当時の写真はみっともないから(私が……、彼女はかわいかったんですけど)、当時の写真を絵にしてみました。
私たちは、学生時代から付き合い始め、卒業したら離れ離れになってしまった。彼女は岩手県にもどり、私は大阪でプータローをしていた。
5か月も会わないでいて、どうしても彼女に会わなくては! 早く会いたい! そう思っていました。会わないと、何も始まらないし、もどかしいだけでした。
当時は日本海まわりの特急があって、大阪から青森までは一本の線でつながっていた。気持ちさえあれば、青森までは列車が勝手に運んでくれました。
岩手は、そこから深く切り込んでいかないといけない道の奥にありました。東京回りで行けばいいわけですが、当時も今も東京コンプレックスがあるので、あまりここを通るのは好きではなかった。
かくして、岩手の一ノ関駅に着いた。そこで待ち合わせて、平泉に移動し、暑いさなかを、テクテクと中尊寺、毛越寺(もうつうじ)などを見て回りました。
……今の平泉駅です。貨物列車が南へ次から次と走っていきます。
中尊寺は、初めての訪問でした。世界遺産ではなかったので、そんなにお客さんはいなくて、お盆も過ぎていたから、少しだけ秋の気配がただよっていたのかもしれない。
……山の上の方に大の字が見えます。送り火とかするのかもしれない。
中尊寺は高台にあるので、東側が開けています。東北新幹線・東北本線・北上川・国道4号など、南北をつなぐ道が見渡せました。
反対側の山々の中で、目を引く山が見えました。稲を束にしたような山ということで、束稲山(たばしねやま)といいます。平泉を東北の京都ととらえるならば、鴨川が流れていて、東側に比叡山からずっと山々が連なっているあの感じ、少しだけ似ているようです。
当時の人々は、平泉は、京都と変わらんじゃないの、いや、それ以上の豊かさとのびやかさがあるよ、と思っていたでしょう。貴族たちはいないけど、お寺はあるし、御所はあるし、治める人間が中心にいて、武士から職人・農民までいろんな人々が町を支えていた。
そういうのを簡単に思わせてくれる舞台が設定されていました。
その山の向こうの街に、付き合っていた彼女は生まれ、今もそこに住んでいた。山の向こうの彼女のふるさとを訪ねてみたいけれど、どんな顔をしてそちらに行けばいいのか、勇気もなくて、ただむなしく山の向こうを思うしかありませんでした。
山の向こうは、当時の私には越えられないバリアがあった。ただ見るだけ、思うだけしかできなかった。
金色堂は、見たはずだけれど、中のきらびやかさよりも、覆い堂は近代のもので、それ以前の覆い堂が移築されている印象が強烈で、そうか、むき出しのキンキラキンじゃなくて、キンキラキンは、雨風に耐えるためには、それなりの工夫が必要だったということが刻印されます。
そこからメインストリートではなく、線路を渡って、義経さんの最後の館を訪ね、秀衡さんの御所だったところを眺め、毛越寺まで汗だくになりながら歩いたんでした。
現在の私は、夕方には奥さんと待ち合わせるのだけれど、とりあえず今はフリーだから、昔彼女と歩いた道を逆回りに走ってみようと、駅を起点にして秀衡さんたちがいた無量光院あとを訪ねてみました。
当時の切ない気分にはならないけれど、確かに昔ここを歩いていく2人が見えた気分になりました。今は、1日だけ離れ離れになってやっと会える安心感、ちゃんと待ち合わせの駅まで行けるかどうか、それまでどれだけ遊べるか、そういうスケベー心しかないのだけれど、きれいな草原とまぶしい夏の太陽にヘロヘロになるだけでした。
待ち合わせの時間も迫ってくるし、奥さんからのメールで、今から仙台で新幹線に乗ると知らせられ、とにかく毛越寺の写真が撮れないかと、近くに行ってみました。
クルマを止めるところがなくて、仕方がないので、お寺の横の、観自在王院あとの横にクルマを止めて、毛越寺的な雰囲気を味わい、一ノ関に引き返したのでした。町はちょうどお祭りで、通行止めがあったりして、ドタバタしましたが、とにかく奥さんと妹さんに会えて、ホッとした気分でみんなで温泉へと向かったんでした。
1982年の私の旅ふたたびは、森と池と芝生のお寺あとで終わり、すぐに中年夫婦の東北旅に変わってしまいました。ああ、お昼過ぎくらいまでは少年の気分だったのに、夕方にはオッチャンにもどってしまった。まあ、仕方ないですね、それが現実ですもんね。
でも、日常からは飛び出していたわけだから、それは楽しかったかも……。