鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

第7代大阪市長 関一 & 大阪城天守閣のお話

2020-09-27 19:27:31 | お城 & 城址
大阪城天守閣の再建を計画したのは大阪市長の関一さんでっせ。

1928年(昭和3年)昭和天皇即位の記念事業の一つでしたんや。

1929年(昭和4年)から大阪市民の募金を求めたところ150万円の
基金が集まり、大阪市民の大阪城天守閣への憧れの大きさを感じまぁ。

これは現在の貨幣価値に直したら約600億円とも言われてまんねんで?

150万円の内で25万円は住友財閥の総師である住友吉左衛門友成氏が
個人で寄贈したとの記録が残ってまっけど。

(大阪城の天守閣) (登録文化財に指定)


明治から昭和の時代まで大阪城の本丸一帯は陸軍の管理する地域で
一般の市民は許可なく立ち入ることが出来なかったそうですわ。

そんな訳で、大阪城の天守閣と同時に第4師団庁舎を同時に建設する
条件が認められ、やっと工事が始まったとか言われてまんねん。

1931年(昭和6年)11月7日に五層8階の鉄筋コンクリート製で
大阪城の天守閣が、第四師団庁舎も同時に竣工したそうですわ。

大阪城天守閣に47万円  第四師団庁舎に80万円  公園整備に23万円

天守閣の建築費用より第四師団庁舎の方が随分と高い金額でっしゃろ。

当時の陸軍省を納得させるにはこんな努力が必要だったんだね。

天守閣は大林組が、第四師団庁舎の方は清水組が担当したようでんな。

(旧 第四師団庁舎)




重厚な建物で米軍の空襲に際し1トン爆弾にも耐えたんだとか。

数年前からミライザ大阪の名前で内部が公開されて、喫茶や物販などの
施設になったと聞いてまんねんけど、まだ訪れる機会がおまへんのや。

鉄ちゃん爺やが学生時代には大阪府警本部が使用してましたかな。

大阪城天守閣は入場したり写真を撮る人が多いですが、こちらは
何の建物だったのかも知らない観光客が多いように思いまんねん。

6年前の撮影だったはずで、建物には立ち入りが禁止で閉鎖中でした。

(大阪城天守閣を背景に撮影)


1931年(昭和6年)に完成してから大阪城天守閣は
「天守閣郷土歴史館」と呼ばれて市民にも公開されましたんや。

でも~ 鉄ちゃん爺やが幼い頃にはカメラ撮影が禁止に成り
陸軍省の指示で防諜の為に8階の展望台は見学が禁止に。

1942年(昭和17年)からは天守閣には防空部隊が入り
大阪市民の入場すら出来なくなったと記録されてますかな。

戦後は進駐軍に占拠され1948年(昭和23年)になって
やっと返還され、大阪市に移管されたと聞いてますんや。

昭和の時代に日本全国で天守閣の復元がブームになったようですが
大阪城の天守閣がそのモデルになった第一号だとされてますかな。

(大阪城天守閣に 桜の風景)


大阪城の天守閣は平成の大修理で初層から四層までは白漆喰で
江戸時代の大坂城を、五層目だけは黒漆に金箔で覆った
太閤秀吉時代の大坂城を再現しているんだそうです。

鉄ちゃん爺やには、どちらかに統一して欲しかった思いが。

この大阪城天守閣も米軍の1トン爆弾の被弾を受けたけど
天守台の一部が破産しただけで健在だったようですわ。

1945年(昭和20年)8月14日の昼間にお城の東側
陸軍造兵工廠を米軍のB29が集中的に1トン爆弾で攻撃し
終戦の1日前だったのに国鉄の京橋駅が被弾して
多くの大阪市民が死傷した悲劇がおましたんでっせ。

既にポッタム宣言を日本国は受理したのに米軍はこの日に
B29を1000機も繰り出して最後の大空襲をしたんだとか。

東京大空襲や原爆投下を命令したのも当時のLe司令官でした。

その米軍司令官に日本国から勲一等旭日大授賞の勲章を授与だって
時の総理大臣は安倍前総理の大叔父である佐藤栄作さんでしたな。

勲章を返還せよとの声はマスコミも左派系の政党も唱えませんね。

鉄ちゃん爺やが不満に感じる戦後史の1ページですけど。

(大阪城の 乾櫓) (重要文化財に指定)


(大阪城の千貫櫓) (重要文化財に指定)


1620年(元和6年)江戸幕府により再建された大阪城内では
現存する数少ない櫓で、この二つが一番古い建物に成りまぁ。

(大阪城の 大手門) (重要文化財に指定)


(大阪城の 多聞櫓) (重要文化時に指定)


この二つは1628年(寛永5年)に再建されたそうですが
幕末の嘉永元年に大修理がされているとの記録がおます。

(大阪城 本丸広場の タイムカプセル)


1970年(昭和45年)の大阪万博に際して作られたそうで
5000年後に開封するとのことですが、その頃には
大阪城が今のように名所として残っているのかしら?

