鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

由緒ある式内社  高屋神社  我が街の郷土史より

2024-10-06 18:53:18 | 神社
(我が町内を 南北に通る 東高野街道)

平安時代に作られた金剛生駒山脈の麓を通り現在の河内長野市で
西高野街道と合流して高野街道となり、紀見峠を越えて高野山に至る
真言宗の総本山・金剛峯寺へお参りするために出来た古道なんですよ。

現在は乗用車がすれ違うのがやっという細い道ですけどね。

この辺りは高屋集落なので南行きの一方通行になってますんや。

(式内社 高屋神社)





現在は小さい祠だけの村社としてお祀りされていますが
平安時代の延喜式神名帳にも式内社として記録される神社です。

この辺りは今も昔も高屋という地名で呼ばれていますや。

物部高屋連(もののべのたかやむらじ)という豪族が住んでいた。

饒速日命の十世の孫にあたる方の後裔と言われてますんや。

そんな訳でご祭神は「饒速日命=にぎはやひのみこと」と
同じ高屋丘陵に有る第27代安閑天皇の合わせて二祭神。

物部高屋連の本家は現在の八尾市にあった豪族でご存じの
聖徳太子の時代に廃仏騒動で蘇我氏に滅ぼされたようです。

分家の物部高屋連は細々と奈良時代から平安時代初期まで
存続しましたが現在は絶てしまったように思われます。

(高屋神社の拝殿)


(高屋神社の 由緒書き説明板)

続日本紀(しょくにほんぎ)に高屋連の女子が三つ児を出産したと
当時は三つ児の誕生なんて国史に乗るぐらい珍しい事だったようですね。

高屋連牧人(正六位上)が常陸の国の大目として赴任中に現地で死亡
隣町の太子町で墓誌が出土して、奈良時代には中級の官人だったとか。

もう一つだけ位が上がり従五位下になれば貴族になれるぐらいの位置。

西淋寺の僧名にも河内国の古市郡の人、高屋連○○と記される人々も。

(東高野街道)
東高野街道を150mぐらい戻ってみまひょ。

ここ高屋集落は戦前から存在する街で高屋と呼ぶ町内会。

我が街はお隣で戦後に出来た街で城山会と呼んでいます。

戦国時代の高屋城址から城山と呼ぶようになったとか。

(高屋城址 説明板)

我家の位置は二の丸跡の西側になるんですが三の丸跡へ向かいます。

書斎から見える竹林が高屋城の土塁跡だとYOOの地図に載りましたよ。

最近までゴミを捨てていたんだけどこれからはダメですよね。

(安閑天皇の皇后 春日山田皇女陵)



日本書紀には安閑天皇の御陵に合葬されたと記されていますが
平安時代の延喜式には安閑天皇陵の南側に埋葬されたとの記録。

現在の宮内庁では別に埋葬された高屋八幡古墳の方を指定している。

春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)は第24代仁賢天皇の娘で
第25代武烈天皇の姉とされ、安閑天皇が皇太子の際に妃として結婚
傍系から入った第26代継体天皇も同じく仁賢天皇の皇女を娶り
婿入りの形で皇位を継承した、その同様の一環だった考えられます。

皇位は26代継体天皇~27代安閑~第28代宣化~29代欣明と
継承されますが第29代欣明天皇はまだ歳が若く未熟なので
春日山田皇太后に皇位を継ぐように依頼したが、春日山田皇太后は
お断りしたと日本書紀に記されているようなお方ですね。

もし実現していたら推古天皇より早く女性天皇が出現した可能性も?

当時は仁賢天皇の皇女が3人も継体天皇・安閑天皇・宣化天皇に
嫁いでおられますが、春日山田皇女が生存する長老だったのかも。

仁徳天皇の血を引く女性が傍系から入る天皇には皇后の条件として
当時は先代の内親王でなければ皇后に成れなかったようですから。

(安閑天皇の皇后 春日山田皇女陵)

現在は長さ82mの方墳に見えますが、戦国時代に高屋城を
築城する際に、削られたか元は100mを超える前方後円墳の
立派な御陵で、安閑天皇陵とは直線で100m前後しか離れていない
生前は仲のいい天皇皇后両陛下で有ったんでしょうね。

我が町内会の敷き地に安閑天皇と安閑皇后の二つの御陵が
存在するのは珍しいと言えるかもしれません。

本日はこれまでにしまひょ、 ほな~ さいなら~♪










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上野駅から九段まで かって知らないじれったさ~♪

2024-04-28 15:01:41 | 神社

晴天に恵まれたこの日は欲張って行動しましたんや。

豊洲駅から東京メトロの、どこで乗り換えたのか定かではなし。

なんとか半蔵門線の九段下駅にたどり着きましたんですわ。

(靖国神社の 大鳥居) (1974年=昭和49年 再建)

「九段の母」  1939年(昭和14年)  歌手=塩まさる

上野駅から九段まで  かってしらないじれったさ~♪

杖をたよりに一日がかり せがれきたぞや会いにきた~♪

 

空をつくよな大鳥居 こんな立派なおやしろに~♪

神とまつられもったいなさよ 母は泣けますうれしさに~♪

 

