先日、「道」(1954)のことを書きました。
その中で、ジェルソミーナさんの海から始まり、ザンパノさんのむせび泣く夜の海で終わるこの映画、その初めと終わりに海が出てくる不思議に改めて感心したものでした。
フェリーニさんの海とは、もちろん、彼のふるさと・リミニから始まるのでしょう。その後フェリーニさんはいろいろな形で海を描いてきました。その最初の頃に、すでに物語の始まる場所として海は設定されていたようです。
何が言いたいのかというと、海とは? それは何になるのかな? という私のモヤモヤしたものから、つい「道 La Strada」につながったみたいです。海とはいったい何でしょう。……漠然とした質問ですね。
リミニって、てっきり西側かと思っていたら、その反対側で、アドリア海に面した街でした。長靴型のイタリア半島のふくらはぎ部分にあたります。中東部の海側で、少し内陸に行くと、フィレンツェがあるようです。
いつかイタリアに行きたいと思ってましたけど、いつ行けるんだろう。このままずっと行かないのかな。
海とは、生き物たちの物語の始まる場所である。
内陸に住んでいる人たちだって、一生涯海を見たことがない人だっているでしょう。でも、何だか知らないけれど、人は海を見たがります。実際に見たら、声も出なくて、ああ、これが海かとか、海は荒れているなとか、ボンヤリ心の中でつぶやくんでしょう。
北海道に行くと、あまりに大きな島なので、なかなか海には出会えないけど、北海道に行く時に、自然と海は見ているでしょう。
東北地方に行ったら、どこかで海には出会えます。関東甲信越、東海……他のところでも、海と私たちは人生のいろいろな場面の中で、プィッと出くわしてしまうのでした。
海と同じように、私たちはいろんな出会いがあります。私は男ですから、海での出会いなんて、夢見てしまう。
でも、現実にはそんなことは、私の場合全くなくて、ただ海は、黙ってたり、怒ってたり、何も出会わさせてくれません。
人に出会うっていうのは、こちらから努力しないと出会えないものですから、日々努力不足の私には出会うチャンスはない。
でも、男と女の出会いは、男の場合、憧れからスタートすることもあるでしょう。
フェリーニさんの場合、クラウディア・カルディナーレさんは憧れの対象だったのかな。奥さんのジュリエッタ・マシーナさん(ジェルソミーナ)は妻・伴侶・そばにいる人・そこにある存在でした。クラウデイァさんは、自分の映画に出てはもらったけれど、あこがれの存在・遠くに置いておく美人として、生々しくなってもらわなかった。
この写真を見ただけで、天使の扱いという感じです。
実際の彼女は、天使でもなんでもなくて、目のクリッとした、目力のある、少しグラマーな、でも賢い、でも普通の女性、職業は俳優というだけです。けれども、フェリーニさんはあえて彼女を天使扱いにした。そういう作戦でした。
そばにいる女の人がいて、憧れの女の人がいる。そばにいる人は大事にしないといつの間にか消えてってしまうし、憧れの女の人に近づこうとしたら、とんでもないことが起こる。
階段を踏み外したり、道が消えてなくなったり、大渋滞に巻き込まれてにっちもさっちもいかなくなったりします。
だから、憧れの存在には近づかない、これはフェリーニさんの自戒であり、私もマネしなくてはと思います。
他には? わからない女の人がいます。
自分の住んでいる世界に、確かに彼女は存在している。名前だって知っている。でも、彼女が何をする人か、何を考えているのか、全く分からないし、そんなに知りたくもない。ほんの少しだけ気にはなるけど、やがて自分たちはここにいなくなるし、彼女の存在も忘れてしまう。
ふとした時に思い出す、心の中に引っかかっていた女の人(じいちゃんでも、オッサンでもいいのかもしれない)、それがサラギーナさんでした。
名前が強烈で耳に残りますが、フェリーニさんの映画の中でも、いろんな形で出てくる、不思議な存在でした。(正式には「8 1/2」オットーエメッツオに出てきます)
特に何をするわけでもないけれど、彼女は確かに存在し、みんなが彼女に話しかけはした。でも、彼女と友だちになろうとか、親しくなろうとかはしない。
私はフェリーニさんの海を通して、女の人とは何かというのを書きたかったのかな。自分でもわからなくなってきました。
海は出会いの場所ではなかった。海はボンヤリしてしまう場所でした。
海では物語が始まり、やがて終わる場所でもありました。
女の人は、時には海に現れて、男どもを狂おしい気持ちにさせたりするし、ものすごく安心感を与えてくれたりもする。
私は、海に行きたくなったのかな? いや、そうではないなあ。ただ、海って、不思議だなというところなのかな……。旅をしたいのは確かですね。都会じゃなくて、小さな町に行きたいな。