もうすぐ愛知県の展示も終わってしまいます。世の中的には、少しだけ岡本太郎ブームが起きたでしょうか。ほんの少しかな。
また、太郎さんの作品たちに会うチャンスというのは、東京の方に行かないと見られないかもしれませんけど、かなり私たちの生活の中に入り込んでいて、
「君はぼんやりとした日々を、気持ちを押し殺して生きていないか?」
なんて、問いかけてくれるところがありましたね。うっかりすると、私たちは漫然と毎日を送ります。何も考えないで、ただその日が終わればいい、なんていう消極的な考え方ですべてを見ているところがあります。
ぼんやりしてはいけなかった。私たちの気持ちを何か出口に向かってちゃんとそれなりに流してあげなければ、私たちの気持ちは死んでしまいます。それでは生きている甲斐がなくなってしまう。
名古屋の中村デパートというところには、太郎さんのこんな芸術作品をモチーフにした壁画があったそうです。もう、このデパートもないみたいだから、作品もなくなっただろうけど、太郎さんは街のいろんなところから私たちを見てくれていました。
太陽の塔だって、もうしばらくは見ていないけど、強烈に刻印されてる私なんかは、いつでも心に浮かんできたりします。写真を見なくても描けそうなくらい。
そうした街の中に立ち、私たちの心の中にもそびえている塔の他には、太郎さんは何を残してくれたんだろう。
具体的には、生活用品にも入り込んでいます。そんなところから私たちを支えてくれていました。
うしろの、水差し男爵は持ってないけれど、キリン・シーグラムのウィスキーの景品についていた「顔のあるグラス」。これは、うちに一つだけあって、家宝になっています。
他にも、ネクタイやら、お人形さんやら、いろんなキャラを作ったみたいです。
タローさんの作品は、メインのキャラクターも光っているんだけど、
サブのキャラクターも、心に残りました。それは今回見せてもらったおかげと、テレビの特撮の「タローマン」(2022 NHK)の影響もありますが、本当に太郎さんは何だかわからないキャラをたくさん作っていました。
変てこなネコのキャラたち。意味がありそうで、そんなのどうでもよいのかもしれない、キャラたち。うれしいのか、かなしいのか、気持ちさえもわかりません。でも、不思議な空間を浮遊している。
これらのキャラも、オバケではないけど、形を与えられた、何だかわからないものたちでした。
だから、見る人は、怖ろしいとも、びっくりしたとも、よくわからないとも、見る分には楽しいみたいな、何だかわからない気分にはなれました。
愛知県の犬山市の、日本モンキーパークというところには、太陽の塔の前に作られた「若い太陽の塔」というのもあるそうで、展示されていたのはその模型でしたけど、こちらは少しタローマンに似ていました。
タローさんは、いろんな人間の感情を抽出するため、ある空間を用意して、よくわからない世界を作ってくれて、そこに対峙する我々に、課題を与えてくれる、そんな作品を作っていました。
そして、与えられた課題は答えを見つけて終わるのではなくて、私たち個々が、どのようにしてそれらの課題に向き合い、それぞれがどんな答えを出すのか、私たちの生き方が問われている。ぼんやり見てはいけない作品群だったのかな(というわけで、私は作品を見るよりも写真を撮ることばかりに夢中になっていました。それが今の私の生き方で、とにかく何でも記録する、そういうことばかりに明け暮れている)。
私は? うろたえています。それでも、タローさんに会いたかった。
久しぶりに会ったら、何だかうれしかったけど、問われた生き方は、あんまのパッとしなくて、少し疲れた感じではあるんです。
緑のカエルくんみたいなものでしょうか。これはタローさんの作品ではなくて、大阪駅の北口の池みたいなところに浮かんでいました。
カエルさんに会えて、うれしかったけれど、こちらは脱力する芸術でしたね。ああ、私の生き方……、爆発はしてないですね。悶々としてるなあ。