両手あわせてひざまつき おがむはずみの お念仏~♪

はっと気づいてうろたえました せがれゆるせよ田舎者~♪

 

戦前に軍国歌謡として大ヒットしましたが、戦後になってから

二葉百合子さんが「九段の母」をカバー版として再び歌われたとか。

空をつくよな 大鳥居~♪ 当時は日本一だったようですが、ネットで

検索したら老朽化して1943年(昭和18年)に撤去されたとの事。

現在のは1974年(昭和49年)に再建された大鳥居なんだって。

高さが25m 横木の長さが34m 重量が約100トン 銅製の大鳥居。

東向きの鳥居って珍しいと書かれているけど、定かではない。

我が街の誉田八幡宮の鳥居も東向きなんだけどね。

(大村益次郎の銅像)  (靖国神社誕生の提案者)

確か上野の彰義隊を攻撃する際の司令官だったはずで、明治維新後に

靖国神社の前身である「招魂社」の設立を提案し明治天皇の勅許を得るも

直後に京都市の木屋町で賊に襲われ重傷を負い、大阪市内で死亡。

明治維新への功績から靖国神社に祀られる一人とされている。

(靖国神社 二の鳥居 & 神門)

二の鳥居は青銅製で1887年(明治20年)完成で現在の靖国神社に

設置された鳥居では一番古く且つ、青銅製では日本一の大きさだとの事。

(靖国神社 神門の16弁菊紋章) (皇室を意味する紋章)

(靖国神社の 神門) (1934年=昭和9年完成)

(靖国神社 神門の内側から 自撮り)

(靖国神社の 拝殿を正面から撮影)

(靖国神社の ご朱印)

靖国神社には明治維新から日清・日露を経て支那事変や太平洋戦争まで

246万6千余柱の英霊がお祀りされているそうです。

我が黒田家の本家筋に当たる長兄もブーゲンビル島で戦死して

ここに祀られているというご縁があるんですけど。

 

朝鮮人や台湾人で日本兵として戦死した各々2万余名の方々や

従軍看護婦や電話交換手として戦火に倒れた6万人近い女性も。

他方で西郷隆盛や西南戦争の薩摩側の兵士や、戊辰戦争で倒れた兵士も

会津藩の兵士は除外されて、明治政府側の人々のみお祀りされてるとか。

新選組の隊士も彰義隊で亡くなった幕府側の兵士もお祀りされていません。

 

A級戦犯が合祀されたとの事から、昨今の問題点があるとか。

しかしながら、国に命を捧げた英霊が批判される言われはないはず。

政争の具にしないで安らかに御魂をお祀りしたいと存じます。

(靖国神社の拝殿を 北側から撮影)

(靖国神社 参集所)

国会議員など正式参拝で訪れる方はここから入場し拝殿へ向かうようです。

8月15日などにテレビで参拝する大臣や国会議員などでおなじみかも?

(靖国神社境内の 桜の標本木) (東京都の桜の開花)

桜の開花を想定してマスコミ各社や観光客が大勢訪れてました。

残念ながら今年の開花は2日後の3月29日でしたけど。

鉄ちゃん爺やも期待して訪れたんですがダメでしたね。

一輪もこの日は咲いてなかったように思います。

(靖国神社の 遊就館)

1980年頃に(昭和50年代)にまだ幼かった子供達を連れて

入場したことがあります、旧日本軍の遺品が数多く保存されています。

今回は先を急ぎますので撮影だけにして退散しました。

(靖国神社 参道の早咲きの桜)

本来なら参道から二の鳥居にかけて桜が咲いている頃なんだけど

期待外れの靖国神社の参拝に終わりましたんですわ。

(重要文化財 旧江戸城・田安門の説明板)

(田安門の入り口 高麗門と 自撮り)

(田安門の内側  櫓門と称します)

田安明神が祀られていたのが名前の由縁で徳川8代将軍吉宗公の次男坊

徳川宗武が現在の武道館付近に上屋敷を賜り、田安家を起こしたとか。

この田安宗武の七男が寛政の改革を指導した松平定信に当たります。

(北の丸公園  案内図)

右下のお堀が千鳥ヶ淵と呼ばれて桜の名所になりますんや。

満開の桜をボートを漕ぎながら見物できれば素敵な風景になるはず。

(千鳥ヶ淵を 田安門から撮影)

(北の丸公園内  武道館)

法隆寺の夢殿をモデルにした八角形のデザインで造られています。

1964年(昭和39年)東京オリンピックの柔道競技の会場として

新しく造られましたが1966年(昭和41年)のビートルズの来日

公演が相応しいか相応しくないかで揉めたことがありましたね。

最近では総理大臣経験者の本葬に利用されたり、武道館で公演する事を

超一流の歌手を目指す方には最高の舞台にもなっているようでんな。

昨年も安倍晋三元総理の国葬が話題になったようですけど。

(戦前の近衛連隊の跡地)

戦前にはこの辺りは皇室を守る近衛師団の第一連隊と第二連隊の兵舎があった処。

戦後は取り壊されて北の丸公園や大きな駐車場となったようですね。

(武道館の建設記念碑)

(九段下の方向を撮影) (靖国通り 歩道橋から撮影)

両国橋から西へ向かい新宿まで都内を東西に横切る幹線道路です。

ゆるやかな登り坂でこの辺りを九段坂上交差点と呼ぶようですね。

(北の丸公園 東側のお堀り)

まだPM2時過ぎなので東京メトロで有名な「六義園」の日本庭園へ

向かうことにしました、12年ぶりの訪問になりますかな。

ほな~ 今日はこれで失礼します、さいなら~♪

 

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令和6年度 初詣!

