三重県に住んで30年近くが経過しています。今までの人生の半分は三重県にいます。まさか私が三重県に住んでいるなんて、それが不思議ですけど、これからも住んでいくつもりです。
理由は、とりあえず私が生活のベースに暮らせた場所がここだったからです。
他の土地では、私の生活のベースは作れなかった。これからなら、新たな生活のベースが生まれるかもしれないし、本人の希望次第でもあるのだけれど、とりあえず今のところ、これからも三重県に住むつもりです。
新潟と山形の地震、柏崎原発が稼働していなくて本当に良かった。柏崎原発は今回は少し遠かったけれど、やはり、日本という敷地の中で、地震が起こらない土地はないようです。
科学者のいうことなんか当てになりません。あの人たちは、地震が起きた時にはもういないだろうし、みんな自宅から遠いから、何とかなるとでも思っているのでしょう。そして、原発を動かす人たち、細心の注意を払って動かしておられるでしょうけど、人間のすることですから、どこでどんな落とし穴があるかわからないし、どんな事故も起きない、ということはないでしょう。
日曜日、県立美術館の最終日に、「増山雪斎展」を見に行きました。
「増山雪斎」って、誰なんでしょう。「ますやませきさい」ではないようです。「ましやませっさい」と読むそうです。
増山家は、伊勢の国長島藩のお殿様だったそうです。織田信長の時代に、伊勢の国の長島と、大阪の石山本願寺は、信長さんに徹底抗戦をしたところでした。今そこを通る時、愛知県と三重県の間の細長い中洲であるだけで、すべてが平地だし、川には守られているけれど、ここで信長さんに抵抗できたなんて、すごいことだと思うのですが、そこが江戸時代には独立した藩であったなんて、三十年以上も知りませんでした。
中州が一つの藩だったそうです。その5代目が正賢(まさかた)さんという方で、1754~1819年の生涯だったそうです。かなり幕末に近い頃の5代目です。どこかから連れてこられた大名さんだったんですね。
正賢さんは、政治的にはたいしたことはしていないそうです。でも、文化的にはあれこれと率先垂範というのか、独断専行というのか、唯我独尊というのか、ぶっちぎりで文化政策に突き進んだそうです。
大阪の文化人と交流したり、部下を長崎に研修に行かせたり、あまりに文化偏重しすぎて謹慎させられたりして、浮き沈みの多い人生も経験した。けれども、お殿様が亡くなっても、長島藩には治績は何も残らなかったけれど、お殿様自らが描いた作品がたくさんの支持者に愛蔵され、亡くなってちょうど二百年というのに、いまだにみんなが保持しているということでした。
会場に展示されているほとんどすべての作品が個人蔵で、県立美術館はただ作品に集まってもらっただけのようでした。手持ちの作品はまるで持っていなかった。
みんなから愛されて、個人で保管しているので、人目に触れる機会もなくて、一般の人たちは、そういうお殿様がいたというの何年かに一回は知るのだけれど、代表作がわからず、虫とか鳥とか、小さな世界が好きでよく描いていたんだなあ、くらいの認識しかありません。
私は、お殿様が政治よりも大事にしたかもしれない小さな生き物たちの世界に触れ、本当であれば、それなりに世界情勢の中でこれからの国の在り方とかもお考えになることもあったと思われるお殿様の、超然とした生き方に感心させてもらいました。
家族とも行きましたが、みんなはそんなに興味がなかったみたいです。私はおもしろいとは思ったけれど、触発されたのはなかったのかもしれないです。
ミミズクとか、ネコとか、トリとか、そういうのを描ける人生にあこがれました。あこがれだけではなく、自分も今すぐそういう世界に飛び込みたいくらいでした。