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世の中を渡って行くには、コツコツ努力すること。ウソをつかないこと。人を信じること。どれだけできているかなあ。ころあいや潮時をうまくつかむことも大事なのだそうです。私は、タイミングって、どちらかというと外す方なのかなぁ。
徒然草の155段にこんなのがあります。
世に従はん人は、まづ機嫌を知るべし。ついであしきことは、人の耳にもさかひ、心にもたがひて、そのことならず。さやうの折節(おりふし)を心得べきなり。
世間の風習に従って行こうとする人は、何はおいても、物事が都合よく進むような時機を知らなくてはならない。事の運ばれる順序に適しない時には、他人の耳にさからい(イライラさせたり)、心にもそむいて、その物事がうまくできないものである。そうした時機をわきまえなくてはならないのです。
何だか口で言うのは簡単なんだけど、どんな風にしてタイミングをつかむのか、観察して、相手の気配を感じて、言いたいことも聞いて、それはもういろいろと情報をつかむようにしなくてはならないです。
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四季はなほ定まれるついであり。死期はついでをまたず。死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。
四季の変化は、それでもやはり、きまった順序がある。けれども、人の死ぬ時は、順序を待たないで、突然やってくるものなのです。その死は、前方からとやってくるとは限らず、それよりさきに、人の背後に接近していたりするのです。
たしかに、死ぬこととは、そんなものかもしれない。と言いつつ私は自分ごととしてどれだけとらえているだろう。そんなに遠くない未来、すぐにやって来るのはわかっているんだけど、今日明日と言われると、それはもうビックリしますね。わからないとつぶやきつつ、あまり考えないようにしている気がします。
人みな死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。〈155段〉
人間はみな、自分に死のあることがわかっていながら、それほどにも、死を待ち迎えることが切迫していない時に、死は不意に到来するのだ。それは、ちょうど、沖の干潟が遠くに見えるけれども、潮の満ちる時には、海辺の磯から潮が満ちてくるようなものなのです。
人間が社会で生きていくとき、身につけておくべき大切なきまり・ルールみたいなものはどんなものがあるんでしょう?
ものには「機嫌」「ついで(順序 )」「折節(おりふし)」というもの、一言でいうと、タイミングでしょうか、そういうものがある。
ものには「機嫌」「ついで(順序 )」「折節(おりふし)」というもの、一言でいうと、タイミングでしょうか、そういうものがある。
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ところが、そうした人間があれこれ考えるルール・きまり・順序などを越えたもの、人間にはどうにもできないものも存在します。
具体的にいうと、それが生住異滅の「四相」、生老病死の「四苦」みたいなものなんだそうです。生きること、生活すること、変化すること、滅びること、生まれること、年を取ること、病気になること、死んでしまうこと、これらはコントロールできているようで、実はコントロールできない、人間たちの想定外のことなのかもしれないです。
「磯より潮の満つる」というのは、感覚的な表現で、実際には沖から着々と潮が満ちてくるわけですが、そのきざしは足元にも(鋭敏であれば)感じ取れるということでしょうか。
どっちにしろ、私たちはうまくコントロールできない世界に生きています。だから、せいぜいそれに上手に乗れるように、楽しく生きていけたらいいなあ。どっちにしろ最後は死んでしまうんですから。でも、できれば考えたくないです。ああ、引き裂かれます。だから、何も知らないうちに死んでしまう、というのにも憧れるけど、それも何だかイヤだし、どっちにしろ死ぬのは嫌なんですけど、どうしたらいいんだろうな。