2024-01-06 16:18:28 | 神社

甲辰=(きのえのたつ) 前回は1964年(昭和39年)

東京オリンピックの年で今年で60年が経ったことになります。

次の 甲辰の年は 西暦2084年 平和な日本国で有って欲しいね。

 

(道明寺天満宮の絵馬) (甲辰の春と書かれていますよ)

(道明寺天満宮の境内)

(道明寺天満宮 本殿前で自撮り)

 

(道明寺天満宮 参道で撮影)

画面の右側から 娘婿  私の娘  内の奥さん

翌日に続けて誉田八幡宮に参拝

(誉田八幡宮の絵馬)

(誉田八幡宮に参拝する人々)

(八尾アリオの店内で自撮り)

ご挨拶が遅れましたが本年も宜しくお願いいたします。

新年早々から能登半島で震度7の大地震と津波には驚きました。

平和で過ごしやすい日本であれと念じてやみません。

 

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古い写真ですが!  錦織神社

2023-09-02 16:02:06 | 神社

光回線を変更してからデジカメの画像を取り込めなくて

有料のソフトで取り込めないのか検討中なんですが。

平成29年2月に写した古い写真でご免なさい。

 

(錦織神社=にしごおりじんじゃ)

確定申告に訪れる会場の手前に大きな神社を発見。

大阪府富田林市に在り我が家から南へ約5kmぐらい。

(錦織神社の鳥居)

(錦織神社の参道)

150mぐらいもの立派な参道でおますがな。

確定申告の帰り道にお詣りしてみましたんや。

(錦織神社の本殿)

唐破風の上に千鳥破風を重ねた見事なお社ですわ。

総檜皮葺で漆塗りで「錦織造り」と言うらしい。

日光東照宮にも影響を与えたとの説もあるらしい。

ネットで検索したら南河内では有名ながら

全国的には忘れられたようなお社でおます。

(天誅組の慰霊碑)

明治維新直前に天誅組として挙兵するも鎮圧され

その顕彰碑が境内に残っているそうですわ。

(錦織神社の神門)

本殿は南北朝時代の1363年(正平18年)に三浦貞行により

再建された国の重要文化財に指定されているんだとか。

こんな南河内の片田舎に参拝客すら誰もいない神社が

ひっそりと佇んでいることに驚きを感じました次第。

正平の元号を掲げているので南朝の後村上天皇の頃。

ここは南朝の最前線の地域だったのかも知れない。

準地元である内の奥さんなどは「にしごり」と読むそうで

「にしこり」とか「にしこおり」とも呼ぶんだそうですわ。

江戸時代には錦織郡でこの神社は、水郡(にごり)神社と

呼んでいたそうで明治以降に錦織神社と成ったんだとか。

郷社なのにこんな立派な神社が在るのには驚きでした。

 

 

 

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お別れ旅行のつもりが~  パート6

2023-03-26 15:03:04 | 神社

鎌倉からの帰りにJR原宿駅に立ち寄ってみました。

駅舎が新しくなったとの噂を聞きましたもんで。

(JR原宿駅舎)

(旧の JR原宿駅舎)   (2014年2月 撮影)

鉄ちゃん爺やは、やはり古い昔の駅舎の方が趣もあり好きなんだけど。

何時来てもJR原宿駅界隈は人出が多いのには感心しますわ。

(JR原宿駅前)

それじゃ次の明治神宮へ向かうことにしまひょ。

鉄ちゃん爺や実は、明治神宮を参拝するの初めてなんですわ。

(明治神宮 一の鳥居)

大鳥居が新しく成ってまっせ、前回は平成29年だったかな?

古いけど尊厳のある鳥居だった、今度のは国産で吉野杉なんだって。

ここまでは3回ぐらい来てまっけど、ここから先は未知の世界でおます。

鳥居の前で一礼してから、進むことにしまひょ。

(明治神宮の 南参道にて)

(明治神宮の 神橋)

同じ画像を3枚も貼り付けてしまいました、削除が出来ませんのであしからず!!

ご祭神は明治天皇さまと昭憲皇太后さまをお祀りしてあるそうですね。

1920年(大正9年)に創建され戦前は官幣大社だったんだって。

お社などは1945年(昭和20年)4月の空襲で焼失し戦後になって

再建された神社なので、宝物殿以外は重要文化財に指定などされてまへん。

(明治神宮 三の鳥居)

(明治神宮の 南神門)

初詣には毎年ながら参拝者100万人を上回り日本一だとか。

(明治神宮の 拝殿)

コロナが始まってから、どこの寺社も「書き置き」という形式で

1枚の紙切れで頂いて、朱印帳に貼り付けるのが普通になりました。 

 

(拝殿前から 南神門を撮影)

(奉納された 葡萄酒)

明治天皇さまと昭憲皇后さまはワインがお好きであらせられたそうです。

反対側に日本酒も奉納されているので両方ともお気に入りなのかも?

