鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や   大和川を巡って~♪

2012-01-29 15:51:50 | 日記
デジカメを持って大和川の辺りを約2万歩ほど散歩してきました。

大和川は大阪府では淀川に次ぐ第二位の川ですが全国的に眺めれば
流域面積1070k㎡で本流の延長が68kmしかありません。

1級河川でも中規模の川なんですが大昔から大阪湾と奈良や飛鳥を結ぶ
重要なルートで明治時代までは船便にも利用されたそうです。

まずは我が町から200円の電車賃を払って柏原市へ向う事にしました。



photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


現在の大和川は奈良盆地の水を集めて奈良県王寺町(標高45m)から
亀の瀬を通って大阪府の柏原市(標高20m)に出て来ます。

そのまま西進して大阪市と堺市の境界を通過して大阪湾に注いでいます。

でも江戸時代の17世紀までは柏原市から北へ流れて多くの支流に別れ
深野池や新開池などを経て大坂城の手前で再び纏まった後に
大坂城の北側で淀川(現在の大川)に合流していました。


(大和川百話)  


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


大阪市内に上町台地という丘陵が有るので生駒山とに挟まれた河内平野では
大和川の流れを妨げて土砂を大量に堆積したようです。

徳川時代には上流の山々が木の根まで掘り返されて燃料や木材に使われ
大雨が降るたびに河内平野は泥海になる事が多くなりました。

江戸幕府は川浚いをして淀川や大和川の排水に努めたようですが
延宝年間(1680年代)には15回もの大水害で河内平野は水没しました。


(旧 大和川の流域図)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


河内平野の村民は大和川の付替えを嘆願し逆に新しく川筋になる村民は
付替え反対で双方が50年以上も争いが絶えなかったそうです。

江戸幕府も川浚いでお茶を濁す事しか出来ず時代が下がるごとに深刻な
洪水の被害が続くことに頭を悩ましていたようですな。

河内の今米村(現東大阪市)の庄屋を勤める中甚兵衛の訴えが当時の
勘定奉行荻原重秀や若年寄り稲垣対馬守重富を動かしたようです。

悪名高い金貨の改悪で有名な勘定奉行荻原重秀でしたが経済政策や
治水対策では河内の国の住民には大恩人とも言えますかな。


(大和川 付替え工事分担図)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


普請奉行に大久保甚兵衛忠高と伏見主水為信が5代将軍綱吉により
任命され助役として姫路城主本多忠国(15万石)が命じられました。

元禄17年3月から工事が始まって直ぐに本多忠国が急死してしまいます。

幕府は直ぐに岸和田城主岡部長泰・明石城主松平直常・三田城主九鬼隆方
にお手伝い普請を命じ上流部分は幕府直轄としたようです。


(新大和川 掘削・築堤盛り土 断面図)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


新大和川の途中には瓜破(うりわり)台地と浅香山台地が有り
これを掘り下げて新しい水路を造るのが一番の難工事だったようです。

この難工事の部分は3大名(合計14.9万石)に任せて幕府直轄部分は
万年長十郎(代官)が堤奉行として中甚兵衛や村民の協力で
一番楽な盛り土だけで済む工事区間を担当したようですな。


(中甚兵衛の 銅像) (付け替え300周年に設立)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


大和川の付替え工事は1704年(元禄17年3月)に始まり途中で元号が
宝永に変ったが1704年(宝永元年10月13日)に完成しました。

工事区間14.3kmをたったの224日で完成させたとは現在から
考えても驚異的な人海戦術と工事を競争させた結果なんでしょうな。


(新 大和川右岸堤防のクスノキの巨木)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


この大和川付け替え工事は川幅10間(182m)で北側堤(右岸)は高さ
3間(5.4m)堤敷15間(27m)馬踏み3間(5.4m)
南側堤(左岸)は高さ2.5間(4.5m)堤敷12間半(22.5m)
馬踏み2.5間(4.5m)で造られました。

