鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

想い出の 鉄道写真から  国鉄時代パート2

2021-08-23 18:32:39 | 鉄道
現在では鉄道博物館や各地の広場で静態保存をされている
東海道新幹線の初代の車両である0系のお話からさせて貰いまひょ。

「だんご鼻」のニックネームも今では懐かしい姿でっしゃろ。

1964年(昭和39年)~1986年(昭和61年)まで
当時の国鉄で3216台も製造された新幹線でおます。

思えばJRに移管直前で0系の製造は終了しているんでわ。

(0系新幹線を正面から) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


「だんご鼻」の内部には非常用の連結器が納められてますんや。

最初はアクリル樹脂でカバーが作られたそうですが
鳥などとの衝突で破損が続出しFRPに変更されたんだって。

鉄ちゃん爺やが大阪の摂津市に勤務中に得意先である日立の工場から
神戸市の川崎重工まで緊急便で納入したことが何度かありましたんや。

平成に成ってましたので0系新幹線の製造は終わっていたはず。

修理用なのか、展示用に部品として調達したのかは不明でしたけど。

それまでは金属製で出来ていると鉄ちゃん爺やも思っていたのが
FRP(ガラス繊維強化プラスチック)だったとは驚きでおましたな。

(新幹線開業日の 新大阪駅ホーム) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


東海道新幹線の開業した1964年(昭和39年)10月1日
新大阪駅・上り東京行ホームでの画像だと説明されています。

当時も新幹線を撮影する「撮り鉄」はおられたようですね。

今なら多数のマニアが押しかけて動けない状態でしょうな。

鉄ちゃん爺やはこの頃「乗り鉄」で乗車することはやりましたが
写真で車両を撮影するというような、趣味はなかったんですわ。

(0系新幹線 現役時代の雄姿) (鉄ちゃん爺やの蔵書より)


東海道・山陽新幹線を開業時からサポートした0系も引退の時期が。

最後は新大阪駅から「こだま」として博多駅や広島駅までの運行で
2008年(平成20年)12月に惜しまれながら引退しましたんや。

東海道新幹線が開業したのが1964年(昭和39年)10月1日で
在来線は逆に急行や特急が増発され国鉄時代のピークを迎えたんでっせ。

「いい日旅立ち」や「ひかりは西へ」など国鉄さんのPRも成功し
鉄ちゃん爺やも、鉄道の旅を満喫することになりましたかな。

(特急つばめ 新大阪駅から九州の博多駅へ) (鉄ちゃん爺やの蔵書より)


戦後永く東京駅から大阪駅まで花形の特急列車として運行された
「特急つばめ」は東海道新幹線の開通日からは新大阪駅から
博多駅行きに変更され、さらに岡山駅から西へと都落ちの状態?

(特急こだま 151系) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


東海道本線の電化は戦後の1956年(昭和31年)11月でした。

1958年(昭和33年)に電化された東海道本線に投入され
東京~大阪間を6時間台で走ることから、日帰りも可能になったとも?

そのために「こだま」という名前が付けられたそうでっせ。

SL時代の「特急つばめ」は約8時間をかけて東京~大阪間を走ったとか。

直流の区間しか走れないので東海道本線や山陽本線を中心に使用され
後の交流・直流両方に使える481系や485系の基本となった電車でっせ。

(481系 交流・直流両用 特急 雷鳥)(羽曳野市立図書館の蔵書より)


1964年(昭和39年)北陸線本線の交流電化の完成で関西地区の
直流電化地区の両方で走れる特急電車としてスタートでした。

交流電化は北陸本線が初めてで以降は東北本線の黒磯駅以北や
常磐線の取手駅以北など関東でも順次完成していくことに。

後には九州地区の交流電化完成で、大阪から九州への電車特急として
481系は主に西日本で使用されることになりましたんや。

481系は関東の50Hでは走れないという欠点がおましたけど。

483系という関東以北で走れる50HZ用の特急電車も有りましたで。

(485系 交流・直流両用 特急 雷鳥) (羽曳野市立図書館の蔵書より)


最初はボンネット型の特急電車が主でしたが後半からは
このような貫通式の電車特急が多くなったように記憶します。

(485系 交流・直流両用 特急 ひたち) (引退記念のオレンジカード)


485系の特急電車は関東の50HZ 西日本の60HZ それに直流区間
全てに対応が可能な電車として1968年(昭和43年)から導入され
当時の国鉄では在来線の花形として登場し平成の時代まで活躍しましたんや。

このオレンジカードは鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中は自動改札でも
利用が出来て持ち帰ったんですが、現在の自動改札では使用不可のはず。

JR東日本のきっぷ売り場では今でも使用可能なのかしら?

