鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

平成最後の築城  尼崎城を訪ねて~♪

2019-08-11 21:56:18 | お城 & 城址
兵庫県尼崎市は人口が約45万人で兵庫県では神戸市
姫路市・西宮市に次ぐ第4位となる中核都市なんですわ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には第2位の工業都市でしたかな。

阪神電車の尼崎駅の南東側に新しくお城が造られましたんや。

(尼崎市の新しい マンホールの蓋)


平成最後に築城されたお城とか、地元ではPRされてまぁ。

その新しい尼崎城を中央に置いて周囲は尼崎市の花である
キョウチクトウが描かれているようでんな。

元のマンホールの蓋も併せて貼り付けて置きまひょ。

(尼崎市の マンホールの蓋)


こちらは市の花であるキュチクトウにホタルとトンボと
魚が描かれた、工業都市らしからぬデザインでおます。

(尼崎城の 説明版)(


1617年(元和3年)に大坂夏の陣で活躍したご褒美で
戸田氏鉄(うじかね)が5万石で領主として入城し
尼崎城を建てたと記されているようですわ。

大垣10万石に転じた後は、青山氏が4代ほど城主となり
その後は桜井・松平氏が入城し明治維新まで続いたとのこと。

鉄ちゃん爺やのご先祖様は、天保年間から幕末頃まで
尼崎藩の下級武士だったと伝えられてますんや。

(尼崎城の 観光用幟) (家紋は 戸田氏の九曜)


尼崎城は幕末に一度だけ焼失したが、直ぐに再建された物の
明治の廃城令で1873年(明治6年)に取り壊されたそうですわ。

本丸御殿のみが「菩提寺の深正寺」に移されて本堂として使われたが
これも1945年(昭和20年)の空襲で焼けてしまったとか。

幸いにも昔の絵地図が存在していたので再建が可能だったのかも?

(尼崎城の天守閣)




このお城は旧ミドリ電化(現エディオン傘下)の創業者である
安保詮(あぼあきら)氏が12億円を個人で出資して築城。

2018年(平成30年)11月30日に尼崎市に寄贈。

尼崎市は旧ミドリ電化の創業の地であり本社だったそうで
お世話になった尼崎市に感謝をこめて築城されたそうですわ。

(安保詮氏 尼崎城再建の説明版)


大阪城も市民の寄付約150万円で1931年(昭和6年)に
再建されたそうで、関西の商人は江戸時代には大坂の橋は
大半が商人の寄付金で造られたとの記録も残ってますかな。

だから江戸時代の大坂には公儀橋は5つだけしかなくて
八百八橋とも称される橋は、商人の名前が付けられた物が
現在も大阪市内に多く残っている由縁でおます。

(尼崎城の天守閣)


(尼崎城の入場案内所)


尼崎市は兵庫県ですが、お隣の大阪市との付き合いや取引が
大半で大阪府の尼崎市だと悪口を言われることもおますんや。

尼崎市の市外局番は「06」で大阪市内と同じなんですよ。

これは明治時代に尼崎紡績(現在のユニチカ)が大阪市内から
自費で電話線を架設して大阪局に寄付した経緯がおますんや。

ユニチカよりもニチボー貝塚の方が有名かもしれまへんな。

尼崎紡績 ⇒ 大日本紡績 ⇒ ニチボー ⇒ ユニチカ

蛇足ながらユニチカさんの登記上の本店は現在も尼崎市で
そこの建物は、ユニチカの記念館に成っているそうです。

同じように実費で大阪市内から電話線を購入する企業や商人が
多く存在し、戦後に電電公社が自動化する際に尼崎市が
2億円もの債券を負担して大阪市内局番を取得したそうです。

今は昔話になりましたが電話代は市内料金と市外料金で
大きな差があって、市内料金は確か均一で安かったはず。

鉄ちゃん爺やが平成の頃に勤務していた大阪府摂津市の
事業所も市外局番は「06」でしたかな。

他にも守口市や吹田市や豊中市も「06」局番で
東大阪市の旧布施市の辺りも「06」になってますな。

東京「03」はそんなことはなかったような記憶がおます。

(人間国宝 桂米朝さんのパネル)


米朝さんは尼崎市の武庫之荘とよばれる高級住宅街に
終の棲家を構えられていたそうですわ。

もう亡くなられてから10年近くなりますかしら?

それでは、今日はこれで失礼します さいなら~♪
コメント (15)
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