(奉納された日本酒)

鉄ちゃん爺やが好んで飲む日本酒をピックアップしてみまひょ。

まずは広島の銘酒「賀茂鶴」で10年ぐらい前に酒造所にも

見学させて頂いた、関西より西では名の知れたお酒ですかな。

 

(広島県・西条の 賀茂鶴)

次は新潟の「越乃寒梅」で鉄ちゃん爺やが若い頃は幻の酒とか

称されて、関西では殆ど見かけることがおまへんでした。

最近は、よく見かけるようになりましたけど。

 

(新潟県・亀田郷の 越乃寒梅)

次は四国は琴平のお酒「金陵」で今は亡き義父が若い頃に勤めていた

そんな関係で、お正月には金陵の盃で日本酒を飲んでいた記憶が。

 

(香川県・琴平町の 金陵)

最後は長野県・諏訪市のお酒「眞澄」で信州では有名な感じ。

信州の酒場で「真澄」の話をしたら初対面でも親しく成りそうな

そんな経験がありました、特に松本市より南側で名の知れたお酒。

 

(長野県・諏訪市の 真澄)

今日はこれでお仕舞にしまひょ。 ほな! さいなら~♪

 

 

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お別れ旅行のつもりが~  パート3

2023-02-19 17:55:08 | 神社

単身赴任中に国道17号で埼玉へ戻る際に素通りしてましたんや。

お江戸三大祭りの一つ、神田明神さんとは知ってましたが。

明治以降は正式名を神田神社と呼ぶようになったんだって。

この時点では、今回が東京見物の見納めと考えてましたんや。

今後もそうなる可能性が十分におますけど。

(神田神社 鳥居と隋神門)

左手の甘酒屋さんはまだ朝が早いのでオープン前の感じ。

何かの本で読んだ、江戸時代から有名な「甘酒屋」さんだとか。

甘酒は苦手なので確かめもせずに随神門へ向かったんですわ。

(随神門を背景に自撮り)

昭和天皇即位50周年を祝し再建されたようで朱塗りの奇麗な門でっせ。

1923年(大正12年)の関東大震災で拝殿もこの門も焼失したとか。

(神田神社の 拝殿)

神田神社の拝殿は1923年(大正12年)の関東大震災で焼失したそうで

1934年(昭和9年)に当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造で

権現造りの朱塗りで完成し1945年(昭和20年)の東京大空襲にも耐え

令和の時代にも江戸時代の面影を今に伝えてくれる江戸っ子の自慢のお社かも。

(だいこく様の 石像)

 

神田明神には現在3人の方をお祀りしてあるそうですわ。

一ノ宮 大己貴命(オオナムチノミコト) だいこく様

二ノ宮 少彦名命(スクナヒコナノミコト) えびす様

三ノ宮 平将門 (タイラノマサカド)  まさかど様

だいこく様は創建以来の、ご祭神なので承知しました。

鎌倉時代に疫病がはやり平将門を二ノ神として江戸時代まで

神田明神の側神としてお祀りしてきたんですが。

明治天皇が行幸されることになり、逆臣が祀られているのは

好ましくないとなり、平将門を摂社に移し替えると共に

大洗海岸から「少彦名命」を二ノ宮にお招きしたそうです。

こうして明治7年に明治天皇さまは神田神社に行幸されたとか。

戦後になり平将門は三ノ宮にお戻り頂いたと言う訳でんな。

(神田神社の ご朱印)

新型コロナが蔓延して以来ご朱印は1枚の紙切れで提供され

自宅に戻ってから朱印帳に貼り付けるのが基本になってまぁ。

ご朱印巡りが少し略式となり残念に思うのは鉄ちゃん爺やだけかしら?

(神田神社門前から 東京スカイツリーを撮影)

高台からですが東京スカイツリーも半分しか写ってまへんな。

鳥居と社殿に一礼して再び国道17号に戻りまひょ。

同じく国道17号には湯島聖堂前という交差点がおまして

そこから本郷通りが左手から国道17号線に合流しますんや。

この湯島聖堂も高校の歴史で学んだだけで参拝は記憶になし。

(湯島聖堂の 入徳門) (唯一残った 江戸時代の門)

この門と塀の一部だけが関東大震災や東京大空襲からも焼失を免れ

江戸時代後期の趣を今に伝えてまぁ、石段を上れば湯島聖堂になりまぁ。

(杏壇門) (昭和10年に再建)

(大成殿) (昭和10年に再建)

土日祝 にしか内部は公開されないんだって。

中央に孔子さま 東の座に2人 西の座に2人 聖賢がお祀りされているんだって。

孔子さまの廟ですので建物も中国風になってまっしゃろ。

大成殿をはじめ各種の門は1935年(昭和10年)の再建だとのこと。

(孔子さまの銅像)

戦後に台湾から寄贈されたと書かれてますね。

世界一の大きさになる孔子さまの銅像だと書かれてまんな。

(湯島聖堂の ご朱印)

