震災から10日経った。
日々変わる原発の情報、
テレビでもさまざまなブログでも
放射能の飛散に関して
いろいろなひとがいろいろなことを言っている。
皆、疑心暗鬼になっている。
怒っているひとも多い。
それも不安の現れだな、と感じる。
首都圏では目に見える被害を被ったところは少ないが、
見えない恐怖である放射能への不安が、ひとの中に巣食っている。
見た目には平穏でも、いつ何かが噴き出してもおかしくないような
均衡のあやうさ、とでもいうものがある。
大きな地震がまた起きる可能性は大分低くなったが、
まだ余震もある。
ガソリンスタンドも未だ行列で、
パンや米、カップ麺の欠品も、今の時点ではまだまだあるようだ。
停電があるので夜は早く帰宅する人が多い。
(都内はまた違うかもしれないが)
そんな中、昨日3/19、予定通りワークショップを行った。
もし大きな余震が起きたら、ということがわたしにはいちばんの気がかりだったが
起きてもいない事態を心配することは少なくともこの3時間はやめよう、
と思った。
さいわい、停電もなく、電車も通常の7~8割で運行している。
前日に、「今向かっています」と東北の被災地の方から連絡があったが、無事に到着した。
始まるまでの時間、
「どうぞ横になってゆっくりしてください」と皆に声をかけた。
静かなピアノ曲をかけた。
それぞれが横になった。
穏やかな空気が場を満たした。
なんだか不思議な感じだった。
あとから何人かに聞いたら、
「家ではゆっくり寝ていられなかったけれど落着いていられた」
「安心していいんだ」と感じたと言う。
「場」を信じること。
まずはそんな空気からすでに始まって行った。
シェアは、必然地震のこと、当日どうしていたか、それ以後どんな状態なのかに話が及ぶ。
みんな心身ともに緊張し、どこか昂り、アンバランスな状態になったんだなあ、
とお互いのシェアを聞く。
この一週間はすごすぎて、それ以前のことがとても遠く感じる、というシェアに
本当にその通りだ、と思った。
アタマがぼーっとしたり、
気疲れしていたり、
背中がバリバリになったり、
呼吸がとても浅くなっていたり、
神経の昂りがおさまらなかったり、
被災地の大変さを思って、普通に生活することへの罪悪感に囚われていたり。
今、我々の身体に起きているそんなことを確認して、はじめた。
いつもよりも呼吸法の時間を長くして。ストレッチ。
緊張させて気づかないようにしていた身体の疲れや痛みが出てくる。
横になる時間を長くした。
眠るひとも多かった。
わたしの足を使って、みんなの背中をほぐした。
うつぶせに寝た方の背中にぐりぐりと。
ぐりぐりされているひとには声を出してねと言った。
こういうときには呼吸だけでなく、
コトバにも歌にもないような濁音じみた音が出るのがいいのだ。
皆の背中を踏みつけに(笑)していくうちに、
笑い声が出て来た。
ふにゃらけた身体が、少しずつふえていった。
ペアになって、
お互いの身体の重さをつかいながら、
さらに背中をほぐす。
こういうときに、ひとのぬくもりは、とても助けになることがある。
(※こういうときなので、それは避けた方がいい場合もある。人によります)
そして、
・体力を消耗せずに身体を温める
・神経の昂りを静め、下半身に重心を下ろす
・上半身/下半身をつなげる
・身体全体のまとまりを取り戻す
などのための技法を行う。
最後にはフリームーブメント。
立っても座っても歩いても
笑っても泣いても
動いても動かなくてもいい時間だ。
静かで穏やかで、でも力強さのある空間になった。
最後に、呼吸法とグラウンディングをして、締めた。
みんなの身体の状態が、
表情が、
見違えるほど変わった。
「身体の真ん中が通った感じ」と言った方がいた。
自分の身体の部分部分の感覚をしっかりと取り戻し
大きく揺らいだ地面のうえで、
ずっと揺らいでいた気持が
ニュートラルな状態に近づいたようだった。
大変な時だからこそ、
「いつもの~」ということが
いちばんだいじだ。
でも、
「いつもの気分」「落着いている状態」をキープするのは
こんなとき、本当にむずかしい。
この時間で分かったことは、
「身体から取り戻すこと」のほうがはやい、ということだ。
わたしは見守る役目なので
どっぷりとワークに浸るわけではもちろん、ない。
それでも、終わったあとに
身体の状態が地震のことをすっかり忘れてしまったような感じになっていた。
一晩明けて、
これを書いている今も
重心が安定し、呼吸が楽になり、
身体の奥に安心感が宿っているのも分かる。
安心感とは、
からだにまかせ、ゆだねることから生まれる。
十何年もワークショップを行って来たけれど、
この未曾有の事態の中で行ってみて
あらためて確認できた。
地面は揺れても、重力がある限り、
身体はしっかりとグラウンディングできる。
信頼感。
安定感。
というものが、
今のようなときに
それぞれにいちばん必要なことだ、とはっきりと感じられた。
それは不安を「払拭」するというレベルではない。
「軸」を取り戻すことだ。
「軸」があれば、
冷静に情報を選択できる。
いざというときの判断力、
そして直感を信用できる。
最終的には、自分が選んだことに責任を持つ、ということにつながる。
息を吹き返したからだとともに、
これからの長丁場を歩んでいこう。
こういう時間を必ず持ちながら。
次回は4/3に、ワークショップを行います。
付記:
これを午前中に書き上げたあと、
急激な眠気がやって来て
午後から夕方まで4時間ほど眠った。
身体が緩んだことへの反応が如実に現われた。
<記事の無断引用・無断転載を禁じます>
日々変わる原発の情報、
テレビでもさまざまなブログでも