西暦6970年でっから人間が生存しているかどうかも疑問。

(お堀端から 大阪府の公共建物群を望む)


画像の中央右寄りが大阪府庁の本庁舎で47都道府県の庁舎では
一番古いそうで1926年(大正15年)の完成だそうですわ。

その左側は大阪府警本部で一番奥の高い建物はNHK大阪放送局と
大阪歴史博物館の建物が並んでいるんでっせ。

(現在の 大阪府警本部庁舎)


東京の警視庁の本庁舎を真似たよな建物でっしゃろ。

鉄ちゃん爺やが若い頃はこの辺りは馬場町(ばんばちょう)と
呼びましたが現在は大阪市中央区大手前と変わったようですわ。

ちなみに同じ馬場町であった大阪城一帯は大阪市中央区大阪城1-1。

(西町奉行所跡の石碑)


大阪城からは西へ約1kmほど離れてまっけど江戸時代の中期以降
西町奉行所があり、東町奉行所の方は大坂城の京橋口にあったとか。

「お奉行の 名さえ覚えず としくれぬ  小西来山」

江戸時代の大坂は商人の街で大坂城を守る武士は数百人ぐらい。

大坂城代は幕府から派遣された譜代大名で町奉行も幕府の旗本クラス
しょっちゅう入れ替わるし名前を知らなくても困らないという俳句。

不謹慎だとのお叱りを受けたとの話は有ったとか無かったとか。

大坂市内では当時の人口が約40万人で幕府の役人は約200人前後
これで治安が維持できたという事は大坂が平和な町だった証拠。

蛇足ながら明治維新後に大阪府庁が最初に出来たのが、ここ
西町奉行跡だったそうで、現在はマイドーム大阪の施設。

(大阪城の 桜門を 城内側から撮影)(重要文化財に指定)


大阪城への正門に成りまっけど明治時代に陸軍第四師団が修復。

最後に大阪城の面白いお話を一つだけ書き込んで置きまひょ。

大阪城の土地は登記上で現在も陸軍省のまま、大阪市が国から土地を
借りている形なんだって、賃料を払っているとは聞きまへんけど。

大阪城の天守閣は当時は陸軍省から許可されなかったのか現在も
建物の登記がされてないという不思議が平成になって判明したんだとか。




大阪の地下鉄のお話は次回に回すことにしました。

少しPCのご機嫌が悪いようで、ご免なさいね。

ほんなら! これで、さいなら~♪


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平成最後の築城  尼崎城を訪ねて~♪

2019-08-11 21:56:18 | お城 & 城址
兵庫県尼崎市は人口が約45万人で兵庫県では神戸市
姫路市・西宮市に次ぐ第4位となる中核都市なんですわ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には第2位の工業都市でしたかな。

阪神電車の尼崎駅の南東側に新しくお城が造られましたんや。

(尼崎市の新しい マンホールの蓋)


平成最後に築城されたお城とか、地元ではPRされてまぁ。

その新しい尼崎城を中央に置いて周囲は尼崎市の花である
キョウチクトウが描かれているようでんな。

元のマンホールの蓋も併せて貼り付けて置きまひょ。

(尼崎市の マンホールの蓋)


こちらは市の花であるキュチクトウにホタルとトンボと
魚が描かれた、工業都市らしからぬデザインでおます。

(尼崎城の 説明版)(


1617年(元和3年)に大坂夏の陣で活躍したご褒美で
戸田氏鉄(うじかね)が5万石で領主として入城し
尼崎城を建てたと記されているようですわ。

大垣10万石に転じた後は、青山氏が4代ほど城主となり
その後は桜井・松平氏が入城し明治維新まで続いたとのこと。

鉄ちゃん爺やのご先祖様は、天保年間から幕末頃まで
尼崎藩の下級武士だったと伝えられてますんや。

(尼崎城の 観光用幟) (家紋は 戸田氏の九曜)


尼崎城は幕末に一度だけ焼失したが、直ぐに再建された物の
明治の廃城令で1873年(明治6年)に取り壊されたそうですわ。

本丸御殿のみが「菩提寺の深正寺」に移されて本堂として使われたが
これも1945年(昭和20年)の空襲で焼けてしまったとか。

幸いにも昔の絵地図が存在していたので再建が可能だったのかも?