1690年(元禄3年)に5代将軍・徳川綱吉公が林羅山が上野忍ケ丘に持つ

孔子廟をここ湯島に6000坪の敷地を与えて聖堂を建立したとの事。

この頃までは学問好きな将軍さまで林家に湯島聖堂を管理維持させたようです。

以後は大学頭(だいがくのかみ)の位は林家の世襲となってまんねん。

一時8代将軍・徳川吉宗公の時代に朱子学が嫌われ実学が栄える時代を挟んで

1790年(寛政2年)寛政異学の禁が始まり朱子学が再び正当な学問とされ

ここに「昌平坂学問所」が置かれて敷地も16000坪に達したそうです。

因みに「昌平坂」とは孔子の生まれた昌平郷から採用したと記されてまぁ。

「昌平坂学問所跡」は現在は東京医科歯科大学の敷地になりますよ。

江戸時代は本郷通りを挟んで広大な敷地が湯島聖堂の土地だったんだね。

(聖橋の上から 東京医科歯科大学を背景に自撮り)

この聖橋も神田川を挟んで南のニコライ堂そして北の湯島聖堂に

あやかって名付けられたと聞いてますんや。

下から眺めたら奇麗な橋なんですが撮影を忘れてまんな。

 

今日はこれぐらいにしておきまひょ  ほな! さいなら~♪

 

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不思議な風景!  澤田八幡神社の境内

2021-02-21 20:21:47 | 神社
今回は神社の境内を鉄道が通過する不思議な風景でっせ。

40年近く通勤で通っていたんですが気が付いたのは10年ぐらい前。

お隣で藤井寺市の沢田という地名にそんな場所がおますんや。

(澤田八幡神社の社標)


神職もいない地元でもあまり知られていない神社なんですよ。

祭神は近くにある応神天皇陵のお名前が誉田別尊(ほむたわけのみこと)

(境内を通過する 近畿日本鉄道の電車)


(澤田八幡神社の 鳥居の位置から撮影)


普通は鳥居を潜ってその先から拝殿までは神社の境内ですわな。

その境内を近畿日本鉄道が通過するんで不思議でっしゃろ。

(澤田八幡神社の境内から 鳥居を撮影)


(近畿日本鉄道 藤井寺第7号踏切)


踏切を渡って境内の広場を抜けると拝殿になってますんや。

江戸時代に沢田村の鎮守様として創建されたようですわ。

(澤田八幡神社の 拝殿)


(澤田八幡神社の境内を 近鉄電車が通過)


何で澤田八幡神社の境内を避けて鉄道が施設できなかったのか?

実は明治時代から大正時代にかけて南河内の事情がおましたんですわ。

(近鉄・道明寺駅付近の Google Map)


地図の向かって右サイド中央に道明寺駅がおますやろ。

ここから現在は枝線となってしまった近鉄・道明寺線が右上へ
JR柏原駅で現在は連絡できるようになってますんや。

そもそも近鉄・道明寺線は1898年(明治31年)河陽鉄道が
柏原駅から道明寺駅を経由して我が町の古市駅から南下して
富田林駅までの貨物輸送と旅客輸送を狙って開業したんだって。

ところが資金難で倒産し「河南鉄道」が経営を引き継ぎ後に
大阪鉄道(大鉄と呼びました)と社名を変えたんですわ。

(近畿日本鉄道・道明寺線 大和川橋梁)


橋梁部分は明治の時代のままで近鉄では最古の鉄橋だとのこと。

橋脚の部分だけはコンクリートで補強されているようでんな。

(近畿日本鉄道 最古の大和川橋梁)


日本最大の営業路線を持つ近畿日本鉄道ですが戦前戦後の統合で
大きくなりましたが、一番古いのは現在の近鉄・道明寺線になりまぁ。

元々はJR柏原駅で当時の大阪鉄道(後に国鉄)と線路幅も併せて
大阪市内への延伸と国鉄との連携を考えていたようでんな。

でも大阪鉄道は国有化されて河南鉄道は方針を変更することに。

この大阪鉄道は後の大鉄(大阪鉄道)とは別の会社ですのでね。

道明寺駅から90度左へカーブさせて大阪市内へ向かうことに。

(近鉄・道明寺駅付近の Google Map)


道明寺駅の左手には道明寺天満宮が地図の上部には国府遺跡と
允恭天皇陵がおまして大きく左へカーブするしかなかったとか。

(允恭天皇陵)(世界文化遺産に指定)




その先には大きな仲津姫皇后陵や応神天皇陵が存在しているので
澤田八幡神社の境内を横切って藤井寺方向へ向かうことに。

(仲津姫皇后陵)(世界文化遺産に指定)




八幡神社の北側には沢田の集落と大阪府道が出来ていたので
沢田集落の了解を得て神社の境内を通過することに成ったとか。

(近鉄・道明寺駅のホーム)


画像の右側が近鉄の道明寺線で左側が本線の南大阪線でっせ。

次の画像で本線が左へ大きくカーブしているのがわかりまっしゃろ。

(近鉄・道明寺駅手前の 急カーブ)




近畿日本鉄道・南大阪線ではこの急カーブが最大のカーブだとの事。

特急列車もここは45kmに速度を落として通過して行きまっせ。

(反対側の 道明寺駅へ向かう方向から撮影)


