石牟礼道子さんと藤原新也さんの対談の本『なみだふるはな』(2012 河出書房新社)から、こんな抜き書きをしていました。
(石牟礼)祖父が三人の姉さまたちと四人で[お遍路に]行きました。天草から。人生最大の行事のような雰囲気で話しておりましてね。
(藤原)お伊勢参りもそうですが、昔の人はそれが一つの大きな行事みたいなもので。
(藤原)お伊勢参りもそうですが、昔の人はそれが一つの大きな行事みたいなもので。
(石牟礼)そうですね。その日のために生きていたみたいな感じで話しておりましたね。それで、ぱらぱらと開くとつながっている御詠歌集がたくさんありました。学校で習っでたことのない変体仮名で書いてあるので、読めなかったですけれども、小さい時には。
それと白い巡礼着に判子がたくさん。どのくらいのお寺を回ったか判子をもらって、背中に幾重にもべったり判子をついてもらって。金剛杖といっていましたけれども、杖をつきながら回って、その杖にもいっぱい書いてありました。うちでは宝物のようにしてありました。「四国へ行った時の宝物」といって。
石牟礼さんは水俣を最初に伝えた文学者の一人でした。藤原さんは、行動して発言し、若い人を支える、写真がお仕事なのか、思想家なのか、教育者なのか、総合アーチストというべきなのか、今の世の中で、何かを伝えるには一つのことだけではダメで、いろんなチャンネルを使って表現し、伝える、というのも一つの方法でした。石牟礼さんは、わりとスタンダードに活動し、時々は裁判とかも見守ったんでしょう。
それにしても、私はどういうつもりでここの抜き書きをしていたんだろう。このあとに大事なところがあるんでしょうね?
(藤原)水俣の人で四国を巡礼する人はけっこういたんですか。
(石牟礼)あまり聞きませんですね、ただ、巡礼さんを大切にする土地ではありました。
(石牟礼)あまり聞きませんですね、ただ、巡礼さんを大切にする土地ではありました。
門口に立たれると、「あら、巡礼さんだ」と思って、「はよぅ米ば持っていってあげ申せ」といって。子どもの役目でしたね、お米を捧げるのは。
大人がさしあげると門口に立った人が気をつかうだろうから、子どもに、「ていねいに拝んでからあげ申せ」といって、そういう人たちの遇し方を親が教えるんですね。
私は、ついほんの昔の日本の人々が、旅する人たちを大事にしていた風景の話をメモさせてもらおうと思って、ここを抜き書きしましたね。
オマケもあります。
(石牟礼)あるとき、雪の降る日に親子の巡礼さんが来て、そのときはお米じゃなくて、お金だったんですけれども、お金をさしあげようとしたら、母親の後ろに私と同じぐらいの女の子が隠れたんですね。母親の腰にすがりついて。
それで、せっかく出したお金をとりそこなって、あげそこなって、チャリンと雪の道に落ちてしまって。
そのときは何ともいえない、拾ってあげるべきか、拾ってあげるとその子と目が合うような気がして、大変困りました。私の方が泣きそうになった。
寒い日にね。「どこの橋の下に行って寝なはるか。この寒いのに」と母はいっていましたが。「ああいう人たちが橋の下にいなさる」って思っていたんですよ。
日本には、こんな旅する人たちが何人もいて、巡礼なのか、住むところがないのか、故郷を追われたのか、よくわからない人たちが人の情けによって生きることができた、そういう時代があったんです。
松本清張さんの『砂の器』のドラマの世界だけではなくて、いろんな小説に描かれていた本当の人たちだったんですね。私たちは、今は忘れているけど、それは私たち自身の姿でもあったと思うんです。