右岸の方が1mほど高く造られた要因は土地が北側へ緩やかに傾斜しているのと
新しい大和川が右岸へ圧力をかける流れに成るからとの考え方らしい。


(新 大和川と 築留二番樋の取り水口)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


(築留二番樋)  (文化庁の登録文化財)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド



photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


新大和川が完成した時に旧の大和川への水路を閉じたのがここ築留(つきどめ)で
旧の大和川には農業用の用水路が設けられたそうです。

現在の築留二番樋は明治40年頃にレンガ造りで建造さ
現在も用水路として柏原市や八尾市で使用されていますね。


(築留地区 利水事業の石碑)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


徳川幕府の正式歴史書である「徳川実記」にはこの付替え工事の中心人物である
中甚兵衛は勿論の事ながら堤奉行である万年長十郎でさえ記録が有りません。

普請奉行の大久甚兵衛と伏見主水が将軍綱吉から功労により
時服を頂戴したこと、その後に大久保甚兵衛が昇進して
大坂西町奉行に成ったことしか記録されていないそうです。

中甚兵衛は大和川付け替え工事の現場責任者である大久保甚兵衛と
名前が同じなので「甚助」と改め以後、子供の代から甚兵衛を名乗らず
「九兵衛」と称する事にしたそうです。

中甚兵衛は苗字帯刀を許されたのが記録に残る唯一の業績で
この時期の人物としては珍しい92歳の長寿を全うしたそうです。

300周年を記念して築留地区に銅像が建てられたのが平成16年の事でした。


(大和川本流に合流する石川を 築留地区の堤防から撮影)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


日記が長くなりましたので次回は新大和川の難工事だった
浅香山の辺りからか下流を訪ねて見る事にしました。
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鉄ちゃん爺やの  散歩道~♪

2012-01-25 19:25:13 | 日記


私の散歩コースを写真で紹介しまひょ。

我が家からお堀の周りを1周して戻ってくると5000歩ぐらいでんな。

日本武尊(やまとたけるのみこと)白鳥陵と呼びまんねで。


(白鳥陵を航空写真で)




世界文化遺産に申請中の古市古墳群の中で一番美しい御陵と違いまっかな。

航空写真の左上の隅から写すとこんな感じになりまんねん。


(日本武尊 白鳥陵)




わてが説明するよりはこの掲示板を呼んでくれはりまっかな。


(日本武尊 白鳥陵の説明板)




我が町の名前の語源もここからきているようですわ。


(白鳥陵の お堀に越冬中のマガモ)







(羽曳野市 古市地区の案内図)





左上の安閑天皇陵の右側ぐらいがわての自宅でんねんわ。

クリックしたら拡大できるはずでっけど。

中央に日本武尊白鳥陵や応神天皇陵も見えていまっしゃろ。

地図は上が南になるのは白鳥陵のお堀端に掲示しているからだっしゃろな。


(今日のお昼ご飯は  月見焼きそばでした)

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和歌山電鉄  たまスーパー駅長さんのお話し。

2012-01-21 12:56:10 | 日記


1月5日で和歌山電鉄の「たまスーパー駅長」が就任5周年だそうですわ。

HPから拝借したんで画像が不鮮明なのは勘忍だっせ。


(たま駅長に 部下が誕生)




たまスーパ駅長(雌19歳)さんも寄る年波には勝てず、
勤務中に睡眠することが多く成ったそうですわ。

「わて~ 寝てても駅長の仕事はやってまっせ~」

人間で例えれば60歳~70歳、そろそろ後継者も必要じゃないでっかな。

そこで岡山本社から「ニタマ」(雌2歳)が着任して「たまスーパー駅長」が
お休みの日曜日には貴志駅駅長代行を命じられたそうですわ。

普段は和歌山電鉄の本社と車庫がある伊太祈駅の駅長を兼務するそうでんな。

それにしても和歌山電鉄さんはPRがお上手で感心しまっせ。


(2270系 通勤型電車)  (元は南海電鉄の車両でした)