(尼崎城の天守閣)




このお城は旧ミドリ電化(現エディオン傘下)の創業者である
安保詮(あぼあきら)氏が12億円を個人で出資して築城。

2018年(平成30年)11月30日に尼崎市に寄贈。

尼崎市は旧ミドリ電化の創業の地であり本社だったそうで
お世話になった尼崎市に感謝をこめて築城されたそうですわ。

(安保詮氏 尼崎城再建の説明版)


大阪城も市民の寄付約150万円で1931年(昭和6年)に
再建されたそうで、関西の商人は江戸時代には大坂の橋は
大半が商人の寄付金で造られたとの記録も残ってますかな。

だから江戸時代の大坂には公儀橋は5つだけしかなくて
八百八橋とも称される橋は、商人の名前が付けられた物が
現在も大阪市内に多く残っている由縁でおます。

(尼崎城の天守閣)


(尼崎城の入場案内所)


尼崎市は兵庫県ですが、お隣の大阪市との付き合いや取引が
大半で大阪府の尼崎市だと悪口を言われることもおますんや。

尼崎市の市外局番は「06」で大阪市内と同じなんですよ。

これは明治時代に尼崎紡績(現在のユニチカ)が大阪市内から
自費で電話線を架設して大阪局に寄付した経緯がおますんや。

ユニチカよりもニチボー貝塚の方が有名かもしれまへんな。

尼崎紡績 ⇒ 大日本紡績 ⇒ ニチボー ⇒ ユニチカ

蛇足ながらユニチカさんの登記上の本店は現在も尼崎市で
そこの建物は、ユニチカの記念館に成っているそうです。

同じように実費で大阪市内から電話線を購入する企業や商人が
多く存在し、戦後に電電公社が自動化する際に尼崎市が
2億円もの債券を負担して大阪市内局番を取得したそうです。

今は昔話になりましたが電話代は市内料金と市外料金で
大きな差があって、市内料金は確か均一で安かったはず。

鉄ちゃん爺やが平成の頃に勤務していた大阪府摂津市の
事業所も市外局番は「06」でしたかな。

他にも守口市や吹田市や豊中市も「06」局番で
東大阪市の旧布施市の辺りも「06」になってますな。

東京「03」はそんなことはなかったような記憶がおます。

(人間国宝 桂米朝さんのパネル)


米朝さんは尼崎市の武庫之荘とよばれる高級住宅街に
終の棲家を構えられていたそうですわ。

もう亡くなられてから10年近くなりますかしら?

それでは、今日はこれで失礼します さいなら~♪
コメント (15)
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備後の国 福山城を訪ねて

2017-07-29 20:27:43 | お城 & 城址
この日は備後の一之宮を訪ねるのが目的で
広島駅から新幹線で福山駅へ向かいまんねん。

片道を新幹線にしないと一寸キツイ感じでしたな。

(広島駅に到着の 新幹線 N700系)


まずは新幹線・福山駅のホームから伏見櫓を撮影。

新幹線から見えるお城としてはもっとも近いかな?

国宝だった天守閣は昭和20年8月の空襲で焼失し
戦後になってから、再建されてますんや。

この伏見櫓は奇跡的に戦災を免れた当時のままだとか。

(福山城の 伏見櫓を撮影)


広島県の福山市は人口は約46万人で広島市に次ぐ
県下では二番目に大きな都会なんですわ。

この福山市を語る時には水野勝成というお方が
重要なキイを占めていると考えますんや。

水野勝成(みずのかつなり)は徳川家康公の
母方の従兄弟に当たる方なんでっせ。

お年は21歳も年下なので親子に近い存在でっけど。

(福山城への 登り坂)




この方が1619年(元和5年)に備後の国で10万石の
大名として神辺城に入られたんですが、神辺城は中世に
何度も落城し、かつ瀬戸内海からも遠い場所でしたんや。

新しいお城を造ることで各地を巡って決心したのが
「蝙蝠山=こうもりやま」で「福」に通ずるとのことで
「福山」という地名と、お城の名前を決められたんだとか。

1619年と言えば既に徳川家康公は亡くなっておられて
世は二代将軍・徳川秀忠公の時代に移ってましたんや。

(再建された 福山城の天守閣)




五層と地下1階の見事な天守閣には以前から驚いてました。

五層の天守閣は30万石を超える大名にしか許可されず
普通なら三層の天守閣が相応しいんでっせ。

失礼ながら、たった10万石の大名なのに武家諸法度では
三層の天守閣しか認められないはず、多いな疑問でしたんや。

(福山城 天守閣)


これには徳川秀忠公の意思が秘められていたとの説。

御三家の紀州藩や水戸藩ですら五層の天守閣は認められず
いくら徳川家康公の従兄弟にあたる方と言えども
破格な待遇で、福山城が造られたのには驚きでんがな。

実は、ここ福山は西に広島藩の浅野家が、東には岡山藩の
池田家が控えており、いつ徳川に反旗を翻すかもわからない。

そこで両方に睨みを利かすには「鬼日向」の呼び名を持つ
水野勝成を据えるのが一番だと考えたようでんな。

徳川譜代・水野勝成の為に立派な城を造れと命じたのかも。

(重要文化財 伏見櫓)