(国鉄時代の M型端末による指定席券)


国鉄の座席指定システムを「マルス」と呼んできましたんや。

この特別急行券は「マルス105」の時代に端末から印刷されたはず。

端末機がまだ「マルス102」の時代の昔の機種だったようでんな。

1971年(昭和46年)から平成の初期まで使用されましたかな。

昭和54年8月18日 山陽新幹線「ひかり82号」 広島駅行き

小郡駅(現在の新山口駅)から乗車したようでんな。

前途無効のスタンプを駅員さんに押してもらい持ち帰ったはず。

「パタパタ」と呼ぶバインダー式の特急や急行の表示ページに行先への
ピンを差し込んでプリンターから印刷する仕組みになってましたんや。

当時は地方の小さな駅名は印字ができないぐらいのレベルだったとか。

(国鉄時代の L型端末による指定席券)


同じ「マルス105」のコンピューターでしたが端末機が進歩して
全国の駅名や列車の名前までプリント出来る時代になったようです。

これは前回にお話した息子とホテルを予約できず松本駅から夜行で
大阪へ戻ることになった際の急行・指定券の現物なんですけど。

ちくま4号 松本駅発 22時14分  7号車

昭和56年8月14日の事だったと最近に成って判明しました。

(夜行急行 ちくま  間もなく大阪駅に)(羽曳野市立図書館の蔵書より)


(夜行寝台急行 やまと 湊町駅に到着)(羽曳野図書館の蔵書より)


東京駅から関西線経由で湊町駅までこんな夜行寝台も
昭和の時代にはおましたんでっせ。

鉄ちゃん爺やが最初に勤務したのが、この駅の近くでした。

線路を跨ぐ陸橋から撮影した画像で、後方に見える貨物列車は
鉄ちゃん爺やが、まだ独身時代に車扱いの荷受けの指導を受けた
想い出の場所で、現在はJR難波駅と名前が変ってますけど。

勿論、貨物駅は現在では廃止となりJR難波駅も地下ホームへ。

ディゼル機関車がけん引しているので昭和45年頃の写真かも?

鉄ちゃん爺やが駐在してた頃はSLのC57がけん引していたはず。

(変な乗車券) (昭和53年の手書き 茅野駅発行)


長野県の茅野駅から東京の三鷹駅を経由して東海道本線で
大阪駅まで遠回りしているようで、記憶がないんだけど。

昭和53年8月12日 旅行をしたんだろうとは想像するが
アルバムをめくってみるが、それらしき画像もなし。

社用での出張は長野県など一度もなかったはず。

「まだ青春18きっぷ」は始まってなかったように記憶。

三鷹駅から先は東京都内へ入るようになっている感じ。

「チャレンジ20000km」が始まったのも昭和55年から?

そもそも中央本線の茅野駅など息子がまだ1歳ぐらいの夏に
昭和44年でした、白樺湖から名古屋経由で帰ったことが一回。

次は10年ぐらい前に「諏訪の御柱祭り」の際にも1泊。

鉄ちゃん爺やの記憶から忘れ去られた「きっぷ」なんですよ。

(マルス301から印字された 往復乗車券)(平成15年8月)


千葉市内へ向かう際に四駅先の「誉田駅」まで往復で買えば
片道の料金が1割引きになるというケースですね。

行きたい千葉市駅では601kmに達しませんから割引の適用外。

埼玉県に単身赴任中も戸田駅では601kmに満たないので
大阪から東北本線の久喜駅まで往復で買えば割引の対象でしたかな。

(マル501から印字された 青春18きっぷ) (平成21年に使用分)


昨年に「マルス505」の新型に入れ替えられたと聞いてまぁ。

昭和35年に「マルス1」でスタートした際は本体が東京駅に置かれ
上野駅・新宿駅・渋谷駅など10駅に端末が有っただけだったとか。

指定できる列車も「こだま」「つばめ」の4往復の特急2300席
15日間の予約しか出来なかったそうですわ。

昔も現在もコンピューター本体は日立製作所の大型のようですね。

現在は東京の国立市の鉄道情報センター(JRシステム)に本体が
全国のJRの主な駅や旅行会社の端末総数は約1万台とか言われてますかな。



 
今日はこれで中断します。

続きは次回にしますんでご免なさい!

ほな~ さいなら~♪














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想い出の 鉄道写真から  国鉄時代を偲ぶ

2021-08-08 16:13:55 | 鉄道
鉄ちゃん爺やの幼い記憶ながら、初めて乗った鉄道を思いだぜば
山陽本線の姫路駅から大阪駅へ向かったのが最初だったはず。

昭和21年の春に叔母の家に養子に入ることになったらしい?

