原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

言葉とダンス

2019-03-21 | 徒然なるままに


感じたことを語る言葉こそが
詩でありダンスだよね。

さっき見た「ぼくのエリ」も
詩のように美しい映画だった。

どうして人は「意味」に依存するのか。
意味があれば自分が存在していることが肯定できるからか?

感じたことに正しさなんてない。
ただ、どういう言葉を選んで、
感じたこととなるべく乖離させずに
フィットしたものを見つけられるかどうか、だけ。

なんだかそれを恐れている人も多いし、
そういう作業をしてこなかった人も多い。
自分で鍛えないと言葉を失ってしまうよ。
一番大事なところだもの。


身体感覚をできるだけ深く掘り下げていくこと、
言葉以前のものが動きになっていくこと、
それを拾い上げて彫琢することが踊りであると自分は思うが
では言葉の書き手/話し手はどういう作業をする?


祈りのために踊ることは確かに素晴らしい。
しかし、踊ったことそのものが祈りであることの方が
自分にはしっくりとくる。
それは何処かに(どこかはわからないが)
伝わるものだと信じているから。

これを神に捧げよう、
と思うことすら自我で
自我がなくなった時に美しさは立ち現れる。
その美しさそのものが神への捧げ物と感じる。


援助職の人の中には
繊細な感覚を持っている人がたくさんいて
それを自身の芸術的なセンスに活かしたら
もっと楽になるのにな、と思うことがある。
大抵は援助職という役割で自身の立場を作って
保っているような気がする。

表現行為と援助職は相反するものではないと思うし、
むしろその通路が大事。
援助職でできないことを
発散するために表現を行うこととは違う。

 
言葉にできないことを身体でどう表すかを扱う自分に
「それは言葉にできなければダメ」と言ってくれたのは
ベテランのCPだったが彼女はとても説明が下手だった。
しかしそれも含めて本当にありがたく思っている。

言葉にできる/できない/したくない/
したくなくてもしなければならないことなどの層、
いろいろがあることを含みつつ生きなければならない。


不快を表現するのにただ泣くしかない赤子の時代を経て
様々の体験を経て、
表現の方法、言葉と身体がもっと近くなればいい。
感覚と表現が近くなるということだから。
そのバランスをそれぞれに自分のやりやすい形でできるのがいい。
言えないで悔しかったことっていっぱいあるよね、誰しも。


言葉も身体も、いくつになっても
育てていくものだな、と思う。

そして筋力や内蔵力など
生物学的な衰えはあっても
精神と身体はますます自由になることができる。
評価や意見を恐れずに、
そうしようとするならばだが。

それを実感できたのが
今回の舞台であり
もっとそうなっていきたいと思うのであった。


舞台の前に引いたカードはコレで、

後から友人が「進行する脱皮」と名づけてくれた。



なんと美しい言葉だろう。
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