1984年より前、富来町(とぎまち)というところがあったのだと思われます。石川県の海側の町です。やがてこの町は志賀町(しかまち)と合併します。そして、富来町には西海漁協というのがあって、そこの組合長さんが川辺茂さんという方だったそうです。
2006年に志賀原発が稼働したそうですから、そこへたどり着くまでにいろいろな地方のすったもんだがあったようです。やがてはみんなまるめ込まれて、原発の側に組織されていきました。西海漁協は「原発反対」を打ち出したのですが、土地を取り、家業を捨てざるを得なくなった人たちから賛同を得られず、原発は完成してしまいます。
そして、2050年までのエネルギー計画では、再生エネルギーを38%、原子力を20%という長期的な計画も立てられたみたいですから、2050年になっても、まだ稼働44年ですから、あと20年くらい、2076年までは使用可能だ、という理屈になるでしょうか。はたしてこれから50年余り、地震は起きないでしょうか。2024.1.1の地震もすごかったけれど、もうあんな地震は起きないのだ。地震対策も大丈夫、避難経路もおいおい整備していく。そういう言葉を吐いて、すべては知らんぷりしていくのでしょうか。
なんて無責任なんだろう。
1984年に川辺さんの本『魚は人間の手では作れない』が出て、それを読んだ森まゆみさんが、しばらくしたら能登へ取材に行き、川辺さんからお話を聞いたそうで、そのお話を文章にまとめ、『いで湯暮らし』(2013 集英社文庫)という本にされていました。
その本を最近読んでいるので、少しだけ抜き書きしますけど、森さんの文章も、川辺さんのことばも、あれこれと考えさせられるものでした。
原発反対運動をまじめに考え、協力してくれたのは、むしろ能登一円に多い浄土真宗の僧侶たちだったという。
(北陸)電力と県とメディア三位一体の推進のなかで、県の兵糧攻めにあって西海漁場(漁協のことを漁場という名前でされてたんですね)は孤立し、川辺さんは漁協の組合長をやめざるをえなくなった。
国家戦略・国策ですから、それに逆らうものはたいていは蹴散らされる運命なのでしょう。日本海なんですから、地道に今までの仕事をしていても、別に問題はなかったと思うのですが、みんなが嫌がる原発ですから、へき地に住む者は、それをたくさんのお金が支給されるから、それをもらって、今までの権利を捨てる、という形でしか生きていけなくなるのだと思われます。
国策は、そこに住む人の生活よりも、国の論理・国の利益を優先しますから、それが国のあたり前ですから、選ばれた土地の住民は受け入れるしかないのでしょうか。
(川辺さん)「私にも責任がある。強い世論をつくりきれなかったからつぶされた。補償金をもらうまでに住民はもう負けた気分になっとるから、金をもらうともっと負けてしまう。私だってこれ以上がんばると、家族を地域から孤立させてしまうと苦しんだ。結局、半年ほどじっとしていました」
国や周囲の圧力に個人では耐えきれないのは当たり前のことで、たったひとりで反抗することもできる人もいるけれど、家族の命も保証できないようになったら、もうあきらめるしかないでしょう。どんな脅しなどがあったのか、そんなことはわかりませんけど、たぶんいろんな形であったんでしょう。
原発の近くには、石川県水産総合センター生産部という施設があるそうで、そこで魚の養殖などをやっているということでした。
ここは志賀原子力発電所の温排水を用いて、ヒラメ、アワビ、サザエなどを養殖する見返り施設である。……中略……
「人間が魚や貝を養殖しようなんて、いらんことです。魚は海が育てるものです」と川辺さんは言葉少なに批判した。
「網の目さえ大きくしておけば、魚を獲りすぎることはない。いまは小さな網で全部とって、売れない魚はまた海に捨てる。海は魚の死体でいっぱいです。日本人は亡霊か悪霊にとりつかれるんじゃなかろうか」
もう私たちは後戻りできないのでしょうか。原発を抱え、今世紀をあと何十年も過ごしていく。はたして22世紀はどうなるのか。相変らず、世界では戦争・紛争・分断が続いていくでしょうか。日本は、食料の自給はできてないでしょうね。世界からどんな扱いを受けるんだろう。もう少し、今あるものを大事にすることくらいはしてほしいんだけどなあ。余計なものも作ってほしくないんだけどなあ。