疎開先である但馬の竹田駅から大阪駅に向かった記憶が少しだけ。

祖父が作ってくれた「草鞋=わらじ」履きでの旅だったとの話。

戦災の傷跡があちこちに残る大阪駅はまだ焼け跡のど真ん中でした。

今回は羽曳野市立図書館の蔵書と鉄ちゃん爺やの保存資料から
敗戦後の鉄道小話を進めて行くことにしましたので、ご容赦の程。

(進駐軍の専用列車) (昭和22年10月撮影)


戦前から残っていた1等車や優良な2等車がGHQに接収されて
白い帯を車体に付けて、優先して各地を走り回ったそうですわ。

進駐軍の将校さんや連合国の関係者しか乗ることが出来まへんでした。

日本人が乗る列車に1~2両だけ併結するケースも有ったとか。

客車や電車が空襲で損傷し敗戦国の日本人は貨車で運ばれたんでっせ。

(大阪駅~姫路駅間は 貨車も活躍) (昭和21年5月撮影)


鉄ちゃん爺やも貨車の中で進行方向に向かって足を伸ばして座ってたはず。

走行中は貨車の扉は片側だけが開放され縄が張られていたように記憶。

SLのC51が電力不足で電車を繋いで大阪駅から姫路駅まで走ったことも。

昭和21年までは無蓋の貨車まで利用され雨の時は大変だったとか。

なにせGHQ(進駐軍)に優良な電車や客車を供出していたので日本人は
貨車で運ばれる、まるで動物扱いの時代が2年間ぐらい続いたんでっせ。

(鉄ちゃん爺や 幼少の写真) (昭和21年冬の写真)


敗戦後なので食べるものにも困り、幼稚園に行けば「おやつ」が貰えた。

サッカリンやズルチンという危険な甘味料でしたが甘くて美味しかったね。

あんパンを始めて食べたのも幼稚園のお昼だった、今も大好きですけど。


ご存じの方も少なくなりましたが昭和22年6月1日にGHQ命令で
国営の官設鉄道から「日本国有鉄道=国鉄」に名称が変更になりましたんや。

それまでは「鉄道省」という組織で国が統括していたんでっせ。

そんな訳で「省線」という名前が戦後も使わていたんですわ。

「国鉄」という俗称は有ったが正式には「官鉄」だったんですね。

明治時代からの官設鉄道が民間鉄道16社を併合したそうでんな。

GHQに睨まれて公共企業体に強制的に再編された訳でおます。

何せGHQ(進駐軍)からの指令は、鶴の一声で決まった時代ですわ。

(特急つばめ 大阪駅に到着の写真) (昭和28年頃の写真)


終戦から3年が経過して世の中も少し落ち着いてきた感じでしたかな。

昭和24年(1949年)9月15日に復活したのが特急「へいわ」でした。

翌年の昭和25年1月1日から特急「つばめ」に名前を改めましたんや。

東京駅をAM9時に発車して大阪駅にはPM17時に到着しましたそうな。

特急「つばめ」と 特急「はと」が日本では唯一の特急列車でしたんや。

特急はと は東京駅を12時30分に発車して大阪駅には20時30分に到着。

庶民は乗れないから、大阪弁で「ええし~ が乗るもん」との揶揄も。

大阪弁で「ええし~」は裕福な資産家や貴族階級のことをいいまんねんで。

東京行きの上り便も同じ時刻に発着が設定されていたように思いまんねん。

(京都駅に到着 特急つばめ) (昭和28年頃の写真)


SLのC62は鉄ちゃん爺やが子供の頃は憧れの蒸気機関車でしたんや。

東京~大阪間を8時間で結ぶ特急「つばめ」特急「はと」が双璧でした。

子供の絵本には必ず「特急つばめ」の写真が載っていた時代ですかな。

まだ東京~大阪間を日帰りで行動することなど無理な時代でおました。

(特急つばめ 東海道本線・電化後の雄姿) (昭和30年代の写真)


マニアの間では電気機関車の色から「青大将」と呼んだんだって。

この特急「つばめ」と特急「はと」の発足と同時に急行「銀河」が
寝台列車としてスタート、最初は1等車と2等車のみで運行でしたが
翌年には3等車を連結し、庶民にも利用が可能になったそうですわ。

現在はグリーン車と普通車の二つですが、当時は1等から3等までの区分。

(寝台急行銀河 のヘッドマーク)


(寝台急行銀河  廃止直前の雄姿) (平成5年撮影)


後に多くの急行が見られた国鉄の中でも急行「銀河」は名前を付けられた
第1号の名誉ある急行として、永く親しまれてきた列車でもおました。

東京~大阪間を永年に渡り走り続けた寝台急行「銀河」は平成7年3月
惜しまれながら引退して、後継の列車もないのが残念ですけど。



次は鉄ちゃん爺やが初めて国鉄の急行電車に乗った時のお話。

昭和40年(1965年)8月の夏季休暇の時でおます。

(急行ゆのくに 指定席券と急行券)