藤井寺には西國第五番の札所で「葛井寺=ふじいでら」がおますんで
参拝客を考えて藤井寺駅には立ち寄る必要があったようでんな。

(西國第五番札所 葛井寺=ふじいでら)


(西國第五番札所 葛井寺=ふじいでら 山門)


(西國第五番札所 葛井寺=ふじいでら 本堂)


大阪鉄道(大鉄)に名前が変わっていましたが1923年(大正12年)
現在の阿部野橋駅~道明寺駅間が電車で運行が完成したそうですわ。

この大阪鉄道(大鉄)も古市駅から橿原神宮駅までの延伸に成功するも
資金難で大阪電気軌道に吸収され現在の近畿日本鉄道になりますんや。

元々が「河南鉄道」の1067mmの狭軌でスタートした関係で
現在も近畿日本鉄道・南大阪線や長野線に吉野線は全て狭軌の線路で
近畿日本鉄道の本線が1435mmの標準軌道とは異なってますんや。

澤田八幡神社の境内を通過するような鉄道は鉄ちゃん爺やの記憶では
大阪府内には、ここだけの珍風景だと思いまんねん。

日本全国では存在するのかも知れまへんが調べることは不可能かも?

本日はこれでお仕舞い ほな!  さいなら~♪









 

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鉄ちゃん爺やの初詣  誉田八幡宮

2021-01-01 19:03:52 | 神社
新年明けましておめでとうございます。

元日は一人で地元の誉田八幡宮へ初詣に出かけました。

例年は孫たちの学業の上達を願って道明寺天満宮なんですが
我が家に同居中の孫は大学の3年でもうお願いでもないよね。

岡崎の孫は今年は帰ってないので、私がお願いしても変だし。

今年は家内安全と無病息災で誉田八幡宮さんにしましたんや。

誉田(こんだ)とお読みします、ご祭神の応神天皇さまは
誉田別尊(ほんだわけのみこと)と、お名前をお呼びします。

昔からこの辺りは河内の国で「こんだ」と呼んでいたんだとか。

他に母親の神功皇后さまと父親の仲哀天皇さまに
合わせて住吉の大神をご祭神にしている神社なんですよ。

(誉田八幡宮の 干支の絵馬)


(誉田八幡宮の参道から 拝殿を撮影)


(誉田八幡宮の 拝殿)


新型コロナの影響でっしゃろな、初詣の人は少なめですわ。

拝殿の入り口に賽銭箱が置かれ、中には入れずに参拝でした。

3密を避けて、建屋の中には入らないように配慮でっしゃろな。

(誉田八幡宮の ご朱印)




ご朱印も書置きで朱印帳には書いて貰えまへん。

ようこそ~ お参り! と用意したご朱印を一枚手渡しでんな。

こんな所にも、新型コロナの影響が出てますんや。

(誉田八幡宮の神殿前 右近の橘)


(同じく 左近の桜)


冬でっから桜は葉っぱが無く枝だけの寂しい感じ。

橘は我が街の木で、この神社の橘から採用したとのこと。

御所の紫宸殿前庭に準ずる左近の桜と右近の橘が配されてますんや。

(応神天皇陵への参道)


(応神天皇陵への 放生橋)




毎年9月14日の例大祭には国宝の神輿がこの橋を渡り奥の
応神天皇陵に立ち入るのが神事の一つに成ってますんや。

因みに応神天皇陵は世界文化遺産に認定されましたんでっせ。

(国宝の 神輿) (誉田八幡宮の冊子から)


源頼朝公が奉納したとの伝えで鎌倉時代の豪華なお神輿ですよ。

源頼朝公の5代前の源頼義が京都の石清水八幡宮から勧請し
源氏の氏神様として応仁天皇陵の側にお祀りしたの最初だとか。

八幡さまは源氏の信仰が篤いので奉納も当然のように思いまぁ。

実物は10年ぐらい前に一度だけ拝殿内に置かれてるのを拝見。

その日が確か例大祭の9月14日だったと記憶してまんねん。

(応神天皇陵の 拝所)


ここ誉田八幡宮も世界文化遺産に認定されても良いような
建物と文化財を所有してるんですが認定には至りまへんでした。

拝殿は豊臣秀頼が片桐且元に命じたが建築中に大坂夏の陣が
天井などが未完成のまま珍しい形態で完成したとのこと。

(誉田八幡宮の 南門)


江戸時代まで長野山護国寺が神宮寺とされていた名残で
明治初めの廃仏毀釈からこの山門だけが残ったとの説。

今では神社に似合わない山門が建っている、という事になりまぁ。

(鉄ちゃん爺やの 令和3年度の 年賀状)


(鉄ちゃん爺や 今年のお節料理)


下の二つが奥城崎シーサイドホテル特製のおせちでおます。

上の二つがスーパーで買ってきたおせち料理ですな。

今年は息子夫婦や孫たちが帰阪しないので少なめのおせち料理でおます。

本年も宜しくお願い致します。

それじゃ~ これで、さいなら~♪








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令和元年11月11日   数字の1が5つ並びました。

2019-11-11 20:39:11 | 神社
数字の1が5つ並ぶのは、次回は令和11年1月11日ですよ。

約10年も先の話だから鉄ちゃん爺やは生きてないかも?