元は南海電鉄の支線で和歌山市と紀ノ川市を結ぶ赤字ローカル線でおました。

2006年(平成18年)に南海電鉄が岡山の両備グループの岡山電気軌道ちゅう
会社に売却してその子会社として新和歌山電鉄でスタートしましたんですわ。

路線距離たったの14.3kmのミニ鉄道だし沿線にこれって言う名所もおまへん。

廃止されなかったのが不思議な鉄道だと、わても考えましたんですわ。

南海電鉄時代に貴志駅の売店だった「小山商店」が駅構内で猫を三匹飼ってましたんや
母親の「ミーコ」と子供の「たま」それに従兄弟の「ちび」

小山商店の撤去交渉に来た岡山の重役さんが「たま」の面構えと行動を観て
ヒラメイタ! そうです、この三毛猫を貴志駅の駅長にしようと。


(たま駅長)  (平成20年頃の撮影?)




2007年(平成19年)1月5日に三毛猫「たま」に和歌山電鉄・貴志駅長の辞令が
下りたそうですわ、同時に母親「ミーコ」(2009年死亡)と「ちび」ちゃんは
貴志駅助役として勤めることになったそうでんねん。

後に「ちび」ちゃんは行方不明になり現在は「たま駅長」のみでっけど。





「たま駅長」の愛嬌のある姿が関西で一躍有名になったんでおます。

南海電鉄時代は貴志駅の1日乗降客は700人前後だったのが「たま駅長」就任
2年目には乗降客が40%も急増したちゅう話ですわ。

驚いたことに「たま駅長」就任3年過ぎで万年赤字だった和歌山電鉄が
なんと~ 黒字に転換したという事でんがな。

そこで会社は「たま駅長」の功績を称えて新しい駅舎を新築することにしましたんや。


(和歌山電鉄 貴志駅舎)  (平成22年8月完成)




桧皮葺の屋根に猫顔の駅舎とはユニークなデザインでおまっしゃろ。

それと同時に「たま駅長」をスーパー駅長(役員待遇)に昇格したそうですわ。

赤字会社をたったの4年で黒字に変えてっしまうなんて

どこかの総理大臣や経済閣僚さんは爪の垢でも煎じて飲まれたら如何かな?


(おもちゃ電車)  (和歌山電鉄所属)




車内に子供が喜ぶ玩具がふんだんに並んでいて「がちゃがちゃ」の機械も置いてある
子供が何度でも乗りたくなるようなアイデアと発想には感心しまっせ。


(いちご電車)   (和歌山電鉄所属)




わてが乗らしてもらった電車でっけど、貴志駅周辺の特産品「いちご」に
ホワイトクリームをイメージさせる電車でんな。

車内は座席から部品までオール「いちご」ずくめの微笑ましい電車でっせ。


(いちご電車の 車内風景)







(貴志駅のパネル)




わてがOCN・Cafeのトップに使っていたイラストだからご存じでっしゃろ。








駅舎と言いパネルと言い猫好きの方には堪らない配慮がされていまんな。


(たまカフェ) (貴志駅の構内)




駅構内には「たま駅長」育ての親である「小山商店」も土産物と軽食堂を
功労者として設置を許可されているそうでっせ。

駅前にはほとんど店や食堂もなく折り返しの電車を待つ観光客を
上手く取り込んでいるのは流石だと思いまんねんけど。


(貴志駅の 改札口)




「たまスーパー駅長」の執務室は出てすぐ右側におます。

わてが訪れた時は珍しく起きてお出迎えでしたよ。


(たまスーパー駅長)  (平成22年8月撮影)




(たま電車)  (和歌山電鉄所属)




人気が抜群の電車なんですがわてが訪れた日は点検で車庫に停まってましたんや。

和歌山電鉄のユニークなデザインは水戸岡鋭治と言う方が考え出したそうですわ。

親会社の岡山電気軌道(路面電車)にも同様な「たま電車」を走らせて
PRに努めているそうだっせ。


(和歌山電鉄 貴志駅ホーム)




「たまスーパ駅長」さんが健在の内にもう一度訪れてみたい駅でおまんな。

なんでも経済効果が年間で11億円だそうで羨ましいお話しでっしゃろ。

新任の「ニタマ」ちゃんにも合わせて頑張って欲しいと思いまんねんけど。

ほな~ 今日はこれでお仕舞い、さいなら~♪














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浪花八百八橋 & 大阪城  (続篇)

