原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

江戸アケミさんの記憶〜1979

2019-01-10 | 徒然なるままに


【江戸アケミさんの記憶】


なんだかふと思い出したので
書いてみる。

アケミさんのいたバンド
「じゃがたらお春」
(1979年当時、まだそういう名前だったと思う)
を見たのは
自分の通っていた大学の
池の端でよくライブをやっていた。
ステージはとてもアバンギャルドな雰囲気で
彼は動きまくり叫ぶように歌っていた。

全くもって自由な気風の大学で
門はないし塀はないしニセ学も大勢いて
部室に住んでいる者もいた。

授業が終わってからはよく研究室で飲み会が行われていた。
(私が参加したのは主に岸田秀さんの研究室だったけど)

ある時に校内でバンドをやっている人に誘われ
駒場にあったじゃがたらのスタジオに遊びに行った。
それがアケミさんとの出会いだった。

そしてそこで山本政志監督とも出会った。
(「闇のカーニバル」という映画を準備していた時だと思う。
主役に誘われ、川崎大師にロケハンに行ったことを覚えている。
しかし脱ぐシーンがあると知りやめてしまった。
飯田譲治さんに電話でこっぴどく叱られたのも覚えている)

実家から近かったこともあり
駒場のスタジオには時々遊びに行っていたように思う。
屋上のペントハウスで、アケミさんはそこに住んでいた。

ある時、なぜだか二人で明大前かどこかに飲みに行って
アケミさんが大学構内?かで立ちションをして戻ってきて
こちらに触ろうとしたのかなんだったのか、
「いやだきたない〜」と言ったら
「キョウコちゃん、友達は仲良うせなあかんよ〜」
と言ったのを覚えている。

いつの間にか、
じゃがスタに行くこともなくなり
大学を卒業して
勤めながら貧乏しながら芝居を続け
ある劇団(ロマンチカだけど)にいた時
日根チカが「これ好きなんだ」と言って
聞いていたのがじゃがたらの「それから」だった。

アケミさんはとうに亡くなったけれど
時々懐かしく思い出す。
初期の頃のステージとは全く違って
プライベートでは
繊細で優しい人だった。

優しい人は早く亡くなるのか。

だからまだ私は生きているのか。

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