もし生きていたとしても、寝込んでいる状態ですかな。

数字の1が5つ並ぶ、ご朱印を貰いにでかけましたんや。

(伴林氏神社=とものはやしのうじのじんじゃ)


(伴林氏神社の ご朱印)


この神社は隣町の藤井寺市に在るんですが、鉄ちゃん爺やが
ネットで調べて知ったのは先月の下旬のことでした。

(伴林氏神社=とものはやしのうじのじんじゃ) (本殿)




高校時代の同級生の依頼で歴史に詳しい「くろちゃん」に
インターネットで検索して欲しいと言われましたんや。

その結果が、この神社を知ることになったんですわ。

(伴林氏神社の社標の前で 同級生のN君)


この社標は1942年(昭和17年)に彼の曾祖父が設立した
「更池銀行=さらいけぎんこう」が解散するに当り
奉納した物で、初代の頭取が曾祖父だったようですわ。

国策で三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)に合併を命じられ
清算した残金で、武運長久を願い奉納したようでんな。

明治29年から昭和17年まで存続した銀行でっせ。

奉納した時点ではN君の一族が監査役をしていたようですわ。

実は地元なのに鉄ちゃん爺やが知らない神社だったのは
下のような事情があったようでんな。

(伴林氏神社の手水舎)(現在は使用禁止)




(靖国神社から寄贈されたとの立て札)


当時は日中戦争(支那事変)が激しくなり、この神社が古代の
豪族である大伴氏の先祖である「道臣命=みちのおみのみこと」を
お祀りした唯一の神社で、少し大げさであるが「西の靖国神社」と
呼ばれて、出征兵士の家族がお参りした神社だったそうですわ。

「道臣命=みちのおみのみこと」は神話の話になりまっけど
神武天皇の東征に先鋒を務めた神様として登場しまっせ。

戦前は「府社」として南河内ではここと、我が街の「誉田八幡宮」
千早赤阪村の「建水分神社」の三社しか無かったんだって。

「大阪天満宮」や「豊国神社」と同格の立派な神社だったんですわ。

戦後は一転して軍国主義の否定から「村社」に格下げされたとか。

「村社」には勿体ないほどの大きな敷地でおます。

確かにN君を案内した日も、今日11月11日も参拝者はゼロ!

(大伴家持を 模ったパネル)




(伴林氏神社の拝殿)


令和の元号にまつわる大宰府の長官「大伴旅人」さんの息子で
越中の国守なども務め、奈良時代から平安時代初期の貴族として有名。

(伴林氏神社の由緒書き)






この神社も「式内社」として記録が残るので平安時代の9世紀から
ここに鎮座していたようですが、大伴氏の本拠地ではないはず。

(大伴氏の 系図)


この辺りは藤井寺市林という地名ですが直ぐ東側は河内の国の
国府跡が残っている、古くから開けた場所のようでんな。

(藤井寺市林3丁目 住居表示)


最寄りの駅は近鉄南大阪線の土師ノ里駅になりまっせ。

昔の埴輪を造った一族が「土師氏」だったそうで平安時代に
一族から菅原道真公などの菅原家が分家したとのこと。

名前は「土師ノ里」として残っていますが土師氏の痕跡は
現在は道明寺天満宮の境内に石碑と墓石が残るのみ?

(近鉄南大阪線・土師ノ里駅)


何度か紹介した道明寺天満宮や道明寺尼寺なども
歩いて15分~20分と歴史の宝庫となってますんや。

古市古墳群のスタート地点の駅とも成ったようですわ。


最後に我が街の「誉田八幡宮」のご朱印も貼り付けておきまひょ。

(誉田八幡宮の ご朱印)


(国宝 源頼朝公寄進のお神輿)(誉田八幡宮 保管)


今日はこれでお仕舞にしまひょ、これで、さいなら~♪
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鉄ちゃん爺やの一人旅  防府天満宮 & 周防国分寺

2019-06-14 20:06:19 | 神社
3月22日は午前5時から大浴場で一番風呂の入浴に預かりました。

山口県防府市の最高峰である大平山(631m)からの日の出でおます。

(サンホテル防府から 日の出を撮影)


山口県防府市に2泊して市内をゆっくりと見物をした理由の一つが
日本初の天満宮である防府天満宮の謎を尋ねて見たかったんですわ。

太宰権師の名称で京都から大宰府へ左遷となつた菅原道真公が、
大宰府に赴く前に、立ち寄より滞在したとの記録が残っているとか。

九州への船の風待ちだろうなと、鉄ちゃん爺やは考えてましたんや。

(防府天満宮の 大鳥居)


(防府天満宮の 由緒書き)


福岡県の太宰府天満宮は菅原道真公が埋葬された場所に
最後まで仕えた味酒安行(うまざけのやすゆき)が小さな祠を設けたが
後日になるが藤原仲平が勅を奉じて神殿を創建し天満宮としたとのこと。

京都市の北野天満宮は朝廷が菅原道真公の怨霊を鎮める為に
藤原師輔の邸宅跡に朝廷が創建したのが始まりだとのこと。

防府天満宮は松崎天満宮と称して日本で初めて菅原道真公を
お祀りした神社で、昭和28年に防府天満宮と名前を変えたそうです。

この三つの天満宮を合わせて「日本三大天満宮」と呼ぶそうでんな。

(防府天満宮への 石段)