2012-01-16 19:33:33 | 日記
今夜は大阪弁でやらして貰いま~♪

まずは大阪城の天守閣を見てくれはりまっか。


(大阪城の天守閣)  (本丸の正面から撮影)




(陸軍第四師団司令部)  (現在は閉鎖中)




1931年(昭和6年)に昭和天皇即位記念事業として大阪市の関市長はんが提案。

市民や企業から約150万円の寄付金が集まったらしいでっせ。

今のお金にしたら約700億円だそうですわ、当時は関東大震災で衰退した
東京より大阪の方が元気がおましたんやな。

第四師団司令部と天守閣が合わせて約145万円で建てられたそうですわ。

なんでも第四師団司令部の方が高く付いたとの話でっせ。

陸軍さんに文句を言わせないように立派な建物を献上したちゅう事でんな。


(大阪砲兵工廠の跡)




鉄ちゃん爺やが幼い頃には大阪城の東側には陸軍の砲兵工廠がおましたんや。

大砲や戦車や砲弾などを造ってましたんや、そやから米軍の1トン爆弾の
空襲をなんども受け、終戦の1日前には壊滅的な被害が出たそうですわ。

国鉄の森ノ宮駅では1トン爆弾で多くの方が亡くなったそうでっせ。

そやけんど天守閣と第四師団司令部はビクともせずにカスリ傷で済んだそうですわ。

第四師団司令部は戦後に進駐軍が利用しその後大阪市に返還され大阪府警本部
大阪歴史博物館を経て今は重要文化財として保存されていまんねんで。

砲兵工廠跡は現在はビジネス街(OBP)と大阪城公園に成ってまっけど。


(極楽橋と見事な擬宝珠)  (ぎぼうしと読みまっせ)




天守閣から裏手へ出ると奇麗な橋がお堀に架かってまっせ。

極楽橋(ごくらくばし)と呼びまんねんて、なんでも昔
石山本願寺の御堂さんがおまして阿弥陀さんが祀ってあったとか
それで太閤さんの時代も徳川はんの時代も極楽橋と呼んだそうですわ。


(極楽橋をお堀端から撮影)




こちらは二の丸跡でっけど暫く歩くと青屋門という場所に出てきまんな。


(大阪城の青屋門)




この門は大阪城の鬼門(北東)に当りまんので江戸時代には常に閉ざされていたそうですわ。

青屋門も終戦の1日前の空襲で大破したんでっけど、その廃材を使って
戦後に建て直したそうでっせ。

江戸時代の宝永年間に大和川が堺市の方へ川替えされる前はこの門の外を
大和川の本流が流れていたそうでっせ。

そやから非常口として大和川から船で逃げる事も考えていたんでっしゃろな。

今は城内から100mぐらい先に橋が架かってまっけど。


(新鴫野橋)   (昔は公儀橋でしたんや)




この辺はさっき話しました「砲兵工廠跡」でっさかいに戦前は一般の
人間は通ることも橋を渡ることも出来なかったそうでんな。


(新鴫野橋と平野川)




今は平野川でそんなに川幅はおまへんけど昔は大和川の本流でしたんで
200mぐらいはおましたんでっしゃろな。

江戸時代には河内方面へ出る橋で公儀橋の一つだったそうですわ。

当時は「鴫野橋」と呼んでいたんでっけど、戦後の河川改修で新しく
架け替えたんで「新」を付けたようでんな。

引き返して京橋口の方へ抜ける事にしまひょかな。


(京橋口へ向かう通路から撮影)  (天主閣の裏側からになりま)




最後にJR大阪環状線が森ノ宮駅から京橋駅の区間だけ地上を走ってまんねんで。

昔は城東線と呼んでましたんやけど、砲兵工廠を一般人や外国人に見られないように
わざと高架にせず下を走らした名残りだと言う話でんな。

ほんなら、今夜はこれでお仕舞いにしまっさ、さいなら~♪





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浪花八百八橋 & 大阪城  (前編)