放射能の飛散に関して
いろいろなひとがいろいろなことを言っている。
皆、疑心暗鬼になっている。
怒っているひとも多い。
それも不安の現れだな、と感じる。
首都圏では目に見える被害を被ったところは少ないが、
見えない恐怖である放射能への不安が、ひとの中に巣食っている。
見た目には平穏でも、いつ何かが噴き出してもおかしくないような
均衡のあやうさ、とでもいうものがある。
大きな地震がまた起きる可能性は大分低くなったが、
まだ余震もある。
ガソリンスタンドも未だ行列で、
パンや米、カップ麺の欠品も、今の時点ではまだまだあるようだ。
停電があるので夜は早く帰宅する人が多い。
(都内はまた違うかもしれないが)
そんな中、昨日3/19、予定通りワークショップを行った。
もし大きな余震が起きたら、ということがわたしにはいちばんの気がかりだったが
起きてもいない事態を心配することは少なくともこの3時間はやめよう、
と思った。
さいわい、停電もなく、電車も通常の7~8割で運行している。
前日に、「今向かっています」と東北の被災地の方から連絡があったが、無事に到着した。
始まるまでの時間、
「どうぞ横になってゆっくりしてください」と皆に声をかけた。
静かなピアノ曲をかけた。
それぞれが横になった。
穏やかな空気が場を満たした。
なんだか不思議な感じだった。
あとから何人かに聞いたら、
「家ではゆっくり寝ていられなかったけれど落着いていられた」
「安心していいんだ」と感じたと言う。
「場」を信じること。
まずはそんな空気からすでに始まって行った。
シェアは、必然地震のこと、当日どうしていたか、それ以後どんな状態なのかに話が及ぶ。
みんな心身ともに緊張し、どこか昂り、アンバランスな状態になったんだなあ、
とお互いのシェアを聞く。
この一週間はすごすぎて、それ以前のことがとても遠く感じる、というシェアに
本当にその通りだ、と思った。
アタマがぼーっとしたり、
気疲れしていたり、
背中がバリバリになったり、
呼吸がとても浅くなっていたり、
神経の昂りがおさまらなかったり、
被災地の大変さを思って、普通に生活することへの罪悪感に囚われていたり。
今、我々の身体に起きているそんなことを確認して、はじめた。
いつもよりも呼吸法の時間を長くして。ストレッチ。
緊張させて気づかないようにしていた身体の疲れや痛みが出てくる。
横になる時間を長くした。
眠るひとも多かった。
わたしの足を使って、みんなの背中をほぐした。
うつぶせに寝た方の背中にぐりぐりと。
ぐりぐりされているひとには声を出してねと言った。
こういうときには呼吸だけでなく、
コトバにも歌にもないような濁音じみた音が出るのがいいのだ。
皆の背中を踏みつけに(笑)していくうちに、
笑い声が出て来た。
ふにゃらけた身体が、少しずつふえていった。
ペアになって、
お互いの身体の重さをつかいながら、
さらに背中をほぐす。
こういうときに、ひとのぬくもりは、とても助けになることがある。
(※こういうときなので、それは避けた方がいい場合もある。人によります)
そして、
・体力を消耗せずに身体を温める
・神経の昂りを静め、下半身に重心を下ろす
・上半身/下半身をつなげる
・身体全体のまとまりを取り戻す
などのための技法を行う。
最後にはフリームーブメント。
立っても座っても歩いても
笑っても泣いても
動いても動かなくてもいい時間だ。
静かで穏やかで、でも力強さのある空間になった。
最後に、呼吸法とグラウンディングをして、締めた。
みんなの身体の状態が、
表情が、
見違えるほど変わった。
「身体の真ん中が通った感じ」と言った方がいた。
自分の身体の部分部分の感覚をしっかりと取り戻し
大きく揺らいだ地面のうえで、
ずっと揺らいでいた気持が
ニュートラルな状態に近づいたようだった。
大変な時だからこそ、
「いつもの~」ということが
いちばんだいじだ。
でも、
「いつもの気分」「落着いている状態」をキープするのは
こんなとき、本当にむずかしい。
この時間で分かったことは、
「身体から取り戻すこと」のほうがはやい、ということだ。
わたしは見守る役目なので
どっぷりとワークに浸るわけではもちろん、ない。
それでも、終わったあとに
身体の状態が地震のことをすっかり忘れてしまったような感じになっていた。
一晩明けて、
これを書いている今も
重心が安定し、呼吸が楽になり、
身体の奥に安心感が宿っているのも分かる。
安心感とは、
からだにまかせ、ゆだねることから生まれる。
十何年もワークショップを行って来たけれど、
この未曾有の事態の中で行ってみて
あらためて確認できた。
地面は揺れても、重力がある限り、
身体はしっかりとグラウンディングできる。
信頼感。
安定感。
というものが、
今のようなときに
それぞれにいちばん必要なことだ、とはっきりと感じられた。
それは不安を「払拭」するというレベルではない。
「軸」を取り戻すことだ。
「軸」があれば、
冷静に情報を選択できる。
いざというときの判断力、
そして直感を信用できる。
最終的には、自分が選んだことに責任を持つ、ということにつながる。
息を吹き返したからだとともに、
これからの長丁場を歩んでいこう。
こういう時間を必ず持ちながら。
次回は4/3に、ワークショップを行います。
付記:
これを午前中に書き上げたあと、
急激な眠気がやって来て
午後から夕方まで4時間ほど眠った。
身体が緩んだことへの反応が如実に現われた。
<記事の無断引用・無断転載を禁じます>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます