甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

色川大吉「ある昭和史」 その3

2016年06月30日 22時14分41秒 | 私たちの社会・世界
 今朝、何度か起きて、ようやく6時近くになったので、起きようと思ってたころ、変な夢を見ていました。

 以前なら、すぐに奥さんに、今朝見た夢の話をしたのに、結局、もう十何時間以上も、だれにも話さないでいつものブログタイムを迎えています。

「どうして、話をしないの?」と奥さんは言うでしょう。どういうわけか、話さなくなってしまった。たぶん、すぐ頭の中からこぼれていくのがこわいのだと思います。

 この話だって、ブログに書けば、明日の朝には忘れているでしょう。ものすごく日々の断絶が激しくて、今朝の記憶は、明日にはゼロになっている。朝の6時台のニュースの地方特集、たいていはおもしろいなあと思うのに、もう十数時間後の今、全く記憶していないのです。

 いろんなことがつながらないようです。もう、そういうお年頃ということで割り切っていいんだろうか、何だか不安だけど、とにかく、ブログはあと数年は続けたいので、刹那的な文章ではありますが、せめて長続きするような、余韻の残るものを書けたらと、意気込みだけでやっていきます。



 ということで、今朝の変な夢でしたね。今朝、起きる直前、だれかのお葬式の司会をやらされていました。司会進行表のようなものがあるはずなんだけど、それが見当たらないし、どのように勧めていいのか、夢の中の私はアタフタしていました。

 しかも、その亡くなった人と、私は会っていたようです。そんなに近しい関係の人ではなく、どうして私がこういうところで司会なんだよ? と不平タラタラでやっていました。

 その人は、全国各地のゆかりの人を訪ね、私はその旅先でたまたまチラッと会っただけで、だれか他の人がその人と会うのをセッティングした、仕掛け人的な立場でした。いよいよ関係者じゃありません。ですから、どうしてなんだろう? おかしいなあ? と思っていたら、目が覚めてしまった。

 夢も変だし、起きたら立てなかった。というのか、背骨を支える筋肉が全く機能していなくて、階段を下りたり、トイレに行ったり、手を洗ったり、しゃがもうとすると、筋肉がもうあなたの体をささえたくないと言っているような感じだった。だから、すべておっかなびっくりで、ヨロヨロ動いていた。

 家族に背中をあれこれもんでもらって、少しだけましになったから、お仕事には出かけましたが、なんだか1日不安でたまらなかった。

 そして、十数時間が経過し、今も奥さんに背中をもんでもらって、少しブログしたら、寝ようというところです。

 それで、色川大吉先生の1940年の記事を持ってきました。

 選挙の結果は、ものすごく不安です。たぶん、国民のみなさんはさらに安倍さんに委任状を渡すつもりのようです。もう仕方がありません。そういう世の中にも私は生きて行かなきゃなんないので、せいぜいできることをして、原発に反対し、ユニセフに募金して、赤十字さんにも1円玉を持っていこうと思います。



◇ 1940・昭和15年

 この一年間の私たちの話題の中心は終始ヒトラーの率いるナチス・ドイツの活躍ぶりであった。ドイツ軍はこの一年に北はデンマーク、ノルウェーを制圧し、西部戦線では難攻不落といわれたフランスのマジノ線を突破してベルキー、オランダを席倦(せっけん)し、フランス政府を降伏させ、6月14日にはパリに歴史的な入城をした。そしてイギリス本土上陸作戦に備えて、猛烈なロンドン大空襲を繰り返したのである。

当時の日本の新聞は、1940年の6月、7月の情勢を、「大戦いよいよ最終段階へ――独伊、攻撃を英に集中」「英は興亡の断崖に立つ」「米は戸惑ふ」などと書き、誰もが(少数者を除いて)英本土上陸作戦の成功と、イギリスの降伏を疑わなかったのである。こうした雰囲気は翌年6月の独ソ戦の開始までつづいていたと思う。

一方、こうしたドイツのはなばなしい活躍に対して日本の動きは、私たちの目にもまことにお粗末きわまるものであった。ドイツがオランダを征服すると、日本政府は蘭印(今のインドネシア)に触手をのばそうとしたし、ドイツがフランスを降伏させると、まるで火事場泥棒のように日本軍は仏領インドシナ(今のベトナム)に進駐して(9月23日)、アメリカの鉄鋼禁輸措置(そち)で反撃された。また、ドイツの優位が動かないとみるや、バスに乗り遅れまいとして日独伊三国同盟(9月27日)、国内体制まで万事ナチス・ドイツに見習おうとした。政党を解散し、ナチス党に似せた大政翼賛会まで発足させた。(10月12日)。

その迎合性、その指導者たちの無能ぶりは特筆に値する。16歳の少年ながら私は近衛内閣に幻滅し、日本政府の独創性と決断力の乏しさに歯がゆい思いをしたものであった。そのためか、当時の私は鶴見祐輔の『英雄待望論』などに刺戟されて、各国の英雄伝などをさかんに読み耽(ふけ)った。
  〈色川大吉『ある昭和史』(中公文庫・1975刊)より〉


 もう私の理想とする社会は、お葬式をあげなきゃいかんのでしょうか。仕方がないですね。よろしい。一度死んだつもりで、ふたたび理想とする社会がちゃんと作り出せるように、せいぜい頑張りたいと思います。

 私には、たいしたことはできません。たくさんの人とつながって、もっといろいろな人と話をしなきゃいけない。でも、私は話をしていないです。これは最高にいけない。でも、すぐ何もかも頭からこぼれちゃうし、メモに書いたことを持ち歩いて会話したらいいんでしょうか。

 ボケボケの私には、そういうやり方もありかもしれない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。