甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

食べ散らかしの男・光親

2018年05月25日 08時42分33秒 | つれづれな人々

 兼好さんに連れられて、中世を旅しておりますと、そのころのいろんな方々のお話を聞かせてもらえます。それを勝手に「つれづれな人々」ということで取り上げております。

 まあ、どこかで誰かもされている企画だと思われます。

 でも、そういう人とも出会ってないから、こちらの勝手でいいかげんなことを書いています。昔からそうなんですけど、まあ、趣味で書いております。

 というわけで、葉室光親(はむろ みつちか)さんという方がおられたそうです。安元2年(1176年)から承久3年7月23日(1221年8月12日)ということは45歳でお亡くなりになっている。

 兼好さんが生まれる60年以上前にはこの世を去っているのだから、人から聞いた話であるらしい。この光親さんって、何をした人なんですか?

 何かおもしろい話はあるの? 48段にメモしたみたいです。

 光親卿(みつちかのきょう)、院の最勝請(さいしょうこう)奉行(ぶぎょう)してさぶらひけるを、御前(ごぜん)へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食はせられけり。

 光親卿(藤原光親)さんは、後鳥羽上皇の在所(あんざい)する仙洞御所(せんとうごしょ)で最勝講という、五月にお寺の高僧を集め天下太平を祈念する儀式の奉行(取りまとめ役)のお役目を与えられてお仕えされておられましたが、上皇様は光親さんをお呼びになって、御食膳をお出しになって、お食べさせになったそうです。

 後鳥羽上皇様のお気に入りで、一緒に食事をしたりする仲だったんでしょうか。上皇様に見られて、どんなふうに食べていいものやら、気が気ではないですね。




 さて、食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾(みす)の中へさし入れて、罷(まか)り出(い)でにけり。

 さて、光親さんは食い散らかした衝重(料理を載せる膳)を上皇様がいらっしゃる御簾の中へさし入れて、退出したのでした。

 お気に入りの部下とはいえ、上皇様と下々の者との間にはすだれが下がっています。直で顔と顔を突き合わせることはありません。そのあたりがまだまだ平安風です。中世スタイルではないですね。

 どうして食べ散らかさねばならないのか、おそばのズルズルズルと同じで、音をさせて食べないと失礼というのか、そういう流儀があったんでしょう。

 さあ、上皇様のおそばには、女たちが控えております。

 女房、「あな汚な。誰にとれとてか」など申し合はれければ、「有職(ゆうそく)の振舞(ふるまい)、やんごとなき事なり」と、返々(かえすがえす)感ぜさせ給ひけるとぞ。

 女房たちは、「ああ、汚い。誰にこれを片付けよというのですか、まさか上皇様にさせるつもりで御簾の中にこれを差し入れたのではありますまいね」と不平を言うのでした。

 けれども、上皇様は「有職(伝統的な礼儀作法にかなった振る舞いであり、実に素晴らしいものなんだよ」と、何度も繰り返し感心していらっしゃったということです。



 ウィキペデイァからコピーしてきたものでは、

 平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原光親(ふじわらのみつちか)とも言う。権中納言・藤原光雅の次男。官位は正二位・権中納言。1928年(昭和3年)11月10日、贈従一位。 →七百年後に昇進するなんて、世の中ってわからないです。

 寿永2年(1183年)六位蔵人となりまもなく叙爵され、……七歳で貴族の階段を歩き始めたということですか。いくらなんでもムチャクチャですね。これからずっとその世界を泳いでいたらしい。

 一方で光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。

 承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど[2]、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。

 光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。

 『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠、山梨県南都留郡山中湖村)において処刑される。享年46。処刑の直前に出家して西親と号する。甲斐源氏の一族・武田信光は光親を鎌倉へ連行する途中・駿河国車返の付近で鎌倉使の命を受け、光親を斬首した。


 後鳥羽上皇に近い存在であったので、承久の変に連座して、山中湖あたりの峠で斬首された人らしい。

 兼好さんは、鎌倉幕府に敵対していった人々の中で、ほんのわずかな人の、日野資朝さんと藤原光親さんの二人を取り上げている。

 関東にも何度か訪れているという話だから、法師として関東の情勢を見に行く仕事でも与えられたことがあったのか、それとも単なる趣味として書いてみたのか。

 私は、どちらかというと、わりと興味を持って書いていて、とくに資朝さんの記事などは、ぜひとも記録しておきたいと書いている気がするんです。

 この光親さんの記事も、ただの失礼な貴族、ではなくて、実は昔からの伝統をしっかり受け継ぐ人として、上皇様も、兼好さんも認める、そういう人がいた、というのを書きたかったんじゃないかな。


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