普通ならこの伏見櫓が福山城の天守閣になったとしても
当時の規則では、不思議じゃなかったんでっせ。

(伏見櫓&筋鉄御門の 説明書き)


(重要文化財 筋鉄御門=すじがねごもん)




徳川秀忠公の命により伏見櫓と筋鉄御門(すじがねごもん)は
京都の伏見城から取り壊して、ここ福山城へ移設されたんだって。

万一に備えて、櫓や門が福山城には多く造られたそうですわ。

西国大名が謀反を起こした際には、福山城が第一の砦となり
瀬戸内海や西国街道から援軍を送るという構えでしょうな。

この二つは戦前は天守閣や月見櫓などを含めて国宝だったが
天守閣が空襲で焼失して、戦後は重要文化財に留まっているとも。

(本丸広場 伏見お湯殿跡)


ここには昭和20年の空襲で焼失するまでは、これも
伏見城から移設した「伏見お湯殿」が在ったそうですわ。

現在は一帯が福山城公園となってますんや。

(福山城の石垣)




蛇足ながら水野勝成さんは徳川家康公の従兄弟さんなのに
一時はたったの17石しかもらえない下級武士を経験し
鉄ちゃん爺やが調べた限りでも、10人以上の主君を変え
当時としては珍しい経歴をお持ちなんですわ。

水野忠重・徳川家康・織田信長・織田信雄・豊臣秀吉
小西行長・黒田孝高・三村親成・加藤清正・徳川秀忠

これは父親である水野忠重が「奉公構え」と呼ぶ他家への
仕官を認めなかったので諸国を転々としたんだって。

正室は備中の成羽城の三村親成の元に居た時に長男を得て
後に福山藩の二代藩主になった水野勝俊だったとか。

後に三村親成は福山藩の家老として恩に報いたとの話も。

この下積みの時代に水野勝成は、備後や備中をよく歩き
後の福山藩を起こす際には、参考になったんでしょうな。

(福山城 鐘櫓)




日向守(ひゅうがのかみ)に就任する際も、明智光秀の
官職でだれも望まなかったのを、気にもしなかったとも。

大坂夏の陣では「鬼日向」と恐れられ、大和口から進軍する
3万5千人の先鋒大将として活躍されたと記されてまぁ。

大坂夏の陣では松平忠明(家康公の外孫)に次ぐ功績で
大阪城の桜門に一番乗りを果たしたんだとか。

でも徳川家康公は、大将が先頭に成って大坂城に入るのを
嫌って大坂夏の陣の功績を評価せず、恩賞もなかったとか。

「将であるから 昔のように自ら先頭に立って 
  戦ってはならない」 と強く命じていた結果だとか。

徳川秀忠公が水野勝成を兄のように慕い、家康公が隠居後に
10万石を与えると約束したとも言われてるようでっせ。

その約束が備後の福山藩10万石と成ったんでしょうな。

(福山城跡の 石碑)




逆に関ヶ原の戦いで敗れて、大坂の堺を引き回されていた
小西行長に出会い、昔の主君に対して所持していた
編み笠をかぶせてやり、礼をつくしたとの伝説もおますんや。

現在でも水野勝成さんは福山周辺の市民から慕われていて
幕末に活躍した阿部家の方が、統治が長いにもかかわらず
水野勝成が福山市を発展させた偉大な人との考えなんだとか。

(JR福山駅 南側を撮影)




(舟入・二重櫓台 説明書き)


現在のJR福山駅を含めて南側の一帯は昔の外濠や
二の丸で、瀬戸内海とも運河でお城と繋がっていたとか。

鉄ちゃん爺やが現役時代に大阪から日帰りの出張で
何度かタクシーを拾っていた頃とは、風景が
昔とすっかり変わってしまってますので記憶もなし。

もっと地方都市で駅前も狭かったような記憶でっけど。

(100万本のバラの町 福山)






(駅ビルで コヒータイム)


(JR福山駅 改札口)


何となく新幹線のホムから改札口の付近は
昭和の時代に、鉄ちゃん爺やが訪れていた当時の
面影が残ってい居るようにも感じますんやけど。

(115系 JR西日本 郊外型電車)


最後に江戸の旗本で乱暴者で有名な水野十郎左衛門は
水野勝成さんの、お孫さんに当たるようでっせ。

幕府も水野勝成公がまだ健在で,大切な水野家なので
乱暴者の水野十郎左衛門を処罰できなかったとか。

徳川家康公の母方の実家が、この水野家ですからね。

1651年(慶安4年)水野勝成が亡くなった後に
処分が決まり、確か切腹に成ったんでしたかな?

今日はこれにてお仕舞にさせて頂きまひょ。

次回は備後の国・一之宮である吉備津神社などを
紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵
コメント (12)
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