香川の友人に教えられて、岩波新書の『「むなしさ」の味わい方』(2024)という本を読みました。もっとたくさん付箋をつけなきゃいけなかったのに、それもしないままに最後まで読みました。
私は、小説はほとんど読まないオッサンです。テレビのドラマも一切見ない。どういう訳か大河ドラマの『光る君へ』は見ているけど、あれはまあ、平安時代の勉強みたいなものでしょうか。どれだけ平安時代の雰囲気が出せているのか、その辺を自分で切り分けながら見ていますし、キャラクターを発掘するためにもいいのかなと、見ていますが、どこかで役に立つんだろうか。まあ、京都に行く楽しみが増えますね。でも、現実の京都とドラマ世界は違い過ぎるし、いつか『源氏物語』をフルに読むチャンスのきっかけにしたいです。
フォークルで活躍し、盟友の加藤和彦さんを失い、お仕事は精神科医だけではなく、大学の学長さんもされたきたやまおさむさん。専門書や論文も書いておられるのだと思われますが、現代を生きる私たちの心の持ちようを書いてくださっています。少しだけ抜き書きすることにしました。
イライラやモヤモヤを焦って解消しようとしても解消できないとき、すなわち心の「間」を焦って埋めようとしても埋められないと気づいたとき、それをやり過ごすことができずに、自分を責め、自分に怒りをぶつけてしまうことがあります。
私たちのこころには、ストレスやらモヤモヤは生まれてしまうものである。何かをしようとしても、落ち着かないし、ゆったりとリラックスさせられたらいいのに、それができなくなってしまう。そういうことはありますね。スピード優先の社会ですから、「なぜできないんだ」と自分でもまわりからも責められたりする。
物事が思い通りに進まないとき、子どもが唇をギュッとかんだり、自分の指をかんだり、あるいは自分の頭を壁にぶつけたりすることがあります。これは「怒りの内向」あるいは「自己への向け換え」と理解できます。
とにかく日本語には、「粉骨砕身」「一生懸命」もそうだし、すぐにいわれる「身を削る」「必死で」のように、自虐を勧める傾向があります。「ため息は命を削る」というのも同様で、さしたる根拠はないと思うのですが、いかがでしょう。
ストレスやモヤモヤがあると、リラックスさせる方法はなかなかなくて、現代人はそれを自分にぶつけることがたくさんある。「必死で頑張ります」「私の力で必ず突破します」と宣言して、自己犠牲の上でそれが解決されると考えがちである。努力が推奨され、それが当たり前だとみんな考え、それができない者は脱落者となる。いろんな意地悪なふるいがありますが、やれる人だけが生き残り、やれない者は不要になる。
そうして不要な人をたくさん産み続ける社会でもあるらしい。脱落した者ははい上がるしかないのでしょうか?
日本人は外向きに怒りを感じるのが苦手だとよくいわれ、私たちは怒りを内向させがちです。でもそれでは、心に「置いた」ことにはなりません。
「すまない」という気持ちを置いておくことは、大切なことです。相手が悪いと決めつけるのではなく、自分にも否があったのではないかと心のどこかで抱え続けていることは、他者との関係性を築いていくうえでも重要です。
自分の責任を感じ、まわりのことに配慮して、お互いの関係性を考え、いかにして事態を好転させるか考える。これは大事なことかもしれない。けれども、抱え込んでばかりもいられないし、外に向けて発散しないといけないし、それを誰かに伝えなきゃいけないし、時には怒りを爆発させることも必要である。
「怒り」を現代の私たちはうまく発揮できていない。内向させ、忘れようとしている。忘れたら、またゴキブリのように裏でコソコソするやつ等は何ごともなかったようにコソコソを始める。
私たちは、いい人になってしまっている。もっと機嫌を悪くして、ダメなものにはダメ、いいものはOKとメリハリをつけていきたい。
もっともっといろいろ書いてくださっています。また読むことがあるでしょうか? 抜き書きもしなきゃいけないですよね。また、今度してみます。