久しぶりに『徒然草』を貼り付けてみます。ギャンブルにはあまり興味はないんですけど、まあ、兼好さんの話を聞いてみましょうか。130段からです。
物に争はず、おのれを枉(ま)げて人に従ひ、わが身を後にして、人を先にするには及(し)かず。
人と争うことなく、自分の主張を曲げて人に従い、自分をあと回しにして、人を先に立てるにまさることはない。
簡単ではないことをまず断言しています。でも、そんなに強くではなくて、「他人を先にしてあげると問題ないよ」みたいな言い方です。じんわり書いてくのかな。
よろづの遊びにも勝負(かちまけ)を好む人は、勝ちて興(きょう)あらんためなり。おのれが芸の勝りたることを喜ぶ。されば、負けて、興なく覚ゆべきこと、また知られたり。
いろいろな遊びにしても、勝負を好む人は、勝って楽しむためにやるのである。自分の芸(才能・センス)がすぐれていることを喜ぶのだ。だから、負けてつまらなく感じるというのも、また当然のこととなる。
いろんな面において、人に勝つというのは、ものすごく自分の気持ちを高めるものではあります。誰かに勝ちたいから、いろんな勝負に挑むというのは、人間の本性みたいなもので、優越感に浸りたいために人間は生きている、みたいなところがありますね。
われ負けて、人を喜ばしめんと思はば、さらに遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせてわが心を慰まんこと、徳に背(そむ)けり。
わざと自分が負けて他人を喜ばせようと思うならば、全く遊びのおもしろさはなくなるにちがいない。しかし、人につまらない思いをさせておいて、自分の気持ちを慰めるというようなことは、徳に反している。
その通りです。勝負なんて時の運であり、勝つ時もあれば負ける時もある。自分だけ浮かれて他人をションボリさせていい気になるのは、人としてどうなのか? ということは、勝った! と喜んでいるのはダメで、勝った後に相手を讃える余裕が欲しいし、そもそも買って喜ぶことがナンセンスなんだよ、と思いたい。勝つことは、なおさらまわりに感謝することなんだよ、と言われています。
睦(むつ)まじき中に戯(たわむ)るるも、人をはかり欺(あざむ)きて、おのれが知の勝りたることを興とす。これまた、礼にあらず。
親しい仲間で遊ぶ中でも、人をだまし自分の知恵がすぐれていることを楽しむ。これもまた、礼にかなっていない。
仲間内のざれ合いで、ふざけたことやありもしないことを言ってみる、友だちなのにカマかけるみたいに嘘をついてみたりする、相手を試すようなことで挑発してみる、どれも相手に対する誠意はないですね。友だちなのに、そんなことしていいの? 「友だちだから、からかってみたんだよ」と言い訳するかもしれないけど、いつもそんなからかいの対象になるとしたら、そんな友だちは要らん、という気持ちになりますね。
されば、始め興宴(きょうえん)より起こりて、長き恨みを結ぶ類(たぐい)多し。これみな、争ひを好む失(しつ)なり。 〈130段〉
だから、最初は遊びのつもりが、長い間の恨みを作り出すことは多い。これはすべて、争いを好むための弊害である。
だから、最初は遊びのつもりが、長い間の恨みを作り出すことは多い。これはすべて、争いを好むための弊害である。
いやはや、人というのは、人といさかいを起こすために生きてるようなところもありますね。トラブルを自ら推し進め、勝ちたくて相手を蔑(さげす)み、つまらないつまずきをずっと抱えて恨み続けなくてはならないなんて、何だかアホみたいです。でも、それが人というものでしょうか。
ああ、他人を踏みにじることでしか私たちはしあわせになれないのでしようか? 悲しくなりますね。いっそのこと、あらゆる勝負ごとから遠ざかるというのも一つの生き方です。
「人に本意なく思はせてわが心を慰まん(他人にイヤな気持ちにさせて自分だけいい気になる人)」、それはギャンブルをする人の心の中にある心の根っこでした。こんな人(ことがあると)どうすればよいのか?
そんな人は「学問をせよ」と兼好さんは言いますが、要は、中途半端だと変なプライドやら、余計な気 疲れがあるけれど、それを通り抜けて行く所まで行けば、枯れてくるんでしょうね。突き抜けていく。超然とする。そうしたらいいのかな? 私は、唯一のギャンブルだった宝くじもやめました。だから、ずっと貧乏たれです!