(防府天満宮の 拝殿)




(防府天満宮の ご朱印)


防府天満宮に「松崎天神縁起=まつざきてんじんえんぎ」と呼ばれる
鎌倉時代に作られた絵巻物が在り、国の重要文化財に指定されているとか。

それによると、菅原道真公は周防国司として当地に赴任していた同族の
土師国貞(はじくにさだ)と別れの挨拶を兼ねて、防府市の勝間ノ浦に
船を停めて酒垂山(さかたりやま)に登られたんだそうですわ。

なるほど~ 親戚筋の方がご当地に国司として居られたんだ。

現在は酒垂山(さかたりやま)は天神山と呼ぶそうで山頂に古くからの
信仰の岩があり、その山麓に造られたのが今の防府天満宮だとのこと。

(防府天満宮から 防府市内を望む)




遠くに見える山の左手が当時は海岸で勝間ノ浦と呼ぶ入り江だったそうです。

此処から歩いたら約1時間ぐらい南に下った所になりますかな。

当時の海岸線と思しき所に「勝間」という地名が残ってました。

現在は三田尻港と呼ぶ小さな船着き場だけが有りましたよ。

(現在の三田尻港 対岸の野島へ向かう連絡船)






菅原道真公が訪れた時代には現在の防府天満宮から東へ約1kmぐらい
周防の国を統治する周防国衙が在ったようでんな。

現在は敷地のみが国の遺跡として保護されているようですわ。

国庁と記された石碑しか残ってませんけど。

(周防の国 国衙跡)










土師国貞(はじくにさだ)は菅原道真公の本家筋に当たる古い名族で
ここ周防の国に、国司として都から派遣された貴族のようですね。

現在の防府天満宮の辺りで二人は別れを惜しんだんでしょうか?

酒垂山(さかたりやま)の辺りを凄く気に入られたらしく
「松崎天神縁起」によれば、こんな話をされたとか。


「身は筑紫に果てるとも 魂魄は必ず この地に帰り来らん」


(防府天満宮の 撫で牛)


各地の天満宮には必ず「撫で牛」が境内に置かれていまっしゃろ。

これは大宰府で亡くなられた菅原道真公のご遺体を乗せて
墓地に向かった牛が座り込んで動かなくなったとの伝説ですかな。

その牛が座り込んだ場所が現在の太宰府天満宮だそうですわ。

(防府天満宮の 拝殿の内部)


(防府天満宮に 納められた絵馬)


西暦903年(延喜3年)3月25日に菅原道真公は大宰府近郊の
私邸で亡くなられたそうで、松崎天神縁起によれば。

その日に勝間ノ浦に、ご神光が表れて、酒垂山(さかたりやま)に
紫の瑞雲がたなびいて、菅原道真公がご帰還になられたとの噂が。

土師国貞が904年(延喜4年)に菅原道真公をお祀りする神殿を
建てたのが、我が国で最初になる、ここ松崎神社だったそうですわ。

なるほど~ だから日本で一番古い天満宮になるんですわな。

現在もこの辺りは松崎町の地名が残り、古くから松崎天満宮と
地元で親しく呼ばれていたのが、現在の防府天満宮なんだって。

(防府天満宮の 春風楼)






(春風楼の軒下)




江戸時代の後半に毛利家のお殿様が五重塔を建築して奉納しようとしたが
諸般の事情で中止に成り、軒下に五重塔の基礎が埋め込まれた状態で
春風楼と呼ぶ、珍しい造りの楼閣が出来てしまいましたんや。

(周防国分寺への 道路標識)


防府天満宮から東へ約500mぐらいの所に周防国分寺がおます。

(周防国分寺の 金堂)




奈良時代に聖武天皇の勅で全国に国分寺と国分尼寺が創建されたそうですな。

現在ではその場所さえ不明なのが大半なんだそうですが、ここ周防の国は
珍しく寺の境内が当時の規模のままで国分寺が残った、珍しいケースとの事。

平安時代初期の日光・月光菩薩が国の重要文化財として金堂に安置。

当然ながら写真撮影は禁止なので金堂の外観だけで、ご容赦のほど。

鎌倉時代に周防の国が東大寺の再建の為に給地とされて、その後を継いだ
大内氏や毛利氏が篤い庇護をしたのが、幸いしたとも言われてますかな。

ちなみに鉄ちゃん爺やの河内の国では国分寺が何処に在ったのかさえ不明で
国分という地名があるので、この辺り在ったのだろうかとの事ですわ。

(五本線の筋塀)




皇室や門跡寺などの格式の高い寺社にのみ許可される五本線の筋塀ですよ。

京都などではよく見られますがここ周防の国ではここぐらいなのかも。

(周防国分寺 山門)


(周防国分寺の 金堂を望む)


(周防国分寺の ご朱印)



蛇足ながら鉄ちゃん爺やのPCのマウスが先週から使用不能に。

タッチパットも怪しげな動きをしていまして皆様方への訪問も
ままならない状態になっております、悪しからずご容赦の程。

それでは、これで~ さいなら~♪


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