奥さんが気になることがあって寝れない、ということでした。足のウラとか指圧してあげたらいいんだけど、うちの子がやってあげていました。だったら、読み聞かせでもしてあげよう、だったら室生犀星かなと詩集を取り出しましたが、適当なのがみつからず、村上春樹の『七番目の男』にしました。でも、途中で挫折……。
室生犀星は、黙ってひとりで読むことになりました。次こそ、犀星を読んであげましょう!
★ じんなら魚
伊豆伊東の温泉(いでゆ)に
じんならと云える魚棲(す)みけり。
けむり立つ湯のなかに
己(おの)れ冷たき身を泳がし
あさ日さす水面に出(い)でて遊びけり。
人ありて問わばじんならは悲しと告げむ。
己れ冷たく温泉(ゆ)はあつく
されど泳がねばならず
けぶり立つ温泉(いでゆ)のなかに棲みけり。
シュールな感じの作品でした。「じんなら」って、何か意味があるんでしょう。あとで検索してみましょう。サカナという設定にはなっているけれど、サカナではないような気がします。
「じんなら」は、温泉に浸かっている人そのもの(犀星さん?)ではないんでしょうか。サカナのように、ひたすら生きようとしているけれど、くたびれて温泉にやってきた。そして、ぐったり身を浸している。それを戯画化したような作品なのでしょうか。
もう1つ、サカナがテーマの作品をみつけました。これも現代仮名遣いで抜き書きしてみます。
★ 鰯(いわし)
鰯があらわれた。
びっくりしたような眼付(めつき)で
三年ぶりで街(まち)にあらわれた
尾も折れていないし
あいかわらずすべすべした
はだかのままだった
深海色の背中のほくろも
大きいくろい眼は閉じることなく
瞬(またた)きもせず
天の一角(いっかく)をにらんでいる
あいかわらずお腹(なか)を悪くすると見え
海ではたらいた腹の機械は
やぶれたあばらを透(す)いてまる見えだ
恋もしたであろうに
やぶれたお腹に風が通る
だがしかし鰯があらわれた
まる干しが何と一ぴき一円
ひらいた奴(やつ)が一円弐拾銭(にじっせん)
かんかんに干せあがり
にくはしまって牛酪(バター)のごとく
皮をはいで見れば
鼈甲(べっこう)色の肌がある
海のしぶきは遠い山のうしろにある
汽車から下りると
駅から真っ直ぐに信濃街道を
碓氷(うすい)の屋根の雪を見ながら村に入る
草深い村には
どこにも
木々にはもはや一枚の葉も見えない
鰯の行列はしずしずと進み
木々の下を行く
木々には霙(みぞれ)と雨
どこも氷雪地帯の蕭条(しょうじょう)無類の冬景色だ
三年ぶりであろうか
五年ぶりだったろうか
ついに鰯があらわれた
つるつるしたはだかで。
これは、鰯が街の市場で売られるようになったというのを、詩にしただけなんでしょうか。日本海側のいわしを信濃街道を通って都会に出回るようになった。干した魚と開きと、とにかく鰯はすぐに傷んでしまうから、加工しないと市場に回すことができないんでしょう。
それをおもしろおかしく述べただけの詩なんでしょうか。
そういう気もします。でも、こうして詩に仕立ててもらうと、まるで鰯が何かのキャラになって、私たちの世界へずんずんやってくるような感じで、おもしろさを感じることができます。
そして、やせおとろえているし、まるはだかだし、何もかもさらけ出して、私たちの世界に来て、何かを訴えているような、そんな健気な感じさえします。
見つけたときは、いわしが歩いているような気がしたんですけど、そういう世界ではないですね。しんみりした生活のうたなのかなあ。いやでも、ちゃんと旅はしているわけで、信濃の山の中を抜けてきたんだよ、とは言っているようです。だから、まあ、いわしが移動しているのは確かです。
室生犀星は、黙ってひとりで読むことになりました。次こそ、犀星を読んであげましょう!
★ じんなら魚
伊豆伊東の温泉(いでゆ)に
じんならと云える魚棲(す)みけり。
けむり立つ湯のなかに
己(おの)れ冷たき身を泳がし
あさ日さす水面に出(い)でて遊びけり。
人ありて問わばじんならは悲しと告げむ。
己れ冷たく温泉(ゆ)はあつく
されど泳がねばならず
けぶり立つ温泉(いでゆ)のなかに棲みけり。
シュールな感じの作品でした。「じんなら」って、何か意味があるんでしょう。あとで検索してみましょう。サカナという設定にはなっているけれど、サカナではないような気がします。
「じんなら」は、温泉に浸かっている人そのもの(犀星さん?)ではないんでしょうか。サカナのように、ひたすら生きようとしているけれど、くたびれて温泉にやってきた。そして、ぐったり身を浸している。それを戯画化したような作品なのでしょうか。
もう1つ、サカナがテーマの作品をみつけました。これも現代仮名遣いで抜き書きしてみます。
★ 鰯(いわし)
鰯があらわれた。
びっくりしたような眼付(めつき)で
三年ぶりで街(まち)にあらわれた
尾も折れていないし
あいかわらずすべすべした
はだかのままだった
深海色の背中のほくろも
大きいくろい眼は閉じることなく
瞬(またた)きもせず
天の一角(いっかく)をにらんでいる
あいかわらずお腹(なか)を悪くすると見え
海ではたらいた腹の機械は
やぶれたあばらを透(す)いてまる見えだ
恋もしたであろうに
やぶれたお腹に風が通る
だがしかし鰯があらわれた
まる干しが何と一ぴき一円
ひらいた奴(やつ)が一円弐拾銭(にじっせん)
かんかんに干せあがり
にくはしまって牛酪(バター)のごとく
皮をはいで見れば
鼈甲(べっこう)色の肌がある
海のしぶきは遠い山のうしろにある
汽車から下りると
駅から真っ直ぐに信濃街道を
碓氷(うすい)の屋根の雪を見ながら村に入る
草深い村には
どこにも
木々にはもはや一枚の葉も見えない
鰯の行列はしずしずと進み
木々の下を行く
木々には霙(みぞれ)と雨
どこも氷雪地帯の蕭条(しょうじょう)無類の冬景色だ
三年ぶりであろうか
五年ぶりだったろうか
ついに鰯があらわれた
つるつるしたはだかで。
これは、鰯が街の市場で売られるようになったというのを、詩にしただけなんでしょうか。日本海側のいわしを信濃街道を通って都会に出回るようになった。干した魚と開きと、とにかく鰯はすぐに傷んでしまうから、加工しないと市場に回すことができないんでしょう。
それをおもしろおかしく述べただけの詩なんでしょうか。
そういう気もします。でも、こうして詩に仕立ててもらうと、まるで鰯が何かのキャラになって、私たちの世界へずんずんやってくるような感じで、おもしろさを感じることができます。
そして、やせおとろえているし、まるはだかだし、何もかもさらけ出して、私たちの世界に来て、何かを訴えているような、そんな健気な感じさえします。
見つけたときは、いわしが歩いているような気がしたんですけど、そういう世界ではないですね。しんみりした生活のうたなのかなあ。いやでも、ちゃんと旅はしているわけで、信濃の山の中を抜けてきたんだよ、とは言っているようです。だから、まあ、いわしが移動しているのは確かです。