、広島電鉄ならば
原爆ドーム前という駅に直接行けまんねんで。

急ぐ旅じゃないので帰りは広島電鉄にしましたんや。

(原爆ドームを背景に 自撮り)


(広島市の中心街 紙屋町交差点)


(広島電鉄の 新型路面電車)


(広島電鉄 元の京都市電?)


広島電鉄の路面電車は黒字だそうですわ。

昭和時代から平成まで古い電車や新型車両まで
鉄道マニアには写真を撮る最高の場所でおます。

大阪の元市電や京都の元市電が昔のままの配色で
現在も走っているのには、ご立派の一言ですわ。

(広島市内 観光用道路標識)


(広島市 カープ坊やの マンホールの蓋)


このマンホールの蓋が有ることは知っていたんですが
今回は初めてJR広島駅の南口で見つけました。

今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は原爆の被災を逃れた袋町小学校や元日銀広島支店など
隠れた原爆の被爆地などを紹介させて貰いまひょ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~🎵



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世界文化遺産 厳島神社を訪ねて

2017-07-01 19:15:09 | 国宝 & 重要文化財
鉄ちゃん爺やが厳島神社を訪れるのは
3年ぶの、都合5回目になりますんや。

昨年から全国の一之宮を詣でる事で検索したら
安芸の国は「厳島神社」が一之宮でおます。

4回も参詣してたのに、ご朱印を貰ってまへん。

広島に滞在中に参拝することにしましたんや。

(厳島神社の 大鳥居)(重要文化財に指定)


資料によれば明治8年(1875年)7月に再建
平安時代から数えて8代目になるんだって。

鉄ちゃん爺が高校の修学旅行にSLで九州へ向かう
列車から初めて見たのが、これだった訳ですわ。

夕日を受けて何故か大きく見えた印象でんな。

現在はJRから眺めても、見落とすぐらい遠くて
小さいんでっけど、はっきりと瞼に残ってますんや。

視力が2.0だったから、そんな訳はないよね!

(日本三景 宮島の 石碑)


この日は平日でしたが、中学校らしき学童の遠足で
午前中から門前町は賑わってましたで。

娘の話では6月は地元や他府県の遠足が多いんだとか。

(厳島神社の門前町)




(広島名物 焼き牡蠣)


(大鳥居を背景に 自撮り)


門前町を抜けて参道にかかると遠くに見えてきました。

朱塗りの見事な本殿と回廊は国宝に指定されてますんや。

(厳島神社の 遠景)


(厳島神社 参拝入口)


(厳島神社 拝観券)


それでは拝観料300円を納めて入場させて貰いまひょ。

一方通行でっけど、逆走しても係りの方が見当たらない
出口から、タダで侵入する不届き者が居ないのかしら?

そんな事を考える無礼者は出てこないんでしょうな。

(厳島神社の回廊) (国宝に指定)




(厳島神社の回廊で 自撮り)


(奉納された 日本酒)


(奉納された 醤油)


厳島神社のご祭神は国家鎮護と海上の守護神で有ると共に
お酒の神様でもあるんだと聞きましたで。

(厳島神社 回廊から 大鳥居を望む)






これまで5回も訪れているんですが、平舞台や本殿が
海水に浮かび上がった姿を一度も見てませんのや。

今回も引き潮で平舞台は海水が去った直後の感じ
大鳥居は海上に浮かんでますが、残念でした。

(厳島神社 本殿) (国宝に指定)






(厳島神社 本殿を背景に自撮り)


正式には御本社(ごほんしゃ)と呼ぶんだそうでっせ。

最上部の真の棟と、両側の母屋が棟の様に見える所から
「三棟造=みつむねづくり」又は「三棟拝殿」とも
呼ばれる、独特の建築様式になっているんだって。

ご祭神は女神さまで、参考のために列記

湍津姫命  たぎつひめのみこと

市杵島姫命 いちきしまひめのみこと

田心姫命  たごりひめのみこと

天照大神と素戔嗚尊が高天原で剣玉の御誓をされた時に
ご出現された神々とされてますんや。

難しい話はここまでにして先へ進めまひょ。

(厳島神社 ご朱印)


(厳島神社 本殿&高舞台) (国宝に指定)




黒漆(くろうるし)塗りの基壇に、
朱漆(しゅうるし)塗りの高欄があり
前後には白木の階段がある。

平清盛公が舞楽を当社に伝え、それが現在も
神事の際に、この舞台で舞われているんだって。

(厳島神社 平舞台)(国の重要文化財に指定)








本殿から海上に突き出た板張りの部分を平舞台と呼び
高波が来ても平舞台が、破損しないように少しだけ
隙間をつくり全体を保つ仕組みになっているんだとか。

10年ぐらい前の台風で破損したが大きな被害も出ず
現在は少しづつ、修復が続けられているようですわ。

(厳島神社 火焼前=ひたきまえ を撮影)


海に突き出た、ここが一番大鳥居に近い場所になりまぁ。

観光客が写真撮影の為に入れ替わり立ち代わりで
火焼前(ひたきまえ)だけを写せまへんがな。

絵葉書などで良くみられる風景かもしれまへんな。

それでは西側へ回って行きまっせ。

(厳島神社 回廊の西側から 大鳥居を望む)


(厳島神社 回廊から 遠くに五重塔が)




(厳島神社の 反橋=そりはし) (重要文化財に指定)








(厳島神社 能舞台) (重要文化財に指定)




こちらは本殿の西側にある能舞台のようでんな。

笛柱が独立している特徴的な建物なんだって。

延宝8年(1680年)に広島藩主・浅野綱長により
再建されたと記されてました。

(厳島神社 回廊の終着点)


(清盛神社への 案内板)


今までは出口から宮島桟橋へ戻ったんでっけど
今回は、もっと先まで散策してみまひょ。

西の松原を歩いてみましたんや。

(西の松原を撮影)






ここ西側から眺める大鳥居も始めて見る風景ですわ。

観光客も西の松原を歩いてる間は2~3人とすれ違っただけ。

(西の松原から 大鳥居を撮影)


(西の松原から 宮島桟橋方向を撮影)


厳島神社の繁栄を作った平清盛公をお祀りした
神社があるんだと知り訪ねてみました。

(清盛神社)






厳島神社の繁栄を招いた最高の人物なのに意外な光景。

村の鎮守さんよりも粗末な神社には驚きましたで。

そういえばNHKの大河ドラマでも平清盛公は何故か
人気が低かったように思いまんねんわ。

日本人には好まれない人物なんでしょうかね。

(宮島の歴史的建造物群 保存地区)




この辺りまで足を延ばせば観光客もほとんど見られまへん。

ここで昼食をすることとしまひょ。

一寸だけお値段は高めでしたが、奮発して
広島産の「あなご」を味わうことにしましたんや。

(宮島名物 あなご料理の店)


(宮島名物 あなご料理)


(あなご料理で お昼ご飯)


背景のタンスはこの辺りでは有名な宮島箪笥だそうです。

触らないでくださいと、書いてあるので貴重品なんでしょうね。

長くなりますので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は宮島のパート2から広島市内を紹介させてもらいまぁ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵








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