奥さんが図書館から萩原慎一郎さん(1984~2017)の歌集「滑走路」(2017)を借りてきました。今話題の歌集のようでした。私もつまらない短歌のようなものは作ったりしますから、参考にさせてもらおうと読んでみました。
ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる
非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ
この「非正規」にまずみんな引っかかりを感じ、心の痛みを感じます。
非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ
この「非正規」にまずみんな引っかかりを感じ、心の痛みを感じます。
みんな、これでいいの? と思いつつ、偉い人が考えた結果だし、世界はみんなそんな風になっているんだから、仕方がないかと諦めつつ、できれば「非正規」みたいな選別がなくて、みんな同じ立場で働けたらいいのにと心の中で思うのでした。
これは何かの実験なのかもしれない。人間はどれくらい峻別され、差別されることに慣れるのか、反発できるのかどうか、実験してみて、さらに選別を細かくしたり、非正規から正規に引き上げるエサを作ってみて、食いつくものを探してみたり、やる気を引き出そうとしたり、人間はこんなに虐げられないとやる気を出せない生き物なのか……そういう一種の人体(社会)実験?
非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
萩原さんは六年生の私立の学校でいじめに遭い、それでもくじけず大学に行き、卒業をして、就職はしたけれど、最初は非正規、そこから抜け出して正規にはなった。でも、「書類の整理ばかりしている」だけだったというのです。
せっかく正規になっても、そんなもので、非正規もそのような、間に合わせの仕事ばかり。いったい自分の人生はどこにあるの? という疑問が湧くのでした。電車で通勤していても、何かうつろな日々で、短歌だけが心のよりどころであった、のかもしれないのです。
群衆の一部となっていることを拒否するように本を読みたり
母校なる小学校があることは変わらずぼくは大人になった
箱詰めの社会の底で潰された蜜柑のごとき若者がいる
大人になっていった。けれども、自分というものは何か、その何かを探りたい。無性に本を開く。そうすることが自分であることの一歩のような感じ。
必死になって社会に向き合うのだけれど、その時に忘れてしまうものがたくさんあって、ふとそうした過去にも戻りたくもなる。でも、それはできないし、思い出の場所に戻ったとしても、そこは自分の生きる場所ではなくなっている。
仕方がないから、またお仕事に行き、満員電車に揺られながら、みんなが箱詰めのつぶれたミカンになっているのを、冷静に見ている作者がいるのでした。
さあ、自分を必死に見つめ、社会に向き合い、世の中に何か言いたくなりませんか。それはとても自然なことでした。
萩原さんは、何か書いておられるんだろうか。まだ、途中だから、全部読んでから書いてみます。