まだコンピュターが導入される前の手書きの懐かしい切符でっせ。

急行券が200円と指定席券が100円という、お安い値段です。

「動橋駅」何と読む駅名かご存じの方は相当の鉄道マニアになりまぁ。

現在でも「動橋駅」は北陸本線では難解な駅名の筆頭でしょうな。

「動橋駅=いぶりはしえき」と読むのが正解なんですよ。

急行や特急が停車する北f陸本線の駅でしたが大阪側に一つ寄った
「加賀温泉駅」がメインの駅となり現在は無人駅になってまぁ。

当時はこの駅から片山津温泉や山代温泉へ向けての乗換駅でした。

動る=いぶる  ゆすぶるとか 言う古い言葉からの変化だとか。

(急行ゆのくに他 当時のダイヤ) (昭和43年のダイヤ)


鉄ちゃん爺やが乗車した頃から3年ぐらい後のダイヤなんで
少しだけ座席指定の位置が変わってます、当時は全車指定席。

3等車が連結されてないので優越感を示す急行列車でおます。

1等車や2等車の表示から「急行ゆのくに」は花形でしたんですわ。

(急行ゆのくに 大阪駅に到着)


この頃から国鉄には急行や特急が続々と出現したんでおます。

前年10月に東海道新幹線も開通して時代が大きく変わりましたけど。

「ええし~ が乗るもん」と言われた急行や特急も庶民の足に変化でした。

大阪からでも金沢や富山は当時は鉄道でも遠い感じが有りましたが
確かこの前年に日本で初の交流電化が完成してスピードアップでした。

後に特急「雷鳥」が大阪~金沢・富山間にピーク時には14往復も増発。

大阪から福井・石川・富山 の北陸三県を近づけることになりましたんや。



次は同じく昭和41年8月(1966年)の夏季休暇の時のお話。

今は廃止された国鉄の1等車に乗った唯一の経験となったお話。

(急行みささ 1等の乗車券)


(急行みささ 車内で発行された甲冊 1等の急行券)


松江駅で駅員さんに何でこんな遠回りをして、しかも1等車で
6時間~7時間もかかるのにと笑われたのが印象的でした。

鉄ちゃん爺やが初めて1等車に乗るんだから普段は観れない
景色と路線を7時間かけて大阪まで味わいたかったのが本音。

急行「だいせん」で米子駅から大阪駅へ直行したら確か4時間で
帰れるので駅員さんから見れば変人だと思われたかも。

(急行みささ 大阪駅に到着) (昭和42年の写真)


(米子駅の 入場券)


松江駅から普通列車で米子駅で急行「みささ」に乗り換え。

山陰線で鳥取駅から因美線(いんみせん)に入り山越えして
津山駅で急行「みまさか」と併結してから姫新線で姫路駅へ
さらに山陽本線を経由して大阪駅へと向かうコースなんですよ。

(急行だいせん 武田尾駅を通過中) (昭和50年頃の写真)


後に会社の慰安旅行で鳥取駅から大阪駅まで利用したことがおました。

現在は中国自動車道などが開通してJRの山陰線を利用して鳥取へ
鉄道で向かう人はほとんどなし、高速バスがメインになりました。

米子や松江には岡山から伯備線経由の特急を利用する人が大半かも。

当時は岡山県の美作三湯や鳥取県の三朝温泉や米子の皆生温泉など
温泉客を運ぶルートとして鉄道が活躍した時代でおましたんや。

(夜行急行ちくま  大阪駅は目前) (昭和58年頃の写真)


息子と諏訪湖まで青春18きつぷで足を延ばしたんだけど8月15日
諏訪湖は花火大火でホテルの予約が出来ずに塩尻から松本へ
当時はネット予約などおまへんから、観光案内所で予約でした。

全て満員で夜行の「急行ちくま」で旅行を中止して大阪へのハプニング。

こんな判断をしないと松本駅で野宿のはめになるところでしたんや。

当時は国鉄の待合所で野宿をさせてくれる駅も多かったんですけどね。

(中央西線 電化前の 急行 きそ) (昭和43年頃の写真)


鉄ちゃん爺やが初めて名古屋から信州へ向かった頃はこんな気動車だった。

塩尻駅で反対向きに発車するので驚いた記憶が今では懐かしいですかな。

長くなりますので今日はここまでにしておきまぁ。

次回も国鉄時代の急行や特急のお話の続きをしまひょ。

ほな~  これで、さいなら~♪
コメント (16)
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