日曜の朝、テレビでオダマキの花の話を聞いてから、実物は見たこともないのに、百人一首、伊勢物語、義経さんと静かさん、子規さんとめぐってきました。
でも、実はちゃんと着地してなくて、ボクの中では宙ぶらりんのままでした。
どこかで、ちゃんとしたこと・ものを聞いたことがあるはずだ。誰かが、オダマキの花というのを、忘れっぽいボクに教えてくれたはずなのです。
あれこれ探してみました。それで、たぶん、ここが着地ポイントであり、出発点であったと思われたのは、萩原朔太郎さんでした。
ボクは、ずっと朔太郎さんのそばには行ってないというのか、そんなにいいなあと思ってなかったはずなんです。何となく好きだった室生犀星さんが友だちだったというのは聞いたことがありましたけど、朔太郎さんは読んだことがなかった。
それなのに、オダマキの花が朔太郎さんの作品の中にあったって?
何かの間違い? それともボクが忘れてるだけ?
とにかく、1925年の春に出した『純情小曲集』に入っているようです。
夜汽車
有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電灯のためいきばかりこちたしや。
夜汽車に乗っているんですね。もう夜が明けようとしている。
外はとても静かで、ガタンゴトンと静かで規則的な車輪の音が聞こえている。
山の稜線もやけにしっとりとしているし、お客たちはみんな必死になって眠ろうとしているようです。もちろん、けだるい雰囲気です。とてオダマキの花が出てきそうな雰囲気はないですよ。
あまたるきニスのにほひも
そこはかとなきは巻たばこの烟(けむり)さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘(わび)しいきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科は過ぎずや
汽車の中を描いています。車内は甘ったるいニスの匂いがするそうです。落ち着かないなあ。タバコの匂いもする。昔は、タバコの匂いをふりまくのが大人というもの、大人の哀愁みたいに思われてたんだろうか。
西に向かっているんですか。朔太郎さん、どこへ行くんだろう。
空気まくらの口金をゆるめて
そっと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめ近き窓より外を眺むれば
ところも知らぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花
とうとう朔太郎さんの詩の中に、最後にドスンとオダマキの花を取り上げてられています。
こういう詩があるのも知らなかったけれど、どこかで聞いて、オダマキの花が好きな詩人がいたとインプットされたようです。
最後に、場違いな感じで置かれたオダマキの花は、本当にそんなのがあるのか、何だか信じられないまま、不思議な印象を広げて、ボクの心の中に残っていた。
改めて読んでみたら、ひょっとしてボクが引っかかってた詩ではないのかもしれません。けれども、今の自分としては、これだ! と納得しています。
オダマキの花は、すべてを浄化し、新しい世界へと旅立つ時に、見守ってくれるのか、励ましてくれるのか、過去に引き戻してくれるのか、とにかく、すごい力のある花のようです。夜汽車の疲れも吹っ飛んでしまうみたい。
実際に目に入らなくてもいいから、そこにオダマキがあると知れるだけで、私たちを違う次元にポンと送り出してくれるみたいです。
朔太郎さんは、そういう魅力を感じていたみたいです。ボクは、実物の花さえ知らないで、名前だけでウロウロしている。もう少し、ちゃんと花を見て、ボクの空想を広げてみたいです。
出発点はそんななにげない日常の風景にあったのですよ。
何気ないところにあったのかぁ。なんか、とても悲しいです。