2012-01-14 17:15:11 | 日記


OCN Cafe でやってました浪花八百八橋シリーズをこちらで続けることにしました。

お江戸が八百八町 京都が八百八寺 大坂が八百八橋  凄く大坂は橋が多かったと言う意味ですよ。

1000以上の橋が出来た大坂には公儀橋はたったの12箇所しかおまへんでした。

大半の橋は町人や商人が私財を投じて江戸時代に架けられたというルーツがあります。

今回は公儀橋の内で「京橋」を紹介する事にしますかな。

「京橋」は京都から京街道の終点であり、奈良へは大和街道の起点として大事な橋と言われていました。


(京橋)  (江戸時代に大坂で一番重要だった公儀橋)




「京橋」(きょうばし)と言う地名は東京都内にも有り、こちらは きょうばし~ となめらかに読みます。

大阪では ↑きょうばし と最初に強くアクセントを付けて発音する違いがありますね。

鉄ちゃん爺やが、大阪流で読んだら東京では、通じなかった経験がありますよ。








昔は公儀橋の威厳を保つ「擬宝珠」(ぎぼし)と言う立派な飾りが付けられた橋だったそうです。

なにせ大坂城に勤めた役人や武士はこの橋を渡り、その先で川崎の渡しを使って通勤したようですな。

昔の公儀橋なのに現在は殺風景なコンクリート製で幻滅を感じる橋に成ってしまいましたね。

もう少し趣のある橋に造って欲しかったと思うのは私だけかしら。


(京橋口)  (江戸時代には役人の通用門だったかな?)




1945年(昭和20年)終戦の1日前の空襲で門は焼け落ちてしまいました。

現在は石垣だけが当時のままで残っているだけですな。


(肥後石) (京橋口の正面奥に有ります)




鉄ちゃん爺やが学生の頃まではこの石が大阪城で一番大きいと聞かされていました。

ファイバースコープで大学の偉い先生が探索した結果、現在は二番目の大きさだそうです。

それでも100トンを軽く上回る巨岩には変りはないですけどね。

加藤清正が運んだとの伝説ですが本当は徳川時代になってから置かれた石ですけど。


(大手門)     (正面の門で 偉い人しか通れなかったのかな?)
 



追手門(おってもん)とも呼ばれ1848年(嘉永元年)に建てられた物だそうです。

大阪城の門としては江戸時代から残っている唯一の建物でもありますかな。

蛇足ながら大阪府庁の本館はこの門を挟んでお堀の反対側に有るんですよ。


(蛸石) (たこいし)




天守閣へ向かう「桜門」の奥に大きな石が横たわっています、これが現在では大阪城で一番大きい石と言われてます。

推定で140トンは超えるだろうと言われていますよ。

でも本当の事はファイバースコープでの探索だから定かではないかも知れませんね。


(千貫櫓) (せんかんやぐら)




大阪城の建物ではこれが一番古いと言われ1620年(元和6年)の建築で奇蹟的に焼けずに残った重要文化財だそうです。

明治維新の頃の出火や大阪空襲による焼失で大阪城の江戸時代の古い建物は殆んど残っていないようです。

勿論、太閤秀吉時代の大阪城は痕跡すら残っていないのが真実なんですよ。

それでも大阪人にとって大阪城は今でも太閤秀吉のお城だとの想いがあるんですよね。



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試験運転中~♪

2012-01-13 19:45:14 | 日記



OCN Cafe が廃止になるとかで goo ブログに挑戦する事にしました。

どんな感じになるのか未知の箇所が多いので試行錯誤しながら試してみます。

画像が上手く投稿できるのか心配でまずは、これから入門ですかな。


画像をクリックすると拡大して見れるようですね。


(大阪市のマンホールの蓋)  (カラー塗装)




大阪城の天守閣に桜を散りばめたデザインが素敵ですよ。


(大阪の名所 ご存じグリコの看板)




道頓堀川は戎橋からの撮影は観光客ならこの位置からお馴染のポーズ~♪


(近鉄 特急 吉野行き 16000系)




我が町を通過して桜で有名な吉野山に向かいますよ。
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